過去に戻れたら

黄舞@9/5新作発売

第1話

「ねぇ。あなた。もし、一度だけ過去に戻れたら。いつにいきたい?」


 ふいに妻は顔だけを私に向けそう聞いてきた。もし過去に戻れたら。誰しもが一度は考えたことのある話。そんな何気ない質問が大きく私の心を揺さぶった。


「どうしたんだい? 紗代子。突然そんな質問して」

「ねぇ。いつにいきたいと思う?」


 私の言葉を半ば無視するかのように、同じ質問を繰り返す。仕方なく私はその話題に乗ることに決めた。


「過去に戻れるって一度だけかい? やり直しは無し?」

「ええ。一度だけよ。やり直しは無しなの」


 私は少しだけ考えた後、在り来りな答えを出す。


「宝くじの当選番号や高額な馬券の番号を調べてからそのちょっと前に戻るってのはありかい?」

「ダメよ。戻ったら今の記憶は失うの。未来は変わるかもしれないけれど。あなたは戻った時代の記憶しか無いの」


 これは厄介だ。と私は思った。記憶を持ち越せないなら戻る意味が果たしてあるだろうか。目の前の妻の姿に目をやる。妻は何が可笑しいのか、いつになく笑顔を湛えていた。


「うーん。それなら、前に紗代子をカンカンに怒らせた日があったろう? あの日に戻って怒らせないようにするかなぁ」

「まぁ! あれはどう転んでも無駄よ。あなたの性格ですもの。きっと私を怒らせるに違いないわ」


「じゃあ、もっと前に紗代子と出かけた旅行。あれは楽しかったから、あれの直前に戻ってもう一度その楽しさを経験するってのはどうかな?」

「ふふふ。それは楽しそうね」


 妻の弾んだ声に、私は次の言葉を紡ぐ。


「いっその事、紗代子と付き合い始めた頃に戻ってまた一から楽しむってのもいいな!」

「……ねぇ。あなた。私と出会う前に戻りたいとは思わないの?」


 そういう妻は笑顔だが、どこか悲しさを覚えさせる様な目付きをしていた。


「そんな訳ないじゃないか。何を言い出すんだ。急に」

「いいの。もし、そう思っても私は何も言わないわ。私とあなたが出会ったのは偶然だもの。少しでも、私達だけじゃない誰かが少しでも気が変わっていたら出会わなかったはずよ……」


 確かに私と紗代子の出会いは、数々の偶然が折り重なって起こった奇跡とも呼べるような出来事だった。


 私も紗代子もその日開催されたSNSのイベントに参加し、そこで少しの時間だけ一緒に過ごしたというのがきっかけだった。


 私も妻も普段参加しないようなイベントだった。私は長い連休の最後の日、あまりにも暇を持て余し、普段見ることの無いグループのイベント募集を見に行きそこでたまたま見つけたイベントに当日参加を決めた。


 妻は海外から遊びに来た友人達と参加したのだが、その理由もまた偶然だった。嘘みたいな話だが格安チケットを手に入れようとした友人は詐欺に会い、日本での旅行資金の大半を失ってしまった。


 そのため本来なら別の地域に行っていたはずのあの日、予定にはなかったイベントの参加を決めたのだ。他にも元々参加しようとしたのは別のイベントだったとか、偶然と言える出来事は枚挙に暇がない。


「あの日に戻ったとしても、きっと僕らは出会っているさ。そういう運命なんだ。それこそ、紗代子は戻れるとしたら、いつに戻りたいんだい?」

「私? 私はね、戻りたいなんて思わないの」


「どうしてだい?」

「私がいつに戻ったとしても、きっと同じ人生を歩むもの。記憶が無くても、有ってもね」


「紗代子は今の人生に満足なのかい?」


 聞いた自分の声が酷く乾いていることに気付く。言ってから自分の言葉を消してしまいたい。今すぐ直前に戻りたいと思ってしまう。


「ええ。満足よ。この上なくね。大変な事も沢山あったけど、それ以上に楽しい事、嬉しい事がいっぱいあったもの。でもね……」


 妻の紡ぐ言葉に相槌すら打てずに、私は口に手を当て必死で自分の感情を押し殺す。


「私、過去には行きたくないの。私が生きたいのは未来よ。あなたとの幸せな人生、きっと大変な事もまた沢山あるだろうけど、素敵な事がいっぱいあるはずよ。それが私の人生の唯一の心残りなの」


 私は思わず妻の手を握りしめる。初めて繋いだ時は滑らかだった手も、今では張りを失ってしまっていた。薬指にはめていた結婚指輪は痩せ細った指から抜け落ちるため、今ではチェーンを通して首から下げている。


 その首も上にある顔も、ふくよかだったあの頃からは想像もできないほど痩せこけ、シワが至る所に刻まれていた。身体中から細いチューブやケーブルが伸び、点滴や心電図へと繋がっていた。


「あなた、ごめんなさいね。あなたとの未来を生きられなくて」


 私は何も言えず、ただ、妻の手を強く握りしめ嗚咽を零すことしか出来なかった。

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