(16)スピード

 ヘルメットに防風ゴーグルを装着してから初めての走行。小熊の速度感覚は一変した。

 それまで自転車の全速漕ぎ以上の速度を出すと、風や空気中に浮遊するゴミで吹きっさらしの目が痛くなり、まともな視界など望めなかったが、ゴーグルを装着すると停止状態と同じ状況で物を見ることが出来る。

 さっそく装着して走り出したホームセンターから家までの帰路。体感速度の違いに気付いた小熊は、自宅アパートのある県道へと曲がる交差点を直進し、甲州街道を北西へと向かう。

 今まで母の車で買い物に行った時に数えるほどしか通ったことの無い道。平日の昼下がりで前後に車は無い。小熊はこのカブを買って初めてアクセル・スロットルを全開にした。

 カブのスピードが上がっていくのが、エンジン音と風切り音で感じられる。ゴーグルで守られた視界はクリアで、道もメーターもよく見える。

 スピードメーターの針は頂点に達し、今までほとんど縁の無かった右半分の領域まで進んでいく。


 メーター目盛りの後半、そのまた半分まで針が進んだあたりで、小熊は速度に恐怖を覚え始めた。

 今までは風という制限があったおかげでここまで飛ばすことは無かったが、現在の小熊はゴーグルを着けているおかげで、スピードそのものを直視することが出来る。

 小熊はスロットルを戻し、メーターの針が真上に来る巡航速度に戻した。遅い。カブを降りて自分の足で走っているんじゃないかという錯覚にとらわれる。

 市街地を離れて周囲が農地ばかりになった道はどこまでも続き、終わりが見えない。

 小熊はもう一度スロットルを開けた。このスピードなら今まで見えなかったものを見に行くことが出来る。

 カブは加速を続けた。エンジンは極めて快調で、スピードメーターの針は目盛りの終わりまで達しようとする。

 前方に車を見かけた小熊は、慌てて前後のブレーキをかけた。ロードサイドの店舗からろくに確認もせず出てきた車に追突しそうになる。


 なんとかぶつかるのを回避したと思ったら、冷や汗を意識する間もなく後方から別の車が近づいてきた。

 いつもなら道の端に寄って追い抜かせていたところだけど、小熊はカブを加速させる。

 さっき追突しそうになった前方の車が、この国道の平均的な巡航速度で走っている。小熊はカブの速度を調整し、適度な車間距離を取りながらついていった。後方の車も車間を開けつつ小熊の後ろにつく。

 多くの車が自然に作る流れに合わせて走る小熊。このカブに乗って以来、小熊は初めて車道を走る者の一員として参加している意識と自覚を持った。

 礼子は既にこのスピードを知っているんだろうかと思った。きっと、彼女が見ているのはもっと速い世界だろう。そういえば礼子の郵政カブに取り付けられた改造部品の一つ、青い文字盤のスピードメーターには、一二〇kmまでの数字が刻まれていた。

 小熊は自分のカブのスピードメーターを見た。原付には必要充分な数字が印刷された目盛りの上で、もっと前へ、もっと先へと手を伸ばし、自分より速く走る者を追いかけるように針が傾いていた。


 そのまましばらくカブで走っていた小熊の前方に、青い看板が現れる。

 国道の行き先である、松本までの距離が表示された案内看板。

 このカブであの看板に書かれてる距離を走れば、どこか違う街まで行けるんだろうか?そう思った小熊は、カブは自転車とは違って、走れば走るだけガソリンを消費することを思い出した。

 荷物箱の装着とヘルメットの防風対策は予想外の低予算で済んだけど、今までの蓄えをカブ購入で吐き出してしまったことで、今月の財布は少々厳しい。

 小熊は前後の車が途切れたタイミングでカブをターンさせ、アパートへの帰路についた。

 見たことの無い街への興味は無いこともなかったが、今日初めて味わったこのスピード感覚は別の経験で塗りつぶすことなく、大事に持って帰りたい。

 お菓子だって甘さに舌がする前に袋の口を閉じ、少しずつ食べて何度も後味を楽しんだほうがいいに決まっている。

 カブで一般車の常識的な速度を何の抵抗も無く出せるようになった小熊は、あっさり日野春駅近くのアパートに着く。

 ラジオくらいしか娯楽をもたらすものの無い部屋だけど、きっと今夜は楽しみな気持ちと共に眠るんだろうと思った。

 駐輪場からアパートの部屋までの数十mを歩く小熊は、想像の中でカブに乗って走っていた。

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