9 さようなら少女探偵


 すがりついてきたティエラを、ダークは笑顔で引きはがした。


「高価なドレスやアクセサリーなんて、身の潔白に比べれば価値がないものです。俺が知っている女性は、イーストエンドで暮らしたことはあっても貴族としての誇りを失わなかった。彼女のように自分を律する心を、俺は何よりも美しいと感じます」


 ダークが私を見て、愛おしそうに瞳を細める。

 こんな状況だというのに、私の胸は甘くうずいた。


 それを目にしたティエラは、きゅうっと唇を噛んで手を握りしめる。

 自分がおかした過ちに、ようやく気づいたらしい。

 

「先ほどレディ・リデルが言ったように、貴族は信用主義なのです。俺は名ばかりの伯爵ですが、違法雑誌のモデルをつとめる女性とは距離を置かなくては――」

「何が信用主義よ!」


 ティエラは、扇でダークの頬をバシンと叩いた。


「あんな過去を持つあなたが、そんなこと言えて!? わたくし、知っているのよ。あなたが令嬢たちに憧れられるような人間ではないってことを……!」


 衝撃でわずかに横を向いたダークの顔から、一切の感情が消えた。

 きゅっと引き結んだ口にも、わずかに下に向けた目にも、いつものダークの優しさはなかった。


 感じるのは、透き通った氷柱つららのように鋭く、崖下から吹きすさぶ海風のように容赦ようしゃない激昂げっこうだ。


 怒っている。私が今まで見たことのないくらいに。

 あまりの恐ろしさに、私も、そしてティエラも声を出すことができなかった。


「ティエラ様、大変です!」


 そのとき、小太りの警官が新聞を持って部屋に押し入ってきた。

 刷りあがったばかりらしく、乾ききらないインクの匂いがする。


「署長の横領が新聞にのりました。大勢の記者がつめかけて大混乱です!」

「どうして新聞にのったのよ! 伯爵さまはまだ判事には知らせていないはず――」


 ティエラは、はっとして私を睨みつけた。


「いったい何をしたの、アリス・リデル!」

「人聞きの悪い言い方をしないでくださらない。私は何もしておりませんわ。新聞社の応接室で、伯爵様と横領について話していたのを聞かれていたのでしょうね」


 私がダークと共に新聞社をおとずれたのは昨日のことだ。


 事実確認をせずに『ナイトレイ伯爵とティエラの婚約話』を記事にしたことを指摘すると、社長まで出てきての謝罪になった。

 そこで『横領の告発』の話をしたところ、まごつくことなく記事は完成した。

 

「私は、記事にするように依頼も命令もしていませんわ。それに、あなたが違法雑誌のモデルをしていたことまでは話しておりません。これから自分の生き方を正せば、穏やかな幸せには手が届くと思いましてよ」

「なにが穏やかよ! めちゃくちゃにしておいて!!」


 ティエラは、警官が差していたサーベルを抜いて、私に斬りかかってきた。

 太刀筋が遅かったので、体を反転させてよけると、私が立っていた場所に鋭い剣先が突き刺さる。

 ティエラはなお、凄みのある顔を私に向けた。


「全部、あんたのせいよ! 殺してやる、アリス!!」


 床から引き抜かれた剣が、私の顔に向けて振り下ろされる。

 だが、今度は避けなかった。刀身に金属チェーンがぐるぐると絡みついて、動きを止めるのが見えていたからだ。


「あぁら。うちのお嬢に傷をつけたら、八つ裂きじゃすまないわよ?」

 

 止めたのはリーズだった。

 腰に回していたチェーンベルトを抜いて武器にしている。

 リーズがチェーンを引いて剣を奪いとると、得物をうしなったティエラは床に崩れ落ちた。


 私は、ふっと息を吐いた。

 顔を下に向けると、自分の影がやけに濃くなっているのに気がつく。

 影は、風に吹かれた池の水面のように、さざめきたっていた。


(これは……?)


 考えている間に、影は高速で広がって、薔薇の紋章を描き出した。


(まさか烙印スティグマ!?)


 リーズの舌や、ジャックの手の甲に浮かび上がるのと同じ図案は、私を中心に円く広がってティエラの足下まで届いた。

 そして、彼女の体を飲みこみはじめた。


 急に体が沈んだので、ティエラの顔から血の気がひく。

 ずぷずぷと床に吸いこまれていく様は、まるで底なし沼にはまったかのよう。

 

 怖ろしい事態に、令嬢たちは我先にと部屋の外へ逃げだした。

 残された私は、ぼう然とティエラを見つめるよりない。


「助けて! もうこんなことしないから、ゆるしてっ!」


 半狂乱になったティエラは、ほどなく頭まで飲みこまれた。

 すると、烙印は収束するように縮んで消えた。


 床は先ほどまでと変わらない。だが、ティエラの姿は忽然と消えてしまった。

 事態を見ていたリーズは、ひゅうっと口笛を鳴らした。


「アタシ、お嬢の烙印スティグマの能力を初めて見たわ。あんなにすごい力を持っていたのね!」

「え、ええ……。強力だから隠していたのよ」


 それきり、私は口を閉じた。

 ドクドクと心臓がうるさい。居心地の悪さを感じて視線をめぐらせると、離れた場所からダークがなりゆきを見つめていた。


(どうか気づかないで)


 私は、惨劇の夜にシャンデリアに貫かれた場所を無意識におさえる。


 これは『彼』との秘密だ。

 そして、悪魔の子として生きる私が抱える罰でもあるのだから――。



† † †



 のちに、ティエラはテムズ川に瞬間移動していたと発覚する。

 川の中ほどで溺れていた彼女は渡し船に助けられたが、それから目を覚ますことなく新たな『眠り姫』に加わった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る