第9話 声をかける
早朝、農民服のゾンゲイルは大八車を牽いて市場にでかけた。
塔から運んできた物資、すなわち毛皮や熊の胆嚢などを売りさばく。さらに星唄亭でランチ営業を始めるための食材調達をする。
このふたつの目的のために、彼女は早起きしてゴライオン宅を出ていった。
去り際に、大八車を牽いたゾンゲイルは振り返ってユウキを見た。
「ナンパ、がんばって」
「ああ……」
「本当に、ひとりで平気?」
「あ、ああ……」
ユウキは強がった。
ゴライオンは仕事場でメガネをかけると、古びたハサミや包丁をいじり始めた。
ずっと酒を飲んでいるだけかと思ったが、スラムの住民が持ち込んでくる刃物を修理するというまっとうな仕事があったようだ。
「昼の鐘が鳴るまで酒は絶対に飲まんと決めておる」
「そうか……偉いな」
ユウキも身支度を終えると、自分のなすべきことに立ち向かおうとした。
なすべきこと、それはもちろん噴水広場でのナンパである。
その前にちょっと確認しておく。
「ステータス確認『気力』」
「気力は最大値まで回復しています」
「よし、いい感じだ。オルゴール音楽でぐっすり寝たのがよかったんだな。それじゃ、行くぞ!」
ユウキは勢いよくゴライオンの鍛冶屋のドアを開けた。
*
鍛冶屋を出たユウキは自らを鼓舞するため、ポジティブワードを呟きながら路地を歩いた。
「やるぞ、やるぞ」
だが噴水広場への途上、ユウキは気づいた。
自分の中の何かが消費されている。
「ステータス確認『気力』」
「気力は一割ほど消費されています」
「マジか……なんで十メートルちょっとしか歩いてないのに気力が減ってるんだ……?」
ゴライオン宅を出てからオレがしたことと言えば、『やるぞ、やるぞ』と気合いを入れながら歩いていたことだけだ。
そのどこに気力を失わせる要素があるというんだ?
「ま、まさか? 『やるぞ、やるぞ』と気合いを入れたことによって、気力が消費されてしまったのか?」
確かに『気合い』と『気力』には漢字上の共通点がある。
『気合いを入れる』という精神活動のリソースとして、『気力』が消費されることは道理に叶っている。
ということは『気合いを入れる』という精神コマンドを止めれば、『気力』は消費されず保存されるはずだ。
その仮説を検証するため、ユウキは『やるぞ、やるぞ』という自らへの鼓舞を止めた。
何も考えずに、しばらく路地を歩いてみる。
「…………」
主観的には何も消費された感はない。
ステータスチェックしてみると、やはり気力は消費されていない。
「なるほど……気力を温存する方法がわかったぞ……気合いを入れず、力を抜くんだ……」
力を抜き、リラックスして脱力すれば、気力は持つのだ。
このことに気づいた今日、オレのナンパは昨日よりも大きく前進するはずだ。
「よし……行くぞ!」
ユウキはグッと拳を握りしめると噴水広場に向って再び歩き出した。
だが、一歩一歩と駅前広場に近づいていくにつれて、ユウキの全身を鉛のごとき重さが包んだ。
「…………」
これから雑踏の中で見知らぬ女性に声をかける。
このオレが?
そんなことを?
それは卑小なアリンコが神殺しを企てるがごとき分不相応な行いに思われた。
そのリスクは高速道路を目隠しして横切ることに匹敵すると思われた。
そのような不安の只中に自身を運んでいくことをユウキの脚は断固、拒否した。
「うっ……」
足が重い。
動かない。
今、ユウキの全身は高密度の不安によって活動停止しつつあった。
その不安を乗り越えるため、ユウキは無意識的に精神コマンドを発動した。
「やるぞ、やるぞ、やるぞ、やるぞ、オレはやるぞ……」
オレは今まで逃げてきた。
やりたくないことからも、やりたいことからも。
だがもうオレは逃げない。
絶対に絶対に、逃げないったら逃げないったら逃げない!
「逃げない逃げない逃げない逃げない!」
その精神コマンドの効果によってユウキの脚はしぶしぶ活動再開した。
ユウキは噴水広場へと続くスラムの路地をさらに十メートル前進することに成功した。
だが、その代償は大きかった。
ふと我に返ったユウキは呟いた。
「はあ、はあ……ステータス確認『気力』」
「気力はすでに八割がた消費されています」
だ、ダメだっ、こんなことではっ……!
確かに精神コマンド『気合い』を使えばこの道を前進することは可能だ。
しかしあまりに効率が悪い。
このまま非効率的に気力を消費すれば、ナンパをする遥か手前で気力はゼロになり、オレは鍛冶屋に引き返して『体調が悪くなった』と言い訳しながら寝床でゴロゴロすることになる。
結果、いたずらに時が流れ、邪神が蘇り、世界は破滅する。
「……ど、ど、ど、どうすればいいいんだ?」
迫り来る邪神の軍靴の足音に立ちすくみながら、ユウキは恐るべきパラドキシカルなダブルバインドの抜けがたき陥穽に自らがはまりこんでいることに気づいた。
『気合い』を入れればとりあえず前に進むことはできる。
だが『気合い』を入れれば『気力』が失われ、遠からず燃え尽きる。
どうすれば『気合い』によって『気力』を消費することなく、オレの脚を止める『不安』をスルーして前に進むことができるというのか?
「…………」
ああ……。
こんなとき、オレが心を持たない機械であったなら、どれだけよかったことだろう。
もしオレがプログラムされた前進ロボットのごとき存在なら、ナンパへの不安など何ひとつ感じることなく噴水広場に淡々と到達できるはずなのだが。
だがなまじオレに人としての想像力豊かな心があるために、オレは不安で怯えて動けない……!
「くそっ、こんな心など無くなってしまえばいいのに!」
ユウキは強くそう願った。
瞬間、頭の中にナビ音声が響いた。
「あなたのこれまでの経験と、いまこの瞬間の願いに応じて、スキル『無心』が獲得されました。スキル『無心』を発動しますか?」
「はあ、無心だと?」
「そうです。無心です。『スキル、無心、発動!』と唱えることでスキルが活性化されます」
「す、スキル、無心……発動!」
瞬間、ユウキの想像力の働きが停止し、想像力が生み出す未来への不安が速やかに消失し、心は澄んだ湖のごとく透明になった。
い、行けるのか?
おずおずと自らの足に前進を命じてみる。
足は何の抵抗も見せず速やかにユウキを前へ前へと送り込んでいった。
い、行ける……行けるぞ!
異世界の朝のスラムの路地がユウキの足の動きに連動して、前から後ろへと滑らかにスクロールしていった。
*
着実に前進を続けるユウキを太陽が照らしている。
ユウキは目を細めて朝日が差し込む前方を眺めた。
スラムの背の低いバラックの向こう、朝もやの奥、市街地の中心に天文台や銀行や教会が立ち並んでいる。
眩しさに手の甲で顔を覆ったユウキの傍らを、スラムの薄汚れた子供たちが駆け足で追い越していく。
非道な児童労働にでも向かうのか。
だが、ボロボロの本が詰め込まれたカバンを皆が持っていることから察するに、何かしらの教育機関に向かうところらしい。
一方、大人たちはユウキとは逆方向の、市辺縁部へと向かう者が多かった。
彼らは、厚ぼったいゴワゴワしたオーバーオール状の作業着に身を包み、腰に革の頭巾や手袋をぶら下げている。
その装備はユウキが着ている作業着や安全靴と似た雰囲気を持っていた。
もしかしたらこの街にも、スグクル的な軽作業労働の働き口があるのかもしれないな。
興味を引かれたユウキは、ふと通りすがりの労働者に無心状態で声をかけた。
「あ、あの……」
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