第25話

 翌日、市倉は不在だった。

 え、と匡孝は言った。

「午後から、ですか?」

 職員室の入口で対応してくれた教師は頷いた。

「まあ昼までには来れるそうだよ。今日は市倉先生、午前中授業もなかった…あ、ひとつ自習になるか。あー急用だったの?」

「ああいえ、違うんです。ちょっと聞きたいことがあって」

 心配そうに言われて匡孝は慌てて首を振った。ふうん、と教師はちらりと腕時計を見た。

「じゃあまた昼休みに来なさいよ。いると思うから」

 そうします、と言って匡孝は礼を述べ、職員室を後にした。


『春人が?』

 昨夜遅く吉井からかかって来た電話に匡孝はひやりとした。

 呆れた声で吉井が続けた。

『言うのやめようかと思ったけど見てた奴も結構いて、後で知るの嫌だろ匡孝』

『うん、教えてもらってよかったよ』

『でもま、だからってあんまりハルには近づくな。匡孝が自分から来るようにって魂胆だろ。いっちゃん狙えばお前が行くって分かってるんだよ』

 子供か、と吉井が吐き捨てるように言うのを匡孝は苦笑した。

『笑うな匡孝、オレは心底呆れてるんだぞ』

『分かってる。ごめん』ため息を軽くつく。『でもちょっと話さないと…春人が何考えてるか分かんないけど』

 たん、と階段を勢いよく上る。

 本当に──何考えてるんだ春人。

「春人いる?」

 2-Aの教室の扉を開けて匡孝は言った。ぐるりと見渡すと何人かが匡孝を見て首を振る。どうやら教室内には姿はないようだった。

「便所じゃね?」

「見てみる」

 その声に予鈴が鳴り始める。

 ありがと、と言って匡孝は扉を閉めた。もう少し時間はある。教室に入ろうと駆け込む生徒たちであふれかえる廊下をトイレの方へと匡孝は向かった。

「こら匡孝」

 自分の教室の前を通り過ぎようとした時、ぱしっと手を掴まれた。

「どこ行くんだショートホーム始まるぞ」

「ナツっ、あー……トイレ?」

 吉井が眉を顰める。

「なんで疑問形だよ。くそ、言うんじゃなかった…ほら入れ」

「うわっ」

 鞄を取り上げられ、ぐいっとそのまま自分の教室に引きずりこまれる。

「朝から駆け回ってほんとどーしようもない」

 呆れたね、と匡孝の鞄を匡孝の机に放りだしてその椅子に本人を座らせて、駄目押しのように肩を掴んで椅子の背に押し込まれた。

「ハルなんかに振り回されんな。わかった?」

 わかった?ともう一度言われて匡孝はこくこくと頷いた。

「わ、わかりました…」

 よし、とそれでも眇めた目のまま吉井は頷いて、入って来た担任の深津と入れ替わるように自分の席に着きに行った。



 結局姫野はその後も捕まらず、隣の教室だというのに姿を見なかった。登校はしているようだったが徹底的に姫野の方がこちらを避けていると気がついた。

 匡孝はため息をついた。

 何がしたいんだか…

 昼休みに吉井から懇々と説教をされ、もうハルを探すなと叱られた。電話で言ったように吉井は今回の事で姫野には心の底から呆れかえっているらしく、匡孝が自分から姫野に近づくことを禁止した。一方的に──とりあえず。

「相手に自分を追いかけさせようっていう魂胆が気に食わない。スケスケの見え見えなんだよ」

 その声に周りで昼食を掻きこんでいたクラスメイト達が反応する。

「おわ、何がスケスケなの!夏生!」

「見え見えって⁉」

「エロ!」

「エロい!」

「うるさいっ」

 吉井がじろりと見るとなぜか口笛が上がり賑やかに盛り上がっていく。邪魔だと手で追い払うようにするとクラスメイト達は笑いながらまた別の話題へとシフトしていった。

「とにかく──お前のせいじゃないんだから気にすることないんだよ」

「うん」

「探すな」

「分かった」匡孝は笑った。「分かったって」

 吉井はじっと匡孝を見て、ほんとかよ、とため息まじりに肩を落とした。

 放課後、部活に行く吉井と教室で別れ、匡孝は2-Aの前を過ぎざまに中を覗いてみた。いない。ため息を落として階段を降りた。予想はついていたので落胆はしなかった。

 これだけ避けているということは、逆を言えば常にこちらを気にしているということだ。だから隣の教室にもかかわらず鉢合わせることも廊下ですれ違うこともなかった。そんなにまでして一体何がしたいのだろう。話をしたいのだろうか。だが何を?

 あのとき引き留めた姫野の声。

 聞いてやればよかったんだろうか。

 立ち止まって、振り返って──

 ふと、市倉の言葉が脳裏をよぎる。

『俺のせいだな』

 気がつくと匡孝は国語準備室の前にいた。在室の札が出ている。市倉がいるようだ。

 ノックをしようとした時、中から話し声がした。

 春人、と匡孝は思った。


 市倉を姫野は見下ろしていた。市倉は机の上でコピーした資料を選り分ける作業をしており、広い作業机いっぱいに広げたそれの上に屈みこんでいた。目線を上げない。長い前髪を後ろに軽く流した額の生え際を掴み取りたい気分になる。

「なあ、聞いてんの?」

 イライラする。

 こいつ──

「おいこっち見ろよ!」

 ガン、と机の脚を姫野は蹴り飛ばした。端に積み上げられていた資料がその振動でばさっと束になって落ちた。床の上を滑り一面に広がっていく。

 短いため息が落ちた。

 そこでようやく市倉は顔を上げた。

「姫野──拾え」

 姫野の顔をまっすぐに見る。その顔に怒りはない。

「拾って出て行け」

 仕方がないとでも言いたげだった。

 感情のない声で言うその態度が姫野はいつも気に食わないと思った。いつもそうだ。いつも。いつも、何をされても動じない同じ声。荒げることもなく、授業の時と変わらない冷静さで、まるで相手にされていない。

「見てのとおり俺は忙しいんだよ。片付けてさっさと消えろ」

「まだ質問に答えてないだろ」

 市倉は肩を竦めた。

「答える必要があるのか?」

 気に食わない。

「あるよ。教師だろ」

「生憎と、おまえの先生ってわけじゃないんでな」

 へえ、と姫野は鼻で笑った。胃の底が燃えるようで、吐きそうだ。「じゃあ何なわけ」

 市倉が姫野を疎まし気に見た瞬間、何かが弾け飛んだ。

「なんであんたこんなとこにいんの?なんでてめえなんかがさ、おかしいだろ。大体前いたとこって大学なんだろ、教師でも何でもなかったんじゃん?それがさ…なあ質問に答えろよ!何したんだよ」

「落ち着け」

 落ち着け?

 今言う事がそれ?

 姫野の胸の奥からたとえようのない苛立ちが立ち上った。

「前んとこでやったこと言ってみろよ!」

 市倉はなにも返さない。それにまたイラついた。

「言えねえんだろ⁉言えねえことしたんだろうが!クビになったんじゃん!なあ、そんで今度はこんな男子校に来てさ、次は何しようって?知ってんのかあんた自分の噂、てめえの噂知ってんのかよ⁉ちかは──ちかはなあっ──」

 バン、と勢いよく引き戸が開いた。

「──春人…!」

 匡孝がそこに立っていた。



「──」

 引き開けた扉の向こうでは、姫野が目を見開いて振り向いていた。

「春人…!」

 床一面に広がった白い紙。立ち尽くした姫野に匡孝は歩み寄った。

 ぱん、と振り上げた手が姫野の頬を張った。

「…っ」

「最低だ」

 ハッとしたように姫野は匡孝を見た。

 匡孝を見下ろすその目が揺れた。

「おまえ最低だよ…!」

「違う」

「何が違うんだよ!」

 ちか、とその乾いた唇が匡孝の名を呼んだ。

「俺は──」

「あんな事…!おまえ一体何がしたいんだよ⁉」

「……」

「俺とおまえの問題だよな⁉そうだろ?俺にムカついてるんなら俺に言えばいいだけの話だろ!」

「そう、じゃ、ちがう…っ!」

「何も知らないのに人を傷つけて、何がそんなに楽しいんだ‼」

 姫野のシャツの襟首を掴んで匡孝は揺さぶった。

 困惑したように姫野の目は揺れ続けていた。

「春人!」

 江藤、と声がした。

「もういい、やめろ」

 いつの間にか回り込んだ市倉が後ろにいた。背後から匡孝の手の上に市倉の手が覆いかぶさり、シャツを握りこんだ指を引き剥がされた。解放された姫野はよろめいて後じさった。

「俺は──」

 姫野は呟いた。何かを言いかけて泣きそうにくしゃっと歪んだ顔になる。唇が震えた。

「春人!」 

 姫野は走り出て行った。匡孝は咄嗟に後を追おうとして、市倉に腕を掴まれた。「行くな」

「でも…っ」

 市倉は首を振った。「いいから、ひとりにしてやれ」

 匡孝は開いたままの扉を見つめた。

 


 予定よりも早く切り上げて出勤してきた市倉は結局授業を自習にすることもなく、放課後を迎えていた。

 補習を見ながら雑務をしようと段ボール箱いっぱいの資料を準備室に運び込んだ。鍵を開けて中に入ろうとした時、誰かが後ろにいるのに気がついた。

「なんか用か?」

 返事をしないのでそのまま放って中に入ると一緒について入ってきた。開け放したままの入口に突っ立っているので、エアコンのスイッチを入れながら閉めろと言った。

「寒い」

 さすがにこの部屋は古くて寒かった。匡孝が来るはずなので部屋を暖めておきたかったのもある。

 段ボールを机の上に置き、取り出した資料を並べていく間も一言も口を利かず見るともなしに見る視線を感じていた。

 静寂に紙をめくる音だけしかしない。

 何をしに来たのか見当がつかないわけではない。だがやり方を知らないのか、ただそこにいられても迷惑だった。

 かと言って手伝えと言うのも面倒だ。

 何をしたいんだか、と思い始めた時、ようやく切り出してきた。

「あんたさ、──前のとこでなにしでかしたわけ?」

 と姫野は言った。

 昨日の続きのようだと市倉は思った。

 

「最後の方、聞いたか?」

 え、と匡孝は顔を上げた。しゃがみこんで紙を拾い上げながら、市倉の口元は苦笑していた。

「ちかは、って言ったんだよ、姫野は」

 匡孝もそのそばに屈んで紙を拾う。

『てめえの噂知ってんのかよ⁉ちかは──』

 姫野の声。

『ちかはなあっ──』

「ちかはそれ知ってるのか、って言いたかったんだろうなあいつ」

 あるいは──ちかはあんたが好きなのに、だろう。

 機会があればその先を聞いてみたい気がした。

 いずれにしても、と市倉は思った。

「おまえのことを心配してただけだ、あれは」

「え…」

「心配で仕方なくて、それで、謝りたかっただけだ」

 俺にじゃなくておまえに、と市倉は続けた。

 驚いたように市倉を見る匡孝と目が合った。ふたりして床の上に屈んだまま、市倉はその髪をくしゃ、と掻き混ぜた。

「喧嘩してるんだろ?」

「…うん」

「いい友達なんだから、仲直りしろよ」

 頷いた匡孝の視線が下を向いた。

 姫野の事を考えているんだろうか。

 なぜかそれが惜しくて、市倉は指を伸ばしてその顎を掬った。

 こっちを見て欲しい。

 目を合わせて──

 ちか、と呼んだらどうするだろうと思いながら、真っ赤になったその耳を指先で撫ぜた。

「真っ赤」

「…触りすぎっ」

 座り込んだ匡孝が怒ったようにふいと赤い顔を背けた。離れた指先が後を追い、またこちらを向かせると、匡孝が視線を返すよりも早く身を乗り出して腰を引き寄せた。

「ちょ、わっ…!」

 驚いて一瞬逃げた体を引き留めるように背後から抱き込むと、市倉は首筋に顔を埋めた。

「ちか」

 腕の中の体が強張った。

 ちか、ともう一度呼ぶと匡孝は震えた。腰を抱く市倉のスーツの袖を握りしめる。その仕草がたまらなくてもっと呼びたくなる。

「誰か来たら、っ」

「誰も来ない」

「外から見える…!」

「見えないよ、座ってる」

 実際、市倉の体は机の下に入り込んでいた。

「でも」

「いいから」

 どこにも行くな、と囁くと匡孝がハッと振り向く気配がした。それを市倉は強く胸の中に抱き込んで出来なくした。

「…なんか、あった?」

 その声に市倉は目を閉じる。

「何もないよ」

「なくないだろ、こらっ…もう」

「何もない」

 首筋に口づける。

 びく、と震えた体を宥めるようにまた同じ場所に唇を押し当てた。

「なんか変だよ…っ」

「いつもこうだろ」

「違うっ!」

 察しがいいな、と市倉は苦笑した。

 誤魔化すために口づける。問う暇を与えないように。首筋に、耳に、髪に、うなじを辿って、反対側も。

「もうなにやってんだよっ!」

 顎の先にまで唇を落とされてさすがに匡孝は身を捩った。構わずに抱き込んだまま柔らかな髪に顔を埋める。

「チャージ」

「はあ⁉」

「まだ仕事が山積みで死にそうなんだよ…チャージさせろ」

「なにそれ⁉」

「俺を労われよ」

「ふざけんな…っ!」

 腕の中で振り向きかけた体を抑え込んで、市倉は笑いながら匡孝の顔を覗き込んだ。

「エロい!」

「大人だから」

 だから、と赤い頬に手のひらを添えてこちらを向かせた。

 親指の腹で唇を辿る。

 視線が絡んで揺れる。

 もう少し、と我慢することは出来る。

 きっと。

 まだ。

「ちか」

 ともう一度そう呼ぶと、その閉じた瞼に唇を落とした。


***

 

 白い封筒の中から引き出したものを、市倉は眺めた。

 匡孝は察しがいい。思い出して少しだけ気持ちが和らいだ気がした。

 指先でくるりと返す。暗がりにぼんやりした光の中に写るふたつの人影の写真。

 不鮮明なそれが一層不快感を募らせる。

『これ携帯の画像だね、動画。ここだけ切り取ってプリントしたんですよ。自宅プリントかな…ま、少なくともそう見えるけど』

 これは自分と匡孝だ。

 ぼんやりとした光は車内灯か。金曜日。アパートの駐車場。

 りいが現れる前日の夜。

 見ているという警告か──嘲りか。

 作業机の上の封筒にそれをしまう。

 両手で顔を覆い、目を閉じて、顔を上げた。

 窓の外はもう暗い。時刻はすでに19時を回っていた。

 とりあえず目の前の事をこなさなければと、市倉は散りそうになる気持ちを集中させて仕事に戻る。

 その前に、と携帯を取り出してひとつ電話を掛けた。


***


 刷り上がったクリスマスの招待状を前に、匡孝は笑った。

「結局両方にしたんだ、店長も決められなかったの?」

 はは、と浜村は声を上げて笑った。

「なんか今回は決められないってボヤいてたからもう両方出せばいいだろって押し切ったんだよ。先生もどっちか決めらんなかったんだろ?おまえもだし、じゃあもういいかって」

「そっか…」

 市倉の弁当を潰してしまったことはもちろん内緒だ。

「これ封筒に入れたら、週末配るから」

「俺やるよ」

「じゃあ半分こな」

 そう言ったところにベルが鳴り、客が入って来た。

 いらっしゃいませと言って匡孝はテーブルへと案内をした。

 コンタットのクリスマスディナーは、毎年、一般の客を相手とした予約制ではなく、近隣の住人を店側が招く招待制となっている。会費はなく、寄付という形で一世帯500円。毎年恒例の行事として、日頃愛顧してもらっている感謝の気持ちを伝えるために開店当初から行っていることだった。

 こういう立地だからね、と大沢は言っていた。

「住宅街の中にあるだろう?どんなに気をつけていてもこちらの気がつかないところで不満は出るものなんだ。言ってくださいね、と言っても言わない人の方が大半で、その気持ちを溜め込むとちょっとしたことで苛立ちが生まれる。我慢ばかりしていると軋轢になる。トラブルを未然に防ぐためにもこういうことは必要なんだよ」

 コミュニケーションも取れるしな、と浜村が付け加えた。

 勿論それはもっぱら浜村の役目だが。

 そうか、と匡孝は思った。なんだか感動してしまい、すごいですね、と呟くと大沢は怒ったように顔を赤くして、君も誰か連れておいで、と言った。

「え、いいんですか?」

 いいよ、と大沢は目を逸らして言った。

「こないだのあ、あの先生とか…仲良いんだろう?」

 間違ってしまったお詫びに連れてきたらいいじゃないか、と大沢は不貞腐れたように早口で続けたので、匡孝は頷いた。

「はい、必ず!」

 嬉しくて笑うと、珍しく大沢が困ったような顔で微笑んでいた。

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