第56話 将来の設計図
これぞフランス料理と想像するような料理が並び、緊張しながら席についた。
せっかくなのでワインもいただくことにした。料理人らしき人から何か説明があったが、とっても早いフランス語すぎて人智の範囲を超えている。メルシーとだけ呟くと、ディミトリ氏は日本語で説明してくれた。
「ブルゴーニュ原産の赤ワインだ。甘口だが飲めるか?」
「はい。大丈夫です」
ワインを一口飲むと、ディミトリ氏の眉間の皺がいくらか和らいだ。お酒は好きらしい。
前菜を食べ終わっても、会話がない。べらべら喋る必要はなくても、俺の実家とは大違いだ。ルイも食事中は喋るタイプではないので、家庭の事情は様々である。
「さっきの話の続きをしても構いませんか?」
「ああ」
ディミトリ氏は言葉短めに答え、ひと口サイズに切ったステーキを口に運んだ。
「ルイとの婚約なんですけど、破棄にしてもらうことはできませんか?」
「なぜそういう話に至ったのか、詳細を聞こう」
「いえ、ただ……なんとなく」
「それで納得できると思うか」
「うーん……難しいんですよ。俺の心が複雑すぎて。元婚約者のベルナデットさんにも会えたし、遺産の場所はある程度知ることができたし、ルイの側にいる意味がないんじゃないかと思って」
「なるほど」
「ルイを縛って、もしルイに好きな人が現れたら、俺が邪魔になるような気がしてるんです」
「お前の婚約者から連絡が来ている」
「ルイから?」
俺がここに泊まることは伝えていなかった。どうせばれていると思っていたが、やはり知っていた。
「彼が婚約破棄を言い出したら、破棄するように」
「あ……そっか」
自分から言い出したのは置いて、こうはっきり告げられると心が槍で刺された気分だ。槍が貫通している。
「勘違いするな。婚約破棄を破棄するという意味だ。お前が破棄したがっても、ルイは許さないと言っている」
「ゆっ……なん、なんで、」
「理由は知らん。聞いていない。そのままをお前に伝えただけだ」
「えー、待って待って。話がついていけない」
「本人に聞け。連絡手段はあるだろう?」
「ありますけど、連絡しづらいですよ。あー、どうしよう」
運ばれてきたデザートは、小さなタルトとアイスクリームだ。夕方のタルトを思い出し、胃に重みがのしかかる。
思っていたよりもさっぱりしていて、軽めのフルーツとバニラアイスのおかげだ。一緒に乗せて食べるとなお美味しい。
「今日、妖精に会ったんです」
「……………………」
「胡散臭い目で見ないで下さいよ。可憐でよく笑う妖精でした。綺麗だったなあ」
「早めに寝ろ」
まったく信じていないディミトリ氏は、デザートを食べ終えるとさっさと席を立ってしまった。ひとり残された俺もタルトを平らげ、追加の赤ワインを断って部屋に戻った。
鞄に入れっぱなしだった端末には、メールが数件入っている。姉の近状報告と友人と、そして雇用主。前者二人にはメールを返し、後者はフリックをしたいのに、指が止まってしまった。
──無事に帰ってくるように。
泣けてくる。むしろすでに鼻の奥がつんとしている。
こんな優しい人は、俺が束縛してはいけないとも思ってしまう。ナンナに言われたことも理解できるし、約束も軽い気持ちでしたわけじゃない。もうどれが正しいのか分からない。何を優先して、俺の感情を何番目に入れたらいいのだろう。帰ったらベルナデット嬢に会うだけでなく、目的がもう一つできた。ルイとちゃんと話をしよう。
ベッドに横になると、一日分の疲れが押し寄せてきて、俺はすぐに目を閉じた。
目が覚めると、まだ部屋は薄暗い。枕元に置いた端末はそのままで、昨日送ったメッセージはすべて既読がついている。
シャワーを浴びて着替えても、まだ六時にすらなっていない。ちょっとくらい探検でもしてみようかと思い、部屋を出た。
メイドが行き来している廊下も、静まり返っている。廊下の先にある執務室は、光が漏れていた。
「まさか、仕事してんの?」
彼はいつ寝ているのだろうか。サイボーグでもあるまいし。
「ディミトリさーん」
さすがに寝るように言うべきだ。お節介だろうが、心配になる。
ノックをしても返事がなかったので、僭越ながらドアノブを開けた。
ディミトリ氏が、いた。
俺の想像を超えた姿で、固まってしまった。
まったく知らない男性と一緒だった。
壁を背に、頭は見知らぬ男性の肩に乗せている。
俺に気づくと、ディミトリ氏は男性の肩を押し、気の抜けた表情は一瞬でいつもの顔に戻る。
「あの、ごめんなさい」
謝るのもどうかと思ったが、今のは勝手に入ってしまった行為に対してだ。完全に俺が悪い。
男性は明るく俺に挨拶をし、俺もボンジュールと返した。今の時間帯はボンソワールにはならないらしい。そんなことを考えていると、男性は俺の肩を軽く叩き、部屋を出ていってしまった。
残された俺とディミトリ氏。気まずい。非常に気まずい。
彼は何度か目元をほぐし、大きく息を吐いた。
「………………志樹、」
「はい」
「見なかったことにはできるか?」
「ええと……それは無理です……けど、別にディミトリさんが誰と友達になろうが、恋愛しようが、いいかと……」
「良いわけがないだろう」
そう、良いわけがない。分かっている。彼は家を継ぐ人間だ。けれど、言葉が浮かばない。言葉の語彙が足りない俺を恨みたい。
「かっこいい人ですね。モデルみたい」
ディミトリ氏に睨まれたが、見なかったことにしておこう。それがいい。
用件を聞かれたが、何もないと告げると無言の空気が流れてしまった。
「ちゃんと寝て下さいね」
「……ルイは、お前を大事な友人だと思っている」
「え?」
「弟を頼む」
ディミトリ氏は書類に目をやり、口を聞かなくなってしまったので、俺は一生大事にしますとだけ残し、部屋を後にした。
本人から直接聞いたわけではないが、もし本当なら池袋のど真ん中で小躍りしたいくらい、うれしい。
部屋でナンナに教えてもらったダンスをしているうちに眠くなり、再びベッドに倒れ込んだ。
起きたときは七時を過ぎていて、食堂に行くと、ディミトリ氏はすでにいなかった。数日帰ってこないらしい。最後くらい、お仕事頑張って下さいと言えば良かったと後悔した。あとでメールを送ろう。
朝食の後はSPの男性が部屋にやってきた。
「行きたいところがあれば連れていくようにと、ディミトリ様から言伝です」
「グラースに行きたいんです」
「かしこまりました」
実は知り合いと待ち合わせしているのだ。相変わらず縦に長い車に乗り、香水の街・グラースへ向かう。
美しい街並みと香水の香りが漂うと、ルイと共に歩いた日を思い出す。大昔でもないのに、いやに懐かしい。
「ユーリさん!」
大きく手を振ると、振り返してはくれなかったが日本流のお辞儀をしてくれた。俺も逆輸入をし、頭を下げる。
「お久しぶりですね。大学四年生デビューおめでとうございます。ゴールデンウィークに海外旅行など、随分と余裕なようだ」
「へへー、海外で勉強するのもいいかと思ってフランスまで来ました。語学を試すチャンスでもあるし」
「語学力はいかがです?」
「ディミトリさんとは英語八割、フランス語二割ってとこですかね。発音良すぎて気を使われてます」
「日本語を使わないで意思の疎通ができるだけ、あなたは成長しました。無事に四年生に慣れたことと外国語の上達をお祝いして、ランチをごちそうしましょう」
「ありがとうございます!」
サンドイッチの美味しいお店だ。すでにネットで調べてある。
俺は肉やチーズがふんだんに使われたサンドイッチとハーブティーを頼むと、ユーリさんは珍しいとぼやいた。
「ちょっとした縁があって、ハーブティーを飲むようになったんです」
「では、あなたと出会えた縁にも乾杯しましょう。人生相談は、日本語にしましょうか」
事前に、将来について相談があるとユーリさんにメールをしていた。
俺は今起こっている感情の移り変わりを伝えた。将来に限らず身近で支えてくれている人たちのこともだ。
「それがあなたの将来設計図とやらですか」
「覚悟を決めたのは、飛行機の中でなんですが。ベルナデットさんにもいろいろ話を聞きにいくつもりです。せめてルイと友達と呼べる関係にはなってほしいと思います。ルイと交わした婚約も、この先どうするか話し合うつもりです」
「恋敵にわざわざ? あなたも物好きですね。話を聞くお役目は、ルイよりあなたが向いてそうです」
「それ、ディミトリさんにも言われました。どれだけルイと相性が悪いんだ……」
「あの子の能力を買いすぎです。あなたの前では格好つけているようですが、実際は路頭に迷う十歳児ですよ」
十歳児のルイを想像したが、きっと可愛かったはずだ。写真が残っていたらぜひともほしい。
「将来については、了解しました。ルイと結んだ婚約ですが、こちらはふたりで決めなさい。私が口出す権利はない」
「うう……そうします」
「それだけ長いこと一緒にいて、名前をつけないとやっていけない間柄でもないでしょう」
ユーリさんは追加でタルトを頼んだ。フランス人は食後にタルトを頼まないといけない決まりでもあるのか。俺は遠慮した。昨日からタルトで身体が出来上がってしまっている。そしてハーブティーの海で漂っている。
「この後のご予定は?」
「お土産に香水でも買って帰ろうかなあと。ルイはいつも香水をつけてるし、好きみたいです」
「フランス人と香水は切っても離せない関係ですからね」
ユーリさんに将来の話をして、かなりすっきりした。ネックになっていたところでもあり、今俺にできることは、大学を無事に卒業することだ。
お礼を伝え、ユーリさんとは別れた。また近いうちに会うことになるだろう。
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