第2話

 バイト先には結局5分遅れて着いてしまい、匡孝はドアを開ける前から謝っていた。

「─みません!江藤遅れましたあ!」

 裏口から飛び込むと、そこに居合わせた店長と目が合った。

「江藤君、すが抜けてるよ。どっから謝ってたの」

 呆れたように言われて、匡孝は首をすくめる。

「ドア開ける3秒前です」

「5分分引いとくからね」

 にこりともせずに言われてしまい、ですよねーと匡孝は愛想笑いしながら、あてがわれたロッカーに荷物を放り込んで店に出る支度をしていく。「今日忙しいから頼むね」と店長がその背中に声をかける。忙しいのにあんたがここにいるのはじゃあなぜだと思いつつ店の制服である白い長袖カットソー とグレーのエプロンを身につけて、匡孝はハイ!と満面の笑みで返事をして店のキッチンへと駆け込んだ。

「遅いよ江藤!」

「うわー」

 駆け込んだキッチンはごった返していて、オーダー表がずらーっと消化されずに溜まる一方となっている。シェフひとり、ホールは自分だけだ。匡孝は焦りつつもサッと横目でオーダーを確認していく。

「5番出来てますか?」

「3番先出来てる、謝って持ってって」

「ハイ」

 シェフから言われたものを手際良く両手に持って匡孝はホールに出ていく。5番テーブルが手前にあり、常連の年配夫婦が座っていた。匡孝が会釈すると、訳知り顔でいいよとふたり揃って頷いてくれる。なので匡孝は横をペコリと頭を下げて通り過ぎ、テーブルひとつ挟んだ3番テーブルにオーダーを下ろした。「お待たせしましたー、茄子とベーコンのトマトソースと、緑野菜のバジルクリームですねー」

コーヒー食後でいいですかと確認して笑顔でテーブルを去る。去るついでに斜向かいのテーブルを片付けて再び5番テーブルに向かった。

「お待たせしてすみません、もう出来ますから」

「ありがとう。今日忙しいねえ」

「ですよねー」

 声を潜めて笑い合っているとキッチンの方から声が掛かり、匡孝はテーブルを離れた。オーダーを確認しつつフォークやらスプーンやらもセットして目的のテーブルに行こうとすると新規の客がやってくる。

「いらっしゃいませー」

 猫の手を借りたいくらいに忙しい。でも匡孝は慌てることなく料理をサーブし客を案内しオーダーを取りつつ食後のコーヒーの用意をしてと、目まぐるしくくるくると手慣れた仕草で働くのだった。



 ひと段落したのはそれから2時間ほども経ってからで──落ち着いたと言っても客は途切れず入ってくるが──すでに洗い場には大量の食器が溜まり、匡孝とシェフは手の開いた隙を狙ってそれをどんどん食洗機に放り込んでいく。くっそ店長裏から出てこいよおまええええと愚痴ったところで出てくるはずもないのはシェフも匡孝も分っているので、敢えてふたりとも何も言わずに黙々と自分達の仕事をこなしていくのだ。

「江藤っメシ何にする⁉」

 ざばざばと皿の汚れを落としながらシェフが聞いてくるのは匡孝の賄いだ。匡孝はこのバイトを賄い込みで時給千円でやっている。

「あーっと、…あ、いらっしゃいませー!…じゃあオムレツミートでっ」

 ミートソースに小さなプレーンオムレツの載ったスパゲティは匡孝の好物で、今週は毎回これを頼んでいる。またかよーと呟いたシェフは食洗機の扉を閉めてスイッチを入れ、コンロの方へと戻って行った。匡孝は新しい客を案内すべくホールへと出て行く。

──ああ、お腹すいたなあと笑顔でふたり連れの女性客に対応しながら、匡孝は空腹を覚えていた。



 さらに1時間後、外の灯りを落として匡孝はキッチンへと戻った。今日も無事にカフェ食堂コンタットは終わりを迎える。店内にはまだ2組の常連客がいるが、彼らが食事を終えて出て行くまでは特に声をかけることもしない。

「うーわうまそう!いただきまーす!」

 キッチンの片隅に用意された賄いに匡孝は手を合わせてフォークを取る。口に運ぶと濃厚なミートソースの旨さとオムレツの卵がいい塩梅で、行儀悪くがっついてしまう。

「やっば、めっちゃ腹に染みる…」

 空腹に格別に美味すぎて、匡孝はじーんとする。

 俺、今日も頑張りました。

「毎日おんなじもんで飽きねえの」

 客に呼ばれて会計を終えたシェフが戻ってくるなり呆れた顔で匡孝に言う。匡孝が食事をしている間はシェフがホールに出る。オーダーも取り会計もして料理も作る、割と何でもこなす器用な人だ。

「飽きない、おかわり欲しい」

「食い過ぎんな。好きなもんは腹八分目がちょうどいいの」

 そう言って代わりに余ったケーキを出してくれた。ランチデザートの残りで、これは日替わりのため明日は使えない代物だった。

「うわ、今日残ってたんだ!やった」

「昼は暇だったんだよなあ…」

 そうして残る1組が帰っていくと、それを見計らったかのようにいままでどこで息を潜めていたんだか店長が裏から顔を出してきた。

「お疲れさま、ふたりとも。江藤君もう上がっていいからね。はまさんご飯下さい」

 浜さんというのはシェフの呼び名だ。浜村はまむらなので浜さんなのだ。店長と浜村の付き合いは長いようで、こうして毎日店が終ってから店長は浜村に食事を催促にやってくる。食事の支度が整うまでレジを締めておくのも店長の日課だ。

 自分の食べた分の皿を食洗機に放り込んで、カウンターのレジで作業をしている店長にお疲れさまでしたーと声をかける。また明日、と店長は相変わらずにこりともせずに匡孝を振り返る。でもいつものことなので、匡孝は気にしない。

「お疲れさまでしたー」

「気を付けて帰れよ」

 浜村がフライパンを振りながら匡孝に言う。それに返事をして匡孝は裏のロッカールームで着替えを済ませ、制服をランドリーボックスに入れて鞄を持ち、裏口から外に出た。

 出た瞬間、風がひゅっと抜けていく。冷たい風に匡孝は制服のブレザーを掻き合わせた。店の中が暖かかったので、この温度差は堪える。マフラーほしいなあと思いながら匡孝は歩き出した。

 匡孝の家はここから歩いて10分程の距離にある。途中には小さなコンビニエンスストアがあるきりの、外灯のあまりない道をとぼとぼと歩く。今日はまだ月が出ているからいいけれど、月も出ない日はちょっと暗すぎる。

 十字路の少し手前で匡孝は顔を上げた。切れかかった外灯のぼんやりとした明かりの中を、誰かがゆっくりと横切っていく。

 その途中で、背の高いその人はゆっくりとこちらを向いた。

「おう、今帰り?」

 市倉はそう言った。

 匡孝ははーっと息を吐く。白く霧のようになったそれが夜に溶けていく。せんせー、と匡孝は言った。

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