2 誰も知らない婚約
ダークの手を引いたのは、ティエラだった。
間近で見る彼女は、うるうるした垂れ目が印象的な少女だ。全身に人をとろけさせる砂糖菓子のような甘い雰囲気をまとっている。
「もう! わたくしのステージから目を離さないでって申しましたのに」
ティエラは、ぷくっと頬をふくらまして、上目づかいでダークを見た。
丸まった
(この
おとがいに添えた指の丸め方、わずかに傾げた首の角度、絶妙にそらせた背中……。あえて辛い体勢をすることによって完成された『あざと可愛い』は、まさに職人芸だ。私にはとても真似できない。
「リスみたいな顔で男におねだり…………。ぷ、くくくく!」
(リーズ、しずかに!)
あざとい仕草がツボに入ったらしいリーズを、私は肘で小突いた。
ダークはというと、まったく動じずにティエラの手をほどき、うやうやしく己の胸に手を当てる。
「拝見していましたよ、レディ・ロックホームズ。素晴らしい求心力でした」
「でしょう? わたくし、伯爵さまが見守ってくださるから頑張れましたの!」
ティエラは
ダークは、それを困った目で見下ろしながらも、無理には引きはがさなかった。
(ふりはらえばいいじゃない)
私がむっとして視線を外すと、今度はティエラの甘え声が大きくなった。
「伯爵さま、その赤髪のご令嬢はどなた?」
「彼女がレディ・リデルですよ。リデル男爵家を一人で再興した、勇気と知性をかねそなえた素晴らしい当主です」
「ああ、伯爵さまがいつもお話ししてくださる方ね……。はじめまして、アリス様」
ティエラは、ようやくダークから離れて私に手を差しだした。
令嬢同士の挨拶は、片足を引いて腰を落とすカーテシーが一般的なので、握手を求められることは珍しい。
「わたくしは、ティエラ・ロックホームズと申します。ナイトレイ伯爵さまとは、前からとっても親しくさせていただいておりますのよ」
愛らしいが小さな刺のある口調だった。ようは
ティエラは、ダークと知り合いであり、好印象を持たれている私を
「そのようですわね……。私はアリスと申します」
くだらないマウンティングから逃れたくて、私は早々にティエラの手を握ってしまった。自分でもうっかりしていたと思う。
握手するやいなや、ティエラは顔を歪めた。
「痛いっ!」
「は?」
手を振り払われた私は、あ然とした。
ティエラがオーバーに叫んだので、周りの部屋にいた警官が廊下に顔を出す。
ダークは、よろけたティエラの肩を手で支えた。
「どうされました、レディ?」
「アリス様が、わたくしの手を思い切り握ったんですのよ。骨を折られるかと思いましたわ。あなた、わたくしが伯爵さまに気に入られているから、嫌がらせなさったのね!」
ティエラの作り話に呆れ果てて声も出なかった。
だが、周りからは疑いの目を向けられている。ティエラの
(これでは、ティエラの自作自演だと主張しても聞いてもらえないわね)
私が
「アリスは、嫌がらせなどしませんよ」
驚いて顔を上げる。ダークは、支えているティエラではなく私の方に、見る者すべてを魅了する星のような微笑みを向けていた。
「彼女は、どんな相手とも正々堂々と勝負する。そういうご令嬢ですから」
熱い気持ちがこもった目元に思わずドキリとしてしまう。
そんな私のことを、ティエラは鋭くにらみつけたのだった。
† † †
報償金の小切手を手に入れた私は、雲のうえを歩いているような心地でリデル男爵邸に帰った。
ダークがティエラに
気分よく眠って、悪夢も見ずに起きた翌朝。
アーリーモーニングティーで眠気をとって着替えをすませ、朝食の席についた私は、テーブル端に置かれた新聞を手にとった。
貴族たるもの、
新聞は、早起きしたジャックがアイロンをかけて、インクを乾かしてくれている。おかげで、紙面をなぞっても手が汚れることはない。
今日の一面は、増加する工場労働者の生活改善政策について。二面はテムズ川で起きた
ティエラについての言及もあった。
「レディ・ロックホームズは、署長の娘として以前から事件の捜査に協力していたが、推理の的中率はかんばしくなく、現在まで日の目を見ることは少なかった……。まるで『悪役アリスの恋人』の中のナイトレイ伯爵みたいだわ」
乙女ゲーム内のダークは、自ら探偵を称して事件に首をつっこむものの、手がかりをどうこねくり回したらその結論に至るのか分からない推理で現場を
彼が
(私のこの人生が、ダークの個別ルートかもしれない疑いがまた濃厚になったわね)
考えこむ私の手から、新聞がすり抜けた。
正しくは、大きなあくびをするリーズに引き抜かれたのだ。
「何を熱心に見ているの、お嬢……。って。昨日のおもしろアイドルの記事じゃない」
「おもしろ?」
「アイドル?」
私の両脇でスコーンを食べていたダムとディーが興味深そうに伸びあがる。
私が笑ってごまかしていると、リーズがわなわなと震えた。
「――なによ、これ」
「「どうしたの、リーズ?」」
「この記事の最後のところよ! 『ティエラ嬢は、近くナイトレイ伯爵との婚約を発表予定』って書いてあるわ!!」
「婚、約……?」
息が止まるような
目を白黒させて戸惑う私に、リーズが「よく見て」と新聞を差しかける。
「……本当に、書いてあるわ……」
「あの伯爵、婚約者がいるくせにお嬢にプロポーズしたのね! うちのお嬢を何だと思ってるの。許せない!!」
怒り心頭のリーズは、新聞をぐしゃりと握りつぶした。
私はもやもやする胸に手を当てながら、つとめて冷静に、憤る彼を見上げる。
「私は平気。だから怒らないで、リーズ。ダークに私と結婚する気はないと分かったんだから、よかったじゃない。この調子なら、どちらが先に眠り姫事件を解決するかという勝負も、彼の方から折れるかもしれないわよ」
「お嬢……?」
私を見下ろすリーズの瞳が揺れる。
なぜ彼が動揺するのだろう。ぼんやりと思いながら私は話し続けた。
「私はダークと結婚するつもりなんて少しもなかったの。そうなったらリデル男爵家はどうするのよ、女王陛下のお墨付きの相手だからって困るわ、って思っていたの。このタイミングで、ティエラ嬢の存在を知れてさいわいだったと思わなくちゃ。だから、だから、私は……」
言葉をひとつ口に出すたびに、私の視界はゆらゆらと
泣くつもりなんかないのに、涙が勝手にわき上がってくるのだ。
ついに瞳からあふれ出そうになって、私はリーズの腰もとに抱きついた。
黒い服に顔をうずめると、リーズは私の頭にポンと手を置く。
「お嬢……。なにもしてあげられなくて、ごめんなさいね」
私は、ふるふると首を振りながら涙をこぼした。
誰かのそばで泣く日がこんなにも早く訪れるなんて思わなかった。
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