第19話 ライバル出現?

 地下に下りて控え室のドアノブを掴むと、フロアから何やら争うような声が聞こえた。微かだがルイの声も聞こえる。鞄も置かずに俺は体当たりをする勢いでフロアの扉を破った。

「なっ…………」

 男性に壁に押しつけられ、肩を掴まれているルイがいる。緊迫した状況なのに、ルイは少しも焦っていない。どういう状況なのだ。ひとまず二人の間に入り、ルイを後ろへ追いやった。

「お前は……」

 男性は俺を見て睨み、今度は俺の肩に掴みかかろうとした。

「やめろ」

間一髪、ルイが間に入ってくれたおかげで掴まれずに済んだが、見覚えのない男性からこんなことをされる筋合いはない。

「誰ですか、あなたは」

「俺のこと忘れたのか? 俺はお前を覚えている」

「………………あ、」

 今週会ったじゃないか。コーヒーチェーン店で。俺は平川さんの恋愛相談を受けていて、別の席でルイと共にコーヒーを飲んでいた人だ。まだ開店していないし、ルイが招き入れたのだろう。

「ルイ、こんな男のどこがいいんだ? 貧乏そうな顔して、まだ子供じゃないか」

「貧乏って……大学生ですけど、二十歳は超えてます。貧乏ですけど」

「とてもそうは見えない」

「見えなくても、超えてるものは超えてるんです」

「カクテルは作れるのか?」

「作ったことはないですけど……」

「じゃあなんでルイの側で働いてるんだ? どこで出逢った?」

「新宿で……」

「花岡」

 遮られてしまった。話が見えてこない。

「少しは気があるから入れてくれたんじゃないのか?」

「お前が店の前でわめき散らすから入れただけだ。私はこれから仕事であり、無料ただでお前の相手をしている暇などない。意味は分かるな?」

 先ほどまでの騒ぎようはどこかへ行き、男はおとなしくカウンター席に腰を下ろした。

「なんでもいい。カクテルを」

「かしこまりました。花岡は鞄を置いてエプロンを」

「あっはい」

 何のカクテルを作るつもりなのか。見たいけれど、控え室に戻り急いで支度を済ませた。

 カウンターには赤い液体が入ったグラスが置かれている。

「アメリカーノでございます。カンパリというリキュールとスイート・ベルモット、ソーダを用いたカクテルで、製法はビルドとなります」

 席に座る男性への説明というより、フロアに入ってきた俺に対して向けられたものだ。

「スイート・ベルモット?」

「ベルモットはヴァームースともいう。スイート・ベルモットはイタリア発祥のワインで、イタリアン・ベルモットとも呼ばれている。香草などが入ったワインだ」

「ワインなんだ。スイートじゃないベルモットもあるの?」

「ドライ・ベルモットもある。フレンチ・ベルモットとも言われている」

「ドライはフランスな、覚えておくよ」

「そんなことも分からないのか、貧乏大学生が」

「勉強中です。いつもルイが優しく教えてくれるんですよ。貧乏ですけど」

 グラスの中の氷が崩れ、夏の音を立てた。もうすぐ氷が入った炭酸が飲みたくなる季節になる。

「お客様、おつまみはいかがでしょう?」

「いらん。ルイ、二人で店を開こう。なんでこんな役立たずを入れた?

「役に立つかどうかは、私が決めることだ。それに公私混同はいかがなものかと」

「俺は……お前のことが心配で……」

「心配など必要ない。今までもうまく立ち回ってきている」

「心配? ルイに何かあるのか?」

 男性は一気にアメリカーノを飲んだ。飲むというより、浴びるように胃に叩き入れた。グラスに残るのは氷だけ。

「ルイのどこが良かったんですか? ほんの少し事情は聞いたんですけど」

 男は俺を睨み、新しいカクテルを注文した。またお任せらしい。

「こんな美しい人が横にいて、お前は何も思わないのか?」

「いや、思います。見惚れてグラスを落としそうになることもあったし」

「花岡、グラス」

「オッケーです、店長」

 カウンターの中に入り、飲み終わったグラスを水につけた。タンブラーの背丈を縮ませた、オールド・ファッションド・グラスだ。

 ルイはウォッカと何かと何か、氷をシェイカーに入れ、振った。カクテルグラスに注がれたのは、黄色っぽい液体だ。

「ウォッカ、ベネディクティン、ビターズを混ぜるとできる」

「一から説明を頼む……カタカナばっかりじゃん……」

「ベネディクティンは世界最古の歴史を持つ薬草系のリキュールだ。フランスで作られている」

「例の如く、あれは入ってないよな?」

「お前の言う物体Wも入っていない。一五一〇年に、ベネディクト修道院で作られたのが始まりだ。ビターズはカクテルの香りや色づけに使用される。植物の根や香草をつけたアルコールで、このまま飲むものではない」

「飲んだらどうなるの?」

「むせび泣く。それか心臓が口から出る」

「よく分かったよ。やっぱりおつまみは頼んだ方がいいと思うなあ! 耳から肺が出るかも」

「…………チーズの盛り合わせ」

「かしこまりました」

 ルイの恭しい礼と俺のガッツポーズ。見事なコンボが決まった。カクテルの一つも作れないアルバイトだって、たまには役に立つのだ。

 俺はチーズを切りながら、今作ったカクテルの名前を聞いた。

「ジプシー」

「ジプシー? 民族でいなかったっけ?」

「今はあまり使えない言葉だ。海外だと、差別用語として見なされる場合がある」

「これから飲むんだぞ! そんな話をされては飲みづらい!」

「あ、すみません」

 先ほどとは打って変わり、男性はゆっくりとカクテルグラスを傾けている。チーズを盛りつけた皿を置くとまたもや睨まれ、無言のまま手を伸ばした。

「ええと……」

「有馬だ」

「俺は花岡です。有馬さんもバーテンダーなんですよね?」

「そうだ。有楽町のバーで働いている」

「ルイとどこで出会ったんですか?」

「俺の店に来たんだ。MOFが来ると聞いて、ずっと待ちわびていた。まさかこんなに若くて美しい人が来るとは夢にも思わなかった。俺は一瞬で目を奪われた」

「エムオーエフ? なにそれ」

「は?」

 俺の切ったチーズがぐにゃりと曲がる。未だにチーズの名前は覚えられないが、あれは間違いなくカマンベールチーズ。

「まさかそれすら知らないでルイと一緒にいるのか?」

「ええ……そんなすごいやつなんですか?」

「国家最優秀職人章。取ろうと思っても取れるもんじゃない。いろんなバーに足を運んで、カクテルの作り方を教えてくれているんだ。彼の作ったカクテルが飲みたくて、予約までする客も多い」

 普段何をしているのだろうと思っていたが、これで合点がいった。月曜日から木曜日はバーを巡り、金土日はエレティックを開く。店が週に三日しか開かないのではなく、開けないのだ。

「君は週に三回のバイトを?」

「週によりけりです。土日だけのときもあるし、金土日連続で入るときもあります、そんなにすごいんならこの店ももっと繁盛してもいいのに」

「ルイは言っていないんだよ。味を好きになった人に来てもらえればいいとか言って」

 こんなすごい人と一緒に仕事をしていたのか。触れられるのは嫌そうだが、後で肩でも揉んでやろう。

「ルイ、せめて俺の腕前を見て、一緒に店をやるか決めてくれないか?」

 余裕綽々というか、ルイの気持ちが読めない。まさか店を畳むとか言わないだろうが、何かが俺の中でへし折られる音がする。

「有馬の店に行けと?」

「七月にイベントがあるだろう?俺たちも出すんだ。ぜひ来てほしい」

「イベントって?」

「全国から腕のあるバーテンダーが集まるイベントだ。一般客にカクテルを飲んでもらい、投票で一番美味かったものを決める。見栄え、味、そして総合。酷評もされるがシンプルにお客さんに選んでもらうからこそ、やりがいもあるし注目も浴びる」

「なんか肉フェスみたいだな」

 そろそろ俺は黙った方がいいのかもしれない。怒りの沸点に触れてしまいそうだ。有馬氏のこめかみの辺りがひくついている。

「前に飲んでもらったときより、俺は格段に上手くなった。俺はルイへの愛をカクテルで表現する」

「ルイはイベントに出ないのか?」

「出ない」

 しれっと言うが、MOFなんていうすごい称号を持っているのに、もったいない気がする。

「ルイ、もし俺が優勝したら、正式に俺と付き合ってほしい。そして一緒に店をやろう」

 確固たる意思のこもった眼差しで、ルイを見つめる。

「そしたら、君も雇ってやろう」

 腑に落ちないが、彼は悪気も毒気も撒き散らしているわけではないのだ。そう見えてしまうのは、ひとえにルイへのまっすぐな想いがあるからで。

「俺、興味あるなあ。ルイ以外のバーテンダーってあまり知らないからさ、行ってみたい。お酒飲むのも好きだし」

「ほら、バイト君もそう言ってるし」

 有馬氏はルイしか視界に入っていないが、今のルイも同様に俺しか視界に入っていない。出ては排水溝に流れる水も忘れられ、俺はレバーを落として水を止めた。

「分かった。ただし、条件はある。有馬の結果がどうであれ、今の気持ちとしては私はお前を好きになることはない」

「なっなぜだ……」

「現段階、男性が恋愛対象となった経験がないからだ。例え優勝しようと、目に見えぬ気持ちを賭けの対象にしようなどと、暴挙にしか思えない」

「相変わらず日本語上手だなあ」

「光栄だ。それと優勝を狙うのなら、自身のために戦え。それだけで人は誰の目にも魅力的に映る」

「分かった! それならルイが俺を好きになる可能性はあるということだな!」

「そうだな。可能性はゼロではない」

 有馬氏が単純なのか、はたまたルイが乗せ上手なのか。相乗効果のもたらしたものは、平行線を辿る世界だ。お金を支払った後、俺に「絶対に負けないからな」と言い、俺は「頑張って下さい!」と太陽にも劣らぬ笑顔で返した。自分で言うのもあれだけど、ちょっと恥ずかしい。自画自賛。

 なのに有馬氏は、地吹雪みたいな氷ついた顔をしてドアを閉めてしまった。なんてこった。

「俺の笑顔が行き場を失ったよ……」

「火に油を注ぐからだ」

「なんで? 応援したのに」

「……………………」

 ルイにも笑ってみた。しかめっ面をして、開店の準備をしろと言われてしまった。なぜだ。

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