4 胡椒とくしゃみと目撃談

「待ってくださいな。一気に話したら喉が渇いてしまうわ。お茶とお菓子をお出しして」


 夫人が命じると、石のようにかたい表情をしたキッチンメイドが紅茶を淹れた。


 茶葉や砂糖は高価なため、来客を持て成す紅茶は夫人がまかされることが多いが、シャロンデイル公爵家では違うようだ。手のかかる赤ちゃんがいるからだろう。


 私が紅茶の好みを聞かれている間にも、ダークと公爵の会話は弾む。


「俺は婚約者と離れたくなくてロンドンに残りましたが、公爵殿下もいらっしゃるとは驚きました。領地での鹿狩りを楽しみにしているとうかがっておりましたので」

「あいにくと、仕事が立て込んでいてね……」


 公爵は、背もたれにぐったりと体を預けた。


「テムズ河の上流から下流まで、遊覧船を走らせる事業の準備をしているんだ。渡し船の船頭との交渉が難航しているが、まあ何とかなるだろう。そちらの調子はどうだい」

「おかげさまで好調ですが、殿下のように維持費が莫大にかかる船を使った事業には、とても手が出ません」


「それが懸命だ。挑戦したくなったら、話の分かる保険屋を紹介するよ。わたしはロイズに知り合いが多いんだ」

「保険といえば、結婚を機に生命保険への加入を考えていたのです。最近、ロンドンも物騒になりましたから。『切り裂きジャック事件』も起きましたしね」


(来た!)


 私はきゅっとスカートを握りしめた。シャロンデイル公爵家に来たのは、『ジャックが事件現場の近くにいた』という公爵の証言について確認するためだ。


 公爵も取り上げたい話題だったらしく、堰を切ったように話し出した。


「事件は解決したそうだよ。何を隠そう、容疑者を目撃したのはわたしでね。不自然に服を着崩した青年が裏路地から出てきたので、不審に思って見に行ってみたら人が殺されていたんだ。すぐに警察を呼び、ドードー警部に特徴を話したらスピード逮捕だ。犯行声明と同じ『ジャック』という名前の青年だった」


「お手柄でしたね。ドードー警部も、よく容疑者を確保できたものです。ジャックという名の人物など、このロンドンには星の数もいるはずなのに」

「犯人は、手に包帯を巻いていたんだ。ドードー警部には『犯人は手に怪我をしていたようだ』と伝えたんだよ」


「それは不思議ですね?」


 ダークは、動かずして容疑者を追い詰める探偵のように、ゆったりと手を組んだ。


「事件現場はガス灯のない路地裏。事件が起きた夜は曇り空で、月も出ていなかった。犯人は闇に紛れて歩いていたはずです。服装や手の包帯といった子細を覚えていらっしゃるなんて、公爵はよほど夜目が利くのでしょうか」


 私がはっとして見ると、公爵は挑戦的な目でダークを見ていた。


「……その晩は、ランタンを持って歩いていて、すれ違いざまに犯人の様子が見えたのだよ。それにしても、君の婚約者は美しいな。赤い髪だという噂は耳にしていたが、実際は話に聞くよりも見事だ。染め粉で色をいじる若者もいるが、天然の色味にはかなわないね」


 公爵はあからさまに話題を変えた。突かれたくない証言だったようだ。


(怪しいわ。公爵は嘘をついているんじゃないかしら……)


「レディ・リデル。どうぞ」

「あ、ありがとうございます」


 メイドから押しつけるようにティーカップを渡された。うっかり会話を途絶えさせてしまったが、公爵夫人は赤ちゃんを「よしよし」と可愛がるのに夢中だ。


「スージー様。お子様はいつお生まれに――む?」


 鼻がむずっとして私は言葉を切った。刺激的な香りがするテーブルを見ると、カバーが外された大皿に焼きたてのマフィンがのっている。


 湯気にのって、胡椒の香りが立ち上ってくる。スパイスを使ったお菓子は英国では一般的だが、ちょっと入れすぎではないだろうか。


「はっくしゅん!」


 耐えきれなくて、大きなくしゃみをしてしまった。貴族令嬢にあるまじき失態だが、刺激物を前にした人体はあまりにも無力だ。


 私は、赤くなった鼻をハンカチで押さえる。


「ずびばぜん(すみません)」

「お気になさらないで。我が家のお料理は、旦那様の好みに合わせて胡椒をたくさん使っていますのよ。急いで他のお菓子をお出しして」


 公爵夫人の命でお皿が差し替えられたが、円を描くように盛られたクッキーにも胡椒が練り込まれている。追い打ちをかけられた私は、さらにくしゃみを連発した。


「はっくしゅん、はっくしゅん、はっっっくしゅん!」

「ここの空気は俺の婚約者には合わないようですね。アリス、そろそろお暇しようか」


 涙目の私を見てダークは立ち上がった。公爵夫人が見送ろうとするのを丁寧に辞したダークは、公爵に明るく笑いかけた。


「シャロンデイル公爵。また切り裂きジャック事件についてお話を聞かせてください」

「いつでも来るといい。今度はもっと長く話ができるように、口元を覆うスカーフを用意してね」


 公爵は含みのある表情で答えた。くしゃみを抑えるのに必死な私は、その顔から公爵の意図するところを想像できなかった。

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