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 一度くらい「やり直したい」と思った事は無いだろうか?もし、それが可能なら……?


 あなたならどうしますか?


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「あ~、あの女、ハズレだったなぁ……」


 デートから家に帰り着き、ベッドに寝転がったところで思わず声が漏れた。


 友達の紹介でとりあえず付き合ってはみたが……3カ月か……よく持った方かな?


 自分と周りとを比べて、いかに自分の方が優位に立っているか。それしか興味が無い女だった。


 それでももしかしたら、と思い続けて付き合って来たのだけれども。いつも期待を裏切られる。


「顔は好みだったんだけどなぁ……」


 あの女にしてみれば俺もその自分のステータスの為のアイテムの一つだったに違いない。


 まあ、お互い様と言えばそれまでなのだが。


「あ~、仕方がない。またやり直すか……」


 『やり直す』、と言っても関係の修復なんかじゃ無い。本当の意味の『やり直す』だった。


「あ~、面倒臭いなぁ〜」


 思わず出た独り言は、本心ではなかった。『やり直す』と言っても実のところ、一晩寝るだけなのだ。強く念じて、眠るだけなのだ。



 この能力のようなものに気付いたのは、小学校低学年の頃だった。


 学校からの帰り、分かれ道に差し掛かった時だった。好奇心に駆られて、通学路から外れて寄り道したのだ。すると前から来た散歩中の大型犬が、俺に噛み付いてきた。


 きっと犬の虫の居所が悪かったのだろう。すぐに飼い主が犬を制止したので俺は命に別条はなかったが、全身を酷く深く噛まれて、長期の入院を余儀なくされた。


「どうして、ワタルがこんな目に……」


 母親は俺の側で泣き崩れた。


 どうして俺は寄り道なんかしたんだろう?


 寄り道さえしなければ、俺は犬に噛まれる事もなかっただろうに。


 どうしてあの時、あの道を通ったのだろう……?

 あの時寄り道さえしなかったら……?


 もう一度あの時間に戻れたら、今度は絶対に寄り道なんかしないのに!


 そんな事を考えながら傷の痛みに耐え、俺は病室の天井を見つめて眠りについた……。


 そして翌朝目を開けた俺は、驚愕した。


 そこにあるのは見覚えのある天井だった。


 それは昨日の病室の天井ではなく、何故か自分の家の、自分のベッドの上で寝ていたのだ。


「マッ……、おかあさん!」


 その頃の俺といえば、ちょうど母親の事を『ママ』から『おかあさん』に呼び変えていた頃だったが、あまりの事に『ママ』と口走ってしまうところだった。


「おはよう、ワタル。……どうしたの?」


 血相を変えてリビングに駆け込んできた俺の顔を見た母親は、『まさか、おねしょでもしたの?』とでも言いたそうだった。


「お、おかあさん!僕、昨日病院にいたよねぇ?!学校の帰りに犬に噛まれて、それでケガして……ねぇ?!僕、病院で寝てたよねぇ?!」


 一瞬あっけにとられた母親が、今度は大笑いした。


「いやねぇ!この子は!変な夢でも見たんじゃないの?早く顔洗ってらっしゃい。遅刻するわよ」


 俺は母親にそう言われて、自分でも夢なんだと思った。すごくリアルな夢を見たんだと。


 きっとそうだ、そうに違いないと自分に言い聞かせ、急いで支度をして学校へ向かった。


 教室に入ると、黒板に書かれた日付が昨日のままだった。


「先生、日付間違ってるよ?」


 俺は担任に開口一番そう言った。


「こら~ワタルくん、朝一番に会ったら『おはようございます』でしょう?それに間違ってないわよ?今日は○月×日で合ってるわよ?」


「え……?」


 何かがおかしい。俺は違和感を感じた。絶対に日付は昨日のままだ。例え夢とはいえ、あんなに酷い目に遭ったのだから間違えるハズがない。


 なんだか見覚えのある一日を過ごし、ようやく下校時間になった。


 帰り道、昨日と同じ分かれ道に差し掛かった。


そっちに行ったらどうなるんだろう?思慮の浅い小学生の俺は、好奇心が抑えきれずに、また同じ道を通ってしまった。程無くして前から散歩中の大型犬がやって来た。


(噛まれる?!)


 予感は的中した。


 その犬は俺に襲い掛かり、飼い主に制止されるまで俺を噛み続けた。


 アレは言うところの正夢だったのだろうか……?


 酷く後悔して、やはり寄り道さえしなければ良かったのにと強く思いながら、痛みに堪え、病院のベッドで眠りについた。



 翌朝目が覚めるとやはりそこは自宅の自分のベッドの上だった。


「まさか……」


 リビングに駆け込み、思わず叫んだ。


「マッ、マ、ママ!」


「あらあら、どうしたの?恥ずかしいから『おかあさん』って呼ぶって、あれだけ言ってたのに」


 そう言いながら笑う母親を恐ろしくさえ感じた。


「あのさ……僕、入院してなかったっけ?犬に噛まれて、それで……」


「え?なに?怖い夢でも見たの?早く顔洗ってらっしゃい」


 何が何だかさっぱりわからなかった。

 昨日夢だと思っていた事が現実に起こったかと思うと、それさえも夢だったというのか……。


 俺は『今』がいつなのか、何が本当なのかわからなくなっていた。


 茫然とする俺を母親は急かして学校に行かせた。


教室の黒板に書かれていたのはまたしても同じ日付だった。


「そんな……嘘だ……」


 教室で立ち尽くしていると担任が声を掛けてきた。


「おはようワタルくん。どうしたの?」


「……先生……日付……」


「日付?日付がどうかしたの?今日は○月×日でしょ?それより朝一番に会ったらちゃんと挨拶しなきゃ!」


「おはようございます……」


「はい、おはよう!」


 担任は、覇気のない顔で挨拶した俺に少し呆れ顔だったが、他の子たちにも挨拶するため、その場を離れていった。


「まさか……。まさか……」


 俺は得も言われぬ恐怖を味わいながら、下校時間に脅えていた。


 下校途中、俺はまたあの分かれ道にやって来てしまった。



「うわあぁぁぁ!!!」



 悲鳴のような大きな声を上げて泣きながら、俺は寄り道をせず、通学路を走って帰った。



「おかえり」


 家に帰り着くと、いつも通りの母親の姿にほっとした。


「早かったわね。手を洗って、おやつにしなさいね」


 言われるまま、手を洗いおやつを食べた。


「おかあさん……、あのさ、僕……」

「なあに?」

「ううん、何でもない……」


 言いかけて止めた。きっと信じてもらえない。それどころか、心配性の母親の事だ。きっと病院に連れて行かれるに違いない。


 俺は自分の部屋にこもって、幼い頭ながらに考えた。考えに考えて出した答えは、過去に戻って『やり直せる』のではないかという事だった。


 それ以外に納得出来る答えは他に見つからなかった。


 どうして過去に戻ってしまうのか?


 そしてどうしたら過去に戻れるのか?


 わからない事だらけだったが、コツはわかりかけていた。


「たぶん、物凄く、『思う』だけなんだ。あと、『寝る』事なんじゃないかな……?」


 俺は色々試してみた。強くやり直したいと思いながら昼寝をしたり、夜寝る時に、ほんのちょっとだけやり直したいと思いながら寝てみたり。


 そうして試していくうちにいくつかの法則の様なものがわかってきた。



 その1

 とにかく強く願う事。何度も何度もやり直したいと考えながら寝る事。


 その2

 寝て戻れるのは、夜暗くなってから。昼寝ではダメ。


 その3

 何度でもどこにでも戻れるが、未来には行けない。


その4

体験した記憶はなくならない。



 つまりこういう事だった。


強く願って一晩眠りさえすれば、どんなに些細なつまらない事でもやり直せる。何度でも納得がいくまで可能だという事だ。


幼いながらにも考え抜いて出た結論だった。少し大人びた事をやりたくなる年頃の俺には刺激的な能力だった。


俺は飽きる事無く繰り返し、そうして現在に至る。



「だけどなぁ……」


 記憶がなくならないというのは便利な反面、不便でもある。同じ過ちを繰り返さないという点では便利だが、嫌な思い出は残る。


「まあ、こういう事に多少のリスクは伴うモンだよな……」


 このやり直せる体質(?)の為に実年齢は22歳なのに、それよりもずっと長く生きて来たような気がする。


 しかし何度もやり直していく内に、俺の人生は一番良い物に仕上がって来ているのは間違いなかった。


そして学生生活も、もうあと半年程だった。


「とりあえず内定も貰ったしな~。卒論も何とかなるだろうし。あの女と付き合う前に戻らないと……」


 翌朝目が覚めると、日付は約3か月前、あの女と付き合う以前に戻っていた。


「しまった!」


 カレンダーに書き込まれている予定を見て愕然とした。俺はうっかり内定を貰った会社の入社試験日の日付の事を忘れていたのだ。


「そうだ……。試験も内定の通知を貰ったのも、あいつと付き合ってる間だったっけ……!」


 しばらく落ち込んだが、しかしそんな事は些細な事だった。少し面倒だが『やり直せば』良いのだから。


「どうせだから、もう少し良い会社でも狙ってみるか……」


 もちろん同じ会社なら受かるに違いない。入社試験の問題は覚えているし、面接の時どういう受け答えが好印象かもわかっている。しかし他の会社を受けて落ちても、もう一度やり直せば良いだけなのだから。


「今度はここにしてみるか」


 俺は内定を貰った会社とは違う会社に履歴書を送った。



 試験当日、会場に行くとそこには見覚えのある顔があった。


「誰だっけ?」


 思い出すのに少し時間が掛った。そうだ、思い出した!大学に入ってすぐの頃付き合っていた元カノだ!


「久しぶり」


 多少のバツの悪さは感じたが、それでも俺なりに精一杯の笑顔で声を掛けた。


「あの……、どこかでお会いしました……?」


 声を掛けられた彼女は怪訝な顔でこちらを見ていた。


「え……?!」


 おかしい。確かに彼女とは合コンで知り合って、それから……。


「どなたかと間違えてらっしゃるんじゃありませんか?」


 入社試験の会場だけあって丁寧な物言いではあったが、彼女は明らかに気味悪がって俺を避けた。


「おかしいな?確かに……」


 そうか!確かに付き合ってはみたけれど、あまりにも料理がヘタで別れたんだった。きっとその時の事をまだ根に持っていて、知らないふりをしたんだ。


 筆記試験を終えて面接を待っている時に、俺は彼女に近付き声を掛けた。


「あれから、料理は上手くなった?」


 その次に俺が見たのは、真っ赤になって怒る彼女と、騒ぎを聞きつけてやって来た体格の良い二人の警備員に脇を抱えられ、俺は警備室に連れて行かれた。


「今回はご縁がなかったという事で」


 人事部のお偉いさんだという男が警備室にやって来て、一言俺にそう言った。そのまま裏口から追い出された。


 俺には何が起こったのかさっぱり理解できなかった。


「一体何だってんだ!『ご縁がなかった』だと?!ふざけんな!俺は内定が貰えるはずの会社を蹴って、わざわざ試験を受けに来たんだぞ!あの女も何だよ!ちょっと昔の事、蒸し返しただけで……」


 そこで俺はやっと気が付いた。


「しまった……!あいつと付き合った事はやり直したんだったっけ。だからあんなに怒ってたんだな。そうか、それなら今度試験会場で会っても知らんぷりしてれば良いんだ」


 冷静になった俺は明日に備えて、いや、もう一度やり直す今日に備えて眠りについた。


試験会場で彼女の姿が目に入ったが、知らないふりをした。


「俺は色々知ってるんだけどなぁ」


 そんな事を考えていると、余程下品な顔でニヤついていたらしく、周りにいる奴らが怪訝そうな顔でみんなこちらを見ていた。


 面接の順番がやって来て、俺は部屋に通された。


「失礼します」


 マニュアル通りに入室し、試験官達に頭を下げた。


「あっっ!」


 頭を上げたと同時に大声を上げてしまった。


「ん?どうかしたかね?」


 軽く咳払いをして、そう言った試験官の男の顔を見て怒りがふつふつと湧いてきた。


「あんた!一体どういう事だ!『ご縁がなかった』だと?!こっちは他の会社を蹴ってまで来てやってるんだぞ!」


「何を言ってるんだね君は!ここは面接会場だぞ?!わかってるのかね?!」


 一方的に捲し立てられて腹が立ったのか、昨日の男も負けずと応戦してきた。


「だいたい人事部のお偉いさんだか何だか知らないけどなぁ!」


 そこに騒ぎを聞きつけたあの警備員二人が入って来た。


「この無礼な男をつまみ出せっ!!」


 またしても二人の警備員に脇を抱えられ、俺はまた会社から放り出された。


「何だってんだ!一体俺が何したってんだ!昨日といい、今日といい!」


 思えばこの時、すでに俺は壊れていたのかも知れない……。


 家に帰り着くと、母親が待っていた。


「おかえり。早かったのね?」


 大学に入ったばかりの頃、俺は学校の近くにワンルームを借りていたのだが、最近になって家に戻って来たのだった。


「父さんは?」


「……今日も帰って来れないって……」


 伏し目がちの母親の目には泣き腫らした跡があった。


「そう……」


 父親はここ何年も家に帰って来ない。いや、正確には帰って来ていないのは数か月なのだが、俺にしてみれば体感的に何年も会っていないのだった。


「母さんも、やり直せたら良いのに……」


 部屋で俺はブツブツと独り言を言っていた。


 昔から両親の仲は良い方だった。それがいつの間にかすれ違い、お互いの気持ちが離れてしまった。父親が家に寄り付かなくなってからというもの、母親が精神的に不安定なのが心配で俺は家に戻って来たのだった。


「ワタル、ご飯よ……」


 リビングに行き、夕飯を食べた。


「……父さんが好きなおかずばっかりだね」


「……!!」


 俺の一言で母親は突っ伏して泣き出してしまった。


(傷つけるつもりはなかったのに……。今日も『やり直し』だな……)


 自分の部屋に戻り、今日一日を振り返った。


「どうしたんだろ、俺。よく考えたらあのお偉いさんとは初対面じゃないか……。面接会場に居たあの女の事だって……。今までこんなヘマしなかったのになぁ……」


 母親の情緒不安定が移ったのだろうか……。


しかしそれだけではなさそうだった。


 最近少し、忘れっぽいのだ。


 その反面、やけに昔の事が思い出されて同じ話を何度もしたりして、友人達から『ボケてきた』と言われ出す始末だった。


 これも何度も『やり直す』からなのだろうか?どの記憶が今の俺の『人生』なのかだんだんわからなくなってきていた。


「もう少し前から、やり直すかなぁ……」


 俺はもう一度、それもかなり前からやり直して記憶をはっきりさせようかと思っていた。それにやり直していく途中で、母親と父親がすれ違った原因が見つかればもっと良い『人生』になるだろう。面倒だがもう一度長いスパンでやり直すのも良いかも知れない。



「…………よし!」


 俺は覚悟を決めた。


 まずは半年戻ってみる事にした。


 過去に戻ってしばらく暮らして、今より良くなった場合、そこから人生を続ける事にする。ダメだった場合また半年戻って、それでもダメならまた半年戻って……。


「今度こそ『最高の人生』にしてやる!」


 そうしてまず半年程過去に戻った。


 数日間両親の様子を見ていると、夜中に帰って来た父親が怒鳴っているのに気が付いた。


「あの時、お前と一緒になってなかったら!やり直せるもんなら、やり直したいさ!」


 母親に暴言を吐く父親を見て幻滅した。


(ああ、この頃にはもうダメだったんだな……)


 俺はまた、半年程さかのぼる事にした。


 こうして何度も繰り返しやり直しているうちに一つの事に気が付いた。


(俺が勝手に仲が良いと思っていただけで、本当はもっと昔から両親の関係は破たんしていたのかも知れない……)


いや、両親はいわゆる『でき婚』だったが、俺の誕生をそれはそれは喜んでいたと、親戚中から聞いていた。事実、父さんは俺の事をとても可愛がってくれていた。一体どの辺りで父さんは『やり直したい』と思うようになっていったのだろうか……。


(もっと、もっとだ!もっと前だ!)


 俺はどんどんさかのぼっていった。



 そして、俺にとっての運命のあの日に辿り着いた。


「そうだ、今日だ……」


 朝のテレビのニュースで言っている日付を聞いて確信した。そう、この能力に初めて気が付いた、小学生の頃のあの日に戻ったのだ。


(でも……)


 もしかしたらこの日以前には戻れないかも知れない。事実俺は、この日より前に戻ってやり直した事がなかった。


 その日俺は長い一日を過ごした。何度もやり直した結果のわかっている一日。


「今日よりも過去に戻れますように、戻れますように……!」


 その夜、ベッドに横たわり強く、強く念じた。翌朝、目覚めた俺は少し靄が掛ったような感覚に襲われた。


「……?戻ってるよな?」


 テレビで日付を確認すると確かに過去に戻っていた。ただ、漠然と過去に戻りたいと願ったのでどの辺りの自分なのか、はっきりしなかった。


「俺はここで何をやり直せば良いんだろうか……」


 はっきりしない頭で、何をしたら良いのかわからないまま、その日は一日が終わってしまった。


「どこだ、どこなんだ……」


 虚ろな頭で俺はどこかにある、分岐点を探していた。きっと、どこかにある筈の『幸せな家庭』への分岐点を……。


 夜中にトイレに起きると、その日も両親は声を殺しながら言い争っていた。俺は急いで部屋に戻り、ベッドの中で泣きながら祈った。


「どこなんだ。一体どこに行けば……!」


 真っ暗闇の中、俺はただそれだけを祈り続けた。


 翌朝目が覚めると、今までとは明らかに様子が違っていた。頭に靄の掛かったようなあの感覚がずっと強くなっていて、声を出すのがやっとだった。


「あ~、あ~、ぅんぶ~」


 俺の目に映ったのは記憶の中にある母親の姿よりも、ずっと若い母親の姿だった。


(?!一体どういう事なんだ?!)


「あ~、よしよし。ワタルはイイ子でしゅね~」


 軽々と俺を抱き上げる母親。


(そんな!戻り過ぎたのか?!)


いまいちはっきりしない頭で考えたが、戻ってしまったものは仕方がない。未来にはやり直せないのだから……。


こうなったらもう一度初めから人生をやり直すしかない。今度こそ、今度こそ今までで一番良い人生を……。


「ワタルはママの事、好きでちゅか~?」


 幸せそうに微笑んで聞いてくる母親に、俺は満面の笑みで返した。俺を抱きしめる母親の温もりを感じて幸せな気持ちになれた。


「好きでちゅか~、そうでちゅか~。ママね~、ワタルが居たら、他に何もいらない……。ワタルもパパなんかいらないでしゅよね~?」


 そう言った母親の目には涙が滲んでいた。


(ここでも……、ダメなのか……?)


 絶望の文字が頭に浮かんだ。


(そんな!俺が産まれて喜んでたって、みんな言ってたじゃないか!あれは嘘だったのか?!)


「ぅあ~~~ん!」


 叫んでも叫んでも、言葉にならなかった。俺の口からは赤ん坊の泣き声しか出なかった。


 俺はどんどん頭がぼんやりしてきた。


「あら~?ワタルくんはそろそろおねむでしゅか~?」


 母親の声がどんどん遠ざかっていった。


(どこだ!どこなんだ!どこまで行ったら父さんは『やり直したい』って思わなくなるんだ!)



……次に目が覚めると、そこは仄暗い場所だった。


(……ここは……?)


 薄ぼんやりとした意識の中で考えていると、温かい壁の向こうから、くぐもった声が聞こえた。


「どうする気なの?!」


(この声は……?おばあちゃん……)


「わからない……。あの人は産んでくれって言うけど……。私には自信がない……。それに……」


「良く考えなさいね」


(……なんだ?どういう……事……なんだ……?)


 俺は思考能力が著しく低下していた。


(『あの人』……って……、父さんの事……?だとしたら……やっぱり喜んでくれてたんだ……)


 俺は心地良い温かい液体に包まれて、そのまま眠ってしまった。


 だけどもう考える事がままならなくなっていて、もうそれ以上過去へと戻る事はなかった……。



「決心したんだね?」


 おばあちゃんの声が聞こえる……。


「うん。あの人と一緒になっても幸せになれると思えないし……。それに幸いな事に彼にはこの事はバレてないからね」


(……?)


「そうそう、どっちと結婚する方が良いかなんて……決まってるでしょ?」


(……?!)


「うん。この子には悪いけど、せっかくの玉の輿の話を蹴ってまで産んだって、ねぇ?」


「そうだよ。『やり直す』なら、今しかないんだから」


(なんだ?!どういう事だ!やり直したいと思っていたのは父さんの方じゃなかったのか?!どういう事なんだよ!母さん!母さん!!)


 俺はありったけの力で暴れた。だが、わずか数センチでしかない俺が、どんなに足掻いたところで気付いてもらえる訳などなかった。


(母さん!お母さん!)


「早く病院に行かなきゃね」


 母さんの声が体中に響いた。


(お母さん!助けてよ!お母さん!僕はここに居るんだよ!!お母さん!お母さん!!)


 俺は力の限り、泣き叫んだ。


(ママー!ママーーー!!)



 そうして無機質で冷たい物に温かい場所を追われ、明るい場所へと導かれた俺は、もうどこにも戻る事は出来なかった……。

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