(15)インターネット

 小熊は今日も礼子と一緒にお弁当を食べた。

 最初は礼子からの一方的で強引な誘い。それは今も変わっていないけど、今日は昼休みが待ちきれない理由があった。

 もう昼食の定位置となったカブのシートに落ち着いた小熊は、お弁当を広げながら言った。

「ヘルメット、見せて欲しい。その、食べた後で」

 小熊には、まだ友達かどうかもわからない礼子に対し、こっちの一方的なお願いで昼食の邪魔をしてはいけないという気持ちもあったが、礼子は「ん、いいよ」とあっさり答えた。

 礼子は黒パンにチーズを挟んだお弁当を片手で食べながら、もう片方の手で後部の大きな郵政業務用ボックスを開け、中に入っていたヘルメットをつかみ出した。そのまま小熊にポンと放ってくる。

 小熊は慌てて自分の弁当箱を抱え込みながら、礼子のヘルメットを受け取った。

 初めて見るわけではない。礼子が登下校時にかぶっている見慣れたヘルメット。

 オフロードタイプのフルフェイスヘルメットで、青い帽体に赤いバイザーがついている。それから、目を覆うゴーグル。

「被ってみたら?」

 小熊は弁当をカブの荷物箱の上に置き、礼子のヘルメットを被った。顔の露出する小熊のヘルメットとは違う。閉鎖された場所から別世界を見るような視界。

 礼子の郵政カブは環境や騒音の規制でパワーを落とされる前の原付で、礼子の手に渡って以来あらゆる改造が施され、かなりの速度が出るという。

 小熊がカブで達することの出来る速度を大幅に上回る速さの中では、この閉塞感が安心につながるんだろうと思った。

 フルフェイスのヘルメットを被った自分の姿をカブのミラーに映してみる。制服に似合わない。


 小熊は脱いだヘルメットを返す。礼子は受け取ったヘルメットを無造作にボックスに放り込んだ。

「それ、いのかな」

 礼子はボックスの中のヘルメットより小熊のほうを見て言う。

「ヘルメットの値段は守るものの値段って言うしね。それなりに。これでもあなたのメットと同じくらい値は張るわよ」

 小熊は自分のヘルメットをボックスから取り出す。片手で抱えたお弁当にはほとんど手をつけないままヘルメットを見つめ、言った。

「風が当たらないようにしたい」

 礼子は手を伸ばし、小熊のヘルメットに付いているスナップボタンに触れながら言った。

「シールドね、売っているわよ」

「どこに?」

「この辺で一番近いバイク用品ショップは甲府かなぁ」

 小熊は考え込んだ。埼玉の製造元まで買いに行かなくてもいいことはわかったが、ここから二十km少々ある甲府の街は、はたしてカブで行ける距離なんだろうか。

 カブで遠くに行くために必要なものを買いに行きたいのに、その店に遠くて行けない。服を買いに行く服が無いというデパートのキャッチコピーを思い出した。

 小熊とヘルメット、そして全然減っていないお弁当を見ていた礼子は、郵政カブのシートから立ち上がった。

「買いに行けるわよ。今から」

 礼子はそう言うと小熊の腕を引く。小熊は食べかけのお弁当を抱えながらついていった。


 昼休みの図書室には何人もの生徒が居た。

 礼子は書棚のある場所とは別のスペースに歩いて行く。デスクトップのPCが並ぶ一角。

 既に置かれている幾つかのPCの前には生徒の列が出来ていて「一人十分まで」という張り紙が掲示されている。

 図書室を見回した礼子は教師の姿を見かけ、呼び止める。

「生活に必要な用件のために使いたいんですが」

 小熊は顔を知らないが、礼子とは面識があるらしき教師は図書準備室を指差して言う。

「あっちのPCを使っていいわよ。内装工事中だからちょっと騒がしいけど」

 手短に感謝を述べ、勝手知った様子で図書準備室に入る礼子。小熊も教師にペコリと頭を下げてついていく。

 図書室と同じくらい広い部屋の中に書棚や事務机がある図書準備室。隅では作業着姿の男性がこちらを見もせずに壁材をがす工事をしている。

 机に置かれたノートPCは電源が入っていた。椅子に座った礼子は小熊にも座るよう促し、駐輪場で食べかけていた弁当を口に運びながらマウスを操作した。


 小熊は一緒に暮らしていた母が失踪して以来、ネットというものをしたことが無いのを思い出した。

 母と一緒に暮らしていた頃には自宅にPCがあったが、その時もネットで何かを見た記憶はほとんど無かった。

 ノートPCが置かれた机にかぶりつくようにキーボードとマウスを操作している礼子は、ブラウザを立ち上げてスタートページからURLを打ち込み、幾つかのサイトを開いた。

「ちょっと! ちょっとこれだけ見させて! すぐ終わるから! 出物がないか見るだけだから!」

 アメリカと中国の大手ネットオークションショッピングサイトで、自分の欲しい部品を検索した礼子は、五分ほどで探し物を終え、満足した様子で小熊を見る。

「え~と何だっけ? そうだヘルメットのシールドね、もちろん忘れていないわよ」

 礼子と席を替わった小熊は、食べかけていたお弁当を口に運びながら、モニターの向こうに広がる自分の知らない世界を見ることとなった。

 ネットを見た小熊の感想は、これは必要がある時だけ見るもので、遊びや暇つぶしで行くようなところでは無いということ。

 とりあえず今必要なのはヘルメットの防風。前回の箱に引き続き礼子に解決を委ねるのは良くないと思ったけど、本人が乗りに乗って調べてくれるから、それに乗っかることにした。

 今まで困難や悩み事にぶつかった時は、自分の力で解決するものだと思っていた小熊は、カブに乗るようになってから、流れに任せ人に頼り、事態の好転を待つのもまた一つの方法であることに気付き始めた。

 相手は風という小熊の力ではどうにもならない自然現象。もちろんカブも小熊よりずっと強い。まともに相手をして勝てるものではない。


 礼子はバイク用品通販大手のページを開き、小熊の使っているアライ・クラシックのシールドを検索する。すぐに結果が表示された。

 ネットでは幾つものシールドが販売されていた。透明な物、濃いスモークカラーやミラー仕上げ、シンプルな形状のシールドからバブルシールドと呼ばれる半球状に膨らんだ形の物。

 モニターの商品棚に陳列されるシールドを見た小熊は、開口一番感想を述べた。

「高いなぁ」

 純正品から社外品まで、幾つかの一万円近くするものは論外として、シールドの価格帯は三千円台後半から四千円台くらいのものが多い。比較的安いと思っても送料を上乗せすると高くなる物もある。

 礼子が操作を手伝い、他の通販サイトを見ても価格は似たようなもの。

 今月の残金を頭で計算した小熊は、痛い出費だけど安全を守るためならしょうがないのかなぁ、と思いながらPCを操作した。きっとこの散財と引き換えに、次の奨学金支給まで食事はとてもわびしいものになる。

 必要な部品が欠品になることなく、お金を払えば自由に手に入る。それが常に部品の生産中止と戦うバイク乗りにとってどれほど幸せなことかをまだ知らない小熊は、お弁当の箸をくわえながらしかめっつらをする。

 礼子はまた「ちょっと、ちょっとだけ見させて!」と言って国内オークションのサイトを開き、一般の流通にはなかなか乗らない郵政カブの中古部品を検索している。


 通販サイトを行ったり来たりして、比較的マシな値段のものを探していた小熊は、モニターを指差して言う。

「こんな大げさでなくていい」

 目に当たる風を何とかするための買い物。小熊は通販サイトに出ているような顔を全て覆うシールドを必要としていなかった。目が守れれば充分だし、口周りはマフラーでも巻けば何とかなる。

「あのヘルメットみたいなのがあれば」

 礼子のモトクロスヘルメットについていたゴーグル。あんなのでいい。どうせ同じくらい出費させられるなら、目を守りつつ風は感じられるほうがいい。

 小熊の言葉を聞いた礼子は、ゴーグル、と検索ワードを変えて探す。今度は値段もデザインも色々な物が出てきすぎて小熊は混乱してしまった。

 モニターから一方的に押し付けられた情報に少し疲れた小熊は、椅子に座りながら背伸びをする。内装工事中の図書準備室。隅には脚立に乗って壁材をがしている人が居る。

 作業服上下の男性。手にスクレイパーを持ち、壁のクロスを剝がすだけの作業には過剰装備気味なマスクと防護眼鏡をしている。

 ダイビングに使う水中眼鏡のような、消防隊員の人が着けているような、ふんじんや薬液から目を守るゴーグル状の眼鏡。小熊は突然PCチェアから立ち上がった。

 作業員のところまで小走りに歩み寄った小熊は、何事かとこちらを見る作業員に向かって言った。

「おじさん、その目につけているそれ、何ですか?」

 作業が終わりつつあって暇だった作業員はわりと丁寧に教えてくれた。これは保護眼鏡だということ。丈夫で着け心地がよく、バイク用に使っている人も多いこと。欲しいならウチの出入り業者に注文してあげてもいいけど、届くのは翌週になるし、その辺のホームセンターや作業用品店でも売っていて値段も安いので、そっちで買ったほうがいいだろうということ。

 一通り教えてもらった小熊は深く一礼してPCデスク前に戻る。

 小熊はPCのモニターを指差しながら、なぜか小熊を見てくすくす笑う礼子に言った。

「ごめん。それいらなくなった」


 収穫があったような無かったような昼休みを終えた小熊は、午後の授業が終わるのも待ちきれぬ様子で教室を飛び出し、もう何度か行ったホームセンターまでカブを飛ばした。相変わらず風は目に当たる。

 作業員のおじさんが教えてくれた通り、保護眼鏡はホームセンターの保安用品コーナーにあった。

 黒いゴム製の枠に透明なレンズがはめこまれ、スポンジのクッションがついたシンプルなモデル。

 目に当てて売り場にあった鏡を見る。顔の半分を覆い隠す大げさなゴーグルだけど、不思議と格好悪くは見えなかった。

 レジに行って支払いを済ませる。千百円。これがいい買い物になるか無駄遣いになるかはこれから決まる。カブに乗るようになって以来、こういうワクワクが多くなった。

 ゴーグル一つだけの買い物を終えた小熊は、カブをめた駐輪場に戻ってヘルメットをかぶり、さっそく包装を解いたゴーグルのストラップを調整してヘルメットの上から着ける。

 小熊の顔の半分を覆う大型のゴーグルはヘルメットの開口部に測ったようにフィットし、視界の狭まりもほとんど無い。

 目を守るゴーグルを装着した小熊は、帰路につくべくカブで幹線道路に出た。

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