第32話 アイ・オープナーは何度でも

 ちょっとした縁が重なり、ゼミで仲良くなった人がいる。連絡先を交換し、ずっとご無沙汰にしていた彼に連絡を取った。

「よっ」

「竹山」

 納得した顔で頷いた。彼は名前を呼ばれることを嫌う。どういうわけか、俺も人を名前で呼ぶのはなかなか苦手の分類に入る。よほど親しい間柄か、気を許す関係性を築けていないと、いわゆる『軽率な言動』と思ってしまうのだ。

「カレー奢ってやるってなに? 何が目的?」

「目的だらけで困ってるんだよ。頼む。ゼミのノート取っててくれない?」

「別にいいけど」

 竹山はさらりと交わし、スプーンでカレーを掬った。

「でも急になんで?」

「海外に行ってくる」

「いや、夏休みに行けよ」

「ごもっともだけど、大事な人がピンチなんだ。今じゃないと駄目で、いつ帰って来られるか分からない」

「なんだそれ。捕らわれたお姫様を助けに行くみたいな」

「うん。ラプンツェルみたい。髪長いし」

 竹山は笑いながら、スプーンでルーとご飯を混ぜた。カレーの食べ方にも癖が出る。俺は混ぜずにさっくり食べる派だ。

 今だけは笑ってもらった方が楽だ。きっと日本を旅立てば、笑える余裕なんてなくなる。

「単位は大丈夫なのか?」

「教授に相談したら、レポート提出で呑んでくれるってさ」

「真面目な奴はいいよなあ。レポートで済むんだから」

 英語とフランス語以外で興味のある言語はなにか、と質問され、俺は一番に思いついたドイツ語だと答えた。教授はアイドル顔負けの笑顔を見せ、俺はお笑い芸人顔負けの変顔をした。

「花岡を射止めた女子ってどんな子? 興味ある」

「女子? いやいや、男の人だけど」

「は?」

「バイト先の店長だよ」

「……お前なんか騙されたりしてない? 呼ばれて着いたら強面の男が待ちわびていて内臓売られたりとかさあ。詐欺師じゃないよな?」

「バーテンダーだよ」

 ルイの株は下がる一方だ。姉にも誤解されるし、俺の伝え方が悪いのか?

「あーもう、詐欺でもなんでもいいよ。俺はルイの助けになりたいだけなんだって」

「ふうん? まあ適当に頑張れ。あんまり背負うなよ」

「おう」

 深くは突っ込まず、さらっとしている友人だ。友と呼ぶほどプライベートの付き合いはなく、かといってほんの少しの事情をさらけ出せる間柄。ルイとは違った心地良さだ。

 食堂を出て、今度は別の友人に連絡を取った。会ってくれるか賭けでもあったが、すんなり中庭で待ち合わせだと返ってきた。

 腫れぼったい瞼もやせ細った首も元に戻っていて、笑顔になりきれない笑顔で片手を上げる。

「その泣きそうな顔はなに?」

「良かったって思って……」

「泣くのなら抱えている問題を解決してからにしなさいよ」

 横を指差され、隣に座った。今日も良い天気だ。奥野さんといると、余計に感じる。

 奥野さんには、メールで事情を説明している。

「フランスに旅立つんだって? いってらっしゃい」

「さっぱりしてるなあ。もうちょっと何かないの?」

「授業ならまとめておいてあげるわ。いつしかの礼ね」

 水橋有栖さんのことは、いつしかとなった。ときが経つのは早い。彼女も、うまい立ち直り方を知っている。口にすれば、暗示がかかったように楽になれるときがある。

「『人』が『人』を好きになるって、とても尊い。私は、そういう考えでありたい。なかったことにはしたくない」

「素敵な考えだと思うよ。俺も奥野さんと出会えて、すごく嬉しい」

「花岡の選択肢は、後悔はしないと思う。大事なら追いかけた方がいい。黙っていてもすり抜けていくし、掴まえてもすり抜けていく。でも、私は後悔していないわ」

 弾む会話ではなかったが、空気を楽しむとはこういうことなのだ。空に浮かぶ雲を一つ一つ数えても、一体化したみたいに流れていく。このままフランスへ届けばいいのに。

「ありがとう、奥野さん」




 日本からおよそ一万キロメートル。時差は七時間、もしくは八時間。半日ほどで到着する。十月のパリは冬を感じる気温で、厚めの上着がなければ肌寒い。

 この前聞いたカタカナ語は山ほど聞き慣れない言葉があったが、中でも気になったのが『ミモジスト』だ。コートダジュール地方ではミモザ祭りが行われていて、ミモザを育てる農家の人たちを『ミモジスト』と呼ぶ。ミモザというカクテルもあり、なんだか縁を感じた。

 無料動画サイトなどでフランスの情報を頭に叩き込み、俺は堂々と未知の世界へ足を踏んだ。ここからはほぼ知り合いはいない。たったひとり、南フランスへ行かなければならない。困ったときはいつでも電話を、と心強いお言葉を頂戴した。それでもお守りが欲しかったので、ユーリさんの写真を撮らせてもらって待ち受け画面にした。何を考えているのか分からない微笑みのユーリさんだ。

 パリからルイの実家までは車でも九時間近くかかる。今日は安いホテルでも探そうかと端末を取り出したときだ。

 見覚えのあるスーツにサングラスの男性たちが数人、向こうから近づいてくる。俺を囲み、逃げ道は真後ろしか与えない。

「ボ、ボンジュール……」

「日本語でどうぞ。行きましょう」

「どこですか?」

「ディミトリ様がお待ちです」

 兄貴と気軽に呼んでいいのか分からないが、ルイのお兄さんだ。

「ルイはどこですか?」

「行きましょう」

「ルイは無事なんですね?」

「もちろんです」

「それが一番聞きたかったです。行きましょう」

 前には三人、後ろには一人。逃すまいという意思が感じられる。俺は黙ってついていった。

 黒くて長い車がお目見えだ。座席は横乗りで、目の前にはガラスケースがある。グラスが横一列に並び、高そうなワインが陳列していた。

「途中でケータリングをご用意致します。食事をしながらワインを開けましょう」

「ありがとうございます」

 三十分ほど走らせ、どこかで車が停車すると次々と料理が運ばれてきた。けっこうもらっている俺の給料でも簡単に吹っ飛んでいきそうな、そんな味だった。けれど、ワインとデザートは喉を通らなかった。美味しくても、何かが足りないし満たされない。ついため息が漏れてしまうと横にいる男性と目が合い、ミネラルウォーターで嚥下した。

「数時間かかります。映画でもご覧になりますか?」

「大丈夫です。寝ます」

「では、毛布のご用意を」

 なんでもある高級車である。相撲が観たいと言ってもすぐに用意してくれるのかもしれない。

 まずは身体を休めるのが先決だ。目を閉じて車の揺れを感じていると、すぐに眠気がやってくる。

 身体を揺さぶられて目を覚ました。

「着きました」

 頭が重く、身体が怠い。額に手を当ててみると、車に乗る前よりも熱い。のろのろと降り立つと、そこは森の中だった。緑豊かな土地であり、どこからともなく小鳥のさえずりが聞こえてくる。飛び立つ瞬間に枝垂れた枝が揺れ、木の葉が揺らめきながら舞い落ちた。

「二月くらいになると、ミモザが咲き乱れます」

「ルイも見て育ったんですね」

「ええ。では参りましょう」

 相変わらず左右にがっちり固められての歩行だ。ここまで固めなくても逃げ場はないというのに。どこへ逃げたって方向感覚はない。

 しがらみの中、城とも呼べる屋敷が見えた。屋敷というより、城。太陽の光より、月明かりの方が映えそうというのが俺の印象。建てたばかりの建物より、これくらい古びている方が美しく感じる。二月ならば、ミモザに囲まれて花見でもできそうだ。カクテルのミモザはフランス生まれで、カクテル言葉は『真心』。

 出迎えてくれたのは、何よりも目を引くシャンデリア。赤いカーペットが目に入らないほど、煌びやかに光を放っている。俺にはやってくる客人を追い返す光に見えた。

 ルイは何度このシャンデリアに迎えられたのか。そのたびに俺と同じ気持ちを味わったのか。

 動き出しそうな甲冑に肩身の狭い思いがする。長い廊下を歩き、古めかしい扉の前で止まった。どれも似た作りだが、花があしらっていたりシンプルなものだったり、部屋に意味を持たせている。奥からはメイド服を着た女性が現れた。俺を見るや怯えた顔になり、足早に去っていってしまった。

「ディミトリ様がお待ちです」

「お迎えありがとうございました。ひとりだったら、ここまで来られなかったと思います。助かりました」

 いつもサングラスをしているが、なんとなくだけれど、俺には彼らの顔色が変わった気がした。これは池袋にいたときから、ずっと思っていた。ルイの話題になるたび、彼らは一瞬止まるときがある。

「あの」

「はい」

「ルイのことが、好きでしょう?」

 返事はない。一瞬の怯みも錯覚くらいだろう。

「ルイの話をすると、すごく優しい空気になります。そういうのってごまかせないんですよね。感情を閉じ込めようとすればするほど、漏れていきますから」

「……負けない気持ちを持ち続けて下さい」

「はいっ! がんばります!」

 彼らにできることは思いを誰かに受け継ぐことで、それができるのは俺だけだ。自惚れでもなく、俺はルイを必要とする人たちの全ての思いをルイに会って渡す。

 扉をノックすると、フランス語で返事が来たので、俺はフランス語で挨拶をして扉を開けた。

 優雅にソファーに座っているのは、まさしくルイの兄貴だ。顔が似ている。ルイは中性的でミステリアスな顔立ちだが、お兄さんは厳格の一言だ。隙がない。

「日本語で結構。座りなさい」

「はい」

 重低音の響く声は、溢れんばかりの威厳が突き刺さる。しっかりしろと、緊張で震える足をテーブルの下で叩いた。

「私のことは聞いているか?」

「は、はい……いろいろと」

「何と?」

「えーと……お兄さんがいて、フランス人で、えー……」

 盛大なため息を吐かれてしまった。さすがに「苦手」と言っていたなんて言えない。

「……墓守の家系に生まれ、あなたは後継者だと言っていました」

「その通りだ」

「なら、ルイは関係ないんじゃないんですか?」

 空気にひびが入ってしまった。話題が早すぎた。

「ベルナデット・ドロレーヌのことは聞いているな」

「はい。婚約者だと」

「家を守るため、血を絶やさず後世へ受け継がねばならない。お前も分かるだろう」

「え? ああ……そうですね。俺には姉がいますから」

 実家は造り酒屋だ。姉がいなければ、俺が継ぐことになっていただろう。

「彼女を捜すことが第一優先。なのにあいつはのらりくらりと交わし、捜す気があるのかないのか」

「ルイに運命を押しつけて、それはルイが納得しているんですかね」

「納得? そのようなものは必要ない。血筋を絶やさない、奪われたものを返してもらう。それだけだ」

「けど、ベルナデットさんが遺産を奪ったなんて証拠があるわけではないんですよね」

「疑わしきものは罰する」

 ぶれない姿勢は見習いたい。彼はかっこいい。アジアの言語にも精通していて、しかも発音が美しい。俺もフランス語を綺麗な発音で話せるようになりたい。

「でも、なんでルイの婚約者はベルナデットさんだったんですか? 名家だってのは聞きましたが」

「彼女の家は元々暗殺を生業とした家系だった。今は探偵業を行っている」

 勝手な憶測だが、そういう家庭に生まれた女性だから、ベルナデット嬢をルイの婚約者にしたというのは考えすぎか。

 恐る恐るでは気持ちが下がる。遠慮はなくし、聞きたいことを口にした。

「要は見張り役ってことですか?」

「そうだ」

 はっきり答えた。いいのか、俺なんかに話してしまっても。

 でも好都合だ。流れは俺に来ている。

 ずっと、池袋にいたときから考えていたことがあった。なぜ婚約者はベルナデット嬢だったのか。ルイの口振りからして、双方の想いが一致していたわけではないと悟っていた。

 もしかしたら、一縷の望みであっても、そこをつつけるのであれば、可能性はゼロではない。

「婚約者は彼女でなければならない理由はありますか?」

「どういう意味だ」

 ほんの少しでも、話の主導権は俺の手に回ってきた。メンタルも強そうな人相手に、こんなチャンスは二度と巡ってはこないかもしれない。

「一つ、提案があります」

 がちがちと奥歯が鳴りそうだ。頭は真っ白で、太股の内側に力が入る。

 扉が叩かれて入ってきたのは、先ほどと違うメイドだった。一度空気も変えようと、俺は背もたれに深く背中をつけた。

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