第2話 ああ素晴らしきはニッチ産業(二)
左近がシーン・ドランカー・モードから戻ってくるには、なにか強いインパクトが必要。おそらく、今回の場合は等々力の死が引き金になるだろう。
(冗談じゃない。こんところで象に殺されて人生を終ってたまるか)
素人が象を騙すために檻に入って死ねば、スポーツ新聞のネタものだ。
等々力は改めて象に向き合って、リンゴの入ったバケツから一個のリンゴを取り出した。
「よ、よーし、いい子だ、花子、餌をあげよう」
等々力は笑顔を務めたつもりだった。
だが、象はヤンキーの亡霊でも憑依したような「あんだと?」と言いたげな険しい顔を浮かべた。象は懐く代わりに、等々力に死の宣告を告げるべく、もう三歩足を進めた。
後ろで左近が、どこまでも冷めた口調で語った。
「依頼人の後藤一樹は花子の名前を花子とは呼ばないわ。ただ、ハナと呼ぶのよ。それと後藤一樹は人にも動物にも無愛想な老人だったわ。そんな猫なで声を出せば、明らかに偽者だと思い、警戒されるでしょうね。最初に依頼人に関する調書をろくに見なかったのは、貴方のミスね」
ミスも何も、依頼人に関する調書が存在する仕事だと初めて聞いた。そんなものが存在するなら、もったいぶらずに真っ先に教えて欲しい。というより、教えるのが義務だと思う。
かといって、ここで大声を出して抗議すれば、花子が驚き、突進して圧死となる可能性が高いので抗議するわけにはいかない。
等々力はすぐに、かってに成り済まさなければならない依頼人の後藤一樹がどんな人物かを思い浮かべた。
*
後藤老人は高校を出てすぐに動物園に就職。人とも動物とも距離を置いて生活してきた。そんな中、まだ子供だった象の花子と出会う。
最初、花子は後藤に怯えを感じ、うまくいかない。後藤も小象だった花子にどう接していいかわからず、戸惑い関係がうまくいかない。すれ違う、一頭と一人の男。
後藤は結婚していたが、子供はいない。後藤は時間が経つ内に花子を子供のように思えてくる。長い年月を経て、花子にも後藤の不器用さがわかる。次第に心が触れ合い、距離が縮まる後藤と花子。そうして、築かれた信頼関係。
*
よし、こんなイメージで、後藤さんの影武者に成り済まそう。
等々力はリンゴの一個を手に取った。思い描いた後藤老人になりきって声を出した。
「ほら、ハナ、餌だ。喰え」
等々力の声を聞いて、象が動きを止めた。
象の顔なんてよくわからない。でも、ヤンキーの霊が憑依していたと形容できる花子の顔が「あれ? こいつ、どこかで会った記憶がある気がするが、名前なんだっけ」という顔に変った。
(よし、俺の成り済ましは、動物にも通用する)
等々力には思い描いた人物になって話せばなぜか、言葉を聞いた人間に錯覚を引き起こさせ、信じさせる才能があった。その威力たるや、物真似や詐欺の域を遙かに凌駕する。
一度だが、黒塗りの公用車に乗って当時の首相の真似をしたら、首相官邸の警備員が首相と錯覚して、敬礼して門を開けたくらいだ。
左近は等々力の才能を面白がってエア・マスターと呼んでいたが、エア・マスターは左近がかってに付けた技の名前。
左近に言わせれば、影武者業と完全な眉唾産業であり、それらしい特技の名前があったほうがハッタリが効いて仕事が取りやすいからだそうだ。
等々力は花子をよく見た。すると、花子はまだ目の前の等々力がいったい何者かを見極めようとしているようだ。
(後藤老人のイメージがまだ違うのか。もっと、愛想がないのかな)
等々力はさらに、偏屈というイメージを思い描き付け足した。等々力は緊張を押さえつけ、思い切って老人のようなゆっくりとした足取りで歩き出した。
等々力が近づいて行くと、花子のほうが驚いて後ずさった。等々力は後藤老人ならどうやって餌を与えるだろうかと考えた。無造作にバケツを突き出し、短く声を掛けた。
「ハナ、餌」
象が驚いた顔を等々力は初めて見た。花子はゆっくりと座って、上目づかいに等々力を見た。花子の顔にはもう怒りの表情はなかった。確実に等々力の力が及んでいた。
リンゴの入ったバケツを花子の前に等々力は静かに置いた。花子が不思議そうに等々力を見詰めているので、等々力は象の眉間を軽く叩いた。
「よし、食べていいぞ」
花子は安堵して、ゆっくりとリンゴを食べ始めた。等々力は危険を乗り切ったと心の中で拳を握って「よし」と念じた。
けれども、等々力はすぐに檻を出なかった。等々力は人を錯覚させるとき、最後まで気を抜かなかった。錯覚させる才能があるといっても、何かの切っ掛けで相手が「こいつ、偽者だ」と確信すれば、徐々に等々力の成り済ましは力を失う。
等々力は檻の中を見渡したが、檻の中はすでに別の清掃員が清掃してあるので汚れはない。
等々力はそれでも後藤老人ならと考えた。檻の中を職人が仕事を確認するように厳しく点検する。
わずかに残ったゴミがあった。
等々力は「たく、しょうがねえな。これだから最近の若い奴は」と一人呟き、ゴミを拾って檻の出口に近づいた。
横目でちらりと花子を見ると、のんびりとリンゴを食べる花子の姿があった。
完全に等々力を後藤老人と錯覚しているようだった。
等々力は優しい眼差しを心がけ、一瞥した。
花子はもう、等々力を疑っていなかった。
等々力は心の中で「ミッション・コンプリート」と呟き、頷いた。
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