第3話 ああ素晴らしきはニッチ産業(三)
檻の入口まで行く。
左近が満足げな顔で、丁寧な仕草で敬意をもって檻を開けてくれた。
等々力は左近と一緒に象の檻を通り過ぎて、花子に言葉が聞こえない場所まで移動した。花子から姿が見えない場所にきて、肩の荷を下ろした。
等々力はすぐさま左近に文句を付けた。
「あのねですね、左近さん。急に呼び出されるのは我慢しましょう。飼育員の代わりに餌をやるバイトを頼むのもいいですよ。でも、象の檻に入れられたら象が殺気だっていて、実は影武者の仕事だった。これは酷すぎますよね。俺の才能が役に立たなかったら、俺に象に殺されるかもしれなかったんですよ」
左近がごまかすような笑顔を浮かべて言い訳した。
「さすがに急だとわかっていたけど、動物園にできるだけ早くって頼むって言われてね。止むを得なかったのよ、ごめんね」
等々力は「ごめんね」では済ます気はなかった。
「だからって、ですね――」
左近が等々力の言葉を遮って、素早く発言した。
「後藤さんは、もう亡くなっているのよ」
後藤老人の死に驚いていると、左近は悲しみを帯びた表情で言葉を続けた。
「でも、象の花子には、後藤さんが亡くなっている事情は理解できないのよ。花子は後藤さんが動物園に来なくなってから、餌を食べなくなっていったのよ」
文句を付けようにも、このままでは押し切られそうなので、等々力は言葉を続けようとした。
「だからと言ってですね――」
左近がまたも等々力の言葉を遮って、俯きがちに問いかけてきた。
「本当はね。花子が立っているのも不思議なくらいだって、等々力君はわかっていた」
花子の様子を思い浮かべるが、とてもそんな様子は見られなかった。
「すごく、元気そうでしたよ。俺、殺されそうでしたし」
「元気そうに見えたのは、花子が野生の象だからよ」
等々力は左近の言葉に疑問を持った。
「野生の象って、ワシントン条約で輸入ができないはずじゃあ」
左近は得々と事情を語った。
「花子はパンジャブ象よ。パンジャブ象はアフリカ象やインド象と違って、ワシントン条約の規制対象外なの。野生の動物は死ぬ寸前まで虚勢を張る。野生では死期が近いと他の肉食獣に知れると、標的にされるから」
そういえば、野生のイルカは一旦、元気がなくなると、保護しようにも手遅れになっているケースがあると聞いた覚えがある。でも、なんか腑に落ちない。
「花子はそんなに痩せていました? けっこう恰幅が良かった気がしましたが」
左近が悲しみを帯びた表情で説明した。
「知っている? 象の体重で五tは小さいほうなのよ。花子の体重はすでに二tは落ちたわ」
七tの体重が五tになったのだから、単純に考えれば、体重七十㎏の人間が五十㎏まで痩せた計算になる。体重二十㎏減だ。かなりの衰えだ。
左近に指摘されれば、花子は象にしては小柄な気もしてきた。やはり、病気で痩せていたせいだろうか。
等々力が考え込んでいると、左近が沈んだ表情で伏し目がちに告げた。
「花子はね、全身に癌が転移していて、いつ亡くなってもおかしくない状況なのよ」
左近の言葉は衝撃だった。左近が悲しみを帯びた表情で話し続けた。
「そんな花子に最後に、大好きだったリンゴを、後藤さんの手で食べさせてあげたい。また、明日も今日と同じ、幸せな日が来るって花子が思ったまま息を引き取らせてあげたい、そんな思いが篭った仕事だったの。だから、説明する時間がなかったのよ」
確かに思い起こせば、象のエサがバケツ一杯は少なさ過ぎる。
バケツ一杯のリンゴは、花子が現時点で食べられる限界だったとしたら。
左近の目から一筋の涙が流れていた。
等々力は悲しすぎる後藤老人と象の花子の最後に涙ぐんだ。
「そうですか、そういう事情なら、仕方ないですね。もう、何も言いません。でも、今度からは、きちんと説明してくださいね」
初めは影武者屋と聞いて、なにか胡散臭いものを感じていたが、こういう商売があってもいいのではないかと等々力は思った。
左近がハンドバッグから分厚い黒の長財布を取り出た。
「これ、少ないけど今日の報酬ね」
万札がぎっしり詰まった財布から左近が一万円札を一枚取り出し、等々力に渡した。
移動時間も入れても、一時間強の仕事。交通費込みでも時給一万円は、かなりの高給。
でも、左近の財布の厚さを見たら、もう少し多くてもと邪念がよぎる。
(影武者商売って、儲からない仕事だと思ったけど、ひょっとして高収入なのかな。影武者ってメイクしたり小物を買ったりすれば経費が掛かりそうだけど。今回、掛かった経費って俺の人件費だけだよな)
ちょっと考えれば、左近は今回、作業着を着て檻の安全な折の外で待っていただけ。流れからして、左近が営業して取ってきた仕事でもなさそうな気がする。
(いったい、いくらで今回の仕事を引き受けたんだろう)
仕事をいくらで受注したか気になるところだが、老人と象の悲しい話を聞いた直後なので、お金の話をするのは躊躇われた。
(まあ、いいか。良い話の後で、仕事をいくらで請け負ったかなんて聞くのは野暮だな。一万円も貰えてれば、いいほうか)
等々力はぼんやりとした気持ちを抱えたまま、なんとなく納得した。
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