第30話

 長い一日が終わっていく。

「あー…」

 終業後のコンタット、厨房の隅で吉井はくたくたの体を椅子の上に投げ出していた。結局最後まで臨時のバイトを全うしたのだった。

「今日はお疲れだったな、助かったよ」

「いやもう…」

 なんというか、疲労困憊だ。今日は全力でオレは頑張った。

 なんだこのやり切った感…

 テーブル代わりのステンレスの調理台の上に頬を擦りつけて、吉井はその冷たさに癒されていた。動き回っているうちに暑くなり、ジャージは脱ぎ捨てた。今は部活で使うはずだった予備のTシャツを着ている。

「ありがとうな。ほら、夕飯」

 おかわりもあるぞ、と浜村が吉井の目の前に置いたのは大盛りのカツ丼だった。

 いつか匡孝にも作ってやったものだ。

「うーわ、すげ美味そう…!」

 いただきます、と目を輝かせて箸を握った吉井を、浜村はおかしそうに見ていた。積み上がったシンク横の洗い物を、よっこらせと片付け始める。

「旨い!」

「おーよかったな」

 山と積まれた汚れた皿を次々に食洗機に放り込んでいく。営業中は全く片付けが追いつかず、早々に諦めて放り出していたのだ。予想以上の量に、これは後何回食洗機を回せばいいんだろうな、と浜村は遠い目になった。

 でもさ、と浜村の背中に吉井は話しかけた。

「匡孝はこんなのフツーにやるんでしょ?」

「ああ、まあそうかな」

 浜村は笑った。それには多分に家庭環境も影響しているのかもしれないが、確かに匡孝はわりとはじめから難なくこなしていた。

「あいついないとこの店やばいね」

 しみじみと吉井が呟く。

「ほんと、そうだよなあ…」と浜村は苦笑した。

 匡孝がいる時の自分の楽さを知った後では、もうひとりで切り盛りしていた頃を思い出せない。ほんの何時間かでもこの有様なのだから、その感覚はすでに遠い記憶となってしまったようだ。

「いてくれないと駄目っぽいなー」

 吉井を振り返り、浜村は茶化して言った。けれど吉井はなぜか心底安心したような顔をしていて、あれ、と浜村は思った。

「それ、ちゃんと匡孝に言ってあげてください。きっとすげー喜ぶからさ」

「ん?」

「ずっと進路のことでも迷ってるみたいだし、あいつもなんか色々…今日も大変だったから、嬉しがると思う」

 先ほど匡孝から電話があり、とりあえず無事だと言う知らせを受けた。粗方の事情は聞いて──結構ハードな内容だった──話はまた改めて、ということになった。まあ明日、どうせ匡孝はバイトに来る予定だ。休みをやりたいのは山々だが、それでは自分が倒れそうだ。なので匡孝には申し訳ないが、明日は是非とも出て来てもらいたい。

 浜村は内心微笑んだ。

 友達というよりはまるで吉井は匡孝の兄のようだ。浜村はそうするよ、と頷きかけて、──ふと、吉井の言葉が気になった。

「…なに?進路って」

 

***

 

「ほら、お疲れ」

 コンビニの駐車場に停めっぱなしだった車を取りに行き、店内でテイクアウトのコーヒーを買った。幸いにして店員から咎められることも車が消えていることもなかったが、さすがにもう今後ここに長くは停められまい市倉は思った。匡孝に自分の行き先を教えてくれたあの店員には感謝してもしきれない。今度礼を言わなければ、と心に留める。

 時刻はもう、日付が変わる寸前だ。

 匡孝が紙コップを受け取り、ひと口飲んだところで市倉はエンジンをかけた。

 甘すぎるのか、匡孝は眉を顰めていた。

「…カフェオレ?」

「カプチーノ」

 市倉は笑って、車を出した。



 事の顛末はこうだ。

 浜村から電話を受けた時、市倉は莉子の兄の高見と市内に戻る途中だった。話が終る前に落ち合った店があいにく閉店時間となってしまったので、場所を変えるために移動していたところだった。

 自宅に来いと市倉は言わなかった。

 彼女に見られているかもしれない中、それは出来ないことだった。兄と妹を引き合わせるのは、出来るだけ後の方がいいと思っていた。

 すべてが終った後でも遅くはないと、その時は。

 ふたりきりの車内、進まない車列、土曜日の夕方の渋滞が始まりつつあった。

 その最中に携帯が鳴りだした。

 市倉は後部座席に放り出してあった上着から携帯を取り出し、表示を見てぎくりとした。

 嫌な予感がした。

 コンタット──その電話に出て、血の気が引いた。

 匡孝が外に行ったまま帰って来ないと、そして前の晩に自転車のタイヤを切り刻まれていたのだと、浜村に告げられた。

 そこからはあまり記憶になく──心臓が異常なほどの速さで鳴っていた──気がつけば自宅近くをかなりのスピードで車を走らせていて、匡孝を探すために一旦コンビニの駐車場に車を停めた。外でゴミ捨てをしていた店員が何か言いたそうにしていたが、顔見知りだと気がついて軽く頷いただけでコンタットの方に走った。

 今思えば車で直接店に向かえばよかったのだが、その時は全く頭が回っておらず、とにかく匡孝は自分の家の近くにいるような気がして、コンタットと自宅の間を高見と一緒に探し回った。

 けれど匡孝は見つからず焦りは募った。

 そこに、りい──莉子から連絡が入ったのだ。

 匡孝に会いたくはないか、と。

 会いたいでしょう?と莉子は言った。それだけ言ってぶつりと電話は切れた。数秒後、莉子はご丁寧に動画を送って寄越した。それは匡孝が、おそらくまさに今、薄暗い住宅街の道をひとりで歩いている後ろ姿だった。

 追加のメッセージを受け取った。

 あなたの家で待っている──と。


 そこからは起きたことがすべてだった。

 莉子の放った火は、カーテンを焼き尽くしはしたものの、おまけのように窓際の壁を一部焦がしただけだった。しかし、外に出て匡孝と階下に降りた時にはもう、アパートの周りは騒然としていた。

 最初に異変に気づいたのは市倉の部屋の隣人だった。騒動を聞きつけて市倉の部屋を覗きに来たところ、玄関から転がり出てきた高見と莉子に鉢合わせした。その後を追うように部屋に充満していた煙が出てくるに至って、火事だと慌てふためいた隣人が消防に通報し──その後警察も到着したのだった。

 到着した警察官に、高見はこれは妹が市倉に向けた一方的な故意の──憎しみの結果であると──説明した。事故であったと言うにはあまりにも事が大きくなり過ぎていたし、高見は事故だったと言おうとした市倉を制止し、それを断固として許さなかった。妹は本気であの時市倉の死を望んで火を着けたと、身内である兄と、莉子の声を聞いていた部屋の隣人が証言したことで小火騒ぎは放火へと発展し、莉子と高見は警察署に連れて行かれた。

 市倉もその場で事情を聴かれ、何度も同じ話を繰り返した。

 やがてようやく解放されたが、今度は駆け付けた近所に住むアパートの大家から同じように話を聞かれ、有り難いことに──ひどく同情された。部屋の状態を確認してそれほどひどい有様でもないのが分かったのもあるだろうが、明日にでも清掃業者を入れると約束をして引き揚げていった。

 帰り際、今夜の市倉の寝場所として、アパートの一階の空き部屋の鍵を差し出され、有り難く市倉はそれを受け取った。なにしろ床は水浸しで、酷い匂いがしていた。

 自転車で夜道を帰る大家を見送った。

 その頃にはもう、近所の人々も興味を失ったように、満ちていた潮が引くように、それぞれの家へと帰って行った。



「疲れたな」

 長い夜だ。

 波の音が耳に心地よい。

 市倉は匡孝を連れて、夜の海に来ていた。

 とてもそのまま何事もなかったかのように眠れなかった。

 ふたりともそれは同じだった。

 前に訪れた海浜公園の手前、道から少し外れたところにある海岸線沿いの少し広めの駐車スペースは、釣り人達のために設けられた場所だ。砂浜に降りる階段もあり、駐車場の先は防波堤に繋がり、首を巡らすと、そこから海の中に突き出た桟橋が見えた。

 夜の海の中に続くその先端に、釣りをする人たちがまばらに見える。

「うん」

 匡孝は頷いた。暗い海を見つめる。

 長い一日だった。

 何もかもが勢いに呑まれるように過ぎ、実際、呑みこまれていった。

「寒くないか?」

「大丈夫」

 防波堤の端から砂浜に降りた。

「先生こそ寒いんじゃないの?」

 先を行く市倉に言った。

 市倉はスーツ姿だった。振り向いたジャケットの裾が風に翻る。下は厚手のフランネルの紺のシャツ、濃いグレーのジャケットの上には何も着ていない。

 コートは部屋の中に置き去りにしてきた。

 莉子に移った火は、それを包んだ市倉のコートの裏地を少し焦がしていた。

 幸い火はすぐに消え、莉子は火傷することもなかったようだ。

「これ巻いときなよ」

 匡孝は市倉の首に自分のマフラーを取って掛けた。ぐるりとひと巻き、長いマフラーの端が余って海風に揺れる。

「おまえが寒いだろ」

「コート着てるから平気だよ」

 見上げてそう言うと、市倉の表情がふっと和らいだ。

 視線が合って、互いの目の中に自分たちの姿を見つける。

 匡孝の脳裏に、別れ際に泣いていた莉子の──りいの顔が浮かんだ。市倉は気づいただろうか。

 その目はまっすぐに市倉だけを見ていた。

 彼女は本当は、市倉をどう思っていたのだろう。憎いと言ったその言葉の裏側は、きっと、別の感情が隠れている。そんな気がする。

 打ちひしがれていた莉子の兄は、市倉のかつての友人は、長く──長く行方が知れなかったのだという…

 それを市倉と市倉の知り合いが見つけ出していた。

 莉子は長く不在だった兄に何を思っただろう。

 兄の起こした不祥事に元々諍いの絶えなかった両親は、それを幸いとばかりに離婚した。小さかった莉子は両親のどちらにも引き取られず、施設へとやられた。何年か経ち、養子として子供のいない夫婦に引き取られたが、その家族ともほどなくして死別したようだ。何度も別れを繰り返していた莉子。元々の名前もその過程で変えたのだと、先程匡孝は聞いた。

 本当の名前は高見莉子、花田という姓は養子先の苗字だ。

「……」

 いろんな人がいる。

 彼女ばかりが不幸なのではない。

 けれど、辛いことを繰り返すうちにその胸に空いてしまった穴の中は、どんなにか深く哀しみに満ちていただろう。

 やがてそれは枯れ果て…

 寂しさに、取って代わったのだろうか。

 何が──やがて、そこに生まれてきたのだろう。

 その穴を埋めるために。

 市倉が匡孝の髪をくしゃ、と撫ぜた。

「…どうした?」

 市倉の声で、沈んでいた匡孝の意識がふっと浮き上がった。

 顔を上げると、柔らかな笑みがそこにあった。

 匡孝は何でもない、と首を振った。

「腹減らないか?何か食べに行くか?」

「うん行く…」

 風が吹いている。

 風に揺れる市倉の前髪のひと房は白っぽく色が変わっていた。

 莉子を助ける時に、そこを炎が掠めたのだ。

 匡孝はそれをじっと見つめた。

 市倉は左の頬骨の上にも小さく火傷している。

「──先生…」

 匡孝はマフラーを掴んで、そっと市倉を引き寄せた。市倉が驚いたように目を瞠る。

 たまらなく愛おしい。

 好きで、好きで。

「ごめん、俺…」

 あの時のエナに揺り動かされた気持ちを謝りたかった。けれどどう言葉にしたら伝わるのか、分からない。

「俺──」

 声が途切れる。

 言いかけて止まった匡孝の、その目を覗き込んだ市倉が、困ったように微笑んだ。

 指が匡孝の頬をなぞる。

「大丈夫だよ」

 たったそれだけなのに、なぜだろう、匡孝は市倉にすべて伝わった気がした。

 好きだと呟いた。

 市倉の顔が降りてくる。

 目を閉じた。

 唇が重なる瞬間、昼から何も食べていない市倉の腹が盛大に鳴って──匡孝は吹き出した。

「笑うなよ」

「いや、だって…っ」

「──ちか」

 その笑い声ごと、匡孝の口を市倉の唇が笑いながら塞いだ。


***


 週が明けた金曜日。

 無事午前中に終業式を終えた匡孝たちは、駅前で昼食を取ろうということになった。

 狭い路地を行った先にある店──だそうだが…

「全然分からん、何だこれ」

 ほら、と吉井が匡孝に手渡したメモ用紙には、殴り書きのような地図があるのだが、匡孝はそれをくるくると回して見た。

「俺も分かんない。アプリで調べたほうが早い」

「やっぱりだな」

 最初からそうすりゃよかった、と吉井が呟いた。

 笑って匡孝はアプリで店の名前を検索して、ほどなく、その店は無事見つかった。


 店はやはりと言うべきか予想に違わず女子受けしそうな外観の洒落た店だった。入口の外に立てられていたメニューの看板で、どうやら和食がメインの店のようだとは分かったが、何をどうしたら和食に繋がるのか分からないような内装に、男子高校生ふたりはぼやっと天井を見上げていた。

「夏生、鳥がいる…」

「スズメだ」

「え、雀?」

 吉井が指をさした方向を匡孝は見た。確かに雀だ。天井を覆い尽くすグリーンの蔦の中に、雀の置物──よもや剥製ではあるまい──がちらほらと見え隠れしている。

 変な店。

 周りは例に漏れずに女子ばかりだ。今日が終業式のところが多いようで、他校の制服姿の女の子たちがひしめき合って座っている。

 場違いなところにいるという、突き刺さる視線が痛い。

「…俺帰りたいかも」

「オレを置いていくな」

 ひそひそと言い合っていると、入口の扉が開いて、ようやくこの店を選んだ本人がやって来た。

「春人、こっち──」

 匡孝が手を上げると、姫野も手を上げて、満面の笑みで歩いてきた。


 じゃあ、と吉井は言った。

「明後日は店なのか、25日も?」

「うんそう」匡孝は頷いた。「月曜日だからほんとは休みなんだけどさ、一日ずらして26が休み」

「えっ、ちか休み?」姫野が身を乗り出した。うん、と匡孝が頷く。

「でも祖母ちゃんち行くから」

 そうだ、と匡孝は吉井を見る。

「浜さんが夏生も24日食べに来いって言ってたよ」

「うわマジか」

 吉井が天を仰ぐ。天井いっぱいの蔦の間からじっと見下ろす鳥たちと目が合った。うーわ、マジ無理だわ…

 しかしそこかしこのテーブルでは女の子たちがこぞって天井の写真を撮りまくっている。これが女子受けか…恐るべし。

 テーブルの上の唐揚げを吉井はぱくりと頬張った。ハニーマスタードソースという未知のものがかかっていたが、中々、食べられる。

「あの人絶対オレをこき使う気だよな」

 顔を顰めてそう言うと、姫野が何?と言った。

「大丈夫、お客さんで」

「じゃあ──」

 なあ、と姫野が声を上げた。

「俺に分かんねえ話題で喋んなよ!」

 吉井が呆れた顔を向けた。

「いやおまえのせいだからな」

「は?なんで?」

 匡孝と吉井は目を合わせて苦笑した。



 ふうん、という不満そうな返事がテーブルの向かいから返ってきた。

「苦労して働いた対価としてはちょっと少なすぎるんでないですかねえ」

 市倉はため息をついた。

「最初からそういう約束だろ…」

「そうでしたっけ」

 三重野はへらっと笑った。

 仕事で近くまで来たからと連絡があったのはつい1時間ほど前だ。終業式を終え、片付かない雑務に追われていた市倉は、ちょうど匡孝の担任の深津も外出するようだったので、それを機に休憩だと外に出た。あとはまあ、まだ戻って仕事があるわけだが。

 やれやれ、と胸ポケットから煙草を取り出しかけて──ここが禁煙だったと思い出した。高校から少し歩いた先に出来た新しい飲食店だ。立星の教師たちは皆高校のすぐそばにある定食屋の方を利用するので、まずこちらには来ない。知り合いに会うことはなさそうだと考えてここを市倉が指定した。定食屋では煙草が吸えたので、いつもの癖が出たのだった。

 摘み出そうとした煙草の箱をまたポケットに落とす。

 代わりにコーヒーのおかわりをもらった。

「──で、」

「で?」

 持ち上げたカップ越しに市倉は言った。

「話の続き」

 三重野は不服そうに口を尖らせた。

「ずるいよなあもう…あ、すみませーん、こっちもコーヒーおかわり!」

「昼休み終わってるんじゃないのか?」

「何言ってんの、こっちは天下の外回りだよ?それくらいちょっと長くったって許されるんです。誰がチクるのよ」

 上司が聞いたら憤怒しそうなことをサラッと言ってのけた三重野は、やって来たコーヒーをひと口啜って、ちらりと市倉を見た。

「市さん、戻らないって言ったってね」

 市倉は眉を上げた。

「なんで?」

「何が?」

「だってさ、やっと、疑いが晴れたっていうのに」

 カップを置いて、市倉が背もたれに寄りかかった。

「…それこそ今さらだろ。辞めたのは自分の意思だしな。それに、疑いが晴れようがなかろうが、初めから戻るつもりなんてなかったよ」

 かちゃん、と三重野のカップがソーサーに当たって音を立てた。

「岡島がようやく認めて…米森先生だってあんな──今になってやっと」そこで三重野は深いため息をついた。「…あの人さ、今頃事務員雇おうとしてんですよ?笑えるでしょ?しんっじらんねえ!あんだけ人の事コケにしておいてさ、どのツラ下げて言ってんのって!ほんともう…ちょっと、あんた何笑ってんだよっ」

 三重野が顔を上げると、片手で顔を覆った市倉がテーブルの向こうで肩を震わせていた。

「てめーの事だろっ笑うなっ」

 くく、と喉を鳴らした市倉が、顔を拭うようにしてその手を離した。

「その話は嫁からか?」

 そうだよ、と三重野は食い気味に言った。

「ゆかちゃんからだよ。あんたが戻ってくるのずっと待ってたんだからな」

「そうか」

 ゆかちゃん、とは三重野の伴侶の三重野ゆかりの事だ。米森研究室で同僚だった、年若い一児の母、市倉の良き友人だった──今も、友人でいてくれる人だ。

 あの大変だった時からずっと、この夫婦は市倉の身の潔白を晴らそうと、本人の知らないところで奔走してくれていたらしい。それを知ったのは、ついこの間の事だった。

 昼下がりの大学の食堂で、笑い合いながら共に食事をした記憶が、ふっと目の前をよぎった。穏やかだったあの日々は、もう過ぎてしまった時間だ。

 けれどこれからも同じように過ごしていくことは出来る。

「悪かったな…よろしく言ってくれ」

「自分で言えよ」

 暗に連絡をしろと言っているのだった。市倉は笑ってそうする、と言った。

 それで、と三重野は身を乗り出してきた。

「俺の労働の対価はどうしてくれんの?」

 市倉は呆れた顔をした。

「忘れろよ」

「忘れませんよ」

 にっこりと三重野は笑った。

「ゆかちゃんと俺の分の働きだろ?約束は守ろうぜ、センセイ」

 はあ、と市倉はため息をついた。

「はいはい…」

 よし!と三重野は声を上げた。

 そしてにやっと、意味ありげに笑った。

「じゃあ正月ウチにマサチカくんと一緒に来るように」

 絶対だからな!と念を押されて、市倉は天井を仰いだ。


***


 24日になった。

 夕方、表の白い扉を開け放して、匡孝はクリスマスディナーに訪れた人々を出迎えていた。

「いらっしゃいませ、ようこそ」

 常連の人たちが口々に匡孝に挨拶をくれる。

「江藤くん、今日はよろしくね」

「はい、こちらこそ」

 メニューを渡して匡孝は笑って頷いた。

 16時から始まるコンタットのクリスマスディナーは今日は23時まで。いつ訪れてもいいし、いつ帰っても構わない。招待状さえ持っていれば自由な時間を楽しめるものだった。

「江藤これ」

「はーい」

 サーブをしながら壁の時計を見ると、19時を少し過ぎていた。もうそろそろかな、と思っていると、入口の鈴がちりんと鳴った。

「いらっしゃい、夏生」

 匡孝は笑った。

 吉井が匡孝に笑いかけた。

「ほんとに食べるだけでいいんだよな」そっと匡孝の耳元で言うと、匡孝が吹き出した。

「あたりまえだろ、座って」

 店内を見回した吉井があれ、という顔をした。「いっちゃんは?まだ来てないのか?」

「もうすぐ来るよ」

 市倉は20時ころになると言っていた。今朝電話で話した時、そう言った声を思い出していると、吉井が険しい顔をした。

「…おまえその顔やめろ」

「は?」

「いや……まあいいわ。分かんねんなら。ちょっと浜村さんに挨拶してくるわ」

 うん、と匡孝は頷いて吉井のテーブルに水とメニューを置いておいた。

 その背後でまたちりんと鈴が鳴って、いらっしゃいませ、と匡孝は言った。厨房の方が何やら騒がしいが、匡孝はにっこりと訪れた客を出迎えた。

 それから──

 市倉がコンタットを訪れたのは、電話で告げた通り、20時になった時だった。

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