10 探す



 炎の壁が高く燃え上がり、地下の闇を払う。魔法の業火であぶられた戦場を囲む土手の向こう側には、すぐ側の地獄と見まがう光景と対極を成す、絶景が広がっていた。


 泥の空堀の向こうには、段々畑のように積み重なった大小の池。石灰石で白く縁取られた池は、岩壁から染み出し伝い落ちる清水をたたえている。池は上の方にあるものほど岩が白く、底が見えるほどに水が澄んでいた。

 池のふちからあふれ出た地下水は次から次へ、下へ下へと流れてゆき、一番下の大きな池へと溜まって、そこから向かって右手にある地の底の谷へと、ひとすじの滝を作っている。

 大きな池の水は闇と炎のゆらめきを映して、たゆたっていた。漆黒と混じりあった赤の色が光るたび、池を満たすものが皿に注ぎ入れられた濃いぶどう酒にも見える。

 その光景のあまりの不思議さに、大いなる存在の意思を感じずにはいられない。半円形をした幾百もの皿を前に横にとずらしながら、だれかが天へと重ね上げたかのようだ。これが自然な水の流れとそこへ溶け込んだもので出来た、まったくの天然物であることが信じがたい。


 魔法の炎が上がるまで闇の中にあって、戦場の誰にもかえりみられることがなかった得も言われぬ光景の全容に、王女はある日のことを思い浮かべた。

 それは、小さな二人が顔寄せ合ってのぞきこんだ本の記憶。博士の図入り辞典に、この景色によく似た絵があったのだ。

 その時は従者でなく、騎士隊長の息子でただの幼なじみであった少年が、いつかきっと自分の目で見てみたいと、その絵に瞳を輝かせていた。

 辞典の図解よりも当然に、この目で見る本物は美しい。

 王女は、これほどに見事な光景をこうしてこの目にするまでは、これの三割にも満たない線画の景色ですら絵作者の想像の中にしかないものではないかと、どこか疑って思っていた。


 まぼろしでないこの世の景色を高みから改めて目にし、しばし立ち止まってながめてしまっていた王女は、ここがどこの窓辺であるのかを思い出して、また歩を進めた。

 片手には抜き身の剣。いつどこで異形の王と対峙してもいいように、鞘から抜き放っている。

 そうして張り詰めていたはずの気がゆるみ、意識が思い出へと逸れたのは、敵の根城にうがたれた穴の外、岩壁をくり抜かれただけの窓の向こうへと絵にも描けない景色が広がっていたから、というだけではない。


 そこへ上階からルクセルが下りてきた。見落とした部屋や、それにつながる隠し扉や通路がないかと今一度、空っぽの上階を見に行っていたのだ。

 丸腰の旅人は、剣をさげた王女へと告げた。


「どこにも誰もいない。赤玉の王は、どこだ?」


 王女もそれを、誰かにたずねたいところだった。

 だがこの城には、それをたずねる相手すらいない。城に入ってすぐの広間にも、その両脇に並んで口を開けた大小の洞穴の小部屋にも、そしてこの、書棚がいくつも設えられた部屋にも人の気配はなかった。


「もぬけのから、というやつか」


 そう言ってルクセルは、書物が詰まった、ほこりだらけの書架を見やった。

 本はどれも古く痛んでいて、背表紙がはがれ落ちているものもある。それらを収めた書架は見るからに間に合わせで作られたものらしい。削りすぎた天井を支えようとしたのか、無造作に立てられた柱を梁で繋ぎ、その下の空間に板を渡しただけの簡素なものだ。


 書棚の木材を見る限り、坑道のあちこちから失敬してきたもので作られているようだった。他には、地上から奪ってきたものらしい立派ないすが二つと、大きな木の机がひとつ、岩をうがっただけのでこぼこの壁に寄せて置かれている。

 窓の側に置かれた鉄の燭台はどれもさびだらけで、溶け残りのような小さなろうそくがいくつも刺してはあるが、火のついたものはひとつもない。天井から直に吊るされた木製の燭台の、いくらかましなろうそくの明かりだけが、部屋を照らし出している。

 この部屋だけが明るいが、他に目につく物もない。乱雑に立てられて迷路のように入り組んだ書架を覆う布の仕切りは、ほこり除けの役目も果たせず、梁から力なく垂れ下がっている。窓から時折入ってくる風はどこで生まれたものなのか、汚れた布をほのかにゆらしていた。


 汚れたなりにも家具や布があるこの部屋だけが、だれかが暮らす気配を感じさせる。もしくは、家具のひとつもない他の部屋のあまりにも殺風景な様子に、王女がそう思ってしまっているだけかもしれないが。


「ここの本は、なんでしょう? 学術書に見えますが」


 ついさっき、講義には必ず本を抱えて現れる博士のことを思い出したせいか、王女は熱心に書物を見やっている旅人へ、そうたずねていた。


「そうらしい。博物誌に薬学、医学、他にもいろいろ。魔術のもある」


 答えたルクセルは、今度はその目を窓の外へと向けた。

 決して朝日の昇らぬ地下の城に窓がいるのかと思う王女だが、意外や、幾百も重なる池をながめるためなのかもしれぬと考えて、そちらへ目を向ける。しかし、ルクセルの涼やかな瞳は、燃え上がる砂州を映していた。

 王女も、父王と勇敢なる兵士たちを囲む炎の壁へと目を移す。じわりじわりと囲いをせばめる魔法の炎は魔術師の指揮を受け、振るった両腕に合わせて、風もないのに揺れていた。


「ここは、あの魔術師の部屋かもしれませんね」


 改めて部屋をながめた王女はその目をまた、得も言われぬ光景へと戻した。ルクセルは王女の視線の先とその心懸かりをわかっていて、けれども、そちらを確かめもせずに窓へ背を向けた。

 あちらのことは、すべて任せたのだ。ここでじっと窓の外を見つめていても、彼の代わりは出来ぬ。それと同じに、この城へいない者に異形の王は討てまい。

 赤玉の王を探すことが、こちらの役目だ。下の階には足を踏み入れていない場所も多い。ルクセルは部屋の外の階段へと歩みつつ、王女に言った。


「彼なら、一人でもやれる」


 できると信じていないのなら、父王と皆の命を彼一人に任せはしない。

 王女は振り向き、土手で別れる前に幼なじみがそうしたように、うなずきでルクセルに答えた。その目はもう、窓の外へは向いていなかった。



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