第35話 世にも困った共同戦線(七)
第一関門クリアだ。等々力は服を着て、椅子に座った。
等々力が絵画の入った箱を差し出すと、護衛の一人が受け取った。チョウ大人の前に持っていった。
チョウ大人は箱を空けて一目、画を見るなり「よし、買おう」と即答した。
人間だけでなく、良い物も一目見てわかった。目利きなのは確からしい。
等々力は敬意を払いつつも、しっかりと主張した。
「ありがとうございます。金額は、貴方の言い値で結構です。ただし、条件が一つあります。一つはミスター・ファルマから受けた怪盗グローリーに関する依頼を、私たちの望む形で失敗に導いていただきたい」
チョウ大人は絵の入った箱をテーブルの上に置いた。
チョウ大人は眼光に鬼気を宿らせて答えた。
「高すぎる。リーを貸すのは構わない。だが、たかが、画一枚のために、ミスター・ファルマとの依頼を反故にはできない」
等々力はチョウ大人の気を受け流すように説明した。
「画一枚でミスター・ファルマの依頼を反故にするのは、得策ではないでしょう。だが、私は画を売りに来たのではありません。私は好機を売りに来たのです」
チョウ大人が口端に笑みを湛え、切り替えしてきた、
「言っている意味が、わからないが」
等々力は臆することなく、売り込みを続けた。
「フェルメールの絵画は、現存するものが三十数点。フェルメール・クラスなれば、お金を出せばすぐに買える作品ではありません。さらに言えば、この『窓辺で手紙を読む女』は、表向きはドイツのアデルマイスター絵画館が所有することになっています」
チョウ大人は鷹揚に反応した。
「ほう、では盗品なのかね」
「そうとってもらって結構です。ですが、盗品かどうかは、チョウ大人にとっては小さな問題でしょう。それより大きな売りは、ヨーロッパの大国クラスが所有している名画だ、という点です。個人所有のフェルメールなら、いつかはオークションに出るかもしれません。ですが『窓辺で手紙を読む女』は、ドイツが存在する限りでは、手に入らない」
チョウ大人は長い鬚を触りながら、さも残念そうに口にした。
「君の話は面白い。君の話が二〇一〇年なら、問題なかった。中国での絵画ブームは、もう終ったのだよ。昔ほど高い値は付かない。しかも、盗品とくれば、なおさらだ」
口では拒否しているが、直感的にチョウ大人は画を九割、買う気ではないかと感じた。チョウ大人が拒否しているのは、等々力を試すためだ。
等々力は笑顔を心がけた。同時に、チョウ大人を楽しませるようと軽妙な空気を加え、商談を進めた。
「中国では、権力を持つある御方が絵画の収集に熱心だと、聴きました。本来、国家でなければ所有できないほどの名画なら、さぞ欲しがるでしょう。遠く離れた外にいるインドの富豪より、内にいる中国の権力者と仲良くするほうが、チョウ大人には利益になると思いますが」
チョウ大人は素っ気無い態度で断ってきた。
「残念だが、中国人は信義を重んじるのでね」
チョウ大人は断ってきたが、本心ではないと確信した。
明らかに、断るとどう等々力が出るかを楽しみにしている空気があった。
チョウ大人が画を護衛に渡して返してきた。
等々力は画を見ながら「実に惜しい」と口にして数秒の間を溜めてから口にした。
「チョウ大人に買っていただけないのなら、この画には価値がない。護衛の方、どなたかライターを貸してください」
チョウ大人がすぐに問いかけてきた。
「待て、どうする気だ」
等々力は当然だといわんばかりに発言した。
「燃やすんですよ。油絵だから、よく燃えるでしょう」
等々力は少しだけ上目使いに言葉を続けた。
「取引に失敗したんです。これで、私の手元にあるのは、好機ではなく、単なる一枚の画になってしまった。帰り際に誰かに奪われれば、チョウ大人ではなく、他の誰かを利する事態になる。だったら、お互いのために、燃やしましょう。さあ、誰かライターを貸してください」
ライターをと言われても、護衛の誰もが顔を見合わせるばかりで、動かなかった。
チョウ大人が笑顔で何かを呟いた。けれども、小声で、しかも広東語なので、よく聞き取れなかった。おそらく「小癪な奴め」ぐらいの言葉を発したのだろう。
チョウ大人は、実に面白いといった顔で快諾した。
「わかった、取引に応じよう。ミスター・ファルマとの関係は、後で修復できる。だが、画は燃やせば、修復は不可能だ。フェルメールの画をこの世からなくすのは世界的損失だ」
「ありがとう、ございます」
等々力が立ち上がり、頭を深々と下げてから、退出しようとした。
チョウ大人が部屋を出ようとしたところで、一声掛けた。
「小僧、名前はなんと言う?」
ちょっとまずいな。顔と名前を覚えられると、また、やっかいな仕事を呼び込みそうだ。
完全に空気を消して、無にする。少し悲しげな表情を作って振り返り、やんわりと答えた。
「貴方の前で名乗れるほどの者では、ございません。また、名前もありません。私は存在しない亡霊のようなものですから。では、失礼いたします。貴方に福が訪れんことを祈ります」
等々力は消えるように退出した。別段、引き止められたり、咎められたりしなかった。
リーが見送りのために等々力と一緒に別荘を出てきた。
左近の車に乗る前に、等々力は等々力自身に戻った。
リーが笑顔で賞賛した。
「チョウ大人、日本人に名前を聞く、滅多にないよ。きっと、チョウ大人、お前のこと気に入ったね。日本人相手なら、珍しいよ。チョウ大人に気に入られる。ウチの組織じゃ出世コースよ」
チャイニーズ・マフィアの出世コースなんて、普通の人間が乗れば、黄泉への超特急になる展開は間違いなしだ。乗りたくはない。
等々力はやんわりと拒絶して、左近の車に乗った。
「俺は分をわきまえている人間なんです。高望みはしません」
リーは車のドアを閉める前に付け加えた。
「そうか、気が変わったら、教えるあるよ。お前に、出世する意欲あるなら、私の旦那にしてやってもいいね」
「妾」よりは上らしいが、日本語の怪しいリーの言う「旦那」がどんな関係なのかはわからない。
だが、リーの「旦那」になったら、病院のベッドの上で看取られて死ねない気がする。
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