第64話 別れ、それぞれの道へ

 シャカシャカと音色のように美しい音を奏で、グラスに注ぐと紫色の液体が揺れる。

「お客様、バイオレット・フィズでございます」

 恭しく礼をすれば『お客様』が足を組み替える。今日は桃色のリボンをしてはおらず、ストレートの金髪がふわりと揺れた。

 普段、お客様には出さないどくだみ茶を味わいながら、ルイはバイオレット・フィズを口にする。感想はシンプルに「美味しい」。

「人に作ってもらうのは、こんなにも美味しいものなんだな……」

「それは嬉しいなあ」

 ついでにジン・フィズも作ってみた。最後にソーダ水を注ぐ瞬間、ルイはなんだそれはという目で見ていた。

「どう?」

「味の感想は言うべきか?」

「えーと……うん、一応。表情で察してるけど」

「美味しくは、ない」

 バイオレット・フィズと比べると差が激しい。さすがジン・フィズだ。材料もシンプルで作り方もシンプル。それ故にバーテンダー泣かせのカクテルであり、ユーリさんからの課題でもある。

「砂糖を入れすぎだ。シェイカーを振りすぎて、風味が落ちている」

 シェイカーを振っているとき、ルイがいいのか、そんなに振るのかと子を見守る親のような目で見ていたが、心配が現実になってしまった。

「あーあ、駄目だったかあ」

「手本を見せようか?」

「頼む」

 入れ替わり、今度は俺が席に座る。今日は私服のままだが、ルイの方がシェイカーもグラスも似合っている。

「砂糖を使った方がいいの? それともシュガーシロップ? 粉砂糖?」

「どれでも構わないが、すべて作れるようになったらいい」

 同じ振り方であっても、俺とは比べものにならないほど綺麗な音だ。小川のせせらぎと、どぶ川のねちょっとした音くらい差がある。

 俺の作ったジン・フィズの隣に置かれると公開処刑だが、有り難く感謝して口につけた。

「美味しい。これがジン・フィズかあ……」

「作り手の性格が出る」

「あ、やっぱり? どうりで優しい味がすると思った。もう一回作ってくれない? 手元撮影してもいい?」

「…………ああ」

 無駄のない洗礼された手つきと長い指がシェイカーを振る。いろんなバーテンダーの腕を見てきたけれど、俺はやっぱりルイの作るカクテルが好きだ。宝石を生み出し、幸せをお裾分けしてくれる。

 いずれ選ぶそれぞれの別れ道を思い、なんだかしんみりとした夜だった。




 出会いもあれば別れもある。分かりきった常套句でも、寂しくもなるし鼻の奥がつんともする。

 久しぶりに降り立った田舎は、前に里帰りしたときとは違い、小旅行のような気分で新幹線を降りた。

 手動から機械に変わり、都会暮らしで慣れたはずの改札も少し緊張して、無事に通れたときには安堵の息を吐いた。

「久しぶりね。元気してた?」

「いつも通りだよ。健太さんは?」

 健太さんは、姉の旦那だ。正直、姉より優しいとは口に出せない。

「健太なら実家に戻ってるわ」

「なら入れ違いかあ」

「会いたがってたわよ。急に三日前に連絡を寄越すんだから、もう」

 姉の顔というより、母の顔だった。美恵子さんに偶然再会して、ぽっと頭に浮かんだからかもしれない。姉もまた、美恵子さんに似ている。

 車の中は、子供のもので溢れかえっていた。俺の知らない姉の姿と車は、懐かしくも寂しい気持ちになる。前の里帰りのときも味わった感情だ。

 いきなりの里帰りであるのにもかかわらず、家に帰れば寿司やら肉やら用意してくれていた。言葉の少ない父も喜んでくれ、そこそこ良い値段のするお酒を開けてくれた。

 俺の回りをまとわりつく子供はよく歩き、お酒を口にするたびに背中を叩いてくる。

「で、志樹の将来は電話で話した通りでいいわけ?」

「おう。俺の気持ちは変わらないよ」

「寂しくなるわね」

「はは……別に一生会えないわけじゃないんだから。あと、ばあちやんの墓参りにも行きたい」

「しばらく帰って来られなくなりそうだしね。明日行ってきたら? あのままになってるから」

 祖母の話をしても、ふたりはいつもと変わらない様子だった。この様子だと、祖母を殺した犯人が捕まったことは知らないらしい。俺の口から話すつもりはなかった。

 翌日は、祖母の家と墓参りに出かけた。冬の時期ともなると、木は寒そうに裸の状態だ。昔より生い茂る雑草に飛び散る血痕を思い出さなくなり、それは季節のおかげか過去に蹴りをつけたからか。下生えは申し訳程度に地面を緑に染めている。俺の目には、赤く映らない。

 家族で墓参りをするのは、だいたいお盆のある八月だ。季節外れの墓参りは、俺ひとりで行くことなんてほとんどない。

「ばあちゃん、来たよ」

 冷たい墓石はうんともすんとも言わず、けれど俺を招いてくれているように見えた。冷たいのに暖かい。途中で購入した花を添え、祖母の好きだった饅頭も置く。縁側で並んでこっそり食べた饅頭とおんなじだ。

「ばあちゃん、あのさ、俺……すっげー好きな人ができたんだ。友達と呼んでいいのか分からないけど、そうなれたらいいなって思っていて、憧れの人。俺にないものをたくさん持ってる人。俺の人生を助けてくれたんだ。人を殺めそうになった俺を止めてくれて、生きろと言ってくれた」

 透明なものが込み上げてきて、鼻の奥に何かがつまった。

「俺は将来に向けてここを離れるんだ。ばあちゃんなら、賛成してくれるだろ?」

 墓石を通じて、祖母の暖かな声が聞こえた気がした。

「あと数か月で卒業して、俺は遠くに行く。ばあちゃんに会えなくなるけど、気長に待っててよ。ばあちゃんに一番、かっこいいって言われたいんだ、俺」

 最後ではない。だからこそ、俺は墓前で長居はしなかった。手を振って別れを告げて、またねと気軽に声をかけて。それだけで、気持ちが晴れてやるべきことは終えたと、肩の荷物を置いていけた。

 俺が来ても花岡の店はいつも通りに営業し、姉は近所の人と話している。

「志樹君、大きくなったわねえ」

「ありがとうございます。いつも家族がお世話になっています」

 これには姉が驚いている。俺もびっくりだ。田舎に帰ってきても、俺は人の目を気にしてさっさと部屋に閉じこもる生活を送っていたのに。

「そろそろ就職でしょう? それとも結婚?」

「結婚は……しないと思います」

「あら、まあ」

 姉は俺を一瞥し、何も言わない。いろいろと思うところがあっても、そこはそっとしておいてくれる。

 田舎は結婚や子供が大きな財産となる。そんな考えが今も根強く残っていて、大人になるにつれてそれも一つのあり方だと考えるようになった。だからこそ、俺はこの地で就職は難しい。人には向き不向きがある。これから成し遂げようとしていることは、自身に向いているのか分からないが、人生の糧には絶対になると信じている。

 二日続けての焼き肉は、タレの味がしっかり染みていた。一人暮らしだとそれほど高級なものは食べていないと言いたいが、ルイにかなりご馳走になっている。デパ地下の弁当だって、とんでもない金額だ。

「田舎に帰ってきて、何か収穫あった?」

「ありまくり。家族の顔も見られたし、墓参りもできたし。それと焼き肉美味かった」

「落ち込んだときは、美味しいものを食べて、とりあえず寝なさい。次の日になれば、また現状が変わっていたりもするんだから」

「ルイと同じこと言うんだな。ルイもよく寝ろって言うんだ。眠れなくても言われた通りに布団に入るとさ、魔法がかかったみたいに目が閉じるんだ。するとちゃんと朝が来てる。お腹も空いてる。朝食を食べると、とりあえず大学に行こうって気になるんだよ」

「何か欲しいものはある? ダンボールで送ろうか?」

「いいって。あ、お供えした饅頭余ってる?あれ持っていきたい。ルイに食べさせてあげたいんだ」

「頭の中はそればっかりね」

「そればっかり?」

「欲しいなら全部持っていけばいいよ。帰りの電車の中でも食べていきな」

 暖かな家族の理解があり、俺は幸せ者だ。幸せだと感じるまで、長い年月がかかりすぎた。心は死にながら復讐のためだけに生き長らえて、弱った心を少しずつうめてくれる存在がいて。生きている限り、俺はお世話になった人々へ恩返しがしたいと思う。




 しばらく帰って来られないのに、相変わらず姉や父とはさっぱりとした別れだった。こういう別れは後腐れなく地元を離れられるし、まっすぐ夢に向かっていける。

 俺は十条のアパートには帰らず、スーツケースをガラガラさせながら池袋に来ていた。待ち人はルイじゃない。ルイは今、大阪にいる。

「奥野さん……え? 髪が」

 長かったストレートの黒髪が、肩くらいになっていた。前にもこういう場面があった気がする。奥野はちょっとずつ切るタイプではなくて、一気にばっさりいくタイプだ。

「髪切っても美人だなあ」

「言う相手が違うでしょ? ただの気分よ。シャンプーが楽になったわ」

「分かるそれ。髪洗うのが楽しくなる」

「随分大荷物ね」

 スーツケースから地元のお土産を出し、彼女に渡した。

「地元に帰ってたんだ。よかったら食べて」

「ありがとう。嬉しいわ。こうして話せるのもあと何回くらいかしらね」

「それ、俺も考えてた」

 考えてはいたけれど考えないようにしていた、が正しい。

 奥野さんは、初めて出会ったときはちょっと気になる女性だった。仲良くなりたいなあと思っていて、今はお互いに就職活動をする戦友のような間柄だ。

「就活はどう?」

 普通、この時期になるとぴりぴりした空気になり、なかなか言い出せないが、奥野さんは物怖じせす口にする。こういうところも好ましい。

 どうなるか分からないけれど、やりたいことを見つけたとどうなるか分からない将来図を話した。

「それだと、花岡の大好きな上司と離れ離れになるじゃない」

「うん。ルイがいなくても、どれたけやれるか自分を試したいんだ。正義のヒーローになって、次は俺が助けたくて」

「人生をかけてでも人を好きになれるのって、生きている中で何度味わえるのかしらね」

「バイトの大ボスに相談したら、人の想いは儚いだの熱にうなされているだけだの言われたけどね。これが夢なら夢のままでいいってくらいだ」

「花岡がそう決めたのならいいんじゃないの。結局は大ボスも折れてくれたんでしょ?」

「うん」

 肝心の上司はまったく知らないわけだが。成長した俺を見せて、驚かせてやりたい。

「奥野さんは? どうするか決まった?」

「卒業したら、海外へ行くの。そっちで就職するか分からないけれど」

「へえ! どこ?」

「イギリス。花岡に感化されたのもあるのよね」

「俺?」

「英語もペラペラ話せて、フランス語も上手くなって、私も負けていられないって思ったのよ。比べているわけじゃないの。いい影響をもらっている感じ」

 嬉しいような、子と離れ離れになる親御さんに申し訳ないような……愛する娘を奪っている気分だ。

 それぞれに直面する別れ道はとても怖いものだ。正しいのか、屈折しているのか先が見えない。祖母を殺害した犯人を逃してしまい、それすらも後に後悔するかもしれないとさえ思う。今はルイが示してくれた道を歩み、後悔はないときっぱり言えるような人生を歩みたい。それが俺の目標とする人生だ。

 ガラスを叩く音がし、振り返るといつもの麗しき風貌で首を傾げている男性がいた。

 奥野さんはあんぐり口を開けて彼から目を離せないでいる。分かる。俺もよくそうなる。大阪にいたんじゃないのか。

「奥野さん、紹介するよ」

 奥野さんという親に、恋人を紹介する気分で少し気恥ずかしかった。

 入ってきたルイも緊張した様子である。思えば、彼に友達を紹介するのは初めてだ。

 彼女にここぞとばかりに自慢の上司だと話していたら、ウェイターが水の入ったグラスを手に、置くぞ今がチャンスだと、おろおろしている。さっきからチャンスを逃しているのはほぼ俺のせい。ごめん、もう少し自慢させてくれ。

 数か月で卒業を迎えれば、三人は違う方向へ歩み出す。笑ってお互いの門出を祝いたい。

 奥野さん、これからも友達でいてほしい。

 ルイ、今までありがとう。これからもあなたの人生が美しいものになると祈っています。

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