第24話
午前0時過ぎ。
裏口の扉が開く音がして、浜村は手を止めた。
バックヤードを歩く音が近づいてきて、厨房の戸が開いた。
「おかえり」
大沢は目を丸くして浜村を見た。
「帰っていいって言ったのに」
「仕込みしてたら遅くなってさ、まあ、ついでに」
大沢はそう、と呟いてカウンターの方へと抜けた。レジを開けようとして、カウンターの上に目を止める。「集計も?してくれたのか?」
厨房を覗き込んだ大沢に、ああ、と浜村は返した。
「しといたよー。合ってるかどうかは別問題だけどな」
あ、と大沢の口が薄く開いた。
「あ…ありがとう」
「どういたしまして。飯食った?」
大鍋を掻き混ぜながら浜村は大沢に言った。
「は、え?ええと…食べ、て、ません」
「だろうね。コート脱ぎな、用意すっから」
「い、いや、ああの…」
なぜかうろたえる大沢に気づかぬふりをして浜村は淡々と続けた。
「もう遅いからスープとパンでいい?軽めならいけるだろ」
「い、いやその…あの」
「コート脱ぎな?」
再度念押しして厨房に用意した椅子に促すと、渋々といった具合に大沢はダッフルコートを脱いだ。
「ええと…」と大沢は呟いた。
浜村は苦笑した。
「いいから、座れ」
コートの下に着ていた大沢の黒いセーターとジーンズは至る所が土に汚れ、枯れた草やなんかがくっついたままだった。何をしていたのか一目瞭然だ。きちんと落としてくればいいのにそれをしなかったのは、もう誰もいないと思っていたからか、それとも失念していたのか。
「お疲れさまだな」
深くため息を吐いて椅子に座り込む大沢の前に、温めたコンソメスープと軽くリベイクしてスライスしたカンパーニュを置く。
「…ありがとう」
立ち上る湯気を吸いこんで大沢は言った。いただきます、とスプーンでスープを掬いひと口飲んだ。
「…おいし」
「だろ?」
「おかわりある?」
浜村は笑った。「あるよ、好きなだけ」
眼鏡が湯気で曇っている。苦笑しながら浜村はそれを外してやり、たたんでキッチンの上に置いた。
「明日もいい天気だよ」
と言うと、うん、と大沢は俯いたまま笑って頷いた。
*
週が明けた月曜日。
放課後の職員室で担任の深津は大袈裟なくらい困った顔をしていた。
「えーとう、また白紙だぞー」
椅子に座った深津の前に立って、匡孝は頭を下げた。
「ごめん先生っ、もうちょっとだけ!」
手を合わせて拝むようにすると、うーんと唸った深津は真っ白なまま名前だけ書かれた進路調査票を、匡孝の顔の前でひらひらさせた。
「…はー分かった、もうちょっとだけな」
大きくため息を吐いて、ほら、と匡孝に紙を返す。なんだか申し訳なくて匡孝は縮こまりながらそれを受け取った。
「まあ皆出さなきゃいけないってわけでもないんだが、うちはそんな進学校でもないし…でもクラス分けにも多少の影響はあるからさ」
あ、と匡孝は言った。
「そっか、来年…」
「そ。ゆるゆるののんびり学校でもその辺だけはやっておくんです。だから江藤、出来たらほんと、正月までに俺にくれたら有り難いわけ」
せんせーまたなーと他のクラスの生徒が職員室を出ながら深津に手を振る。ハイハイ、とそれに答えながら深津は匡孝に苦笑してみせた。
「事情は分かってるから、まあ、目安にな?」
「ん…先生、ありがとう」
いいよ、と深津は机の上の湯飲みを手に取り茶を啜った。それから思い出したように、匡孝を見た。
「江藤バイト楽しいか?」
突然の質問に匡孝は面食らう。
「え、あ、うん。すごく楽しい、けど?」
「そうか。ならいいわ」
「は?」
そこで深津は椅子から立ち上がり、今日はもう帰っていいぞ、と匡孝に言った。
「たまには早く帰れよ。今日補習ないんだってな」
「え、あーうん…」
「代理の顧問も大変だねえ」
と言って、深津は斜め前の──主不在の市倉の机を見て、匡孝の肩をとん、と叩いた。
バスケ部の顧問の教師が腰を痛めたので、今日の練習試合に市倉は代理で借り出されていた。といっても指導員は外部雇用だし、今日の段取りは全て休みの顧問がすでに手配済みのため、本当にそこにいるだけでいい、というものだった。
体育館で始まった他校との練習試合を、2階の観戦席の柵に寄りかかり、市倉はぼんやりと眺めていた。本校は吉井率いるレギュラー陣が先制点を決め、中々の滑り出しといったところだ。
「いっちゃーん、下降りてこいよー」
補欠の生徒たちが面白がって声を掛けてくるのを手を振ってやりすごす。試合を目で追いながら、がたん、と後ろの用具室入れの扉が開くのを市倉は振り返らずに聞いていた。
ばん、と足下にボールを当てられた。ボールは市倉のくるぶしを掠め、コンクリート製の階段状の観戦席の一番下を転がって行く。
わざわざボールを取って来るとはと、市倉は頬杖をついて右に左にと駆け回る生徒たちを見ながら、後ろに立つ生徒を──やんわりと窘めた。
「危ねえぞ」
一瞬の沈黙。
「あんた、なんでここにいんの」
と姫野は言った。
「橋爪先生が腰痛めたからな、今日は俺が代理だ」
「へえ、暇そうじゃん」
「こう見えて多忙だよ」
「ただ見下ろしてんのがかよ」
「そう見えるならな」
バン。市倉の背にボールが投げつけられた。鈍い痛みに一瞬だけ市倉は息を詰めた。体に当たり跳ね返ったボールは観戦席の上まで飛び、どこかに消えた。
「そうにしか見えねんだよ、消えろ」
そこで初めて市倉は振り返った。
姫野の足下に、上から落ちてきたボールが転がってきた。
相変わらず着崩した制服で、姫野は市倉を睨んでいた。
向けられる分かりやすい憎しみを市倉は微笑ましいと思った。可愛いものだ。が、それは顔に出さないまま、姫野の目を見返した。
「仕事だから無理だな」
ぐ、と姫野の目元が歪んだ。今にも泣きだすんじゃないかと思うほど顰められた顔が、奥歯を噛み締めているためだと市倉は気づいた。言いたいことを我慢しているのか。いずれにしても、何の反応も返してこない市倉に癇癪を起しているのは確かだ。
「あんたなんか消えればいい」
その声に下から上がった歓声が被さった。ホイッスルの音が響き渡り、ボールが床を打つ。バスケ部員たちの上げる声がふたりの間を埋めていく。
「嫌いなんだよ!消えろよ!」
歓声でかき消されそうな声を姫野は張り上げて、足下に転がっていたボールを取り上げて市倉に投げつけた。顔目がけて放たれたそれを首を傾げて市倉は避けた。耳をちりっと焼いて掠めたそれが観戦席の角に当たり、大きく弾んで下に落ちた。
誰かがなんだ、と言う声が聞こえ、こちらを見上げている。それにつられたように見る何人かの視線を感じた。騒動に気づいた指導員が険しい視線を寄越す前に、市倉は姫野に言った。
「いいから帰れよ、帰宅部」
姫野が走り去っていく。
その様子を下から吉井が呆れた顔で見ていた。
明るいうちに家に帰るのは久しぶりだ。
匡孝は家へと向かう途中駅前の本屋に立ち寄り、目当ての本をいくつか購入する。その後スーパーに行き朝食用のパンを買った。首に巻いたマフラーを巻きなおしていると、ふと、店の自動ドアに映る自分の後ろの景色に、ぎく、と手が止まった。
誰かがこちらを見ている。通りの向こうから。
女だ。
ちり、とうなじが強張った。だがどうにか見ないふりをして歩き出した。気のせいならそれでいい。でも、もしもそうなら、早く歩くなと自分に言い聞かせた。
気づいたと気づかれては駄目だ。
バス停の前を通りかかったとき、ちょうど相手の視界を遮るようにやってきたバスを咄嗟に行き先を確認して人に紛れて乗り込んだ。乗ったことを悟られないように人の多い通路に立ち通りに背を向けた。すぐに走り出したバスに、匡孝は深く息をついた。
どくどくと心臓が鳴る。
そっと人の頭越しに振り返った視界の中に、見覚えのある姿が通りを横切って行くのを見た。
りいの友人だ。そうだと思った。
匡孝は深く、深く息をした。
今週、市倉とは会えない。
学校では普段通り──補習を含めて過ごすことになっていたが、バイトの帰りに会うことは出来ない。
右の頬の感触を思い出す。柔らかく触れた市倉の唇は何かの証のようにいつまでもそこに残っていた。
『明日から一週間、それだけだから』
あの夜、帰りの車内で繰り返し言われた言葉を思い出して、匡孝は市倉の予想が当たったのだと思った。
一緒にいようと言ったけれども、市倉はやはり心配になったのか匡孝を送る車の中で、明日から一週間は一緒にいない方がいいと言い出した。
『なんで?知られてるんならもう今さらだよ』
『駄目だ、やっぱり』
『だから怖くないってば!』
嫌だと繰り返す匡孝と市倉の主張は平行線のまま、最後は市倉が懇願するように匡孝を宥めて終わった。
『頼むから、…頼むよ』
口論が激しくなったため運転がままならなくなった市倉が一旦道路脇に車を停めて、匡孝を見て言った。横を過ぎていく車のヘッドライトが暗い車内をさっと照らし出した。
その時の市倉の顔を匡孝は忘れられない。
『ごめ、そんな──』
泣きそうに言わないで。
そんな顔をされたら何も言えなくなった。
それは匡孝を納得させるためだったのか分からない。いっそ怒鳴ってくれた方がまだよかった。
少しずるいと匡孝は思った。
それでも、市倉がそれで安心するのならと渋々了承したのだ。
帰り着いたリビングのテーブルに鍵を放り出して、匡孝はため息を落とした。鍵につけた市倉にもらった青い石が明かりの中で光っている。
匡孝は携帯を取り出して、市倉にメッセージを送った。
『無事帰宅しました』
一瞬迷ったが、りいの友人の事は知らせないことにした。確信はなかったし、もしかしたら本当に見間違いで気のせいだったのかもしれない。
なにをされたわけでもない。すれ違っただけ。びっくりして、思わずバスに飛び乗ってしまっただけ。
匡孝は苦笑する。
市倉は随分と過保護だ。
送信した画面を見つめて携帯をテーブルに置いた。
「俺は女子か…」
すぐに既読になるわけでもない。きっとまだ仕事中だ。バスケの練習試合。そうだと分かっているのにひどく寂しい気持ちになって、振り切るように匡孝は着たままだったコートを脱ぎ、何か飲もうとキッチンに入った。
吉井から匡孝に着信が入ったのは、それからしばらく経ってからだった。
***
メッセージを確認して短く返事を返し、市倉はスーツのポケットに携帯をしまった。
腰に残るかすかな痛みは、保健室で吉井が貼ってくれた湿布の冷たさに上塗りされて、今はもうそれほど感じなくなっていた。
『あー思いっきりやったなアイツ』
練習試合後に吉井に引っ張って連れて行かれた保健室で市倉のワイシャツをめくり、吉井はそう言った。
『真っ赤になってるよ』
そうだろうな、と市倉は思った。
何しろ元野球部だ。ピッチャーだったとかで投球コントロールは抜群だし、力の有り余るお年頃だし、おまけに自分の事を心底嫌っているときた。きっと念も込もってたんだろうよ、と市倉が言うと、湿布の箱を開けていた吉井は呆れたような顔をした。
『なーに茶化してんだよ!いっちゃんさあ…ちゃんと怒れって。そんなんでヘラっと躱すからハルがつけ上がんだよ。アイツ今匡孝に近づけなくてイラついてて、だから間接的に匡孝に関係あるものに突っかかっててさ』
マジで鬱陶しい、と吉井がぼやくのを市倉は苦笑して見た。
『なに?』
見られていることに気づいた吉井が市倉を見返す。
『いや、よく見てるなと思って。仲良いのか2人と』
『うん、まあ──ハルはともかく、オレはでも匡孝が好きかな。ほっとけない感じするだろ』
一瞬返事に詰まった市倉に、吉井はにこっと人好きのする笑みを向けた。
『大丈夫取らねえし』
『は?』
だからさ、と吉井は手際よく散らかった手元を片付けながら言った。
『匡孝のこと頼むね。市倉先生』
吉井に礼を言って、帰宅を促した。それからしばらく雑務をこなして、今帰宅の道を歩いている。
家に食べる物がある記憶がなく、コンビニに立ち寄って適当に買い物を済ませる。店を出て少し引き返して十字路を曲がる。
吉井の言葉を思い出して、市倉は苦笑した。息が白くこぼれていく。
言われなくても、と思った。
この一週間匡孝とは外で会うことは出来ない。気休めだと分かっている。匡孝が言ったように、知られているなら意味のないことだ。あれだけ早く動いたりいが何もしてこないわけがない。すでにもう何か手を講じている可能性だってある。
それでも。
彼女がどんな手段で来るか分からない。前回は岡島を使い市倉を貶めた。自分は表に出ることもなく、むしろ被害者のように振る舞っていた…誰もが、騙されたわけだ。
市倉の携帯が震えた。匡孝かとポケットから取り出してみると、それは知り合いからのメッセージだった。
開いてみると短い一文だった。たった一言、──『土曜日に』
土曜日に。
アパートの駐車場を通り抜け、階段から部屋の入り口を見上げる。ゆっくりと昇り、取り出した鍵を差し込もうとして、手が止まった。
場違いのように真っ白な封筒が、ドアの隙間に押し込まれていた。
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