第181話 事後

 包丁の音で目が覚めた。

 トントンと、まな板の上で何かを刻んでる音がする。

 鼻先には味噌のいい香りが運ばれてきた。

 ぐつぐつと微かな音が聞こえるから、たぶん、味噌汁を作ってるんだと思われる。


 俺は、起きたばかりでしょぼくれた目をぱちぱちさせながら、今、どんな状況に置かれているのか整理した。


 昨日は夜遅くまでクラスの演劇の稽古けいこをしてて、帰りに部室に寄ったら花巻先輩が残っていた。

 先輩に夕飯を頂いて風呂に入ろうとしたところで、突然文香に呼び出しが掛かってトレーラーで運ばれていった。

 そのあと風呂に入って、風呂から上がるとそこに二組の布団が並べて敷いてあった。


 そうだ…………

 俺は先輩と二人っきりで一夜を過ごしたのだ。

 結局あの後、委員会のメンバーは誰一人部室にこなかった。


 視界がはっきりしてくると同時に、記憶もはっきりしてくる。


「おお、冬麻、目が覚めたか?」

 台所にいる先輩がこっちを振り返った。

 エプロン姿で、包丁を手にしている先輩。

 先輩は聖母のような笑顔を俺に向けていた。


 っていうか、なぜ、名前呼び?


 先輩はいつもは俺のこと「小仙波」って名字で呼んでるのに、今、「冬麻」って呼んだ。


「朝ご飯作ってるから、そろそろ起きて顔を洗ってこい」

「は、はぃぃ……」

 先輩に言われて、俺は布団を畳んで洗面所に行った。


 顔を洗って戻ってくると、居間のちゃぶ台には湯気が立つ朝ご飯が用意してある。

 炊きたてで艶々したご飯に、アジの干物、だし巻き卵、オクラ納豆、ほうれん草のおひたし、ひじきの煮物、あさりの味噌汁。

 朝ご飯の見本、みたいな朝ご飯だ。


「さあ、食べようか」

「は、はぃぃ……」

 俺と先輩は向かい合ってちゃぶ台につく。

「いただきます」って手を合わせてから、二人で食べ始めた。


 奇をてらった料理じゃないのに、すごく美味しい。


 ご飯は一粒一粒米が立ってるし、味噌汁の塩加減も完璧だった。

 奇をてらってないからこそ、料理の実力が分かるメニューだ。


「昨日は、激しかったな」

 箸を進めながら、突然、先輩が言う。

 そして、はにかむみたいにあごを引いた。


 激しかった、って、なにが?


「冬麻があんなに雄々しい奴だとは、思わなかったぞ」

 先輩が続ける。


 雄々しい、って、なにが?


「忘れたとは言わせないぞ」

 先輩が言って、人差し指で俺のおでこをツンって押した。

 先輩の指は柔らかいのに、俺は銃弾でおでこを撃ち抜かれたみたいによろける。


 全然、身に覚えがないのですが……

 記憶がないのですが。

 その、体の方にも、全然なにかをしたような感触はありませんが。


 もしかして…………

 もしかして俺、無意識に先輩を…………



「ふははは、嘘だ嘘!」

 先輩が笑い飛ばす。


「小仙波は面白いな」

 そう言って肩をすくめる花巻先輩。


「ひ、ひどいです!」

 俺は厳重に抗議する。

 いくら先輩とはいえ、ついていい嘘とついちゃいけない嘘があると思う。

 これは完全に後者だ。


「すまんすまん。小仙波を見ると、つい、からかいたくなるのだ」

 先輩はそう言いながら、俺の髪をくしゃくしゃってした。


 からかいたくなるって、なんですか、それ……


「あのまま小仙波が眠ってしまったから、私は可愛い寝顔をずっと眺めていたのだ。すぐ横にこんな美女がいるのに、君はぐっすりと寝てしまうのだからな」

 先輩が悪戯っぽく言った。


 俺は、心の中で自分をぶん殴った。

 完膚かんぷなきまでに叩きのめす。

 や○たかもしれない委員会が、満場一致で判定したような事案なのだ。


 それにしても、無防備な寝顔を見られてるって、裸を見られるより恥ずかしい気がする。


「眠ったあとも私の手を握っていて放さないものだから、しばらく寝返りも打てなかったんだぞ」

 先輩が言った。


「すみません」

 そうだ、あのとき俺は勢いで先輩の手を握ってしまった。


「いや、手を握ってくれていたおかげで、とても安心できたのだがな」

 先輩はそう言って微笑む。


「さて、腹一杯食べたら元気に学校行ってこい。放課後はまた忙しくなるぞ」

「はい」

 俺は、ご飯をお代わりして、腹一杯食べた。




「いってらっしゃい」

 玄関で先輩が見送ってくれる。

 あらためてこんなふうに見送られると、ちょっと照れる。

「行ってきます」

 っていうか、当たり前のように見送ってますけど、先輩は学校行かなくていいんでしょうか?



 部室から登校して教室の席に着くと、少し遅れて今日子が入ってきた。


「おはよう」

 って、クラスメートと挨拶を交わす今日子。


 今日子は俺と花巻先輩が二人っきりで一夜を過ごしたことを知らないのか、普通にしている(一晩過ごしたって言っても、なんにもなかったんだけど)。


 ほっとしたのも束の間、教室を見回した今日子が俺に近づいてきた。


「ねえ冬麻、文香ちゃんどうしたの?」

 今日子が訊く。


 ああ、そっちか。


 俺は昨晩のことを説明した。

 演劇の稽古のが終わって帰ろうとしたら、学校に自衛隊の人達が来て文香を連れて行ったと説明する。

 ややこしくなるから、俺と先輩のことは説明から除いた。


「ふうん、なんだろうね」

 今日子が首を傾げる。


「文香ちゃん、文化祭当日に呼び出されるなんてことがないといいけど」

 今日子が言った。

 考えることは今日子も一緒らしい。


 ほどなくして教室に来た担任の真田が、文香の休みを告げる。

 もちろん、休んだ理由は教えてくれなかった。


 一時間目が終わってコンピューター室に行ってみたけど、月島さんはいない。

 職員室で近くにいた先生に訊くと、月島さん、今日は休みだという。


 やっぱり、月島さんは文香と行動を共にしてるらしい。

 電話もメールも、SNSも、文香や月島さんには一向に繋がらなかった。



 なにが起こってるのか分からないけど、とにかく無事で帰って来てと、今はただそれだけを思う。

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