3.間違った正義と必要な悪

 アイテムボックスから入手した星型アイテムで、ヒゲと赤い帽子がトレードマークの配管工のおっさんが乗ったカートが虹色に輝く。BGMもテンポが速い忙しないものとなる。

「無敵タックルを喰らいたくなければ、そこをどけ」

「当たらなければどうということはありません」

 クロガネの警告をものともせず、不敵に返す美優。

 ピンクのドレスを来た金髪のお姫様は、虹色に光るおっさんが背後から接触する寸前に温存していたアイテム――白玉模様の入った赤キノコ三本のうち一本を使用。急加速で距離を取り、おっさんの無敵タックルから逃れる。

「速さが足りません」

「次は当てる」

 早めに朝食を済ませたクロガネは、美優の誘いに乗ってテレビゲームで遊んでいた。ハードもソフトも相当古いものではあるが、世界的に有名な某なんでもありのレースゲームに、二人は思いのほか熱中している。

 レースは終盤。現在、美優が暫定トップで先行し、他のNPCを蹴散らしながらクロガネが暫定二位で追い掛けている。

 コースの途中に設置されているアイテムボックスから、クロガネが操作するおっさんが、亀の甲羅(緑)三つを手に入れ、すぐに使用。おっさんのカートを囲むように緑色の甲羅が現れ、ぐるぐると旋回する。そこに追い上げてきた後続のNPCが甲羅の一つに接触し、派手なエフェクトと共に吹き飛ばされて後退した。甲羅の残弾はあと二つ。

 先行する美優のお姫様に向けて甲羅を射出。これを鮮やかなドリフトカーブで難なく避けるお姫様。だが最初の一発はただの牽制。ドリフトからの立ち上がりには隙ができる。

 最後の一発をお姫様が走るコースを先読みして射出する。放った甲羅は狙い通り、吸い込まれるようにお姫様のカートに直撃……する寸前で、再び赤キノコ使用による急加速と美優の繊細なマシンコントロールでこれも回避される。

「これも躱すか」

「赤なら直撃でしたね。残念でした」

 赤い甲羅は緑と違い、前車を追尾してほぼ確実に命中するのだ。

 コースも中盤に差し掛かる。ここにはジャンプ台が設置されており、文字通り谷越えである。そしてその先に待ち構える六連続ヘアピンカーブと最後の直線を抜ければゴールだ。

 突然、ジャンプ台手前でお姫様が急ハンドルを切り、車体を横にして直角でジャンプ台に進入したかと思えば、最後の赤キノコで急加速。通常ならあり得ない角度、あり得ない方向にジャンプする。谷越えの次に控えた六連続ヘアピンカーブを無視して、ゴールに最も近い直線コースに着地する。

「なん、だと……」

 さしものクロガネも驚愕する。

 初見であるはずの、このコースのショートカットを見抜いたというのか。

 驚くのも束の間、さらに美優は恐ろしい罠まで仕掛けていた。

「あ」

 気付いたが、もう遅い。

 おっさんのカートが、ジャンプ台の上に置かれたバナナの皮を踏む。当然スリップし、ジャンプに失敗。谷底のコースに落下し、後続車は次々と谷越えを成功させ、クロガネの順位は二位から最下位に急落する。

「あっという間に順位が落ちましたね。転落だけに」

「うるさいよ」

 一位でゴールした美優の余裕あふれるコメントにツッコむクロガネ。

「……前の周回で、キノコを手に入れる前にバナナを仕掛けていたんだな」

 ビリが確定したのでメニュー画面を開き、リタイアを選択する。

「また私の勝ちですね。クロガネさん、弱いです」

 ドヤ顔をする美優。少しずつだが色々な表情を見せるようになってきた。そして彼女は意外にもゲーム好きであることを知る。レース以外のゲームでも、クロガネは美優に対して一つも勝ち星がなかった。

「ゲームは不慣れな上に、君が強すぎるんだよ。呑み込みが早すぎるだろ」

「私の頭脳は優秀ですから」

 『AI』ではなく『頭脳』と表現する辺り、会話の中でも進歩が見られるようになった。まだ危なっかしいが、自身がガイノイドであることに繋がるような言動はしなくなってきたように思う。整い過ぎた容姿が良くも悪くも目を引くため、この調子で公共の場所や公衆の面前でも人間らしく、自然に立ち振る舞えられるようになってくれればいい。

「それにしても、結構古いゲームが多いですよね? 大半がオフライン規格の旧型です」

 美優がゲームソフトが収められたケースを覗き込む。

「値段も魅力的だったけど、個人的にレトロなものが好きなんだよ。味があるから」

「年寄り臭いです」

 その台詞は地味に効いた。少しへこむクロガネこと黒沢鉄哉(二一歳・独身)。

「俺の趣味だ、ほっといてくれ」

 キリの良いところでゲームを切り上げ、二人は最寄りの駅に向かう。昨日利用した市内を輪のように周回するモノレールとはまた別の、直線で市の中央を横切る直通電車の南北線に乗る。

 鋼和市の中央区を中心に、ビジネス区と研究区を結ぶ東西線、レトロ区とスラム区を結ぶ南北線。この二本の直通電車と、隣の区画に順番に移動するモノレールが鋼和市の交通の要である。平日は市内の過半数を超える約三万人以上が利用するが、正午前という時間帯もあって列車内は比較的空いていた。二人はボックス席に向かい合う形で座る。

「これから真奈さんのお宅に向かうんですよね? レトロ区にお住まいなんですか?」

「いや、自宅は中央区だ。ああ見えてとても優秀なんだよ」

 東西南北四つの区画を統括する中央区は、鋼和市の行政を司る最も重要な区画だ。市の心臓部であり、頭脳でもある。

 当然、治安にも最も力を入れており、中央区の住民は厳正な審査を通過した優秀な人材ばかりが揃うエリート層なのだ。一方で意外にも他区の住民との間に差別問題はほとんどない。これは市のインフラが充分に整備され、中央とその周辺の行き来による交流が盛んであるためだ。また、多国籍の技術者・研究者やその家族が滞在しているため、差別的言動を避ける暗黙の了解があるのも理由の一つとして挙げられる。

「そういえば」とクロガネが割と重要なことを思い出す。

「君の実家って、どこの区?」

 クロガネは美優に顔を寄せ、声を潜ませて訊ねる。

「生まれは西区の病院です」美優も小声で答える。

 開発されたのは西区の研究所らしい。

「特に注意はされなかったから今更だけど、中央に行くのは大丈夫なのか?」

 元より市民データが登録されているクロガネはともかく、美優は『鋼和市の外から来訪した観光客』という設定だ。中央区では部外者に対するセキュリティは一段と厳しくなっており、もしも美優が鋼和市内で造られたガイノイドであると知られたら少し面倒だ。

「問題ありません、既に手は打って貰っています。万一、不備があったとしても私は優秀です。中央の偉くて頭の良さそうな所に顔パスで出入りできますし、泥棒さん対策もばっちりです。何せ、泥棒さんは私のことを知りませんし、何もできないでしょう」

 市長や協力者の方で対策済み。仮に不備があったとしても、中央区のメインコンピューターに侵入できて、美優を狙う『敵』の対策も万全。美優の顔も割れていない上にクラッキングで情報を盗むことも出来ないだろうから、中央区に向かっても問題ないらしい。

「確かに優秀だな」

「はい」

 優秀と称賛されたことを喜ぶ美優に、クロガネは戦慄を覚える。

 世界最先端のスパコンに侵入など、一体どんなAIを搭載しているのだろうか? 

 感情や心を学習する以前に、元々の性能差が既存のAIと比べて圧倒的な開きがある。

「ん?」

 心なしか列車内の温度が上がった気がする。その原因が美優の髪の毛(に偽装した放熱線)からの排熱であることに気付き、顔を遠ざける。

(近かったか……)

 公共の場でする話題ではなかったため、聞き耳されないように顔を近づけたのだが、美優には恥ずかしかったようだ。端から見れば若い男女がイチャついているようにしか見えず、近くにいる野郎どもの好奇と嫉妬の視線が痛い。帽子を被っているとはいえ、美優の美貌はやはり目立つ。

 離れたことで、美優の髪の毛から熱が引いていく。

「……近かったです」

 美優がジト目で非難してくる。

「すまん」

「いえ、別に悪くはなかったんですが、もう少し時間と場所を選んでくれると助かります」

 満更でもない発言に、またも好奇と嫉妬の視線がクロガネに突き刺さる。殺気も混じっているため、居心地がますます悪くなる。

(……わざと言ってるんじゃなかろうな?)

 クロガネは窓の外、流れていく街の景色を見ながらぼんやり思う。

(……早く着かないかなー)



 海堂真奈の住居は中央区、駅から徒歩二分の一等地にある高級タワーマンションの最上階である。いわゆる億ションというもので、家賃は推して計るべし。

 玄関には強化ガラスで出来た自動ドアがある。傍に備え付けられたインターホンにはテンキーがあり、来訪時には部屋の番号を打ち込んで呼び出した住人に開けてもらうのが一般的なのだが、クロガネはインターホン横に備え付けられたカードリーダーに真奈から預かった合鍵――カードキーを読み込ませる。すると、自動ドアが開いた。

「真奈さんはご在宅でしょう。何故、呼び出して開けてもらわないんですか?」

 美優がもっともな意見をする。

「多分、寝てるから呼んでも気付かない」

「もうお昼近くですよ」

 時刻は十一時四八分。確かに寝過ぎである。

「休日は昼過ぎまで休みたい、という人間は多いのさ」

「日本人は働き過ぎです」

 どちらかといえば、単にズボラなだけなのだが。

 二人はエレベーターに乗り、最上階へ。

 最上階の部屋は一つしかない。つまり、マンションの最上階が丸ごと真奈の部屋だ。

「ウチとは格差を感じますね」

 クロガネも同意するが口にはしない。虚しくなるから。

(『ウチ』、か……)

 特に深い意味はないだろう。

 玄関のインターホンを鳴らす。少し間を置いて開錠され、ドアが開かれる。

 寝ぐせでボサボサになった頭に、眼鏡を掛けた真奈が出迎えた。

「あー、いらっしゃい……」

 今しがた起きたのか、声が少しかすれている。

「お邪魔します」

「どうぞー」

 自宅に招き入れる真奈にクロガネが続き、そして最後に玄関のドアを閉めた美優が口を開く。

「……どうして、下着姿のまま出てくるんですか?」

 真奈の恰好は、アダルティックな黒いブラジャーとショーツに、薄いカーディガンを羽織っただけという露出度が高いものだった。

 ちなみに、真奈のスタイルはグラビアアイドル並みに良い。出るところは出ており、引っ込むところは引っ込んでいる。そして美優の視線は真奈の巨乳に釘付けだ。それはどこか親の仇を見るようでいて、どこか羨むような、複雑な眼差しだった。

「いや、自宅でどんな格好をしてても私の勝手じゃん?」

 そう言って、真奈は右足で左脚を掻く。本当に残念な美女だ。

「私はまだしもクロガネさん……男の人がいるんですよ。恥じらいを持ってください」

 一昨日までは恥じらいを知らなかった奴が説教する側に回るとは。

「お客さんとか宅配便が来た時はちゃんとした格好をするから大丈夫だよ」

「私たちがそのお客さんですよ」

「鉄哉はお客さんじゃないし、

 その発言に美優の表情がわずかに強張り、クロガネはピクリと片眉を上げる。

「……気付いていたのか?」

「まあね」

 真奈に対し、下手な誤魔化しは通用しないことを知っているクロガネは素直に訊ねる。

「いつからだ?」

「昨日、初めて会った時に握手したじゃない? 体温が冷たくて血の気が通ってなかったし、手の平から伝わる骨の感触が人間のよりも硬くて形も微妙に違かった。

 汗腺もなかったから汗も滲まなかったし。

 間近で見たら髪の毛は最新の擬態放熱線。

 義眼は言わずもがな。

 呼吸もしていなかったから人工肺を内蔵したサイボーグの線は考えにくい。

 となると、茶番交じりの会話もこなせる高度な自律プログラムが組み込まれたアンドロイド……女性型だからガイノイドあたりが妥当かなと思ったんだけど、違う?」

「さすがだな」

 概ね正解である。機械義肢を専門にしている医者なだけあって、ことサイボーグやアンドロイドに関連した知識と洞察力は群を抜いている。

「電話の向こう側にいた親御さんも演技なんでしょ?」

「そうだ」

 真奈は少し呆れた風に溜息をつく。

「どういった経緯で貴方の所に来て、本当はどんな依頼なのかはまでは訊かない。美優ちゃんの素性を隠すために嘘を吐いていたのも、見逃してあげる」

「……すまない」クロガネは頭を下げた。

「また無理はしないでよ」

「保証はできない。善処はする」

「まったく……期待はしないでおくわ」

 包容力のある真奈に対して誠実な態度を見せるクロガネ。

 昨日の茶番からは想像できない、そこはかとなく漂う大人の雰囲気と会話に置いてけぼりとなった美優は、

「……とりあえず、服は着てください」

 意図的にその空気を壊してみた。

「えー。別に良いじゃん」

 さっきまでの大人な雰囲気はどこへやら、子供っぽい反論をする真奈。

「だから男性の目もありますから」

「鉄哉はいいのっ」

 真奈、断言。

「完全にクロガネさんが男性として見られていないようですけど、その辺どうですか?」

「俺も海堂を女として見ていないから問題ないと思う」

「ファッ!?」

 真奈、絶句。

「そんなワケないでしょ!? あられもない無防備な下着姿だヨ!? ホントはドキドキするでしょ!? ムラムラするでしょ!? 押し倒しても良いのよ!?」

「しねーよ。エロい以前にだらしないし、色々残念過ぎて完全に守備範囲外だわ」

「そ、そんな……」

 がっくりと打ちひしがれている真奈を置いて、クロガネはリビングに向かう。

「男を振り向かせたかったら、まずは人並みに生活できるようにしろ。とても人を上げれるような部屋じゃない」

 部屋自体は広いため足の踏み場がないということはないが、それでも散らかりに散らかった汚部屋おへやであることには違いなかった。

 脱ぎ散らかした、あるいは取り出してそのまま放っておいた洋服や下着が散乱し、テーブルには大量のビールの空き缶とお菓子の空袋、床にはファッション雑誌や漫画本、ゲームソフトにプラモデルの箱、通販会社のロゴが入った段ボール箱などが無造作に積み重なって置かれている。部屋の片隅には中身が一杯になって、ぱんぱんに膨れ上がったゴミ袋の山があった。最上階から地上一階に運ぶのが面倒なのは解るが、指定された収集日には出してほしい。

 キッチンの洗い場には大量の使用済みの食器が重ねて置かれ、水洗いもされてなかった。無数の小さな羽虫が音を立てて飛び交っており、不衛生な生活環境を嫌でも感じさせる。

「こ れ は ひ ど い」

 さすがに美優も率直な感想を禁じ得ない。

「相変わらずズボラ過ぎる。先週も掃除してやったのにこの有り様とか、一体どういうことだよ」

「借金減額のために何でもするって言ったのは鉄哉ですー。だから掃除ロボットの導入を断念してまで、ちゃんと仕事を作ってあげたんですー」

 開き直ってダメ発言をする真奈。

「借金の弱みに付け込んで家事を強制させるとか鬼ですか? あまりにもだらしないでしょう」

「そんなんだから結婚できないんだよ」

 二人のダメ出しに「グフッ!」と崩れ落ちる海堂真奈(二四歳・独身)。

「……だったら、鉄哉の借金は全額チャラにしてあげよう。その代わり、私を養って」

「ちょっと何言ってるか解りませんね」

「そんな全然ときめかない逆プロポーズをされてもな」

 全然グッとこない。

「どうして? お金なら私が稼ぐし、この部屋に住んでも良いのよ。掃除洗濯料理の家事全般さえこなしてくれれば。おまけに美人な担当医が奥さんとして付いてくる。黒下着の女医さんだよ? エロくない?」

 とりあえず、真面目に働いている全世界の女医さんに謝れ。

「お前は何を言っているんだ? ……この台詞はきっとこういうシチュエーションのためにあるんですかね?」

「間違ってないな」

 美優に同意しながらキッチンの引き出しから新品のゴミ袋を取り出し、手近なゴミから片付け始めるクロガネ。どこに何がしまってあるか勝手知った我が家のような自然な動きである。美優もクロガネに倣い、ゴミを種類別に集め始める。

「鉄哉にも悪い話じゃないと思うんだけどー。私と結婚すれば借金チャラどころか、メリットがたくさんあるしー」

「しつこいですよっ」

 美優の声音が硬質なものを帯びている辺り、機嫌が悪そうだ。

「借金チャラは魅力的だが、それだと俺は金のために結婚するようなクズじゃないか。さすがに却下だ」

「普段はお金にうるさいのに、変なところで真面目ね」

「相手の人生も掛かってるんだから別に変でもないし、真面目にもなるだろうよ」

 もっともな正論に、真奈は何も言い返せなかった。



「よし、こんなところか」

 三人掛かりで掃除をしてだいぶ綺麗になった。時刻は午後二時を回ろうとしている。

 少し遅くなったが昼食を作ろうと、クロガネは手を洗う。

「台所を借りるぞ」

「お昼は何にするの?」

 衣類を片付けた真奈が訊いてくる。本来ならば今日作るはずだったカレー(甘口)は、昨日の内に(主に真奈が)全部食い尽くしてしまったため、別のメニューを考えていた。

「オムライスだ」

「イェア♪」

 ガッツポーズをする真奈。カレーといい、上流階級でありながら彼女は庶民的な料理を好む。

 美優も手を洗ってクロガネの手伝いに回る。

「あ、私も何か手伝おうか?」

「メシマズの化身はトイレ掃除でもしてろ」

「ひどい!?」

 ばっさり切り捨てられて涙目になる真奈。

「女子力ゼロで、料理に関してはむしろマイナスなんだから台所に入るな」

「もしかして、この前作ってあげた卵焼きのことまだ根に持ってんの? あれはちょっとした失敗だって」

暗黒物質ダークマターという名の炭そのものを卵焼きと称してそれを『ちょっとした失敗』とぬかすのか、お前は」

 あまつさえ、それを食わせようとした真奈の正気を当時のクロガネは疑った。

「女子の手料理という補正が付くだけ食べる価値はあったでしょうに」

「そんなハリボテ以下の補正はいらん上に、あれは生き物が食べれるようなものじゃない」

「動かすな」

 冗談ではなく、ガチで動いた時は自身の目と真奈の頭を疑った。

 仮に嫌がらせだとしても限度がある。

「そんな料理がこの世にあるなんて……レシピを詳しく」

 興味津々に美優が食いつく。おいバカやめろ。

「あれは料理と呼ぶのもおぞましい冒涜的な何かだから訊くんじゃない」

 SAN値(正気度)が減る。

「失礼な。斬新な前衛芸術と呼んでほしい」

「普通の料理を普通に作れ。そんな斬新さは要らん」

「卵からして斬新なのに……」

 そう言って落ち込む真奈。その発言に、クロガネの背筋が凍り付く。

 ……おい待て、一体『何』の卵を使った?

「どんな卵を使ったんですか?」

 クロガネに代わって美優が訊ねると、真奈は爽やかな笑顔とサムズアップで答えた。

 インドネシアに生息する、全長二メートルを優に超える巨大トカゲである。

「…………それはさすがに冗談だよな?」

 戦慄し、顔を引きつらせたクロガネの問いに対する真奈の答えは、

「…………ふっ」

「意味深に鼻で笑うのヤメロォッ!」

 クロガネの数ある嫌いなものの一つが、事実の隠蔽である。ましてそれが食べ物に関わるものなら、なおのこと許せない。絶対にだ。

「さすがにコモドドラゴンは冗談だって」

 クロガネの本気が伝わったのか、真奈も冗談であると認めた。

「そうか良かった冗談か。それじゃあ一体なんの卵を使ったんだ?」

「…………(無言で視線を逸らす)」

「吐け」

 一方、美優は茶番に付き合うのが時間の無駄だと判断したのか、冷蔵庫を勝手に開けて、(当たり前だが)まともな食材を取り出して並べる。食材の補充はクロガネが定期的にしていたようだ。

「――履歴より、今朝の料理レシピをダウンロード、完了。これよりオムライスの調理を開始します」

 かくして、クロガネと真奈がくだらない問答を延々と繰り広げている間に、美優が一人で遅めの昼食を作り切ったのだった。



 リビングのテーブルの上に二つのオムライスが並べられ、三人は席に着く。クロガネの隣りに美優、対面に真奈が座る。

「いただきま~す」「……いただきます」

 好物に有頂天な真奈と、結局真相を曖昧にされて不機嫌なクロガネはそれぞれスプーンを手に取り、ケチャップで猫の顔が描かれたオムライスを割って口に運ぶ。そして真奈は大仰に、クロガネはわずかに目を見開いた。ふわふわとろとろの卵、パラパラのチキンライス、コロコロの厚切りベーコンが一体となり、旨味となって二人の味覚を刺激する。

「ファッ!? 何これ!? ナニコレ!?」

「驚いたな……美味しい」

「……やった」

 二人の反応に美優はぐっと拳を握る。嬉しそうだ。

「しかもこれ、鉄哉の味に似てる! なんで?」

「今朝、練習がてら一緒に作ったんだ。それを完璧にトレースしたんだろう。まさか一度作っただけで、ここまで再現するとは思わなかったけど」

 最大級の誉め言葉に美優の髪から熱風が噴き出し、ピコピコと襟足が跳ねる。照れつつも初めて一人で作った料理を評価されて喜んでいるようだ。

「ふ~ん。トレース、ね~?」

 ニヤニヤと愉快そうな笑みを浮かべる真奈。

「……何だよ」

「いや~、鉄哉がケッチャプで描いた猫の絵まで再現しているんだと想像したら、つい微笑ましく思えてね~」

「……彼女の外見年齢に合わせただけで他意はない」

 憮然とオムライスを口に運ぶクロガネ。

「いい歳でも遊び心があって良いと思います」

 フォローしているようで無邪気に追い打ちを掛ける美優。

 クロガネは無心でオムライスを食べ続けた。



「さて、お腹も一杯になったところで、仕事の話でもしましょうか」

 昼食を済ませて一息ついた頃、真奈が突然そう切り出した。

「随分とまた唐突に……」

「藪からスティックですね」

 クロガネと美優が揃って呆れ、ジト目で真奈を見る。

「そんな目で見てもこっちは珍しく大真面目なんだから、ちゃんと聞く。大事な話よ」

「大事な話ならもっと早く言えよ」

「ご飯が美味しくてすっかり忘れてたわ」

「本当に大事な話なんですか、それ?」

 いまだに下着姿であることもあって真面目から程遠い女である。

「はいはい、そろそろお口にチャック、シャラップよ」

 真奈は自前のPIDを操作し、鋼和市の立体地図をテーブルの上に投影させる。

「私が研修医の頃、お世話になった診療所があるの。南のレトロ区にある『あかつき診療所』っていう小さな診療所よ」

 立体地図を市全体から南区の部分に拡大させ、とある地点で赤く点滅させる。そこが『あかつき診療所』の場所らしい。

「南区? 西区の総合病院や研究機関で研修しなかったのか?」

「市の方針で、昔ながらの医療技術やリハビリ施設の研修が必修だったのよ。確かに西区の設備の方が最先端だけど、それはあくまで鋼和市の中だけ。いざ就職・転職・出張の時に備えて、市外の技術や施設のレベルも把握しておく必要があるわ」

「……なるほど、それで南区か」

 鋼和市は十年先の科学技術を有しており、それは医療分野も例外ではない。サポートAIが充実し過ぎている一方で、人の手による従来の技術が衰退することを危惧する有識者の声も少なくない。そのため、市は万が一にもAIが機能停止、あるいはAIそのものが設置されていない場所での対策や対応力を身に着けることを推奨し、各種専門職に既存の技術の理解と習得を必修とする方針を打ち出したのだ。そしてこの鋼和市において、研修目的も兼ねて市外の設備が置かれている区画こそ、南のレトロ区なのである。

「話を戻すわよ。『あかつき診療所』は鍼灸を主とした整体を専門としているの。六〇代の老夫婦が経営している小さな診療所よ。人好きする人柄から、地元では子供からお年寄りまで人気があるわ」

 PIDを操作して、今よりわずかに若い面影の真奈が、優しそうな笑みを浮かべた老夫婦と一緒に診療所の前で記念撮影したと思しき写真が映し出される。

「最近、この診療所を悪質な地上げ屋が狙ってるの。怪我もしてないのに診察に来ては他の患者さんにちょっかい出したり、ガラの悪い男たちが近所を徘徊して患者さんを遠ざけたりして嫌がらせをしているわ」

「威力業務妨害だろ。警察は?」

「相談はしているんだけど、『実際に危害を加えられたら来てくれ』と言われて相手にされなかったらしいわ。ムカつくけど、その辺の加減は弁えている連中ね」

 実害が確認されなかったら警察は動かない。市民の安全を管理する警備AIすら反応しないほどの些細な嫌がらせを繰り返し行っているのだろう。こうした暴力や被害の基準というのは主観的な要素が強く、客観的には判別し難いものがある。五感も感情もないAIには被害者の心情を理解できないという盲点を突いた手口だ。

「常々思うが、犯罪者の方がAIよりも知能指数が高そうだな」

「遺憾ながら同感ね。その頭をもっと世の中のために使えないのかしら?」

「そんな脳味噌があるなら世界はとっくの昔に平和だろうよ」

 リビングの空気が重く、ピリピリと張り詰めていく。美優ですら余計な口を挟むのを控えるほど、クロガネと真奈は静かに怒っていた。

「二日前、院長夫婦が自宅を留守にした間に何者かが侵入して土地の権利書を盗んだわ。夫婦は犯人が件の地上げ屋だと察しがついたけど、警察に届け出ることが出来なかった。何故なら、荒らされた自宅の居間に娘夫婦とお孫さんが盗撮された写真が何枚か置いてあったから」

 ――警察に通報すれば、家族に危害を加える。

 残された写真には、無言の脅迫が込められていた。

「家族は人質も同然。警察に頼ることもできない。もう診療所を閉めざるを得ないと考えた時、北のスラム区にはどんな厄介事も解決する探偵が居るって噂を思い出したそうよ」

「皮肉な話だ」

 自身の悪名が救いの光として届いたことを光栄に思えば良いのだろうか。

「それで鉄哉と繋がりがある私に依頼の伝言を頼まれたの。依頼内容は、土地の権利書を返してもらうよう地上げ屋と交渉してほしいとのことよ。力ずくではなく、『交渉』と言う辺り人の好さが窺えるわね。ただ、弁護士じゃなくて鉄哉を頼る点から事態は切迫していると考えていいわ。家族の身の安全を一刻も早く確実にしてもらいたいもの」

 クロガネは卓上で両手を組み、親指同士をくっつけては離すを繰り返す。考え事に集中している時の癖だ。やがて親指同士が重なって止まる。

「……話は解った。ところで海堂、一つ訊いていいか?」

「何かしら?」

「その診療所がピンチだって話は、いつ知ったんだ?」

 ちらりとPIDを一瞥して真奈は答えた。

「今朝よ。朝の八時頃に私のPIDに連絡があったわ」

「その後、二度寝して、ついさっき昼飯を食い終わるまで忘れていたと?」

 真奈が気まずそうに視線を逸らす。

「……質問が二つになって――」

「忘れていたと?」

 クロガネの声がドスを利かせたものになる。

「……どう切り出そうか、タイミングを逃しただけよ」

 私だって仕事で疲れてたのよ、と苦しい言い訳をする。

「俺は今現在、他の依頼を引き受けている最中なのは知っているな?」

 真奈が美優を一瞥して頷く。

「……はい、知ってます」

「優先度から言って、俺は現在の任務を放り出してまで、お前の言う診療所を助ける余裕はない」

「……はい」

「それでも、その診療所をどうにかしたいと考えて、今の話をしたわけだな?」

「……はい、そうです」

 切り出すタイミングを窺っていたのは本当のようだ。

「このたわけが。そういう大事な話はもっと早く言え」

「……はい、ごめんなさい」

 クロガネは美優を見る。美優が迷いなく頷くのを見て、真奈に向き直った。

「借金の大幅な減額と、バックアップを引き受けてくれるなら協力してやる」

「……え?」真奈は顔を上げる。

「借金チャラと言わない辺り優しいですね」と美優。

「本来なら報酬を払うのは診療所側だからな。さすがに一億五千万は払えんだろ。海堂が肩代わりするにしても、現実的な金額にしないと」

「私にも手伝えることはありますか?」

「あるぞ、その前に君のコードネームを決めておくか。……メカ子で良いか?」

「……さすがに安直すぎません?」

 診療所を救う算段を立てるクロガネと美優に、真奈は躊躇いがちに訊ねる。

「……あの、いいの?」

「借金が減るなら」

「クロガネさんのお役に立てるなら」

 動機が不純だが、引き受けてくれるのは大変ありがたい。

「わぁ、ありがとう。私にも出来ることがあれば何でも言って」

「ではこの子を今晩泊めてくれ」

「「えっ?」」

 クロガネの要求に思わず同時に訊き返す美優と真奈。

「これから一度事務所に戻って準備した後、その診療所に行って詳しい話を聞いてくる」

「それなら私もお供します」

「ダメだ」

 美優が同行の申し出をするも、即座に却下する。

「診療所には地上げ屋の監視があるかもしれないし、状況次第ではその場で荒事になりかねない。ここに居る方が安全だ」

 確かに真奈は美優の正体を知る貴重な協力者だ。このマンションも中央区にあるだけにセキュリティが充実している。

「権利書の奪還は明日決行する。それまでに調べられるものは調べておきたい。そこで、君にはやってもらいたいことがある」

「何ですか?」

 クロガネは美優にやってもらいたいことを話すと、即了承する。

「解りました。成果はクロガネさんのPIDに送るで良いですか?」

「ああ。それ以外の連絡はガラケーの方に頼む」

「解りました」

 美優の義眼が緑色の光を帯びる。

「ねぇ、私は? 私は何をすれば良い?」

 本格的に動き出した二人に、真奈が手を挙げる。

「とりあえず、トイレ掃除でもしてろ」

「ひどくないッ!? ねぇ、私だけ扱いがひどくないッ!?」

「この子を匿ってくれるだけでも充分だ。強いて言うなら、張り切り過ぎないように見ていてくれればいい。それとまだ掃除の途中だろ、早いとこ終わらせろ」

「がっでむ」

「よし、では解散。各自、仕事に移れ」

 真奈の拗ねた返事を了承と受け取り、クロガネはパンパンと手を叩いて指示を出す。そして事務所に戻るために玄関へ足を向けたところで、何か思い出したかのように振り返る。

「それと海堂、服着ろ」

「今更ぁッ!?」

 真奈の渾身のツッコミが木霊した。


 ***


 ――ネット接続、開始。

 視覚機能は現実世界を認識しつつ、美優の意識が一瞬にしてネットワークの海に潜行ダイブする。人間には決して認知できない広大な情報の海。三六〇度全方位が鮮やかなコバルトブルーで彩られた電脳空間内で、美優の情報体は人間を遥かに超えた速度で思考コマンドを入力する。

《接続完了。サーバーコードJCM007A。情報保安権限に基づき、当該システムにおける干渉支配権を要請》

 無数の情報ウィンドウが出現し、美優を取り囲むように浮遊した状態で配置される。

《要請受理を確認。システム管理権の一部移譲を確認。キーワード検索。『鋼和市南区』『あかつき診療所』――検索開始……完了》

 ウィンドウに『あかつき診療所』の衛星写真が展開する。

《該当地点を中心に一キロ圏内で拡大。リアルタイム映像に切り替え》

 監視衛星からのリアルタイム映像が流れる。昼間なので画質補正が掛かりやすく、よく見える。衛星側から見る限り、診療所は簡素な造りでそれなりに年季が入っていることが伺えた。

 現在は営業時間であるにも関わらず、備え付けの駐車場には車が黒塗りの高級車が一台のみ。年季の入った診療所には似つかわしくない、おそらくは地上げ屋関係者の車だろう。そして建物からは人が出てくる様子がない。

 正面出入口付近に不審者を確認。一見ただの通行人かと思いきや、道角を曲がった後、擦れ違うようにして現れた別の人間が診療所前をゆっくりとした足取りで通過し、反対側の道角を曲がるとまた別の人間が現れて診療所前を通過する。

《映像を一万倍で巻き戻し》

 一瞬にして一週間分の診療所周辺の記録映像を確認。やはり複数の人間、数にして十人が意図的かつ組織的に診療所前を行き来していた。先程のリアルタイム映像で最初に確認した不審者も、周辺を迂回して何度も診療所の前を通っている。どうやら、診療所の東側と西側の二手に別れ、近所のファミレスや喫茶店、有料駐車場に停めた車を拠点にローテンションを組んでいるようだ。

《該当地点を固定設定。キーワード追加。『半径一キロメートル周辺』『監視カメラ』――検索》

 診療所の付近に該当するファミレス、喫茶店、駐車場の監視カメラの映像をハッキング。先程の衛星映像に映る不審者と同一の服装・体格・顔が九九パーセント一致する客の姿を捉える。

 拡大し、画質補正を行う。いずれも男性で体格がよく、強面だった。中には、袖口から伸びる太い腕に刺青がある者や、スカーフェイスもいた。

 ――ここまで露骨な外見なのに、どうして警察は職務質問もしないのだろう?

 疑問に思いつつも、美優は次の作業タスクに移る。

《該当者十名のIDアカウントに対するアクセス権を行使――潜行ダイブ

 ネットの海に漂う美優の情報体が十個に分裂し、一斉に不審者の顔写真が映ったウィンドウの中に飛び込む。

 鋼和市の情報セキュリティは世界でも類を見ないほどに強固であるが、美優には全然通じない。誰にも、システムにすら気付かれず、いとも容易く多重構築されたセキュリティを擦り抜けるように突破し、重要な個人情報に目掛けて深く、深く、潜行していく。

《――発見。記録開始――フォルダ【重要3】に厳重保存完了》

 美優の情報体が個人情報が記載されたウィンドウを。ただ通過しただけで、セキュリティが厳重に施されているはずの個人情報のすべてを閲覧し、記録した。

 それも、

《該当人物十名の個人情報をファイル分け――完了》

 分裂した情報体が一つに合流し、仕上げに入る。

《――情報ファイルの暗号化完了を確認。黒沢鉄哉のIDアカウントを確認。該当者のPIDに情報ファイルを送信》

 美優の手から白く輝く光球が矢のように放たれる。やがてそれはイルカの形となり、ネットの海を光の速さで泳ぎ去っていく。

 電脳空間は一種の仮想現実世界だ。現実世界のように泳ぐために手足を動かす必要はない。美優AIならば、ただ思考演算するだけで世界渡れる動かす

《送信完了。黒沢鉄哉のPIDにデータ受信を確認。検索履歴を削除。アクセス切断。ログアウト開始》

 海底から海上へ急速浮上するような感覚。現実世界で無数の人間たちがネットの海にアクセスしていることを示すウィンドウ群が、上から下へと凄まじい速さで流れていく。

 情報技術が内包された電脳世界において、それはまるで幻想的な光の雨だ。

 ――綺麗。

 ふと、そんなことを思う。今まで何度も見てきた光景。

 特別な感情も感慨も抱いたことは、今まで一度たりともなかった筈なのに。

 ――ああ、そうか。

 唐突に、されど自然に理解する。

 ――あの窓の向こうにAI私達の世界に触れている人間がいる。

 あの光は、ヒトが生きていることの証なのだ。

 だからこそ、美しい。


 ***


「――まったく、本当に鉄哉は」

 現実世界で、真奈が玄関ドアに向かって毒づいている。

「クロガネさんの言うことはもっともです。とりあえず服を着てください」

「もう、美優ちゃんまで」

 渋々と真魚はクローゼットの奥から小豆色を基調に白いラインが入ったジャージの上下を引っ張り出して着替える。機能的ではあるが、デザインが途轍もなくダサい。

「本当に色々な意味で残念ですね。『二十代から三十代の男性が好ましいと思う女性の容姿について』の統計的な調査データを参考にすると、真魚さんの容姿は平均値よりも上の筈なのですが。非常に勿体ない」

「ぐ……! うるさい、所詮はただのデータで参考程度でしょ! それに私もやる時はやるわよ! なんかこう、公では優雅に水面を浮かぶ白鳥の如く!」

 優雅に見える白鳥は水面下では必死に足を動かして浮いている。その姿から努力の比喩表現にも使われる。だが真奈からは優雅に振る舞う努力をしているようには感じられない。

「真奈さんの場合は、逆さに溺れて足をばたつかせているのでは?」

 努力の方向音痴や空回りといった印象の方がしっくりくる。

「割と昔から有名よね、そのネタ」

「キリッとした真顔で何を言ってるんですかあなたは? ちなみにそのシーンの登場人物は死んでますからね。ばたついてもいません」

 元ネタは【犬神家の一族】。1976年に公開され、後年には誰もが知っているネタの元となる『波立つ水面から人間の足が突き出たシーン』が話題となったサスペンス映画だ。

「はいはい。とりあえず、クロガネさんから言われた仕事は片付けましょう。私が監督しますから、サボらないでくださいね」

「え? 美優ちゃんの仕事は?」

「もう終わりましたよ。――あ、クロガネさんから返事が着ました」

 ポケットから着信音が鳴り、ガラケーを取り出してメールの内容を確認すると、

「ほら」と真奈にも見せる。


 差出人:探偵さん

 題名:ご苦労様。

 本文:さすが仕事が速いな。

 これだけ情報が集まれば、予定を前倒しで今日中にも達成できそうだ。

 また何かあれば連絡する。ご苦労様。


「……いつの間に」

 驚愕する真奈。

 ふふんと、勝ち誇る美優。

「こ、これだからAIはずるい……」

「同じような台詞をクロガネさんにも言われましたよ。それよりも早く掃除する。ハリー、ハリー」

「……ちくせう、これで勝ったと思うなよ」

 何に? と美優は思ったが、その台詞に対しての返答は様式美で決まっている。

「もう勝負ついてるから」

 渋々とトイレ掃除に向かうジャージ女を見送りながら、美優は首を傾げる。

「……勝負って、何の勝負だろう?」

 自分で言っておいて謎だった。



 クロガネは一度、探偵事務所に戻って装備を整えた後、南北直通線を利用してレトロ区に足を踏み入れた。

(ここはいつ来てもタイムスリップしたような気分になるな)

 鋼和市南区――通称レトロ区は、いかにも昭和時代の商店街を彷彿とさせた街並みだ。

 店先で魚屋や八百屋、肉屋の店主たちが、威勢の良い声を張り上げて客寄せをしている。

 開店前の居酒屋では、店先で女将さんらしき割烹着姿の女性が掃除をしていて、そこに原付バイクに乗った酒屋の男性がビールの配達にやってきて挨拶を交わしている。

 レトロ区は昔ながらの専門店が並ぶ一方で、ネットをはじめ進化し続けるIT技術に馴染めない人間たちが集まる区画でもある。中にはこの古き良き時代の空気に感化され、それまで世話になっていた近代的な環境を捨ててまで移住する物好きもいる。多忙な都会暮らしに嫌気が差して、平穏な田舎暮らしに憧れるようなものだろう。

 ちなみにレトロ区の住居は外観こそ昔ながらではあるが、内装の一部は最新のものであったりする。時代の変化には上手く折り合いをつけているのだろう。さすがに生活環境まで昔のままでは不便でしかない。

 クロガネは、すぐ近くに停まっていた車の窓に映る自分の姿を確認した。普段から愛用している眼鏡を掛け、黒いスーツに紺色のネクタイ、そして意外と重さのある鞄を持っており、見た目は外回りの営業に向かうサラリーマンだ。眼鏡のブリッジを指で押し上げる。

「さて、行くか」

 眼鏡のフレームに指先を添える。

『ピッ』と小さな電子音と共に、レンズの片隅に『●REC』と小さく表示されたことを確認し、「始めるぞ」と呟く。

 事前に真奈の方で『あかつき診療所』にアポを入れてくれたことをPIDで確認したクロガネは、現地に足を運ぶ。PIDのマップナビに従って路地を通り、商店街と住宅街の境目にある『あかつき診療所』を見つける。

 道中、美優の報告通り診療所付近をうろついているガラの悪い連中と擦れ違った。その度に向こうから睨んでくるから非常に不愉快で気が滅入る。

 PIDに着信音が鳴る、美優からのメールだ。内容を確認して、ほくそ笑む。

 診療所の門を通ると、近くの専用駐車場に黒塗りの高級車が目に入る。地上げ屋関係者のものと美優は示唆していたが、間違いないだろう。

 背中に刺さる視線を無視して建物に入ると、受付のすぐ傍でチンピラ風のまだ二十代くらいの若者がPIDをいじっていた。待合室の長椅子には、足を投げ出して座っている小太りで人相の悪い中年男がぷかぷかと煙草を吸っている。そして平気な顔で足元の床に煙草の灰を落としていた。後ろの壁に『禁煙』の二文字が書かれた貼り紙が見えないのか、あるいは字が読めないらしい。ここまでガラの悪い連中が居座っていては、せっかく来た患者もUターンだ。

 ――二人の姿を視認した直後、再びPIDにメール着信。

 軽く辺りを見回した後、受付に向かう。すぐ近くでガン飛ばしてくる若者の顔が視界に入ったが無視して呼び出し用のブザーを鳴らすと、奥の方から六〇代くらいの夫婦が揃って出てきた。二人とも顔がやつれ、疲れている。その理由は語るまでもない。

「すみません。診察をお願いしたいんですけど、大丈夫でしょうか?」

 診察券を手渡すかのような自然な動作で、名刺をさりげなく手渡す。院長は目を見開き、クロガネの意図を察して「……ええ、こちらにどうぞ」と診察室へ案内しようとすると、

「おいちょっと待てゴラ、俺らが先だったのに何勝手にそいつ入れようとしてんだ?」

 このタイミングで若者が絡んできた。もはやチンピラである。否、チンピラだった。

「俺ら? 君とどちら様?」

「わしに決まってるだろ。眼鏡を掛けてて君の目は節穴かね?」

 長椅子に座っていた中年が立ち上がって、床に落とした煙草を踏み消す。

 院長夫婦の顔は青ざめ、揃って数歩退いた。

「いやいや。私よりそちらの目の方が心配だ、『禁煙』の文字が見えないとは。すぐに眼科を受診することをお勧めしよう」

 安い挑発だったが、中年の顔色が変わる。その表情に怒気が浮かび、威嚇のつもりか肩を揺らしながら歩み寄ってくる。

「テメッ、コラ! ナメた口きいてんじゃねぇぞコラ!」

 中年の舎弟と思しきチンピラが、クロガネの胸倉を掴んで引き寄せ、メンチを効かせた顔を近付ける。ウザイ上に息が臭い、思わず顔をしかめる。

「ナメているのもふざけているのもそっちだろう。陰湿な嫌がらせをして楽しいか、クズども」

 露骨な挑発にチンピラが拳を振り上げた瞬間、クロガネは足を思いっ切り踵で踏みつけた。「ギャッ!」と悲鳴を上げたチンピラは思わず胸倉を掴んでいた手を離してしまう。すかさずクロガネはその手を取り、足払いを仕掛けて投げ飛ばす。

 次に鞄を盾にし、死角から突き出してきた中年の拳を受け止める。鉄板を仕込んだ鞄を殴ってしまって悶絶する中年の顎に、鋭い掌底を打ち込んだ。芯を捉えたような手応えから昏倒させるまでに至ったと確信すると、再びチンピラに向き直る。

 床に打ち付けられ、痛みに顔をしかめて悪態を吐きつつ立ち上がろうとしたチンピラの首筋に、懐から取り出したスタンガンの電極を押し当て、容赦なくスイッチを入れる。『バチンッ』と、三〇万ボルトの高電圧が弾け、チンピラは糸が切れた人形のように崩れ落ちた。意識はあるが、全身が痺れてまともに動けないでいる。

 地上げ関係の容疑者二人を十秒足らずで制圧したクロガネは、乱れた身だしなみを整えた後、鞄から結束バンドを取り出し、二人をうつ伏せにして後ろ手に拘束。さらに両足も拘束。外にいる仲間を呼ばれないよう口も粘着テープで塞いでおく。窒息しないように顔は横向きにし、鼻呼吸していることも確認する。

「よし」

 一仕事を終えて、院長夫婦に向き直る。夫婦は共に引きつった顔をしていた。

「突然暴れて申し訳ありません。こうでもしないと、落ち着いて話が出来なかったもので」

 深々と頭を下げて謝罪する。

「改めまして、クロガネ探偵事務所の黒沢鉄哉です。以前、あなた方にお世話になった人間から『この診療所を助けてほしい』と言われ、詳しいお話を伺いに参りました」

 爽やかな営業スマイルを浮かべ、クロガネはそう切り出した。


 二〇分後。

 夫婦から証言を得て診療所を出ると、遠くからパトカーのサイレンの音が聞こえてきた。去り際に警察に通報したのだが、付近を巡回していたのか到着が早い。さすがパトロール強化月間。

 サイレンの音が近づくに連れて、診療所近くのファミレスや喫茶店から慌ただしく人相の悪い男たちが出て行った。聞き込みをされるのを危惧したのだろう、敏感なことだ。

 無関係な一般人を装いながら、クロガネもその場を離れる。

 PIDに着信。

 先程の夫婦の証言を元に新たな資料が早速まとめ上げられて送られてきた。

 また、人質となっている夫婦の家族を監視していた人間は、現在警察から職務質問を受けているとのこと。これで連中も家族には手を出せまい。そう誘導するよう指示を出していたのだが、見事な手際だ。美優が優秀過ぎる。

「さすが。俺よりも探偵しているな」

 助手として雇おうかと割と本気で考えるが、すぐにやめる。あと四日ほどで本土に引き取られるのだから考えるだけ無駄である。

 切り替えよう、次はいよいよ本丸を落とすのだから。



 海堂真奈が知る限り、クロガネこと黒沢鉄哉は基本的に一人で物事に当たる傾向があり、誰かを頼ることは滅多にない。チームプレイが必要な状況下なら素直に応じるが、それでも仲間に信を預けることはせず、各々の特技やスキルを最大限に利用し、自身が出来る最大限のことを提供するギブアンドテイクを信条としている。人間関係がビジネスパートナー感覚で構築されて完結しているのだ。

 ゆえに、味方を信用はするが信頼はしない。

 要は、誰に対しても心を開かない。

 本人は「信用がなければ探偵業などできやしない」とよく口にするが、それはあくまで世間一般の常識的な認識に過ぎず、自分一人の力では困難だと判断すれば、即座に拒否や拒絶を示し、あるいは効率性と成功率を考慮して協力を要請する。

 即断即決と言えば聞こえは良いが、まるで『0』か『1』のみで動く機械のような男だ。

 真奈自身、クロガネとは三年以上の付き合いになるが、それもあくまで担当医という仕事上の立場に過ぎない。クロガネも多額な治療費で背負った借金の返済という名目で真奈の世話をしているだけだ。

 これに一抹の寂しさを感じていた真奈は様々なアプローチを試み、今では冗談や軽口を言い合えるような関係を構築するも、やはりクロガネにとっては真奈でさえビジネスパートナーの一人という認識でしかなく、線引きがされてあった。

 トラブルメーカーであることを自覚しているゆえか、あるいは元来の優しい性格ゆえか、降り掛かる火の粉に他者を巻き込みたくないという配慮もあるのだろう。

 だからこそ、彼が本当の意味で信頼に値する存在とは、目の前にいる人の形をした機械なのではないかと、ついそんなことを考えてしまう。



『さすが。俺よりも探偵しているな』

 特注の多機能眼鏡を通した彼の視点によるリアルタイム映像と音声が、真奈のPIDから流れる。

「……随分、美優ちゃんのことを買っているのね」

「何がです?」

 少し離れた位置にあるソファーに座って、中空をぼんやり見ていた美優が訊ねてくる。ただの独り言で、大きな声は出していないと思っていたのに。

「鉄哉って、誰かと行動する時は相手のことを滅多に褒めたりしないのよ。『お前ならやれて当然』とばかりに何も言わないの。なのに美優ちゃんに対しては『俺よりも優秀だ』とも取れるようなことを口にしているんだから、本当に意外だわ」

「別にこれくらいは私にとってやれて当然なことですし、そこまで称賛されるようなことではないと思います」

「……」

 謙遜も過ぎれば嫌みに聞こえるというが、美優の場合は本気でそう思っているのだろう。彼女はいかに自分がしていることが凄まじいものであるのか自覚していない。

 彼が美優に指示したこと。それは録画・録音機能のある多機能眼鏡や、街のあちこちにある防犯カメラなどを通して得た映像や音声から今回の地上げに関連している全ての人間の詳細なデータを集めて資料にまとめるというものだった。

 美優はネットの海に潜り、鋼和市中枢のデータベースに記録されている個人情報をハッキングして誰にも――セキュリティAIすら気付かれずに一瞬にして管理システムを掌握すると、多機能眼鏡の映像に映った関係者全員の顔を照合し、一致した人間の個人情報――前科を含むこれまでの経歴に家族構成、現住所をごっそりと盗んだ。そして、その人物が映っている防犯カメラの映像記録を遡って犯罪行為の決定的な証拠を捜し当てるという膨大な作業を短時間で成し遂げているのだ。それも複数の対象者を同時に。

 真奈はPIDに目を落とす。美優が情報面で彼のサポートに入ると知り、無理を言ってその様子をリアルタイムで確認できるように設定してもらったのだ。ネットに接続されてあるものなら、生体情報を登録した本人以外には絶対に操作できない筈のPIDですら容易く侵入し、掌握するのが美優の能力だ。

 美優が作業を開始してから数分で、すでに七三名の暴力団関係者のプロフィールが事細やかに記載されていたが、二時間以上経過した今現在、すでに一三七名にまで増えている。その中には先程診療所内で叩きのめしたチンピラと、その上司と思しき中年の情報も追加されていた。彼らの経歴に、過去の犯罪に手を染めた瞬間の映像記録や証拠の数々まで添付されている。おそらく、当時の事件捜査に携わっていた警察関係者も掴めていないような情報まで詳細に。

 彼が称賛するのも無理はない。本職の探偵以上の情報収集能力。それでいて途轍もなく速く、精確だ。これまで何者にも頼らないスタンスを貫いてきた彼の方から、彼女を当てにして重要な役目を託すほどに。

 ――それは『信用』ではなく、『信頼』の証なのではないだろうか?

 高性能なガイノイドだから効率が良いといえばそれまでだが、外見も言動も人間らしい美優を見ていると、そんな邪推が芽生えてくる。

(私だって、鉄哉の力になっている筈なのに……)

 少しばかりの嫉妬を抱いて美優の顔を見つめていると、

「む」

 突然、その整った眉をわずかにひそめたことに気付く。

「どうしたの?」

「いえ、二一二人目の個人情報を検索しようとした際、かなり特殊なセキュリティコードと遭遇しました。これは、アメリカ国防総省の防壁ファイアウォールです」

「…………はぁッ!?」

 やや時間を置いて美優の発言の意味を脳が理解した直後、驚きのあまり素っ頓狂な声を上げる。

「ペンタゴン!? 貴女どこまで検索拡げているのッ!?」

 もはやアメリカに対するサイバー攻撃である。

「芋づる式に調べていったらアメリカ在住の犯罪者まで行き着きました。政府高官が犯罪組織への資金提供というスキャンダルを追っていたらここまで来てしまい、これはもう白日の下に晒すべきだと判断し、今ハッキングを仕掛け――」

「仕掛けるなッ! 本当に絶対にマジでやめてスタァァァァァァァプッ! それ国際問題になっちゃうから向こうの事件は向こうに任せよう!」

 必死に止めようとする真奈に、訝し気に首を傾げる美優。

「何故です? 犯罪者を野放しにしておくのは捨て置けないと判断します。そこに国境は関係ないのでは?」

 彼が「張り切り過ぎないように見ててくれ」と言った意味がよく解った。美優は放置しておくと善意のままに暴走する。悪意がない分、なおのこと性質たちが悪い。

 真奈は瞬時に頭を切り替える。オーケイ、落ち着け私。今からこのお転婆暴走検索バカ娘に精神分析……じゃない、説得を試みる。

「……そうね。確かに美優ちゃんの言ってることは正しいよ。でも、国によって、あるいは人によって正義の価値観が違うの」

「正義は一つでしょう。そこに異なる価値観が介在するとは思えません」

 あらやだ頑固だこの子。ガイノイドだけに頭が固い。

「その一つしかない正義がそもそも間違っていたらどうするの?」

「それは……」

 美優が言葉に詰まる。

「一つしかない正義が間違っていたら、いやそうでないとしても、物事をもっと多角的に、本質を見抜かないとダメ。間違ったものを正しいと誤解したまま行動したら、きっと取り返しのつかないことになってしまう。間違った正義はただの害悪にしかならないわ」

 美優の手を取って視線を合わせ、真奈は凛然とした言葉で優しく諭す。

「日本には日本の、外国には外国の正義がある。美優ちゃんが今すべき正義は何? 誰を助けたいの?」

「クロガネさんを助けたい」

 即答だった。例え機械仕掛けの義眼だとしても、そのまっすぐな眼差しには迷いがない。

「鉄哉は誰のために動いているの?」

「あかつき診療所の院長夫婦」

「院長先生たちは何に困っているの?」

「性質の悪い地上げ屋に土地の権利書を奪われた」

「美優ちゃんの役目は?」

「地上げに関連している人間の情報を集めること」

「そうだよ、アメリカとか関係ない人や国に構ってる場合じゃないでしょう。余計なことして国際問題になったら困るのはこの国だし、芋づる式に美優ちゃんの正体も公になってしまうし、それで一番困るのは美優ちゃんと鉄哉でしょう」

 その言葉にハッとする美優。

「……そうでした。真奈さんの言う通りです」

「解ってくれた?」

「はい」

 頷く美優に、念入りに念を押す。

「なら今回の件に無関係な検索はやめよう。可及的速やかに迅速にかつ確実に検索の痕跡を消して本来の仕事に戻ろう」

「了解です」

 そう言って美優は目を閉じ、やや俯いて沈黙する。現実世界の視覚情報を断ったのは、電脳空間内での作業に専念するためだろう。

「ふー」

 安堵する真奈。さすがに焦った。彼はこの子の教育と保護を任されているのか。さすがに尊敬するわ、マジでリスペクト。

 握っていた美優の手を本人の膝の上にそっと戻すと、

「あの……」

 目を閉じたまま美優が話し掛けてきた。

「ん?」

「ごめんなさい……それと、ありがとうございます」

「……どういたしまして」

 そう応えると、美優は目を閉じたまま沈黙する。彼女の頭脳AIならば、恐らくすでに余計な検索ログは削除しつつ、目的の情報を捜し当てたはず。目を閉じたままなのは単に先程の失敗で気まずいと思ったからだろう。

 まるで子供のようだと真奈は微笑む。気付けば先程の嫉妬心が消えていた。その代わりとして現れた感情は、強い対抗心だ。

 人間には人間にしかできない領分がある、それは鉄哉も熟知していることだろう。

 だからこそ、彼は美優AIに見せようとしているのかもしれない。『人間』というものを。

「……さて、私も頑張ろう」

 両頬を軽く張り、真奈はPIDに目を落とす。

 状況は、最終局面に移ろうとしていた。



 暴力団とは、その名の通り一般社会において似つかわしくない存在だ。だが現実は社会的にその存在は認められており、市民の安心と安全を理念として掲げる警察は何もしてくれない。せいぜい公安委員会に指定された大規模な暴力団を監視する程度が関の山だろう。

 麻薬。銃。売春。詐欺。人身売買。

 犯罪は犯罪だが、望む者がいようがいまいが暴力があるところには必ず人と金が動く。それが裏社会のビジネスだ。それが表の社会をも動かす経済の一部となれば、たとえ悪であろうと暴力団という存在は社会には不可欠な必要悪として黙認される。

 皮肉な上に納得できないが、その現実に多くの人間は適応して生きている。誰だって理不尽な暴力を受けたくないのだから。それが一般的な普通であり、常識なのだ。

「さて」

 歪で悲観的な現実から目の前の現実に切り替える。

 黒龍会。

 近年、チャイニーズマフィアとの繋がりから国内で頭角を現してきた暴力団の一派で、構成員は約三百人ほど。六階建てのビルの入り口にあるプレートの六階部分に『黒龍会事務所』と明記されてあった。下の階はすべて金融会社だが、実態は黒龍会の系列である。つまり、このビル一軒丸ごとヤクザの城。人通りの多い繁華街の一角という立地条件に堂々と看板を出しても法に触れないのは日本だけだろう。海外ならこの種の組織は地下に潜るのが普通だ。

 本当にあらゆる意味で危機感のない国だとつくづく思いながらも、PIDを起動して美優にまとめてもらった資料を再確認する。

 金田慎二。黒龍会の若頭。

 画像データを見る限りだと若手弁護士のような風体をした男だが、その目は鋭く、狡猾な光を宿している。金田の経歴がびっしりと網羅された資料をざっと斜め読みした後、PIDをポケットにしまう。

 これから行うのは『あかつき診療所』の地上げから手を引いてもらうための交渉である。真奈を通して依頼してきた院長夫婦の意思を汲んで、穏便に収めて上々な成果を報告するのが今回の依頼の達成条件だ。

 静かに気合いを入れ、クロガネはエレベーターに乗る。


 その様子を遠目から見ていた男が一人。丸刈り頭の中年男性だ。よれよれの背広姿で、どこかくたびれている。今ではレトロ区にしか存在しない煙草屋――その傍らに設置されている公衆灰皿の前でセブンスターをくゆらせながら、男は懐からPIDを取り出した。


 ビルの六階、黒龍会の事務所に足を踏み入れる。出迎えた所員という名の暴力団員に『あかつき診療所』担当の弁護士と名乗って偽造した名刺を差し出し、金田慎二に取り次いでもらうように話す。『探偵のクロガネ』は悪い意味で有名だ。特にこの街の裏家業の人間には。素性を明かせば警戒されるか、門前払いされるか、即射殺のどれかであるのは目に見えていたため、名刺に記載した名前も偽名である。

 その場でボディチェックを受ける前に、自分からスタンガンや特殊警棒など護身用の武器が入った鞄を組員に預けた。上着の前を開いて丸腰であることを示す。あくまで話し合いによる交渉に来たと再度伝えると、すんなり奥の応接間に通された。

 そして『あかつき診療所』の地上げを指揮している若頭、金田慎二本人が現れる。

 お互い向かい合う形でソファーに座って簡単な自己紹介を済ませた後、クロガネは院長の土地の権利書を盗んだ犯人に繋がる証拠を既に掴んでいると切り出した。普通なら相手も信じないが、PIDを操作し、その証拠の一部を第三者にも見えるよう拡大して中空に投影する。さらに黒龍会と地上げ業者の関係を詳細に記した資料も確かなものばかりであり、幹部しか知らない内部資料まであってはクロガネの言葉にも信憑性が帯びる。

 ……この短時間でここまで調べ上げた美優には、何か褒美を考えよう。

「院長は出来るだけ穏便に済ませたいとのことです。権利書を返し、以後、『あかつき診療所』に関わらないことを約束してくれるなら、この件は忘れると言っています」

 金田は資料を見て黙っていたが、しばらくしてその取引を受けると言った。部下に権利書を取りに行かせ、今後は診療所から手を引くと明言し、誓書も用意するとのこと。悪事の露見と診療所の土地を天秤に掛けて損害の少ない方を選んだようだ。

「……失礼、吸っても?」

 受け取った権利書の内容を確認していると、金田が上着の外ポケットから煙草の箱を取り出し、喫煙の許可を求めてきた。二人の間にはテーブルがあり、その中央にはガラス製の灰皿が置かれてある。

「どうぞ」と許可すると、金田は自然な動作で煙草を一本取り出して口にくわえ、右手を上着の内ポケットに伸ばしたところで、クロガネは弾けるように動き出す。

 テーブルに跳び乗り、右足で金田の右手首を踏み押さえ付けた。金田が懐から取り出そうとしたのは煙草に火を着けるためのライターではなく、拳銃だった。グリップを握って抜き出す寸前でクロガネが封じ、右足に全体重を乗せて金田をソファーに縫い留める。

 そしてズボンの裾を引き上げ、右足首に巻いたアンクルホルスターから小型リボルバーを抜いて金田の額にその銃口を突き付けた。

 ここまでクロガネが動き出してから二秒も掛からない。

 金田の口からくわえた煙草が床に落ちる。その表情は驚愕と恐怖が入り混じっていた。

 先程預けたスタンガンや警棒は囮である。脇や腰回りに拳銃を吊っていなかった以上、丸腰であると思い込ませ、足首に忍ばせた本命はチェックされずに済んだ。念入りに調べられたら危なかったが、本名と身分を偽っていたことも有利に働いたようだ。普通の弁護士は拳銃など持ち歩かない。

 異変に気付いた部下たちが応接間に入り、事態を目にするや懐に手を伸そうとする。

「動くな」

 ドスの効いた一声に部下たちの動きが止まるも、応接間は一触即発な状況に陥る。

「……良い性格してますね、金田さん。取引成立を明言して油断させた次の瞬間には騙し討ちですか」

 口調こそ穏やかだが、クロガネは殺気立っていた。

 リボルバーの撃鉄を上げる。カチリと鳴る小さな金属音に、室内の殺気が加速度的に充満していく。金田の部下たちが拳銃を抜いた。複数の銃口を向けられ絶体絶命の状況下においてなお、クロガネは異常なまでに冷静だった。

「俺を殺した後、PIDを奪って証拠を隠滅。情報を集めてくれた協力者も捜し出して消した後、院長とその家族も殺すつもりなんでしょう?」

 淡々と推論を述べ、周囲を見渡す。金田は懐の拳銃のグリップを握ったまま、部下たちはいつでも撃てる状態でクロガネに銃口を向けている。

「この絵面ではもう言い逃れできないな……メカ子、例の指示を実行に移せ」

 モニターしている相棒にそう指示すると、まもなく遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。それも一台ではなく何台も。サイレンの音が近づき、ひときわ大きくなる。そして、このビルの前で止まった。

「さぁ、御上の裁きを受けな」

 クロガネがそう言うと、ようやく男たちの時間が動き出す。状況を把握しておろおろと狼狽えていると、どかどかと足音を立てて複数の警察官たちが事務所に雪崩れ込んできた。

「警察だ! 全員、両手を挙げて動くな!」

 お決まりの台詞に従う男たちを尻目に、リボルバーの撃鉄を戻してテーブルから降りると、床に落ちた権利書を拾い上げて埃を払い落とす。

 警察官たちが迅速にガラの悪い男たちを拘束していく。

 金田の部下が、金田本人が、そしてクロガネが、次々と武装解除されて両手に手錠を掛けられる。

「って、俺もかよ!?」

「当たり前だ。ハジキ持っててシラは切れんだろう」

 拘束されたクロガネの前に、丸刈り頭の男が現れた。よれよれのくたびれた背広を着込み、完全装備の警察官たちから浮いているその男は、ある意味でクロガネの関係者である。

「清水さ――刑事……」

「そんな嫌そうな顔をするなよ、黒沢。お前は俺が署までしょっ引いてやるよ。嬉しいだろ? ん?」

 清水と呼ばれた中年刑事は、馴れ馴れしくクロガネの腕をとって連行しようとする。

「どうせなら美人な婦警さんにチェンジで」

「贅沢な奴だな、あんな美人な女医さん引っ掛けておいて」

 探偵業を始めてから何かと清水とは腐れ縁であったため、真奈とも何度か面識があった。

「おっさんか」

「おっさんだ」

 確かアラフォーだったな、このおっさん。

「そのむさいおっさんより、婦警さんに連れて行かれる方が良いだろ」

「違いない」

 清水は笑って同意する。警察は好きじゃないが、この中年刑事の人柄は嫌いじゃない。

「かつ丼出る?」

 刑事ドラマの取り調べシーンでは定番である。もちろん代金は警察持ち。

「お前の自腹なら出前頼んでやるよ」

 だがこれが現実である。世知辛い。

「今日中には帰れる?」

「無理だな。最低でも、明日の朝まで留置所にお泊りだ」

「……がっでむ」

「ほれ、きりきり歩け」

 かくしてクロガネは、警察署に連行された。

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