第45話 泥沼から抜け出せない
閉められたカーテンを開けると、俺の心は止まったままでも時間は止まってくれないと思い知らされた。
ベッドが六床あるうち、カーテンが閉まっているのが二床、ベッドで大の字で寝ている男性も含め、四床がうまっていた。
七時前になると、一斉にカーテンが開いた。朝食の時間だろう。俺も何か購買で買おうと思ったが、運ばれてきた朝食にどうして、と疑問を口にした。
「……ご家族の方が」
「もしかして金髪の?」
「……………………」
「いやあ、すみません。有り難くいただきます」
ルイには次会ったときにお礼を言おう。至れり尽くせりの彼にはメールだけでは申し訳ない。
台に置くトレーが大きな音を立て、スープが揺れる。大きな音に他の患者も見やり、朝食に手をつけ始めた。利き腕が使い物にならない配慮がそっと乗っていて、箸ではなくスプーンとフォークだ。小さな幸せを写真を端末に収め、スプーンを握った。
零れたスープがもったいない。しっかりとカロリー計算のされた食事は、俺には少し薄味で、一番美味しかったものを聞かれたら、ジャムをたっぷり乗せたバターロールと答えるだろう。
食べ終わって寛いでいると、先ほどの女性がやってきては、
「あとで警察の方が来るそうです」
言伝だけを手短に告げると、さっさとお盆を下げてしまった。
警察というワードを聞いた同室の人は、一斉にこちらを向いた。話したくなかったのでわざとらしく欠伸をし、俺は再び布団に入った。
人というのは不思議なもので、あれだけ悩んでいた昨日の夜が嘘みたいに寝入ってしまった。
「花岡さん、すみませんが起きて下さい」
腰の辺りを揺さぶられ、左手で拳を作り布団ごとはねのけた。無意識だった。足の先まで震えが起こるが、二人の警察官を見てはすぐに収まり、愛想笑いで頭を下げる。
「ちょっといいですか? この前の事件で話があるのですが……」
「どうぞどうぞ」
俺は一からこと細かに説明をした。友人と一緒に飲みにいったバーが、違法薬物の温床であったこと、俺のストーカーが薬漬け状態だったこと。危うく襲われかけたとは言わなかった。言えなかった。唇が震えて、声が出なくなった。
「どうします? 一応俺も尿検査とかします?」
「いや、大丈夫だよ。一緒にいた女性からも同じ証言を得てるからね。あと、彼は即逮捕になったから心配しなくていいよ」
安心させるための言葉だろうが、刑務所に入ったとしてもいずれ出てくる。俺がまた命を狙われない保証はない。
そういえば、花園さんは怪我はなかったのだろうか。俺の思いに連動するように、警察官からは『女性は怪我はなく、知り合いに助けを求めた』と伝えられた。
「君、本当に運が良かったよ。拳銃まで所持してたんだからね」
「拳銃? 重野がですか? どんなルートで手に入れたんだ……」
「一応それも聞きたかったんだけど、知らないってことでいいんだよね? 花岡さんは前に彼と職場が一緒だったみたいだけど、拳銃や薬物をちらつかせるようなことは?」
「まったくなかったです。俺は彼を慕っていたんですが……」
「……が?」
「……何でもないです」
警察官は訝しみながらメモを取っていく。
ふー、と深く息を吐くと、蘇りそうになった過去の記憶に蓋をできた。オブラートくらいの耐久性だけれど。それでも何もないよりはいい。
警察官に別れを告げ、病室に戻った。同室の患者が聞きたそうにうずうずしているが、俺は騒がしくてすみません、とできるだけ明るく告げ、関係のない昼食の話をした。同士の話なので、意外とこれが気が合う。年齢差も関係なく、食事の楽しみをこれでもかと語り合った。隣のおじいさんは、入院して一週間らしい。
午後に病室に呼ばれると、レントゲンの写真を見せてもらいながら、簡単な説明を受けた。ギブスを見たままだが、やっぱり骨が折れていた。
「良かったね。割れ方がきれいですぐに治るよ」
「どのくらいかかりますか?」
「一か月くらいかな」
予定範囲内。けれどクリスマスには間に合わない。去年は前のアルバイト先の人と一緒に過ごした。一年に一度の想い出の中にあいつの姿もあり、消せるものなら記憶を抹消したい。
昼食後は見舞い品を持ったユーリさんが現れた。数冊の本はすべてカクテルの本で、暇を持て余していた俺にはちょうどいい。
「ありがとうございます」
「馬鹿弟子がどうしても行きたくないって言うものですから、代わりに私が来ました」
「えっ……どうしてですか?」
「本日の午前中だけで、ため息の数は三十回を超えています。理由は本人に聞いて下さい。しょうもない理由でしょうが」
と言いつつも、ユーリさんもため息だ。似た者親子。
「店はどうなってます?」
「あなたがいなくても回りますのでご安心を」
「そ、そうですか……」
「あの子があなたの分も動いていますので。疲れ果てて十時間寝入っていましたよ。早く戻ってこないと過労死します」
「……そうですか!」
「……子犬」
「ん?」
「なんでもありません。英語での会話も、上達してきましたね」
日本語で話していたはずが、切り替わっていても徐々に話せるようになってきた。前と違うのは、間違いを恐れなくなったことだ。これが一番上達したこと。
「心配しなくても、あなたの居場所はなくなったりしませんよ」
息をするのも忘れ、苦しさを感じて大きく吐いた。
一番初めに浮かんだのは、祖母の顔だ。家族、学校、そしてエレティック。
祖母が亡くなってから居場所がないとどこか諦めに似た感情で闇の学生生活を過ごしてきたが、本当は自分が気づかなかっただけで、雲隠れしたままで雲を晴らしてみると、皆はそっと寄り添ってくれている。寄せてくれた優しさに、俺は感謝で返したいと思う。
「手がよくなったらルイにカクテル振る舞いたいなあ」
「味が分からなくとも、あなたが作るものなら何でも喜ぶでしょう。そろそろ失礼しますね」
丁重に腰を曲げたので、俺も合わせて布団に頭がつくほど下げた。同室の人は誰だと聞きたそうにしていたので、俺は本に集中することにした。暇といっても、やれることは山ほどある。
端末にメールが一件届き、期待に胸が膨らむと、相手は初めての相手からだ。
──ルイの様子を。
簡潔すぎる。文章というより単語。ルイのお兄さんと連絡先を交換したのはいいが、今の今まで墓で眠っていた状態だ。使われずにいた連絡先が起き上がり、単語を投げかけている。
──すみません、多分元気だと思います。
──多分?
──俺、腕折ってしまって入院してて、ルイと会ってないんです。退院したら、こちらから送りますね!
返事をしつつ、最後にハリネズミの絵文字をつけて送った。トゲトゲしてるしなかなか心を開いてくれないし、ディミトリさんは俺の中でハリネズミのイメージだ。ついでに太陽の絵文字も送る。既読がついたのでよしとしよう。
数日間の入院の後、俺はついに退院の許可が下りた。ストーカー事件も表面上は解決したため、池袋へ行くより先に、まずはアパートに戻った。真っ黒な上に寒い。病室の方がもっともっと暖かかった。
無事に退院してアパートに戻りましたとユーリさんに送り、今日は休むことにした。寝ているか読書くらいしかなかったが、気疲れはあった。見ず知らずの人と同室は、緊張感もある。誰も寝姿なんか見ていないと分かっていても、弱気な大の字で目を閉じ、夜中に何回か起きてしまった。癖が抜けず、今日もまた消極的に就寝した。
翌日にはユーリさんから「ケーキは何がいいですか?」とメールが届いていた。俺は「ショートケーキが好きです」と返した。特にこれといって好きなものがない。何でも好きだ。
池袋はいつもの光景が広がっている。俺がストーカーに追いかけられようとも、逮捕されても、時間は止まってくれない。それぞれの人生が人の数だけ動いていて、俺もたった一部でしかない。
俺の働く職場は、俺がいなくても変わらず動き続けていた。裏口の暗証番号も変わらないし、フロアで掃除をするルイは、空色のリボンをまとっている。
「無事に退院できました!」
痛々しいギプスはそのままだが、なるべく明るく振る舞った。
「右手が使えなくても意外となんとかなるもんだな。パンは片手でも焼けるし、着替えもできるし。でもペットボトルの蓋は開けられなくて困るんだよなあ」
ルイは手を止め、黙って見ている。何を言おうか、考えあぐねている顔だ。
「ユーリさんからケーキ何がいいってメール来たんだけど、みんなで食べるの? それとも店に出すやつ?」
「お前に聞いたんだから、お前が食べるものなんじゃないのか? 私は何も聞いていない」
「なんか怒ってる?」
「怒っていない」
「恋人同士みたいな会話だなあ」
「……そこに座れ」
機嫌がピサの斜塔みたいになっているルイは、二つのカクテルグラスを置いた。柑橘系のジュース三種類をシェイカーで混ぜ、宝石のシトリンのような綺麗な色が注がれた。
「ノンアルカクテルじゃん。なんていうの?」
「シンデレラ。このカクテルを飲むと、魔法にかかる」
ルイも隣に腰を下ろし、同じカクテルに口をつける。酸味と甘みのバランスがちょうどいい。ルイの舌には、どう映って感じているのだろうか。
「日本人は一生の願いをよく使うらしいが、私もぜひ使いたい」
「なにも日本人だけが使っていいわけじゃないんだ。何度だって、フランス人も使っていいんだよ」
ようやく、ルイの肩の力が抜けた。実は俺も気を張っていて、ルイに会うのが少し怖かった。数日顔を合わせないだけで、別人になったみたいだった。
「一生の願いを込める。他人のために無理はしないでほしい。お前は人に尽くしすぎる。尽くして人を信じて、もし裏切られたら何が残る? お前ひとりだけ取り残されて、回りは真っ暗なんだぞ。きっと足下だって見えなくなる」
「ルイって俺のことなんだと思ってるんだ? 人を信じるのは人によるよ。全員が全員、善人じゃないってことくらい、ばあちゃんが殺されたときや小学校でのいじめですでに分かってる。ちゃんと人を見て判断してるよ。それでも、重野みたいに腹の中で企んでいるか分からない奴もいるけどさ」
「……明日、空いているか?」
「明日? うん」
ルイは残りのカクテルを一気に飲み干した。
「たらればの話をする。お前のもっとも大切な人が薬物に犯されていたら……どのような決断を下す?」
ああ……これは。
俺もカクテルグラスを空にして、ルイのグラスの隣にそっと寄り添わせた。
「明日にとある女性と待ち合わせをしている。会いたくて会いたくてたまらなかった人だ。その女性は残念ながら日本の法を犯していて、俺は警察に通報するべきか悩んでいる」
「俺からの質問。もし、俺がドラッグを使っていたらどうする?」
「許さない」
「でも、待っててくれるんだろ? ルイは優しすぎるから。俺もルイが法に触れるようなことをしたら、出てくるまでずっと待つよ」
「優しすぎるの言葉は、そのままお返しするとしよう。私は臆病者で恐がりなんだ。彼女と会っても何を話したらいいのかも分からないし、逃げ出したいほど腰が引けている。だから、お前についてきてほしい。側にいてほしい」
友人で、元婚約者で、ルイの大切な人。捜すために日本へ来たのに、想像できる結末は、未来が見えず泥沼にどっぷりと浸かっている。ルイも、一緒に抜け出せないでいる。
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