第四話 許嫁

 天気の良い日は、よく縁側でうたたねをした。


 いつも通り眠ろうとしていると、さらりと髪を撫でる風と共に、誰かの指が頬をなぞった。


「よく寝ているね」


 ティンの声がして、ククルは笑いそうになった。


(私はまだ、眠っていないのに)


 そう思うと、おかしくて。


 けれどとても心地良いから、何も言わないで寝たふりを続ける。


「本当に」


 少し離れたところから、穏やかな声がする。


(ああ、トゥチ姉様も来てたんだ……)


 ティンの許嫁であるトゥチのことが、ククルは大好きだった。


 二人が許嫁だと決められた時、初めは嫉妬してしまった。大好きな兄が他の人に取られてしまうような気がして、トゥチを許せなかった。


 でもトゥチと接している内に、いつしかそんな気持ちは失せて行った。


 ティンとトゥチが一緒に居る光景を見れば、幸せになれた。自分がその場に居れば、もっと幸せだった。


 父母や祖母のことは嫌いではなかったけれど、いつも怖くて甘えることが出来なかった。だから、ティンとトゥチと自分こそが本当の家族のように思えた。


 自分達は、とても穏やかな関係だった。




(兄様が死ぬまでは――)




 涙をこぼしながら、ククルは目を開けた。


「ああ、うう」


 思わず呻きが漏れる。


「おい、どうした」


 ユルが慌てた様子もなく、ククルの顔を覗き込んだ。


(そうだ、私達は昨日野宿したんだっけ……)


「ううん、何でもない。何だか怖い夢を見ただけ」


 起き上がりながら、ククルは無理して笑う。


「……ひでえ顔だぞ」


 いつもならこんなことを言われたら怒るククルだが、その時は怒る気力もなくて溢れる涙を拭い続けるだけだった。


「トゥチって誰だっけ?」


「え」


「お前、寝言で呟いてたぞ」


 それだけ言って、ユルは立ち上がってどこかに行ってしまった。


(トゥチ姉様……)


 ぼんやり膝を抱きよせるククルの顔に、いきなり冷水が浴びせられた。


「ユル、何するの!」


「顔を洗う手間、省いてやろうかと思って」


 木の器を手に、にっかりユルは笑う。近くにあった泉で水を汲んで来たらしい。


「顔洗ったんだから、もうびーびー泣くんじゃねえよ。二度も洗うことになるぞ」


 ユルの言葉に、ククルはびっくりしたように顔を上げた。


(変なの……。ユルを信用するなと言われたばかりなのに、ユルのこと――優しい、って思うなんて)


 心の中で呟きながらも、ククルは素直に微笑んだ。




 次の集落がある島へ行くため、二人は港に向かった。そこで、ククルは見覚えのある女性を目に留めた。


 長い漆黒の髪は、南国に住むとは思えぬほど白い肌に映える。清楚で端正な顔立ちと、すらりとした長身には、誰もが目を奪われることだろう。


「……トゥチ、姉様ねえさま


 呟きを耳に留めたのか、彼女はこちらを向いた。


「――ククル」


 その女性は振り返り、ククルを驚いて見つめた。


 やはりそこに居たのは間違いなく、ティンの許嫁――トゥチであった。




 お茶を出され、ククルとユルは頭を下げた。


「元気そうね、ククル」


 そう言うトゥチは、疲れて見えた。


「姉様……は、どうですか」


 まだ姉様と呼んで良いものなのかと迷いながらも、ククルは昔からの呼び方を貫いた。


「元気よ」


 痩せてしまった体を見るとそうは思えなかったが、ククルは何も言わないでおいた。


「あの、どうしてここに……」


「あんまり私が落ち込んでるから、兄が商いの船に載せてくれたのよ。ここは仮住まい。商いのためここに留まっているだけだから、もう少ししたら出て行くと思うわ」


「カジ兄様が?」


 カジはトゥチの兄であり、ティンとも仲が良かった青年だ。ククルもよく、かわいがってもらった。


 そして――葬儀の時にククルに話し掛けてくれたのは、カジだけだった。


『残念だ……。ククルも、辛いな……』


 カジはククルを責めることもなく、それどころか気遣ってくれた。


「でも、カジ兄様は何も」


 トゥチもだが、カジも急に居なくなってしまった。もっともカジは商人なので今までも度々島を空けることが多く、ククルはそれほど深刻に受け止めていなかった。


(まさか、トゥチ姉様を連れて行ったなんて……思いもしなかった)


「私が、兄さんに頼んだの。ククルには言わないでって」


「どうして」


「正直、あの時あなたに会ってしまったら……責めてしまいそうな気がして」


 ぬるい風が、ククルの頬を撫でた。


「でもここでゆっくりしたら、大分落ち着いたの。ああ、あなたも辛かったんだな……って思ったの」


 トゥチの優しい言葉に泣きそうになったククルは、唇を噛んだ。


「ごめんなさいね、ククル。あの時、何も言ってあげられなくて」


「ちが、違います姉様。あれは本当に……私が悪く……て」


 とうとう泣き出してしまったククルの背を、トゥチは優しく撫でさすってくれた。


「謝らなくて良いのよ、ククル。共に泣きましょう」


「姉様……」


 心から一つ重荷が取れて、ククルは大声をあげて泣き出してしまった。




 仮住まいだという、この家に泊めてもらうことになって、ククルは上機嫌だった。


「嬉しそうだな、お前」


 そんなククルを眺めながら、床に寝転がってユルは呟く。


「だって、嬉しいんだもん」


 トゥチはずっと、自分のことを憎んでいると思っていた。でも、あんなにも労わってくれた。前のように接してくれた。


 トゥチは今、夕食を用意してくれている。


「姉様は、本当に優しい人なんだもん」


 心から笑うククルを横目で見て、ユルは舌打ちした。


「そうは思えねえな」


「……え?」


「あの女は嘘をついてる」


 ユルの発言を受けて、ククルは目を丸くした。


「あの女は、オレのことを全く聞かなかった。つまり、どっからか聞いたんだ。代わりの兄が現れたと」


 確かにトゥチは、一切ユルのことを質問しなかった。


「なのに、何も言わなかった。お前も事情も聞かない。きっと、どうでも良いと思ってるんだ」


「そんなことないよ!」


「あの女が浮かべた表情は、全部仮面だ」


 ユルはククルが手を上げても、冷静に言い続けた。


「あの女は、お前を許していない」


「嘘だっ!」


 ククルはユルを突き飛ばし、台所まで走って行った。


 野菜を切っている途中だったトゥチの背中に抱き付くと、トゥチはびっくりしたような声を出した。


「ククル、どうしたの。危ないでしょう」


「姉様……」


 涙を堪えて、ククルはトゥチを見上げた。


「姉様は、本当に私のことを怒ってないの?」


「……怒ってないわ、ククル」


 トゥチは優しい微笑を浮かべ、ククルの頭を撫でてくれた。


 その笑顔がどこか淀んでいることにも撫でる手つきが不自然なのにも気付かず、ククルはその心地良い感触に目を閉じた。




 満足して居間に戻ると、ユルがこちらを睨んで来た。


「ユルの馬鹿。ユルなんて、もう信じないよ」


「勝手にしろ」


 ユルはふてくされたように、腕を組んだ。


「まあまあ、二人共。仲良くして」


 トゥチはたしなめながら、盆に皿を載せて運んで来た。


「あ、姉様! 私も配膳手伝いますね」


「ええ、ありがとう」




 走り行くククルを追うトゥチの視線は、どこか冷ややかだった。


 ユルが自分の横顔を見ていることに気付き、トゥチは微笑みをその面に張り付ける。


「……あんた、オレのこと知ってるのか」


「ええ。風の噂で、新しい兄が来たと知ったわ。兄さんが持って来てくれた情報よ」


「ふーん。それにしちゃ、何も言わないんだな」


「私が言っても仕方ないでしょう」


 皿を並べながら、トゥチは固い声音で答える。


「ティン様が死んだのは……」


「ククルのせいだって言いたいのか?」


「いいえ!」


 トゥチは初めて大きな声を出した。ククルがびっくりして、奥から顔を覗かせる。


「姉様?」


「……何でもないわ、ククル。さあ、料理を運んで頂戴」


 トゥチはユルの方を見ず、拳を握りしめた。



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