第57話 ベルナデット嬢と

 空港に到着し、まずは長袖の羽織を脱いだ。五月なのにTシャツで充分だ。今年の夏は暑くなるだろう。

 こじんまりとしたアパートは落ち着いていて、フランスにいたときから恋しかった。入れっぱなしだった手作りのお茶を飲んでひと息つき、ルイに電話をした。

「仕事中か?」

『いや、問題ない。無事の帰還は何よりだ』

 数日会えなかっただけなのに、ルイの声が恋しい。心の底から、俺はこの人の声も好きなんだと知る。

「お土産持って行きたいんだけど、いる?」

『池袋にはいない。来てもいいが、そっちで休め』

 どこにいるのだろう。電話越しでは、ルイ以外の声も聞こえて騒がしい。

『変わりないか?』

 ああ、泣きそうになる。

 俺の気持ちなんて知ってか知らずか、優しい声は今は勘弁してほしい。赤く腫れた顔で会わないといけなくなる。

「元気すぎるくらい元気だよ。やっぱりそっちに行く」

 池袋に行ったところでルイに会えるわけではないが、いてもたってもいられなかった。

 電話を切り、お土産を準備して、家を飛び出した。時間はかかる距離ではないのに、今日はいつもの三倍くらいかかっている気がする。

 駅を出て、目を瞑ってでも行けそうな慣れた道を辿り、裏口からエレベーターに乗った。

 秘密基地の扉を開けても、やはりルイはいない。分かりきっていても、がっかり感は抑えられなかった。

 シャワーを借りて置きっぱなしのバスローブに着替え、ベッドに横になるとすぐに眠気がやってくる。飛行機や電車で取った睡眠時間では足りなかったようだ。


 再び目を開けると、寝起きなのに頭がすっきりしている。薄暗い明かりも認識でき、漂うアルコールの香りに二段構えで目が覚めた。

 テーブルには、ルイの私物であるノートパソコンが置いてある。電源が付けっぱなしだ。

「……………………は?」

 画面いっぱいに映っていたのは、俺だ。

「え? ええ? なんで?」

 しかも見覚えのある女性一緒で。俺の頬にキスをしているのは、フランスで出会ったナンナだ。なぜか俺たちが画面のすべてを支配している。どういうことだ。

「起きたか」

 入ってきたのは、俺の雇用主。

「ルイ、久しぶり! すっげー会いたかった! 相変わらず良い匂いだなあ!」

「奇遇だな、私もとてもお前に会いたかった。いろんな意味でな 」

 おもわず抱きついてしまうと、ルイも盛大にハグしてくれた。今日はカモミールの香りだ。

「あ、これお土産ね。香水と懐かしのフランスのお菓子。あとでどくだみ茶を入れるから一緒に食べよう。いろいろ話したいんだけど、ユーリさんにも会ってきた。あとこれどういうことだよ。なんで俺とナンナが映ってんの?」

「一つ一つ、答えていこう。香水のプレゼントか。有り難く頂戴しよう。スイーツも楽しみにしている。ユーリと何を話した? ナンナとは?」

 丁寧すぎるくらい、丁寧な答えだ。俺が一番気になるのは、なぜルイの眉間に皺が寄っているのか。

「なんでそんな顔してんの? 怖いんだけど」

「質問を変えよう。こちらの女性とどこで出会い、何をした?」

「ルイが住んでた家の近くに泉があって、そこでナンナと出会ったんだ。なぜか一緒に踊る羽目になって、気に入られてお茶しようって言われた。タルトやハーブティーを奢ってもらった。ナンナ見てるとさ、ルイのこと思い出したんだよな。多分、髪の色が同じだったからだと思うけど」

「私を思いだして当然だ。親子だからな」

「……………………え?」

「彼女はナンナではない。マリアンヌ・ドルヴィエ。私とディミトリの母だ」

「あの……ええ……嘘でしょ……? なんでこのときの写真あるの? ルイがこっそりついてきて隠し撮り?」

「マスコミが撮ったものだ」

「彼女って、有名人?」

「一応」

 有名人に関しては、大した驚きはない。むしろ、だろうなとしか納得しない。それより、問題はルイの母親ってところだ。

「ドルヴィエ家に近づくアジア人。大学生くらいの年齢。お前だと分かって連れ回したんだろう」

「ということは、俺の話をしてたの?」

 ルイは質問に答えなかった。違うなら違うと言えばいいのに、それが答えだった。

「ちなみに、モデルさん?」

「過去にはモデルもしていた。オペラ歌手の経験もある。今はミュージカルをしている」

「あー、どうりで」

 湖で踊った歌とダンスでも、だいぶ手加減されていたようだ。

「めちゃくちゃ綺麗でびっくりしたよ。ルイの母さんだって、名乗ってくれたら良かったのに」

「弄んで、戸惑う志樹を見て楽しんでいるだけだ。まったく。迷惑かけたな」

「全然。楽しかったよ。けどこれで合点がいったよ。流れで婚約者がいるって話したんだけど、なぜか相手が男性だって分かってたんだよな」

 ナンナはあのとき、フィアンセがハンサムかどうか聞いてきた。男性とは話していないのに、引っかかる質問だったのだ。

「マリアンヌさん、元気そうだったよ」

「彼女と話すときは敬称はなしで頼む」

「それ、本人にも言われたなあ」

 数日前の出来事なのに、すでに懐かしい。彼女の経歴を調べれば、どんな舞台をこなしているのかいろいろ出てきそうだ。

「あと、ディミトリさんが弟を頼むだってさ」

「…………あの人が?」

 ここ最近見た中で、一番驚きの顔だ。

「何か、裏があるのかもしれない」

「いや、そんな深刻な顔しなくても。可愛い弟が心配なんだよ」

「何が可愛いものか」

「ルイはときどき可愛いよ」

「…………お前な、いや……いい」

「途中でやめたら気になるじゃんか」

「可愛いなど私に言うのはお前だけだ」

「やった。可愛いルイを知ってんのは俺だけでいいって。なんだよこの会話。照れるじゃんか」

「………………お茶」

「了解、親分」

 俺たちの婚約のことについていろいろ聞きたかったが、聞きそびれてしまった。

 まあいいかと、ケトルでお湯を沸かした。今日は温かなどくだみ茶の気分だ。コーヒーでも良かったが、ルイに合わせて俺もどくだみ茶にしよう。

 どうやってベルナデット嬢のことを持ち出そうかお茶を入れながら考えていると、マグカップに並々に注いでしまった。

 お揃いのカップを渡し、独特の香りのするお茶を口につける。今年も引っこ抜いて、お茶を作るつもりだ。

「あのさ、ベルナデットさんのことなんだけど。ちょっと会ってみようと思うんだよ」

「………………なぜ」

「遺産のこととか聞きたいじゃん。ただの興味本位だから、そんな難しい顔しなくたっていいよ。いつものお節介だし」

「…………会えないことはない」

「実は俺に内緒で会ったりしてる?」

 難しい顔をしたまま、カップに視線を落としたままだ。

「もう、二度と、会いたくないと、言われた」

 区切りよく呟くルイは、言い訳をする小学生に見えた。ちょっとおかしい。笑いをこらえると、マグカップのどくだみ茶が微かに揺れた。

「なぜか、いつも彼女に嫌われてしまう。昔からだ」

「嫌われてるわけじゃないと思うよ。わがままを言える相手だから、つい憎まれ口を叩いてしまうんだって」

「……だといいが、」

「俺も話してみたいなあ。ルイの大事な人だろうし、俺も仲良くなりたいなあ」

 ルイは俺を一瞥すると、携帯端末をタップし始めた。

 お茶を飲みつつ、買ってきたお菓子をつまむ。バトン・マレショーという焼き菓子はフランスでも食べたが、シンプルで美味しい。

「店に来てほしいと伝えた」

「お、わざわざ連絡してくれたのか」

「全力で断られた」

「うん……とりあえずお茶でも飲みなよ……」

 上手く返す言葉が出ない。

 ルイはマグカップに口をつけ、バトン・マレショーを食べる。美味しいとは言わなかったが、懐かしいと吐息混じりに漏らした。今の俺にとっては、美味しいよりも最上級の言葉だ。

「俺の名前を出してもらってもいい? 一緒に昼飯でもどうって。友達になりたいって送って」

「ああ」

 そんな簡単にいくとは思っていなかったが、簡単に決まってしまった。連絡先を送ってほしいとメールが返ってきた。

「私が誘っても、応じてくれない」

「役割があるんだって。ベルナデットさんって何が好き? ラーメンとか好きかな」

「さあ……」

 俺の連絡先を送ってもらうと、すぐに返事がきた。フランス語で、一言ボンジュールと。俺も返し、まずは自己紹介からだ。

 初めて会ったのはクリスマスの日に教会だった。逮捕の瞬間が初対面でも、気まずい雰囲気もなくメールが返ってくる。

「明日、焼き肉食べに行ってくるよ」

「もう約束したのか?」

 ルイは驚愕の声を上げた。

「ラーメン食べに行かないかって誘ったら、焼き肉の方が好きって」

「……お前は、どこの国にいても友人を作るのが得意なんだな」

「そうか?」

「私には備わっていない。正直、羨ましく思う」

「俺からしたら、ルイは持っているものが多すぎて落としてしまわないか心配になるけど」

 ソファーに深く腰かけ、天を仰ぐ。フランス帰りの身体はまだ疲れが落ちておらず、俺はいつの間にか意識を手放した。身体が何かに包まれ、頬に暖かなものが当たった気がしたが、俺は目を開ける気にならなかった。


 新宿にある某チェーン店の焼き肉屋の前で待ち合わせをしていると、彼女は現れた。

 タクシーから降りた瞬間、横を通る人は二度振り返り、落ちていた空き缶につま先が当たり、慌てて前を振り返っている。

「逮捕以来。お久しぶりね」

「フランスジョークがきついですね。花岡志樹といいます」

「ベルナデット・ドロレーヌよ」

 長かった髪は短くなり、少し顔が痩せこけている。赤い唇と赤いハイヒールがとてもよく似合っていて、ナンナもといマリアンヌよりも女王様のイメージだった。

「ラーメンでも良かったのだけれど。焼き肉の気分だったわ」

「良かった。ルイに聞いたら、ルイもベルナデットさんの好みをよく分かっていないみたいだったし」

「………………あの人はそうよ」

 ルイの話題は御法度らしい。けれど、ここで気持ちが負けては聞くに聞けないこともある。

 まずは格好つけようと先に前に出て扉を開けようとしたら、自動ドアで、初っ端からしくじってしまった。

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