第31話 長いお別れにはまだ早い
ユーリさんは三杯目のお茶を入れた。お茶請けがなくなりそうな今、蜂蜜を垂らしたハーブティーだ。圧倒的に飲みやすい。
「ギムレット……ですか」
「間違いなく、ルイはそう言いました。ショートカクテルで、製法はシェーク。作っているところも見てたんで、間違いないです」
「花岡さんは、ギムレットのカクテル言葉をご存じですか?」
「カクテル言葉はほとんど分からないんです」
「数ある中からそれを選んであなたに振る舞った。これを花岡さんはどう受け取るのか。明日までの課題と致しましょうか。夕食は何か食べたいですか? 振る舞いましょう」
穏やかな笑顔の中に鋭く細い刃物が見える。ユーリさんはそういう人だ。彼に近づいたら、ルイにも近づけるだろうか。今日与えられた情報と課題が多すぎて、肉が食べたいとリクエストに応えてくれたユーリさんお手製の料理も、ほとんど味が分からなかった。
簡易ベッドに横になり、端末でギムレットについて調べてみた。ジンをベースとしたカクテルで、製法はシェーク。カクテルグラスを用いたショートカクテルだ。ここまでは間違いない。
材料はジンとライムジュースというシンプルなもので、ライムジュースの代わりにライムをそのまま搾ったものも使われるという。あのとき、ルイはライムジュースを使用していた。
問題のカクテル言葉なわけだが、心臓が止まるほど驚愕した。
──遠い人を想う。
──長いお別れ。
「は…………?」
持っていた爆弾は引火することなく、火は消えてしまった。やるせなさが残り、悲しみがじわじわと押し寄せる。
まさかとは思うが、これが言いたかったのか? ルイはカクテル言葉に想いを込めて、別れを告げたのか? だとしたらあまりにもひどい。ユーリさんはルイのことを弱虫だと言ったが、あながち間違っていないのかもしれない。
同時に、俺はルイに何かしてやれたのかと悔やむ。ルイのことをかっこいい人、憧れのお兄さんだと勝手にレッテルを貼り、奥にあるルイを見ようとしなかった。表面上のルイだけを見ようとしていた。ひどいのは俺ではないか。
枕を叩いて気持ちを静めたかったが、ユーリさんが寝ているためおとなしく布団に潜った。
初対面の人と同室で寝泊まりするなんて、変な感じだ。孤独ではないのに、孤独感を感じる。ユーリさんは、帰れとは言わなかった。ここに泊まることがさも当たり前だと、どちらのベッドを使うか聞いてきた。きっと、ルイは俺の身に起きた一連の出来事も話している。二人は今、連絡を取り合っているのだろうか。ルイは端末を仕える状況にないが、何らかの手段があるならば、ルイは俺よりもユーリさんに連絡をするだろう。
「……寝よう」
強烈な眠気に襲われ、重くなる瞼に逆らいはしない。
「さて、課題の応えを頂きましょうか」
朝食もユーリさんが作ってくれた。食後のお茶はコーヒーで、俺への気遣いだろう。ハーブティーよりも、コーヒーの方が落ち着く。
「昨日の夜、ギムレットについて調べました。カクテル言葉は『遠い人を想う』と『長いお別れ』。ルイの気持ちだったんでしょう。すぐに帰ってこられるか分からない、もしかしたら、二度と会えないかもしれない。そんな覚悟のカクテルだったんだと思います」
ユーリさんは黙って耳を傾けている。
「俺、決めました。ルイの実家に行きます」
「その流れで、なぜそうなるのですか?」
「考えすぎて、頭が痛くなって、おかげでぐっすり眠れました! よく考えたら、考えるだけ無駄なんですよ。ルイは俺を置いて実家に行った。ユーリさんには家の事情を話してほしいと言った。あいつは身勝手すぎます。残された者の気持ちを考えてない。なら、俺も勝手にさせてもらうだけです。実家に行きます」
「もし、会えなかったら?」
「会える保証はありません。でも、会えないとも限りません」
「ルイは自分の意思で戻りました。連れ去りの類ではありません。花岡さんの出番など、皆無です」
ユーリさんは、視線で穴を開けられるのではないかというほど俺を凝視した。こんなに長く人と見つめ合ったのは久しぶりだ。なんせ、いつも身近にいてくれたルイはすぐに目を逸らす。
先に目を逸らしたのはユーリさんだ。大きく息を吐いた。
「ルイは私の息子同然です」
「ルイの話から、そうだと思ってました。家族以上に、あなたの話が多かった」
「アルバイトを雇ったと聞き、初めは信頼できる相手なのか心配していました。あの子が選んだ子ですから、いつまでも子供扱いしていないで任せてみようと思っていました」
「俺はどうですか?」
「……不埒な男であれば、張り倒してやるつもりでした」
「ワァオ」
日本人らしからぬ反応が出てしまった。
「本来ならば、私が取り返したいところではありますが、バーテンダーなどという蛇足な道を与えた私はゲテモノを見るような目を向けられます」
「……ユーリさんは、歯痒いんですね」
「歯痒い? なぜそうなるのです」
「一番に駆けつけないのにどうにもならない。誰かを頼るしかない。大丈夫です。ルイと必ず会って、ユーリさんの想いも伝えます」
きっと、俺以上に悔しい思いをしているのは彼ではないか。息子同然の人を奪われ、何もできずに今はコーヒーを啜ることしかできない。優しくて、悲しみに溢れた人。
「実家の事情を俺に話してほしいとあなたに委ねたのは、勝手にいなくなる罪悪感が大きかったんだと思います。それと任せても大丈夫だと信頼できる相手はユーリさんだった。でもほんのちょっとでも、俺へのヘルプも交じってる気がするんです。無意識レベルの話かもしれませんけど」
ユーリさんは二度目の嘆息を漏らした。メモ帳を取り出し、フランス語を紙に並べていく。もう一枚は地図だ。
「私とも連絡先を交換しましょう。それとこちらはルイの自宅住所と、簡単な地図を書きました」
記されているのは、コートダジュールのマンドリュー・ラ・ナプール。カタカナ語すぎて頭が痛い。
「どっちも聞いたことがありますが……えーと、」
「コートダジュール地方。南フランスです」
「プロヴァンス地方とは違うんですか?」
「プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏。南東の海沿いの地域に当たります。ミモジストたちが住み、自然に溢れた街ですよ」
「カタカナばっかりなのは分かりました!」
後で調べよう。いちいち聞いていたら日が暮れる。
「話は代わりますが、大学はいつから始まりますか?」
「実はあと数日しか猶予がないんです」
「課題は終わっていますね?」
「はいっ。後期のテストはまだだし、休まず大学には行ってます。日数も余裕があります」
「優秀でよろしい。ならば今解決しなければならない問題はアパートのことです。おおよその事情は聞いていますが、阿呆なのはあなたも同じです。なぜ警察に行かない? ここにはルイがいない。簡潔に、本当のことを述べなさい」
「すみません。相手に逆ギレされて、店やルイに何かされたらって思ったら何もできませんでした」
「心底呆れますね。店の心配をする前に、自分の心配をしたらどうですか」
「自分の心配もしてます。けど、警察だけは止めて下さい」
「部屋の状況は確認していますが、今のところ誰かが入った形跡はありません」
「…………え?」
「ルイがカメラを仕掛けたのでしょう? スマホで見られるのですよ。便利な世の中ですね」
「お、恐れ入ります……」
まるでCIAやMI6の世界のようだ。スーツのボタンやネクタイに小型カメラがあるとテレビで観たことがある。
「動きがあり次第、こちらでも何らかの対処を考えます。一度戻りますか? 今なら私もついて行きますが」
「必要なものはありますから。ありがとうございます」
ストーカーもとい、重野カズアキは恐ろしい存在だが、この義理親子も大概だ。ふたりを見ていると心を強く持てる。勝ち負けの問題ではないが、負ける気はしない。
あの後、実は鍵を変えたのだ。変更にも勇気が要ったが、ルイの強いすすめが後押しとなった。
「フランスへ旅立っても、家の心配は私に任せなさい」
そう言うと、長封筒をテーブルに置いた。どこかで見た光景だ。
中身は、フランス行きのチケットだった。
「私は店を任されています。あなたがひとりで行かなくてはなりません。覚悟はおありですか?」
「はい。もう決めました。行くなって言われても行きます。電車の中でも、散々自問自答しましたから」
「フランスは日本語は当然ながら、英語が不自由な地域でもあります。田舎であれば、特に通じません」
「端末に翻訳機能のアプリも入れています」
ユーリさんは立ち上がると、俺に向けて一礼をする。
「どうかあの子を、お願いします」
ぽかんと口を開けてしまい、俺は慌てて立ち上がると彼よりも頭を下げた。
昨日、あれだけ行かせまいとしていた態度が嘘のようだ。いや、実際に嘘だったのだろう。厳しい言葉を並べて俺の覚悟を強くし、呪縛から解き放ってほしいと誰かに託したかったのだ。息子同然の子を誰かに託すなんて、身の引き裂かれる思いのはずだ。俺にできることと言えば、ルイの無事を確認することと彼の好きなハーブティーを入れることくらい。缶に手を伸ばしたら、笑顔で手の甲を押さえつけられてしまった。分かりました、おとなしくしています。
コーヒーの次は彼お手製のハーブティーでまったりとした時間を過ごした。東北に帰ってからもバタバタとした日々で、時間に追いかけられていた。久しぶりに時間を支配した一日だった。
ユーリさんは俺とルイの想い出を聞きたがった。出会いを話すと、そこはルイは触れていなかったらしく、彼は無言で薄い笑みを浮かべた。笑っているのに、妙な緊張感がある。
俺もルイとユーリさんの想い出話を聞きたかったが、笑うだけで誤魔化されてしまった。代わりに、カクテルについていろいろと教えてもらった。中でも盛り上がったのが、カクテルのアイ・オープナーに使われる薬草系のリキュールであるアプサントについてだ。ルイは『アプサント』と発音しているが、フランス語読みらしい。英語の発音だと『アブシンス』。画家のゴッホやピカソも魅力に取り付かれるほど愛されたアルコールだ。
原料のニガヨモギには幻覚作用があり、一時的に販売を休止するほどだった。ツギョンという成分が幻覚や錯乱などの症状を起こしてしまい、今は規定があるためそのような心配はする必要はない。
前にルイはバーテンダーに興味を持ったアルコールの一つだと話してくれた。それをユーリさんに伝えると、昔を懐かしむ顔で笑った。ユーリさんは、哀愁感が似合う。
彼の声を聞いているうちに、俺は眠くなってしまった。船を漕ぎ始める俺の身体に暖かなものがかかり、ボンヌニュイと耳元で聞こえた。
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