第52話 知り合いの知り合い

 都会にいれば、きっとどこかで出会っていると思う。

 公安警察を初めて見た印象は、どこにでもいそうな普通の男性だった。スーツに鞄を持っていれば、目で追わない自信がある。それくらいに目立たなかった。それが公安警察としての条件の一つなのだろう。誰の目にも留まらないという、いたって『普通』と呼ばれるものが。

 ぼんやりと先日の出来事を思い浮かべながら学食で何を頼もうか悩んでいると、肩を掴まれた。

「奥野さん!」

「飼い主を待つ犬みたいよ」

「ごめん、嬉しくて飛び上がりそう。久しぶり、元気だった?」

「ええ、レポートで死にかけていたわ。ご一緒してもいい?」

「もちろん」

 相変わらず全身黒ずくめで個性溢れるファッションだ。しかも似合っていて美人。美人や美男子の定義なんて人によって異なるけれど、奥野さんは誰もが振り返る美人だろう。

 奥野さんは野菜カレー、俺は肉うどんを頼み、席に座った。

「あーあ、もう四年生かあ」

「お互い留年しなくて良かったわね」

 水で乾杯をし、半分ほど飲んだ。

「就活はどう?」

「うーん……まだ悩んでる。外国語はいろいろ学んでるからさ」

「塾の先生とか?」

「人に教えるのはなあ……奥野さんは?」

「海外に行きたい。まだ勉強したいのよ」

「ヨーロッパならフランスがおすすめだよ。デザートも美味しかったなあ」

「ヨーロッパねえ……」

 カレーの香りを嗅いでいたら食べたくなった。今日の夜はカレーにしよう。

「あ、メールだ」

 相手はルイからだ。気にせず見ろと視線を送られたので、構わずアプリを起動した。

──夕食はどうする?

──カレー食べたいんだけど、材料買っていくよ。

──デパ地下で買ってくるからいい。テイクアウトしてくる。

──高いしいいよ。作った方が安上がりだし。俺より先に帰れそうなら、材料買っておいてほしい。

──了解。

「上司からだった。夕食はカレーになるっぽい」

「え?」

 やけに驚いた声を出し、奥野さんはスプーンを持つ手を止めた。

「まさか、一緒に住んでるの?」

「言ってなかったけど、冬休み中に手を骨折したんだ。面倒見てもらってたんだよ。ギプスは取れたけど、まだリハビリ中でさ。ボクシングできるまで時間かかりそうだし、何かあるといけないからって」

「ああ……それで」

「日常生活はほとんど大丈夫だけどね」

 端末をしまおうとしたとき、奥野さんは画面を一瞥しては二度見し、目を細めた。

「それ、なに?」

「ああ…………」

 先日から画面を例の天使と蛇と蝶のシンボルに変えたのだ。気味が悪く、解決するまで変えはしないと、戒めのつもりで待ち受けにした。どうか気持ちが風化しませんようにと、虫酸が走る願掛けのようなものだ。前まではルイが待ち受け画面だったので、気持ちの落差が大きい。

「このマークを知ってる人を捜してるんだよ」

 詳しい事情は省いて、説明くらいならいいかと思った。

「私、見たことあるわよ」

「え…………」

「まったく同じ印か忘れたけど、確か似た刺青だったような……。社会人が多いサークルに入らないかって誘われたことがあるもの」

「それってどんな人? 男性? 女性? この大学?」

 詰め寄ったせいでテーブルが揺れてしまい、コップに残っていた水が揺れ、スプーンが皿の上で音を立てた。

「どうして捜しているの?」

「言わなきゃダメ?」

「ええ」

「俺のばあちゃんを殺した犯人の手がかりなんだ」

 冷静な奥野さんでも放心状態となり、開きっぱなしの小さな口に赤い舌が見える。

「そう」

「だから、どうしても知りたい」

「花岡の上司が一緒に住みたがる理由の一つなのね。暴走癖はなんとかした方がいいわよ。犯人ならなおさら、常識が通用する相手じゃない」

「止められないんだよ。ちょっと話を聞きたいだけだから、教えてほしい」

「テニスサークルで、タメの人よ」

「テニスサークル」

 復唱すると、意味あり気な目を向けられた。

 いろいろあったテニスサークル。彼女の好きだった水橋有栖さんがいて、奥野さんのことが好きな男性もいて。特別俺の仲の良い人はいないのに、何かと縁のあるサークルだ。

「食べたら行ってみる?」

「お願いします」

 ははー、お代官様、と伏せると、おでこにでこぴんを入れられた。

 まさか同じ大学で手がかりが見つかるとは思いもしなかった。ルイに言うかどうか端末を見るが、指が動きかけてポケットにしまう。

 ランチの後は裏庭を通ってテニスコートに行くと、数人がコート内に入っていた。ボールが行き交うたびに心地良い音が鳴り、この寒さがなければ黙って見ていたくなる。

「ほら、あの人。黒いジャージ姿の背の高い人」

 同じ上下ジャージを着ている女性に、テニスを教えている。

「ちょっと、何入ろうとしてるのよ」

「え? ダメかな?」

「邪魔になるでしょうが」

「こっそりテニス部のふりしてさ」

「ああ、もう。花岡の上司なら暴走を止められるのかしら?」

「一応、俺の首にGPSが埋め込まれているみたいだけど」

 肩を掴まれ、てっきり奥野さんだと思ったが、思いのほか力が強くて後ろを振り返った。

「こんにちは、花岡さん」

 たった一言の挨拶だけで、何が起こっているのか瞬時に悟った。

 ラフな格好のどこにでもいそうな男性。だからこそ怪しまなければならないと、すでに学んでいる。

「ちょっといいですか?」

「……ごめん、奥野さん。用事ができた」

「ええ、構わないわ」

 何のことか分かっていないだろうが、空気を読んで下がってくれた彼女に感謝だ。頭が下がる。

 掴まれた肩は離れてもじんじん痛みが走っている。全力の「止めろ」には、痛みと責任が伴った。

 裏庭のベンチに腰を下ろすと、彼は自動販売機でコーヒーを二本買い、一本を俺に渡した。

「君が思っている以上に、危ない組織だ」

「分かっています。ばあちゃんを殺した人間がいるんですから。というか、俺もつけられていたんですね」

「君も同じくらいに危険人物だからな」

 危ない組織と同レベルにされてしまった。なんてことだ。

「君のアルバイト先から、暴走癖があるから要注意人物だと言われていたが、ここまでだとは思いもしなかった。大事にされているんだな」

「痛いほど愛を感じています」

「ならば、自重することだ」

 公安警察は学校まで入ってくるのだから、俺の死らない間に授業に参加していたのかもしれない。

「さっきの男性って、」

「一切答えられない。が、おばあさんの敵ではないとだけ伝えておこう。おとなしくしてほしい」

「俺に協力を頼んでおいて、虫が良すぎませんか」

「勝手な言い分なのは仕事だからだ。分かってくれ」

 むっとした表情を作っても、男性はさして気にする様子も見せず、淡々と告げる。仕事をこなす、が正解に近い。感情よりも優先順位が明確に存在し、単純にかっこいいと思う。

 ベンチから立ち上がると、彼は池袋まで送っていきますと言う。住まいまでしっかりと把握されている。SPをつけたつもりで、お願いしますと返した。見張りも込めてだろう。

「大切なガールフレンドを危険にさらしたくないのなら、あなたは行動を起こすべきではない」

「いや、ガールフレンドじゃないですよ。ん? 友達って意味ではガールフレンドかな? 境界線を引くのは難しいですね」

 俺とルイの関係はどうだろう。恋人かと聞かれれば、違う。けれどある意味おしい。契約婚約者であり、家族並に近い関係にいる。ルイには親が決めた婚約者はいたが、今は破棄されている。

 もし、すべてが解決し、俺がアルバイトを止めたら、俺とルイの関係はどうなるのだろう。もやに覆われそうになり、タクシーから見える景色を眺め、気を紛らわした。最近、おかしなほどくよくよしてしまう。隣では、公安警察の人間が誰かとメールをしている。秘密組織は本当に存在していた。

「着きました」

 もやをかき消したのは、隣に座る男性の一言だ。

 顔を上げると、窓に映る男性と目が合い、顔を見てすべてを悟る。

「ごめん、心配かけて」

 綺麗に俺を無視したルイは、財布を取り出して中の男性と会話を交わす。使われないままの財布をしまい一礼したので、俺も頭を下げた。

 タクシーが見えなくなるまで送ると、もう一度ごめんと呟いた。

「ルイ?」

 道ばたであるにもかかわらず、ルイは俺の背中に腕を回した。

 こんな大胆に抱きしめられるのは初めてだ。桃色のリボンが顔に当たり、くすぐったい。どこからともなく口笛を吹く声がした。

 手が背中に回る前に離れていき、手持ち無沙汰になった腕を下ろす。

「温かい飲み物でも入れよう」

「うん……」

「無事で良かった」

 俺は何も学んでいない。大事な人にこんな顔をさせてしまって、またひとりで無茶をした。見張られていなければ、俺はどうしていただろうか。

 カウンターの中で、ルイはミルクを暖めている。チョコレートの香りもする。

「どうぞ」

「ありがとう」

 マグカップの中には、ココア色の液体が並々入っている。ミルクチョコレートだ。どちらの味も失っておらず、バランスがちょうどいい。チョコレートの苦みもするし、ミルクの甘みもしっかりと感じた。

「彼らから連絡を受けた。テニスサークルに所属している男は、勧誘員でしかない。お前の知りたい情報は持っていない」

「そっか。だとは思ってたよ。藁にすがりつくっていうか、希望の光に突き進んでしまったというか」

「志樹の希望はこんなものではない。もっと明るいものだろう。何のために勉学に励んでいる? 自分だけではなく、お前の成長を楽しみにしている人の希望も奪おうとするな」

「なんか、めちゃくちゃ口説かれてる気分」

「そうだと言ったら?」

 これは、どう解釈したらいいんだ。

 笑うでもなく、呆れるでもない、真顔で腕を組み、首を傾げる姿は、美術館で美術品を愛でるよりずっと眺めていたくなる。

「えーと……、お願いします?」

「……………………」

「あれ? 違った?」

「飲め。それで気持ちを切り替えて、勉強しろ」

「はいはい。最近ルイに勉強しろしか言われてない気がする……。俺って幸せになっていいのかなあ」

「幸せは身近にあるのに、なぜ不幸に足を突っ込みたがる? お前がそのような思考なのか、日本人の気質なのか」

「日本人に多いと思うよ。苦労や辛さは美徳だと教えられたりするし、そう思ってる人も多いし。飲んだら勉強します」

 ルイの小言は好きだ。けれど、今は聞いていれば目から流したくないものが落ちてきそうで、笑ってごまかしマグカップに視線を落とした。

 気づいているのかいないのか、ルイは黙って俺が口をつけるのを見守っていた。

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