第31話
22時を回ると、大半の客は帰ってゆき、店内には市倉と吉井と2組の客がいるだけとなった。招待した12世帯はすべて来店済みだったので、このままあとは閉店時間を迎えるばかりだ。
「江藤ちょっと」
こっち来い、と厨房から浜村に手招きされて、カウンターの中で匡孝は振り返った。
「あ、ごめん今からアフター出さないと」
「いいから、それは吉井がやる」
「は?」
「はいはい、オレがね」
さっきまで市倉と話していた吉井がいつの間にか匡孝の後ろにいた。「ナツ、え?」
「いいから、ほら貸せ、これいっちゃんのだろコーヒー」
「え、あ、うん」
「こっち来て江藤」
何やら妙に息の合ったふたりに匡孝は首を傾げながら厨房の奥へと行くと、大沢がちょうどバックヤードから入って来たところだった。
「お疲れさま江藤君」
大沢はふっと微笑んだ。
あれから何かが変わったわけではないが、大沢は眼鏡を外していた。元々ずりおちてばかりの合わなかった眼鏡だ。その代わりに体質に合ったコンタクトを見つけたようで、目を眇める癖がなくなった。表情が柔らかくなって、以前よりもずっと、雰囲気が優しい。
「お疲れさまです」
「花をありがとう」
「表のが余ったから」
匡孝がそう言うと、大沢は微笑んだまま目を伏せた。「そこ、座ってくれるかな」
厨房の隅に置かれた椅子を示した。匡孝は言われた通りに腰を下ろした。けれど大沢は立ったままだった。
匡孝を見て言った。
「進路、迷ってるんだって?」
「え?」
匡孝は目を丸くした。
どこからそんな話…
顔に出ていたのか、困ったように大沢が笑った。
「吉井君じゃないよ。先日、金曜日だったかな、君の学校の深津先生がうちに見えてね」
深津先生?
思わず振り返りそうになったのを、匡孝はぐっと堪えた。
市倉も、知っていたんだろうか。
単刀直入に聞くけど、と大沢は前置きして言った。
「大学には進学しないのか?」
こくりと匡孝は頷いた。
「経済的な理由?」
いえ、と匡孝は苦笑した。
「お金には、正直困ったことがなくて、親は言えばきっと出すだろうけど…でも、もう俺は親に頼らずに生きていきたいんです」
終業式の日の朝、匡孝は深津に、保留にしておいてもらった進路希望票を出していた。決心は揺るがず、進学はしないことを深津に告げ、その理由も隠すことはせずに正直に話していた。
まさか、その日のうちに深津がここを訪れていたとは思いもしなかったけれど。
でもどうして…
「そう」と大沢は言った。「ひとりで生きていくことは大変なことだよ」
はい、と匡孝は頷いた。
「それでもそうしたいから」
佐凪と拓巳には祖母がいる。
一人になることに罪悪感がないわけじゃない。
でも、それでも、あの家で帰らない母親を待つのはもう──
「高校卒業までまだ一年あるけど、決心は変わらないんだね?」
「はい、変わりません」
きっぱりと匡孝が断言すると、大沢はふっと表情を緩めた。
「そうか」
じゃあ──と言った。
「うちにおいで」
匡孝は目を見開いた。
「条件はいくつかあるけど、もし──君がよかったら」
ここに、このまま──
どくん、どくん、と心臓が高鳴る。
にっこりと大沢が笑った。
「君がいてくれたら僕が助かるんだ」
返事はすぐにじゃなくてもいいから、と大沢は言った。
「それと──これは」そう言って大判の茶封筒を匡孝に手渡した。
「深津先生から、クリスマスプレゼントだそうだよ」
見れば、封筒の下の方には、名の知れた調理師学校の名前が印刷されていた。中には入学案内のパンフレットと資料が入っていた。
片付けはいいと浜村に言われて、匡孝は結局今日も最後までいてしまった吉井と、匡孝を待っていた市倉と一緒に店を出た。
「今日も結局手伝わせてごめん」
店の前庭で自転車に跨った吉井は匡孝に笑ってみせた。
「いいって。ま、そんなことだとオレは思ってた」
じゃあな、と手を上げた。
「おやすみ、いっちゃんも」
匡孝の後ろにいる市倉に目を向ける。
「気をつけろよ」と市倉が言った。
「ナツ、またな」
「ああ」
吉井は頷いて、連絡するわ、と言って帰って行った。
きらきらとしたクリスマスのイルミネーションがあちこちの家を彩っている。住宅街の中の道をゆっくりとふたりで歩きながら眺めた。
庭の木に、ベランダに、部屋の窓に──
どこも皆同じようにクリスマスを迎えている。
「それで結局どっちが美味しかった?」
匡孝は横を歩く市倉を見上げた。
「牛肉のほう」
以前潰してしまった弁当を思い出して匡孝は笑った。
「あ、やっぱり。だろうと思った」
「おまえもだろ」
「うん」
手が空いたらテーブルで食事していいよと言われたので、匡孝は市倉と吉井と少しだけ一緒に食事をした。別々のものを頼んで3人で分け合って食べた。サーブする合間を縫っての慌ただしい食事だったけれど、とても楽しくて、いい時間だった。
「楽しかったな」
うん、と言って匡孝は市倉を見た。
少しだけ短くなった髪が歩くリズムに揺れる。
「吉井が淹れたコーヒーはダメだったけどな」
はは、と匡孝は笑った。
「ナツが泣くよ?」
当たり前のようにふたりで十字路を過ぎて、コンビニの前を歩いた。ちらりと覗いてみれば、あの時の大学生がレジを打っている。深夜でも客はそこそこ入っていて、忙しそうだな、と匡孝は思った。あの後にちゃんと礼を言って、それから少し仲良くなった。
コンビニの明かりが途切れた頃、市倉が言った。
「話、何だったんだ?」
匡孝は足を止めた。
立ち止まって市倉が振り向いた。
「うちに──来ないかって、店長が…」
「そうか」
「…知ってた?」
市倉が目を細めて笑い、匡孝を歩くように促した。
横に並んで歩く。
「深津先生が色々考えてたのは知ってたよ」
「そっか…」
「おまえのことを心配してた」
リュックの中に入れた茶封筒、深津はそれをいつから用意していたのだろう。コンタットに行ったタイミングから考えて、終業式の朝、匡孝が職員室を訪れた時にはもう用意していたのかもしれない。
匡孝に言い出す機会を、大沢や浜村の話を聞いた後にしようと、思ってくれていたのか…
「調理師学校に行って、調理師免許を取ることが条件だけどね」
市倉が匡孝を見た。
大沢が匡孝に出した条件は、4つ。
匡孝が調理師学校に行き、調理師免許を取る事。昼間学校に行き夜コンタットで働く事。学校に払う学費はコンタットからの給料で賄う事、──そして。
出来るだけ長くコンタットにいてもらいたい事だった。
最後のは僕の希望だけど、と大沢は言った。
「破格の条件だな」と市倉は笑った。
「なんか俺すごい甘やかされてる気がする…」
本当にこれ以上ない条件だ。学費を給料から出せと言うことは、学費を丸ごと店が出すと言う事だ。
いいんだろうか、そんなことをしてもらって。
ため息まじりに匡孝が呟くと、市倉がその髪をくしゃ、と掻き回した。
「いいんじゃないか?」
「そうかな」
「そうだよ。考えてみればいい。急がなくてもいいんだろ?」
「うん…」
卒業まであと一年。その間に答えを出してくれたらいいと大沢も浜村も言った。でも考えてみるまでもなく、答えは既に出ていた。あとは、自分の問題なのだ。
妹や弟、母親。家族。
佐凪や拓巳には祖母がついている。祖母はまだまだ元気だし、祖母と一緒にいればふたりは何の心配もない。母は…
「大丈夫」
匡孝の指を市倉がぎゅ、と握りこんだ。
はっと顔を上げると、顔に出ていたのか、その考えを気付かれていたのだと分かった。
「…うん」
「良いように進むよ」
夜道を手をつないで歩いた。
家までは後少しの距離を、少し前を行く市倉に手を引かれて進んだ。ゆっくりと歩く。
「…明日」前を向いたまま市倉が言った。「バイトが終わったら出掛けようか」
白い息が闇に溶けていく。
うん、と匡孝は頷いた。
市倉が笑ったような気がして手を握り返した。
やがてマンションが見えてくる。あと少し、あと少し、市倉の靴が音を立てるのに合わせて匡孝は思う。
あと少し。
もうマンションに着く。匡孝は顔を上げて、自宅を見上げて──
すっと血の気が引いた。
「──え…」
心臓が引き絞られる。
明かりがついていた。
母親が帰っているのだと、直感した。
──今になって、突然。
*
思えばもう長いこと、まともに話したことがないのだと気がついた。最後に言葉を交わした記憶をたどる。思い出せない。2年前?3年前?
先月ようやく探し当てたアドレスにメッセージを送った。反応はなく、落胆するよりも安堵した自分を覚えている。
顔を見ずにいられることを、自分はほっとしていたのだ。
実の親だ。母親なのに、他人よりもその存在は遠い。
それなのにどうして──
「ここにいるから」
玄関の前で市倉は言った。見上げた匡孝は自分の視界が妙に揺らいでいると思った。つないだ手を、離さなければ。
離さないと。
「ここにいる、何かあったらすぐに行く」そして、逃げてこいと市倉は言った。逃げてもいいのだと。
匡孝は頷いた。
心臓が飛び出そうなほどにどくどくと打っている。
鍵を開け、ノブを回して引いた。玄関の冷たい空気が顔に当たる。まるで知らない家のようだ。母親のヒールの高い靴がたたきに転がっている。
「先生──」
指を離す瞬間に匡孝は市倉を見た。
頷いた市倉が鍵は掛けるなと囁いた。
「ここにいるから、大丈夫だよ」
匡孝は手を離した。指の先に温もりが残っている。その中に青い石のついた鍵を握りこんだ。
大丈夫、大丈夫。立ち向かえる。
深く息を吸って家の中に入った。
リビングの扉を開けるとソファの上に人影があった。
テレビがついていて、けたたましく笑う声が大きな音で響き渡っていた。
「おかえり」
ソファに足を投げ出して寝転ぶ人がゆっくりとこちらを振り返った。自分によく似た面差しの、久しぶりに見る母親だった。
そう、この人はこんな顔をしていた。
鬱陶しそうに自分を見る眼差し──
変わっていない。
嫌なものが胃の底からせり上がって来る。
「ずいぶん遅いじゃない、何やってるのあなた…」
足を下ろして、母親はじろりと匡孝を見つめた。
匡孝は気取られないよう深く息を吐いて、リビングの中に入った。これが何年も長い間不在にしていた母親の第一声なのかと思うと、ひどく悲しくなった。
でもこの気持ちを悟られてはならない。
努めて冷静に匡孝は言葉を返した。
「バイトだよ」
「バイト?」嘲るように母親が笑う。「冗談でしょ、お金が足りないっていうの?充分あげてるでしょ」
「自分の使う分は自分で稼ぐよ」
母親のまとう雰囲気が苛立ちに変わったのを、匡孝は察した。逆に自分の熱は冷めていくようで、鼓動が次第に落ち着いていく。ぐっと手を握りしめた。大丈夫。腹を決めて匡孝は切り出した。「母さん」
手の中の青い石の存在を確かめる。
「俺、高校を卒業したらこの家を出るよ」
母親はじっと匡孝の顔を見た。
匡孝もまっすぐに見返した。
ふたりの間をテレビの音が流れていく。何の関係もないうるさいだけのバラエティー番組の笑い声が、その場を暖めてくれるわけもない。
「出る?へえ、出るの」
「そうだよ。もう自分でやっていくから」
「ふうん、とうとう母親を捨てるってわけ?」
歪んだ笑いを浮かべて母親がそう言ったとき、匡孝の頭の芯がすうっと凍り付いた。言葉を失くしたその直後、たとえようのない怒りが腹の底から吹き出していく。「何言ってんだよ──」噛み締めた歯の隙間から匡孝はうなるように言った。ぶるぶるとこぶしが震えた。
「最初に…最初に捨てたのはあんたのほうだろ‼」
気がつけば大声で怒鳴りあげていた。
「佐凪も、拓巳も俺も、捨てて出て行ったのはあんただ!拓巳はあんたの顔もろくに覚えてなくて、子供だけで残されて、なのになんなんだよその言い方…!ふざけんなよ‼」
何日も帰って来ない母親の帰りを玄関先で待っていた拓巳の姿を思い出す。我慢強い佐凪の、時折糸が切れたように癇癪を起していた泣き顔。どんなに慰めても消えなかった悲しみ、皆の悲しみ、長い間押し込めていた自分の思い。分かるはずがない。金さえあればいいだろうと思っているこの人には一生──分からないだろう。
「ハ…ハハハハハ!何それ、おっかしい…!」
リビングに母親の笑い声がこだまする。本当に腹を抱えるようにして母親は匡孝を見て笑っている。
カッと全身が燃え上がった。
「何がおかしいんだよ⁉」
「笑わせないでよ、何が私が捨てたっていうのよ?ちゃんと面倒見てきたじゃないの。お金使ったんでしょ、私が稼いだお金使って今まで生きてきたんだよねえ?それなのになによ、育ててきた恩も忘れて、高校出たら家を出るって?それって、高校だけは出させて下さいの間違いじゃないの?あんたがそうやって、私に頭下げるべきなんじゃないの⁉」
「な──」
匡孝は絶句した。
この人は何を言っているんだろう。
ゆらりと母親は笑った。
「頭下げたら?高校出させて下さいって、どっちにしろ学費払ってるのは私なんだから」
頭がぐらぐらする。
どうしてこんな…
言葉が出てこない。涙が滲んだ。
これが自分の母親だと思うと情けなくなった。
もう何を言ってもこの人には通じないのだ。そうだ──どうして分かってもらおうなどと思っていたのだろう。
もうだめだ。
こういう人だ。こういう…こんな人だった。忘れていた。どうやっても、いつだって気持ちが通じないのは分かっていた事ではないか?
泣くな。──泣くな。
「さっさと頭下げなさいよ、辞めさせられたいの?」
匡孝は俯いた。
高校は卒業したい。出来ることなら市倉と、皆と、もっと一緒にいたい。学費を自分で賄うことは出来ない。祖母にはもうこれ以上負担をかけられない。
──こんなふうに奪われたくない。
「出て行きたいならそれくらい出来るわよね?」
かくん、と匡孝は膝をついた。
立ち上がった母親が悦に入った笑顔でいるのを感じる。
「…っ」
「早く」
一瞬だ。どうってことない。
大丈夫…
大丈夫。
手の中に青い石がある。市倉はそこにいてくれる。
大丈夫…
覚悟を決めて匡孝は床に手をついた。
ゆっくりと頭を下げて言った。
「高校を、卒業させてください…」声が震えないように歯を食いしばった。そして続けた。
俺が卒業したら──そうしたら、
もう俺たちと縁を切ってください、と。
返事はなかった。
匡孝は頭を下げたまま待った。
長い長い沈黙の後に、母親が去っていく足音がして、玄関がバタンと閉まった。
どれくらいたったのだろう。
気がつくと背中から温かい腕に抱きしめられていた。
ちか、と呼ばれて、匡孝は顔を上げた。
頬を包み込む手が暖かくて、頬をこすりつけてしまう。
「泣くな」
指が目尻を拭っていき、はじめて自分が泣いているのに気がついた。
ああ、だから、視界が滲んでいるのか。
何もかもが揺れている。
ゆらゆらと──背中をさする手が気持ちいい。
心はどこか漂うようなのに、抱きしめてくれる手が、背骨が折れるほどに強く抱きとめてくれる。
「ちか、大丈夫だよ」
大丈夫──
その言葉に堰を切ったように、心を覆っていた殻がバラバラに砕けていく気がした。
嗚咽がこぼれた。
声を上げて泣くと耳元で繰り返し囁かれた。
リビングの床の上で、市倉は匡孝が泣き止むまで、ずっと抱きしめて、大丈夫だと囁いて、震える唇に口づけてくれた。口づけは深く、優しくて、あやすように舌先を掠めていく。くすぐるそれがもっと欲しくて、その背中にしがみつくと、深く胸の中に抱き込まれた。
意味のない言葉を叫んでいる自分がいる。
ずっと握りしめていたその手から青い石が滑り落ちていった。
ゆらゆらと揺れる。
「ここにいる…ここにいるよ」
ひどく眠くなって目を閉じた。
眠りに落ちる間際に、好きだと市倉が言った。その声はまるで泣いているように聞こえて、ふふ、と匡孝が笑うと、市倉も笑ったような気がした。
遠い意識の中でどこかに運ばれていく。ベッドに横たわったのが分かった。
隣には市倉がいた。
深く深く落ちていくように眠った。
真夜中──ふっと意識が浮上して、匡孝は目を開けた。
辺りはしんと暗い。
闇の中、市倉は匡孝を抱きしめたまま、その胸に顔を埋めて眠っていた。
匡孝は再びまどろみの中に沈みながら微笑んだ。
子供みたい。
大人なのにおかしいな…
胸の中にある頭を抱きしめる。髪を撫でた。市倉がいつも匡孝にするように。安らかな寝息に耳を澄ました。
市倉の手を探り当てて、手をつなぐと、匡孝は目を閉じてまた眠った。
そうして夜が明けていった。
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