第7話 救いの手

 濃紺の空が白んできた。灰色の濃く、どんよりと厚い雲に阻まれ、太陽の姿ははっきりとは見えなかったが、朝日が昇ってきたようだ。


 裏路地で一時間ほどうとうとしただけで、ほぼ一睡もしていないに等しいクレメンテは、鉛のように重い体をひきずるようにしながら歩いた。背後からは眠そうに半分目をつむっては、ブルブルと首を横に振るジルが、その後ろから、ナギルとサレハがついてきていた。

 ナギルとサレハも同じく眠っていないのだが、彼らは別段疲れた様子も見せず、オレたちのゆっくりとした歩に合わせて黙ってついてくる。そういう訓練を受けてきたのか、こういった逃亡生活に慣れているのだろうかと、クレメンテはぼんやりと思った。


 港から西へ向かい、街の中心部へ出て、大通りを北へ進むとヘナジジ地区だった。ヘナジジ地区はモヘレブの下町として知られている。色とりどりの看板を掲げた小さな露店が所狭しと並んでひしめき合っていた。いつもなら店頭に座ってボードゲームを楽しむ老人や、お茶を飲んで談笑するご婦人方の姿も見えるのだが、まだ朝の七時前ともあって、朝食を売るなどの店が開店準備をする店がちらほら見えるだけで、人通りもまばらだ

 中心街に近い、露店の並ぶアーケードを抜けると、道は緩やかな上り坂になっていた。坂を上りながら土塀で囲まれた入り組んだ細い路地どんどん進んでいく。迷路のような住宅街を進んでいくと、右手に半地下に下っていく階段のある建物が見えた。入り口に掲げられた看板には、何年前に書かれたものだろうか。破れていたり、インクが薄くて読めなくなっている羊皮紙が乱雑に貼られている。柱の目立つ部分にはいたるところに落書きがされており、店内は入り口に入らない限り暗くて見えない。薄汚いカフェ。そこがシャクス・マルーフの店だった。

 

 そもそも開店しているのか確認するため、半地下の入口へと続く暗い階段を降りかけた時、背後から、大きな野太いだみ声がした。


「待ちくたびれたぞ、クレメンテ!遅かったな!!!」

 

 クレメンテ・ドゥーニの考えは、いつもツメが甘い。ジョゼッフォ・バイロウの使用人であったクレメンテの行動は、その主人にはとっくにお見通しだったようだ。マルーフの元にはバイロウが差し向けた追手がたむろしていた。


 階下では、我先にクレメンテを捕らえて報奨金を得ようと、追手が各々の武器を持ち、狭い店の入り口に詰まって押し合いへし合い駆け上がろうと蠢いているのが見える。


「ヤバいっ!逃げるぞ!!!」


 叫んで階上を振り向いた時には最後尾にいたサレハが、階上の追手を二、三人、長槍の柄で薙ぎ倒し、退路を作っていた。階下から襟首をつかもうと手を伸ばす男をすんでのところでかわし、クレメンテは、自分の背後で慌てふためいているジルの背中を押しながら階段を一目散に駆け上った。


 サレハ、ナギル、ジル、クレメンテの順に細い路地を一目散に駆け、さっき上ってきた坂道を転がるように下った。道が入り組みすぎていて、どの道が元来た道なのかすら分からなかったが、とにかく走る。下って下って、この細い路地の入り組んだ住宅街よりは、人通りが多いであろう露店の並ぶアーケード街に逃げ込もうと、無我夢中で走る。


「……あっ!!!」


 寝ていないせいもあったのだろう、足がもつれてジルが走っている途中で前のめりに転んだ。前に一回転するほど派手な転び方に驚いたほどだ。


「大丈夫か!?」


 クレメンテは転んだジルを5メートルほど追い越して戻ろうとした。クレメンテの声にナギルとサレハも鼻先で立ち止まって振り返る。


「……だっ……大丈夫!追いかけるから!……先、行って!!!」


 ジルが痛そうに顔を歪め脚をひきずりながら起き上がろうとしている。強がりを言っているのは明白だった。ジルの背後30メートル後ろに追手が見えた。遠くの追手とクレメンテの目が合う。


「いたぞ!こっちだ!!!」


 仲間を手で合図を送り呼ぶ声が聞こえてくる。


「……くそっ」


「……いいって!先行けよ!!!」


 クレメンテは嫌がるジルに駆け寄り、無理やり肩を貸して、とにかく前へ、走り始めた。

ナギルとサレハが背後に回り、いつでも武器を振り回せるように、鞘に手をかけ続く。


 クレメンテには分かっていた。バイロウにだけは再び捕まるわけにはいかない。

 捕まったが最後、今度は奴隷として売られるだけで済まないことが分かっていたのだ。見せしめとして死んだ方がましだと思えるような凄惨な拷問を受けた後、殺されるだろう。殺された後も遺体にどんな辱めを受けることになるか分かったものではない。

 特段頼まれたわけでもないのにジルを勝手に逃がした以上、クレメンテにはジルをそんな目に合わせてはいけない責任があると感じられた。少なくともジルだけ放って逃げるようなことをしたら、クレメンテ自身が一生自分のことを許せないんじゃないかと思っていた。


「こっちだ!こっちからも挟み撃ちだ!!!」


 足を痛めたジルを引っ張りながらできるだけ速足で進もうとすると、前からも追手の声が聞こえてきた。

サレハに背後を任せたナギルが半月刀を引き抜き、クレメンテたちの前に回り込んでくる。

 自分たちのために無駄な戦いに巻き込まれようとしている、ナギルとサレハにオレは、申し訳ないと思った。ジルと自分が捕まれば、少なくとも彼らに迷惑がかかることはないだろうとも思う。


――バイロウに、投降すべきだろうか?


 挟み撃ちされた今、前後から多勢の荒くれ者に囲まれ万事休すクレメンテは、本気で考えた。


――オレさえ捕まって、バイロウに謝罪をして、一生あいつの下でただ働きする代わりにジルをお咎めなしにすることを懇願すれば許してもらえないだろうか?


 クレメンテの考えはいつも甘い。そんなことは自分でも分かっていた。


――多分、ジョゼッフォ・バイロウはそんな甘い男じゃない。でも……


 クレメンテは半ばパニック状態になりながら、脳をフル回転させて自分に今できる最善のことを考えたが、それ以上の考えは絞り出せなかった。


――限界……か?


 そう思った時だった。


「早く乗れ!!!」


 正面に集まってきていた追手たちのみならず、アーケード内で露店を開店させようと準備していた人々をも蹴散らし、荷馬車が一台、クレメンテたちのほうに突っ込んできて、車輪を軋ませて止まった。


「早くっ!早く乗れ!!!」


 御者がクレメンテの顔をはっきりと見ている。

 クレメンテはその男を知らなかったが、彼が人違いをしている風には見えない。また、この際、人違いでもいいとクレメンテは思った。クレメンテは急いで二度頷き、突然のことに呆然としているジルを荷馬車に押し込み、自身も荷台に飛び乗った。


「サレハ!ナギルも!!!」


 サレハはクレメンテの言葉に従うべきか一瞬戸惑ったようだった。

ナギルの方を見つめたサレハに気づかないまま、ナギルはクレメンテの後に続いてひらりと荷馬車に飛び乗った。それを見て、置いて行かれないように慌ててサレハも後を追う。


 御者はサレハが地面を蹴った瞬間に馬を思い切り鞭打った。馬車が再びものすごいスピードで走り出す。オレたちが華麗に逃げ去る様をぽかんと見送ることしかできない追手たちの間を、馬車はガラガラと大きな音をたてて駆け抜け、アーケード街をあっという間に後にした。

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