第51話 蛇と蝶、そして天使
──あなた方に、謝らなければならないことがあります。
ルイの端末にメールが来たのが朝食後で、昨日の返事の代わりだった。突然の謝罪は俺を混乱させ、ルイは画面を見つめたまま動かなくなった。
──何かありましたか?
ルイは無駄に余計な詮索はせず、短文を送る。
──会えませんか?
──二人でということですか?
──花岡さんも。楽しい話ではないです。この前のような喫茶店ではなくて、三人だけになれるところで。
愛の告白か、なんて平和ボケなことを考えていた俺が浅はかだ。
──本日の夕方、エレティックにご来店下さい。店は開いておりませんので、三人で話しましょう。
「問題ないか? 用があるなら私と大島さんの二人で話すが」
「当然いるって。冬休みだし。ルイは夕方まで仕事だろ? 頑張って」
「ああ。誰か来ても、開けないように」
過保護爆弾を投下して、ルイはいつものスーツケースと共に秘密基地を後にした。
午後四時過ぎにルイから電話があり、もうすぐ戻るとのことだった。三十分後、ルイからのメールで大島さんから「今日は行けません」とメールがあったそうだ。
「どうしようかなあ……これ」
冷蔵庫ではすでに冷えて固まった牛乳寒天がある。牛乳と練乳を混ぜて作ったシンプルなもので、味が分からなくても、のど越しを味わってほしいと願って作ったものだ。
「俺とルイで消化するか」
時計は午後五時を回っている。ルイが帰ってきた。バーテンダーらしく、飲んだわけでもないのにアルコールと香水の香りが混じっている。
「おかえりー」
「何を作っていたんだ? 甘い匂いがする」
「牛乳寒天だよ。すっげえ美味いから! 味見してないけど。今日、大島さん来られなくなったんだって?」
「ああ。できれば早いうちにと返したが、返事がない」
「急な仕事が入ったとか? 冬は代わりに出たりして忙しいって言ってたし」
「そうだな……」
ルイはテーブルに紙袋を置くと、お腹を刺激する良い香りが漂ってきた。多分、中身は牛肉の弁当。しかも木箱に入っている。
幸せを噛み締めながらふたりで食べ、デザートに牛乳寒天を出した。美味しいとは言わなかったけれど、目を瞑りながらゆっくりと味わっていた。
この日も、ルイは秘密基地に泊まっていった。
朝食を作っていると、フロアで物音がする。きっと早くに目が覚めたルイだろう。特に気には留めずに卵を割っていると、話し声が聞こえてきた。
こんな朝早くから来る人となると限られてくるが、ユーリさんはフランスに戻っている。客人が朝から来るわけがない。となると、ルイ個人への用だ。
挨拶くらいはしようとフロアに出ると、ラフな格好をした四十代くらいの男性がルイと対面している。彼の表情は険しい。顎に手を置き、何か考えている。
「花岡志樹さんですね」
見知らぬ人に名前を呼ばれてルイの前に立とうとするが、ルイは手で制した。
「どなたですか?」
「突然お邪魔して申し訳ございません。数日前のお話を伺いに参りました。よろしいですね」
日本語の使い方が強烈すぎて、嫌とは言えなかった。ルイも初めから招き入れるつもりだったのか、ソファー席へと案内する。
男性は鞄から茶封筒を出し、写真を一枚こちらに向けた。
「こちらの男性はご存じですね。それと」
ついでというように、もう一枚写真を出し、二枚目は俺の目の前だ。
「……………………」
写真には、目にも心にも焼きついて離れないマークが写っている。隠し撮りをしたかのような角度で斜めに撮られていた。哀れむ天使の目線の先は、蝶を絞め殺そうとしている蛇。
胃液だけでなく、いろんな恐ろしい言葉が口から飛び出てしまいそうになる。俺はかっとなりやすい性格だ。抑えるのに必死で、手が小刻みに震えている。
ルイは俺の目の前に置かれた写真を取り、代わりに男性の写真を置く。
「いつからだ?」
「質問の意図をはっきりお願いします」
「いつから私たちをつけていた?」
「いつから、ですか。十年ほど前になりますね」
「日本の警察の執念は凄まじいな」
ルイは写真を裏返し、腕を組んだ。俺に見せまいとしているようだった。
「花岡さん、あなたは写真と同じカードを持っています。違いますか?」
ルイを横目に見ると、ピンクのリボンが肩を流れる。いつもつけているなあと、現実逃避にぼんやりと考えた。
「花岡さんは我々を翻弄しているかと思ったほどです。あまりに危うい。あなたは三度、組織の人間と関わっている。記憶はありますか?」
「……………………」
「一度目は小学生のとき、おばあ様の身体に落ちていたカード。そこから運命が始まりました。二度目は銀行。三度目は数日前」
「銀行?」
聞き返したのはルイだ。
「花岡さんの近くで銀行強盗に指示を出していた女性です。銀行強盗たちは、組織には関わっていませんでした。金で雇われたのでしょう」
祖母を殺害したかもしれない犯人の関係者と会っていた。俺は何も気づかなかった。
「ああ……なるほど。ちなみに、組織というのは?」
「新宗教とでもいっておきましょうか」
「話せる範囲で結構ですが、志樹のおばあ様が狙われた理由は?」
「その話も聞きたかったんですが。彼は話せる状況にないようですね」
彼らも情報を掴んでいない様子だった。
かろうじて唇は動かせるが、肝心の声が出てこなかった。目がどこに焦点を向いているのか分からない。指先がぴりぴして、喉が渇きを訴えている。
「私は、花岡から身体にカードが添えられていた以外の情報は私も聞いていません」
「花岡さんは、随分ルイさんを信頼していらっしゃるようですね。フィアンセだからでしょうか」
「名前だけの関係性など私たちにはありません。肩書きは必要ないと考えています」
「ルイさん、ブレスレットやその他の遺品の場所を知りたくないですか?」
「知りたいです。教えて下さい」
「志樹」
張り上げる声は聞こえないふりをして、ありったけの気持ちをこめて口を開く。喉がカラカラなせいか、掠れた声が喉を刺激する。
「難しいことを頼むわけではないんです。また男性がこちらに来るよう仕向けます。男性へは居心地の良い空間を、我々には防犯カメラの映像を提供して頂きたい」
「仕向ける?」
ルイは怪訝そうに聞き返した。
「大島花菜さんは我々の協力者です」
「……そういうことか」
合点がいった。おかしな形のパズルでも、一つ一つを枠にはめていけばぴったり綺麗に収まった。
「グルだったんだな」
「グルではなく、協力者です」
「処方せん薬局で出会ったのも、すべて公安警察が仕組んだことだったわけか」
公安警察。秘密組織で、国を守るために存在している。どんな仕事をしているのか、俺にはさっぱり分からない。けれど分かることと言えば、俺だけではなく、ルイもとんでもない事件に関わっているということだ。
「必然でしたが、偶然起こったこともあります。まさかあなた方からアクションを起こすとは思いませんでした。女性に水をかけるのはあまり良いやり方とは思いませんでしたが。占い師から忠告を受けた件も、彼女は本気で信じていたようでした。大島さんは、些か人を信じやすい傾向の性格です。あなた方と会う約束をしていたと思いましたが、断るように言ったのは私です」
「占いに関しては、レミさんが仕事をして下さいました。花岡も私も関与しておりません」
「当たると評判の占い師のようですね。ひとまず、ブレスレットは我々の手にありますが、いずれドルヴィエ家にはお返しします」
「ブレスレットだけではないはずです。他にも奴らは持っていると確信しています」
「ですから、すべて調べはついていないんです。そのためにはルイさんと花岡さんの協力が必要です」
「協力して、もし祖母を殺した犯人が分かったら、教えてくれますか?」
「それを知って、どうしたいのですか?」
「どうしたいかなんて、そのときに考えます」
「志樹」
二度目。ルイの切羽詰まった声ほど弱いものはない。内臓がおかしく歪んで心にヒビが入る。ルイにそんな声を出させたいわけじゃない。
子供の頃に誓った復讐心が口から飛び出そうになり、太股の上で拳を作って耐えた。
愛する人を奪われて、むしろ怒りが風化していない自身に感謝すべきだ。
「まあ、それは条件の一つとして考えておきます。今日はこれで失礼します」
台風のように現れた男性は爪跡を残し、出ていった。今日は、ということは、また来るつもりだろう。
秘密基地に戻ると作りかけのご飯を作り、ふたりで食べた。スクランブルエッグの味がしないと思ったら、ケチャップをつけ忘れていた。
「来るべきときが来たという感じだ。お前に話したいことがある」
「はい」
「かしこまると話しづらい」
「じゃあいつものノリで」
正した姿勢を崩し、ソファーの背もたれに背中をつけた。
「二度も同じ質問になるが、おばあ様を殺した犯人を知って、どうするつもりだ?」
「……………………」
「正直に言ってくれ」
「俺の頭には復讐心しかないよ。どうしたいかなんて言われたら、ばあちゃんと同じ目に合わせてやりたい。ルイの言おうとしていることも分かる。でも、どうしたって心に蓋はできないよ。なあ、どうしたらいい? 俺の大事な人は、俺が法を破れば絶対に悲しむ。優しすぎるくらい優しい人だから。むしろ止められなかったって自分を責めるかも」
「法を犯さず、抑える方法はある」
「どうやって?」
「勉強することだ。とにかく机に向かうこと。知識は人生を絶対に邪魔しない。自信にも繋がるし、外れた道がいかに愚かなものか教えてくれる」
「これ以上勉強したら、頭と首が壊れるかも……」
「そうしたら、もっと良い枕をプレゼントしよう」
場にそぐわない妖艶な笑みに、まあいいかと思えた。たとえ一瞬の息抜きでも、ルイの笑顔は心の荷物を軽くしてくれる。
「朝食は食べ終えた。食後のお茶も済んだ。これからすることは?」
「なぞなぞかよ。二度寝? うそうそ、勉強します」
「いい子にしていたら、夜に土産を買ってきてやろう」
「あー、楽しみだなあ!」
ルイが俺の頭に手を置き、犬を撫でるみたいにわしゃわしゃする。ばあちゃんみたいな優しさと、力強い上司の手が合わさり、なんだか泣きたくなってしまった。
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