第3話
市倉の口元からも白い息が上がった。ふわっと浮いたそれはすぐに消えて、暗闇が少しだけ薄まった気がしたのは、匡孝だけだ。
「うん、今終わったとこ…」
市倉はくたくたの黒いスウェットの上下にビーチサンダルだった。息が白くなるほど寒いのに、上着も着ずに家を出てきたのか。
「遅くまで大変だな」
先生こそ、と匡孝は言った。
「帰って飯食って寝るんじゃなかったの」
市倉は鼻をすすり上げて行き先を顎で指した。「ビールと煙草」
ふーんと匡孝は返す。ビールと煙草だって?
「コンビニ行くんだ?」
おう、と市倉は言った。コンビニは匡孝の帰り道、十字路をまっすぐ進んだ先にある。しかし、と匡孝は思った。市倉は匡孝の右手から出てきて、匡孝の目の前を横切ろうとしていなかったか?
今、そのまままっすぐ行こうとしてたよね?
「……」思いついた言葉をぐっと飲み込む。
「なんだよおまえ…」
市倉もなぜか怪訝そうな顔をする。
はーと匡孝は息を吐き出して市倉に駆け寄った。
「じゃあさ、そこまで一緒に行こーよ」
「…奢んねえぞ」
「いらねーよっ」
市倉と並んで歩き出す。コンビニまで100メートルもない。人の通らない道に、ひたひたとふたりの足音だけが聞こえている。
「せんせー飯食った?」
「食った」
「何食ったの」
「なんか、…うどん?」
なんで疑問形だ。
「なにそれ、ほんとにうどんなの?」
「白くて太くて長い麺でうどんじゃないものなんて見たことないわ」
「えっ、きしめんとか!」
「食ったことあんのかおまえ…」
「昔給食で出た」
あーそうね…、と市倉が遠い目をした気がした。
「おまえはいつも遅えな」
市倉の家は十字路の右側だ。匡孝の家は十字路の先にあるので、バイト帰りにコンビニに向かう市倉とは度々遭遇していた。いつも、このくらいの時間に。
「まーね、バイトだし」
「メシ食ったのか」
「賄い付きだよ?」
ふーんと市倉は返す。
興味なさそう、と匡孝は思った。
何食べたかって聞かないんだ。
「母ちゃん心配すっから早めに帰れよ」
「あー…だね」
言いよどんだ匡孝に市倉が足を止める。そこはコンビニの明かりが届く、ぎりぎりの所だった。市倉の長めの真っ黒なぼさぼさの髪が、淡く明かりに縁どられる。
「今みんな、ばあちゃんち」
そう言って匡孝は笑った。冷たい外気にさらされた頬がこわばっていて、うまく笑えたのかは自信がなかった。
「そうか」
市倉の顔は少し逆光になっていて見えにくい。
匡孝のほうから先に歩き出し、市倉もそれにならった。
「じゃあ、気を付けて帰れよ」
コンビニの入口で市倉は匡孝に言った。
「うん」
匡孝は言った。「じゃあまた明日ね、先生」
そう言って匡孝は手を振って歩き出した。
後ろは振り返らない。
市倉がコンビニの入口で匡孝が見えなくなるまで見ているだなんて思ってしまうから。送ってはくれないけれど、そうやって教師として心配してくれているのを期待してしまうから。
コンビニの入り口が開く音がしなくたって…
振り返らない。
もしも市倉がそこにいて、いてしまったら、目が合ってしまったら、期待する。そうじゃないと知っていても、分かっていても。
なんで──
市倉を思い出す。道の真ん中でこちらを向いた姿を。よれよれのスウェット、首元が伸びきっていて、何年着ているんだか分からないくらいくたびれていた。膝なんか抜けていたし、天パだと言っていた長めの髪はぼさぼさで、そばに行くと部屋着に染みついたたばこの匂いがする…
なんで、と匡孝は思う。なんで、なんでよりにもよって、同性のあんな──、どこから見たって立派なおっさんを。
あんなのを好きだなんて。
「……」
やがて匡孝は立ち止まった。
振り返る。
暗闇の向こうに小さな光。さっき別れたコンビニの明かりだ。もう、帰っただろうか。
あの古いアパートに。
「さむ…」
はー、と白い息を吐く。
でも熱い。
寒いのに頬は熱かった。どうしてと思うのに、会うたびに好きになっていく。それは少しだけ怖い気持ちだ。
…振り返ればよかったかな、と匡孝は思った。
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