第15話 無関係と攻防戦

 つけられていると脅しめいた話を言われたときにはどうしようかと思ったが、今のところは平穏に過ごしている。

 朝食を食べながらテレビをつけると、新宿のバーに警官が入り込む様子が映し出された。身に覚えのありすぎるバーに、ピザトーストが喉から胃に落ちていかない。よく冷えた牛乳で流し込んだ。

 最近、ピザトーストにはまっていて、ここ数日は同じメニューだ。作り方は簡単で、食パンにピザソースを塗り、玉ねぎとピーマン、チーズをかけて焼くだけだ。こんな簡単な料理だけれど、あえてコツを言うとすれば、乗せる野菜を薄切りにすることくらいだ。

 食事の後は学校に向かい、講義を受け、今日はまっすぐ家には帰らずに寄り道の日だ。

 学生だってストレスは溜まる。鬱憤を晴らすためと、鈍った身体を動かしたく、ジムでステアクライマーに乗った。昨日の梅酒と和食を消費しなければならない。あれは美味しすぎた。

 一時間ほど身体を動かした後は、家に帰るだけ。理想的で普通の学生だと思う。代わり映えのない日常にだとぼんやりしていたときだ。ジムを出てコンビニの前を通ろうとしたとき、耳にダメージを与えるほどの声がした。女性の甲高い声は身体を動かなくさせる。近からず遠からず、向こうのコンビニからだ。

「その人、捕まえて!」

 我に返り、反射的に身体が動いた。ドラマから出てきたような、かえって目立つ黒ずくめの男は、女性ものの鞄とショルダーバックを背負っている。俺を見ると一瞬たじろぎ、反対方向へ全力で駆け出した。

 ジムの後なのか、足はよく動いた。コンビニの店員は強盗だと通報してくれていると信じて、俺は走るだけだ。

「待て!」

 大声で呼ぶと、外にいる人からも注目を浴びる。路地裏に逃げる男を捕まえようとするも、すんでのところで逃がし、転びそうのなりながら地面を蹴った。

 手を伸ばすと、数ミリ先に黒いパーカーだ。フードを引っ張ると男は唸り、後ろに崩れ落ちた。酷使した足が膝から落ち、俺がアスファルトに投げ出されるのと同時だった。

「いい加減観念しろ」

 サングラスを奪い取る。俺は固まった。居心地悪そうにそっぽを向き、息を切らす男に見覚えがあった。

「…………河野」

 小学校時代のクラスメイトだった男子だ。顔も体格も髪型も変わっているのになぜ分かったかというと、口元と目元に大きな黒子があったからだ。一致する人などほとんどいない。外見的特徴は、声よりも記憶に残りやすい。

 河野は俺に気づき、志樹と掠れる声で名を口にした。

「河野だよな? なんで……」

「離せ」

 掴んだ腕を振られ、とっさに腕を構えた。ボクシングの癖だ。背後では正義の味方であるサイレンが鳴り、河野は俺の後ろを見て舌打ちをした。

 先に動いたのは河野だった。女性から奪ったであろうバックを俺に投げ、隙を見て狭い路地裏を走っていく。待てという言葉も虚しく、彼には届かなかった。残されたサングラスは何かの衝撃で割れたが、汚れてはいるが中身のバックは無事そうだ。俺の腰は痛みを背負う。

「大丈夫ですか?」

 二人の警察官が駆け寄り、俺は無言で鞄を差し出した。

「手を貸しましょう」

 犯人だとは疑われていないようだ。壊れたサングラスは犯人のものだと告げ、差し出された肩を借りてパトカーに座らせてもらった。

 警察官が何か言っている。頭に何も入ってこない。まさか、こんなことになるなんて。

 義務教育の計九年間を共にした人で、小学生の頃は四年間、クラスが一緒だった時期がある。クラスのガキ大将で、良くも悪くもあいつはいつもクラスの中心にいた。

「こうの? もしかして顔を見た? 知り合い?」

 口にしていたようで、俺は顔を上げた。居座る場所ではない世界から現実に引き戻され、心配そうな警察官の顔がある。例え嘘の優しさであっても、今の俺には有り難かった。

 膝の上で拳を作り、口を開いた。英雄気取りの自分自身に失笑し、滑稽だと乾いた笑いが漏れた。


「あ」

 声を出すくらいなら手を出せ、と数秒前の俺に言ってやりたい。グラスを割るのは二度目だが、フロアに派手に散ってしまった。

「ごめん」

 お客さんがいない時間帯で良かった。後は片づけだけだが、仕事を増やしてしまった。欠片を片づけていると、ホウキとちりとりを持ったルイがせっせと片してくれる。

「何かあったのか?」

「え? 何も?」

 黒に近いアンバーアイがこちらを見てくる。

「妖精って目が琥珀色なんだな。琥珀って、樹脂の化石だっけ? 長い年月美しいままなのか、成熟されて美しいのか分かんないけどさ、ルイって十年経っても二十年経っても美しいんだろうな」

「この後の予定は?」

 見事なスルーだ、華麗に決まった。

「ごめん、今日はちょっと」

「こんな遅い時間にか?」

 訝しまれても仕方ない。

「たまには俺だって夜更かししたいときもあるよ。二十歳超えたし」

 ふたりでフロアを片し、控え室に戻った。着替えの合間にテレビをつけると、コンビニ強盗のニュースが報道されている。銀行強盗といい、強盗と縁のある人生を送るとは夢にも思わなかった。

「河野……」

 まだ捕まっていないようで、報道では最低限の情報しか公開されていない。身長はあまり伸びなかったようで、俺より十センチほど低い。昔と違い、彼の方が子供のようだ。

 隣でルイは黙ってテレビを観ている。ふと、目が合った。

「遅くなるなよ」

 親みたいな発言に、けっこうくすぐったさを感じる。過去を振り返っても、言われた経験はあまり思い出せない。

 裏口と表口の鍵をしっかり掛け、あまり会話のないまま暗い路地を歩いていく。大通りに出れば車の行き来は多いが、あまりひとりでは歩きたくない道だ。

「じゃあ……また」

 最後であるわけがないのに、なんだか今日は名残惜しい。池袋駅では、男女の恋人同士が抱き合い、顔を寄せ合って囁いている。

「お前もああいうことをしたいのか?」

「人目も憚らずって? いつになったら経験できるんだろうなあ!」

 投げやりに笑うだけにしておこう。俺もいつか、人目を気にせず抱き合わせるような相手ができるのだろうか。抱きしめられた経験自体、祖母以外はない。愛する人ができたら、視線なんてどこ吹く風で愛を真っ正面から伝えたい。今は愛されたい欲が勝っていても、きっと大事な人ができたら愛したい欲で埋もれる。

「無茶はするなよ。絶対に」

 とんでも発言を残し、ルイは恭しく一礼をした。決まりすぎていて二人の世界だったカップルの視線も奪ってしまう。ルイは人混みの中へ消えていった。今生の別れではない。また来週会える。人を見送るのが苦手でも、名残惜しくてずっと見ていたかった。

「…………よし」

 まさか、これからのことを知るわけではないだろう。別れ際の言葉が引っかかる。俺は十条へは戻らず、新宿に向かった。この時間に上り線は人が少ない。帰りは地獄だろうけれど、いろんな意味で無事に帰れるかどうか、心臓が暴れ出す。

──いつになったら来てくれるんだ?

──藩宰公園で。

 よりによって前者のメールは、心臓にさらに負担を強いられた。特殊清掃員は辞め、繋がりは無くなったと俺の認識だ。彼は……違う。

 後者のメールに従い、住宅街まで歩き、一角にある公園内に入った。アルバイト前にルートをメモして来たため、入り組んだ道でも迷わなかった。入った途端、すぐにもう一通来た。

──青い屋根の一軒家に。

 どこかで見ているんじゃないのか。端末をポケットにしまうと、指定の家に足を進めた。

 警察官の目にも留まらないような普通の家なのに、地獄の門を叩く気分だ。大きな息を吐いて、俺はインターホンを押した。

──はい?

 俺は顔を歪めた。聞こえてきたのは、男性どころか女性の声だ。

「あの、こちらは河野翔君のお宅でしょうか?」

──ええ……そうですよ。翔のお友達? ちょっと待ってね。

 このご時世に警戒心が欠けているのではないか。優しそうな老婆の声が途切れ、ドアが開いた。

「翔から友達が来るから、相手をしてほしいって言われているのよ。ごめんなさいねえ、あの子は急遽仕事が入って、出て行ってしまったの」

「そうですか……」

「どうぞ、お上がり下さい」

 可愛らしいおばあちゃんって感じだ。頭の中に菩薩が浮かんだ。怒るイメージがちっとも湧かない。

 リビングに通してもらい、ソファーに座るよう促される。こじんまりとしているが、西洋風の家だ。壁には絵画が飾られ、見たことがあるひまわりの絵もある。ほとんどが風景画で、植物の絵が多い。

「緑茶は苦手?」

 出してくれたお茶請けは、湯気の立つ緑茶とどら焼きだ。それぞれの文化を愛する人がいる世界は、とてつもなく平和だ。こちらまで笑顔になる。

「ありがとうございます。好きです。ばあちゃんの家でも、和菓子をよく出してもらったんですよ」

「あら、そうだったのね」

 おばあさんも向かいのソファーに腰を下ろす。

「さて……孫とは、小学生の頃からの友人だと聞いているのだけれど」

 テーブルの下で、落ち着けと拳を作った。

「ええ、そうですね。同じクラスだったときもあります。中学校も一緒でした」

「ご迷惑をおかけしていないかしら? あの子は元気いっぱいだから」

 無遠慮に愛情を向ける人からすると、元気いっぱいと捉えるのか。どこの家庭もそのようなものだろう。

「なぜ、河野君はここに? 実家は東北でしょう?」

「ええ……地元の大学に入ってたんだけど、いろいろあったみたいなのよ。今で言う……その、」

 お茶を一口もらった。喉が渇き、砂漠と化していた。

「いじめ、というのかしら。大学に入ってから誰にも相手にされなくなって、同じ学校だって友人からも見向きもされなくなったって」

「お孫さんがそう言っていたのですか?」

「人伝に聞いたのよ。あの子は言わないわ」

「いじめがあるなんて、家族には言えません。そんなの格好悪いし、小さなプライドが邪魔をするんです。心が成長途中だからこそ、早く大人になりたくて言えません」

 おばあさんは一瞬だけ、真顔になった。射抜く目は、良く知る男を思い出す。少しも似ていないのに。別れた後ろ姿は今も焼き付いている。ちゃんとお風呂に入って寝ているだろうか。

「地元は小さな田舎町でしょう? スーパーに行ってもコンビニに行っても知り合いとすれ違うみたいで、あなたのいう、小さなプライドがあったんでしょうね。こんなところに留まりたくないと駄々を捏ねて、私の元に来たのよ。あなたは、どうしてここに?」

「行きたい大学が、関東にあったんです」

「あら、そう。お友達同士、偶然ってすごいわね」

 拳を作った際、肉に爪が食い込んで痛みが出た。

「ええ……本当に」

「あの子はね、本当は根はいい子なのよ。ちょっと元気すぎるんだけど。どうかこれからも、仲良くしてくれたら嬉しいわ」

 出かかった声は、おばあさんの優しい顔に何も言えなくなってしまった。

 伝えたいことはあるのに、口内に溜まったものを嚥下し、どうしても吐き出すことができない。呪いにかかったような、喉を首輪で締められたような、見えない何かがのしかかる。

 「また遊びに来てね」と言われ、俺は「ありがとうございます」と雰囲気をぶち壊さないごまかしの言葉で頭を下げ、お暇した。初めて、お暇しますなんて口にした。日本人よりも日本語が達者なフランス人と一緒にいると、少しずつだが社会人として必要な知識が身についていく。

 美男子のことを思い浮かべながら家を出ると、まさかの人物が塀にもたれ、待ち構えていた。俺を見るなり塀から身体を起こしたところを見るに、待ち人は俺らしい。こんな色男を待たせるなんて、俺も罪な男だ。

「……どこの国の俳優さんですか」

「馬鹿者。行くぞ」

「え、なんでいるの?」

「話は後だ」

「え、え?」

 フランス人モデルは池袋駅で別れたときと同じ格好のままだ。違うのは、いつものキャリーケースを引いていない。

「ルイ、荷物はどうし……」

 声が裏返りそうになった。大きい道路に出ると、サイレンを鳴らさず角を曲がるパトカーとすれ違う。悪いことをしていなくても、パトカーを見ると身体を固くするのは仕方のないことだ。

 何か条か項目があって、数個該当すれば警察官は声をかけるというが、家を出て数分で職務質問され、五十メートル先でも職務質問される人もいる。俺たちは当てはまらなかった。

 長い髪に引かれ、ルイの後ろ姿を追いかけた。常にルイのハニーブロンドを引き立てている水色のリボンも、歩く度に揺れている。

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