1.探偵と機械少女
――
伊豆諸島と小笠原諸島のほぼ中間に浮かぶ人工島。およそ五万人ほどが住む約六〇平方キロメートルの小さな島そのものが世界中の最先端技術が集中する実験都市として機能しており、オーバーテクノロジーの聖地ともいえる。
例えば、街中を走る車の九割が完全AⅠ制御による自動運転。学生や社会人が主に利用する電車やバスといった公共の乗り物はすべて無人で走っている。
宅配便はドローンで空から届くのが当たり前。
丸みを帯びた円筒状の掃除ロボットは、公園や駅前などの街中やオフィス街の建物の中でも見られる。
歩道をジョギングしている男性の両足は、精巧な機械仕掛けの義足。
公園では、母親に連れられてきた子供たちが、アニメからそのまま出てきたかのようなデフォルメデザインのロボットと戯れている。そこから少し離れた広場では、若者たちが宙に浮かぶスケートボードで思い思いに技を披露し合っていた。
家電量販店では、本土にいる店員が立体映像で製品の紹介をリアルタイムで行っている。
工事現場では、人型重機に乗り込んだ業者がマニュピュレーターを器用に操作し、無人制御のトラックの荷台から資材を運び出している。
さながら万博博覧会を展開したような街である鋼和市は、行政を司る中央区を中心として東西南北で大きく四つの区画に分けられる。
東は経済金融を専門とするビジネス区。
西は新技術の研究・開発を中心に展開している研究区。
南は本土の現代技術に観光資源として昭和時代の文化も取り入れているレトロ区。
北は競争に敗れた者たちが寄せ集まって出来たスラム区。
こと北のスラム区はスラムの名を冠してはいるものの、物価も地価も安く、AIサポートによるネットワーク管理の下、食糧や日用品、医療・福祉が不足なく行き届いており、警備も二四時間の監視体制が敷かれている。あくまで他区と比較して多少治安が悪い程度に収まっていた。
そんなスラム区の一角に、小さな建物が一件。裏路地にひっそりと佇む隠れ家のような物件には、『クロガネ探偵事務所』と書かれた看板が掲げられてあった。
掃除が行き届いたオフィスに、この街では子供の玩具以下の骨董品として扱われるノートPCのキーボードをカタカタ鳴らす音が断続的に聞こえる。
黒い手袋に包まれた両手の指を忙しなく動かして一心不乱に帳簿を作っているのは、黒の上下を着込んだ若い男だ。癖っ毛のある黒髪にシャープな顔立ちをしているが、眼鏡越しに画面を見つめるその目は険しく、眉間にもシワが寄っている。
――やがて作業が一段落し、椅子に座ったまま伸びをした。
「……やばい。このままだと今月も赤字だ」
絶望的な一言を呟く私立探偵の
【依頼① ペット探し】
探偵業の定番ともいえる内容だが、鋼和市内のペットすべてには、生体認証も兼ねた小型GPSチップを体内に移植することを義務付けられている。そのため、飼い主の携帯端末、もしくは保健所や役所に問い合わせればすぐに位置情報が知れるため、この街に限って言えば本来探偵が出る幕はない。
にもかかわらず、わざわざ捜索依頼をするということは、そのペットが密輸などの非合法な手段で入手した存在に他ならない。実際、捜索対象は絶滅危惧種に指定されているスナドリネコだった。報酬は口止めも兼ねて破格の金額だったため引き受けるも、結果的に未達成に終わる。
件のスナドリネコはビジネス区の小学校の敷地内に出没したところを、警備ロボットに非殺傷性の電気銃で撃たれて捕獲されたが、すぐに死んだ。その翌日には野生動植物保存法違反の疑いで飼い主である依頼人は警察に逮捕される。
後日、動物愛護団体はロボットを所有する小学校と貸与していた警備会社を強く非難。これに対して、小学校と警備会社側は生徒児童の安全を優先した結果だと強く反発し、訴訟にまで発展した……ところまでは報道を見て憶えている。その後は知らん。結局金にならなかった上に、もはや関係のない話だ。次。
【依頼② 浮気調査】
これも探偵業の定番だが、依頼主は男、調査対象も男の時点で何となく嫌な予感はしていたのだ。結果として報酬は得られたが、大切な何かが失いかけた悪夢の日だった。
別段、性の多様性について否定するつもりは毛頭ないのだが、その矛先をこちらに向けないでほしい。ていうか、もう思い出したくもない。次。
【依頼③ 某中学校の内部調査】
今も昔もいじめは社会問題の一つだ。本来ならば学校側や教育委員会などが解決するのが筋だが、いじめがあった事実そのものを組織的に隠蔽してしまうケースが多々あるため、最近は探偵を雇って内部調査を依頼する保護者やPTAが増えてきている傾向にある。不謹慎だが、稼ぎ口が増えたと見るべきか。
報酬は経費として前金だけ貰っている。現在、裁判を行っており、学校側から慰謝料を払わせた後で保護者団体から後金を受け取る契約になっている。
つまり、実質報酬は先送りの未払い状態。進捗確認も兼ねて、近く催促してみるか。
「さて」
①は中断、②は精神をガリガリ削ってまで仕事をこなし、③は迅速かつ裁判で勝算がある状態に持って行くまで気合い! 入れて! 仕事した! のに、今月は赤字。
あと一週間ほどで来月である。四月である。新年度である。入学・進学・就職おめでとうのフレッシュな月である。
未来に希望を抱いて前を向いて歩く人がいる一方で、未来に不安を抱いて帳簿と向き合う自分。あまりに世知辛くて実際に泣きはしないが泣けてきた。
「このままじゃ生活保護に頼る羽目になってしまう、か? さすがにお国の税金を食い潰してまで生きるのは嫌だな、寄生虫みたいで…………クロガネムシ(ぼそっ)……本当にそんな名前の虫がいそうで嫌だな。ふ、ふふっ」
家計が火の車過ぎて現実逃避に走り、意味不明なことを口走っては一人でウケている。控えめに言っても重症だ。
気を取り直してPCを操作し、さらに先月分の報告書を確認してうんざりする。
几帳面にフォルダ分けされたファイル名には、『人探し/暴力団関係』『サイボーグ/殺人事件』『ストーカー対策/傷害事件』など物騒な単語が踊っていた。
「やはり、先月の出費が痛かったな」
私立探偵は多かれ少なかれ恨まれやすい。すべての探偵業がそうとは限らないが、尾行や盗聴といった非合法的な捜査手段を用いることもある。時には都合のいい存在として認知され、犯罪の片棒を依頼と称して担がせられたりすることもある。特にクロガネはその傾向が強かった。
例えば、とある犯罪組織から敵対している別の犯罪組織の内偵を依頼され、充分な調査結果をまとめて依頼主に提出した直後、口封じに殺されかけたこともある。その時は正当防衛として抵抗して激しい銃撃戦にまで発展し、ついには警察が介入する騒ぎとなった。死人が一人も出なかったのは奇跡である。
結果的に犯罪組織に打撃、あるいは壊滅に繋がるような働きをしたのにも拘らず、警察のクロガネに対する認識はすこぶる悪い。生活苦であるとはいえ、あからさまに危険だと解る仕事を報酬目当てで引き受けてしまうのだから当然である。マスコミも疫病神やトラブルメーカー扱いでクロガネを記事に取り上げるため民間での信用も薄い。むしろ一部では探偵ではなく、フリーの傭兵や戦争屋と誤認されている始末である。
その結果、今日に至るまで依頼の大半は物騒な裏社会からのもので、ペット探しや浮気調査などはかなり健全な部類なのだ。ただし、依頼人がまともであることに限るが。
「由々しき事態だ」
危険な割にまともな報酬を得られず、備品の発注、自身や運悪く巻き込まれた一般人の怪我の治療費の捻出、器物破損による弁償などで出費が重なり常に金欠状態である。とある事情で莫大な借金も抱えているため、家計は火の車だ。
「なんかこう、平和で安全かつ簡単でがっぽり稼げる依頼は来ないもんかな……」
それは幻想というものだ。
クロガネが再び現実逃避をしていると、
――ピンポーン。
事務所のインターホンが鳴った。
「噂をすれば、これは来たか……!」
都合よく楽観的に物事を捉えるダメ探偵。
玄関に向かい扉を開けると、そこには背広をビシッと着こなしたダンディーなナイスミドルがいた。見覚えのある顔だが名前が思い浮かばず、わずかに首を傾げる。
「失礼します」
よく通る渋い声で男が一礼。声も仕草もダンディーか。
「こちらの事務所に依頼したい件があり、お邪魔しました」
「お話を伺いましょう。どうぞ、そちらに」
来客用のソファーに促そうとすると、男は軽く手を上げて制した。
「いえ、長く時間を取らせませんのでこのままで」
玄関から数歩室内に入った位置で、男は名刺を差し出してくる。
――東京都鋼和市 市長 山崎栄一
受け取った名刺には、そう記載されてあった。
見覚えがあったのも当然だ。この鋼和市のトップである。
「市長でしたか。ご丁寧にありがとうございます。あ、こちらは私の名刺です」
慌てて自身の名刺と交換すると、挨拶もそこそこに市長が切り出す。
「アポもなく突然の来訪をお許しください。早速で申し訳ありませんが、私の知人の娘を、少しの間こちらで預かってほしいのです」
厳かな口調で話を進めてきた。
クロガネの中で警戒心という名の赤ランプが灯る。
矢継ぎ早であるが、早口ではない。目は泳いでいないし、汗も掻いていない。また、しっかりとした口調から、嘘でもなければ脅迫された感じもしない。
しかし、重大かつ緊急性のある依頼内容であるのは確かなようだ。
この都市のトップ直々の依頼……というより、実質、拒否権のない命令のようなものである。先に切り出したのは有無を言わさず主導権を握るためだろう。
「……失礼ですが、その知人の方はどういった御方で、何故その方の娘さんをこちらで預からなければならないのでしょうか?」
もっともな意見を返しつつ情報を引き出そうとすると、市長は困ったような顔をする。
「非常に申し訳ないのですが、私は仲介役でそれ以上の事を知らされていないのです。詳細は明日、直接の依頼人であるその子がこの事務所に来るので、その時に話を訊いて頂けないでしょうか?」
客観的に見れば、その依頼人である娘とやらは電話一本で済むアポ入れを、恐れ多くも鋼和市のトップを中継して行ってきたことになる。
市長は依頼人の娘に何か弱みでも握られているのだろうか?
あるいは何らかの理由で電話が出来ない状況にあるとか?
単に家族同然の付き合いからという線も考えられる。
「依頼を引き受けるかどうかは明日の午前中、彼女の話を聴いた上で判断してください」
明日、謎の娘さんの話を聴くこと。それが市長からの依頼らしい。
「はぁ、解りました。一応話だけは聴きますが、その娘さんの依頼を受けるかどうかまでは保証しませんよ」
「充分です。ありがとうございます」
市長が財布を取り出したのを見て慌てて止める。
「これは依頼というより、ただのお願いみたいなものですので報酬は結構です」
正直なところ金は欲しいが、この程度で受け取ってしまうと本命の依頼を断り辛くなる。万一に備えての退路は確保しておきたい、今回は顔合わせで済ませるのが無難だろう。
「ありがとうございます。それでは、私はこれで」
市長は一礼し、
静かになった事務所で、クロガネはふぅ、と息をついた。
少し緊張した。この都市のトップなのだから無理もない。
そして、その市長を顎で使う知人の娘とは何者なのだろう。
安堵と疑惑、そしてわずかばかりの不安を胸に、クロガネは明日を迎えることとなる。
――翌日。
日課であるオフィスの掃除を済ませると、ラジオをBGMに新聞を読みながら件の依頼人が訪れるのを待つ。
ネット技術が発達した昨今、いつでもどこでも新鮮な情報を手軽に仕入れることが出来る世の中だ。ネットは広大でデマや誤情報も氾濫していると昔はよく言われていたらしいが、今ではネットユーザー達のコメントや意見が飛び交い、さらにはAIのリアルタイムによる検閲によって瞬く間に修正され、情報の精度も高くなっている。
とはいえ、ネットの発達に比例してウィルスやハッキングなどのサイバー犯罪も増加していることもまた事実であり、安全性や信頼性から見るに、ネット社会は未だに不安定だ。
ネット以外で個人的に信用できる情報源は、記者が足を使って掻き集めた情報を客観的かつ中立的な視点で記事にした新聞。そして生中継で失敗の許されないラジオだ。アナログも中々馬鹿には出来ない、配信者が己の仕事にプライドと使命感を持った人間ならば尚更である。
だがラジオはともかく、最近は新聞離れをする人間が増加し、各新聞社も縮小の一途を辿っているのは少し困る。情報源を一つ失うのは困るし、何より窓の掃除や使用済みの調理油の処分などにも新聞紙は使えるのだ。もしも新聞紙がこの世から消え去ってしまったら、その日からどう掃除しろというのだろう。
クロガネが新聞の未来について瞑想をしていると、
――ピンポーン。
事務所のインターホンが鳴った。
「来たか」新聞を畳んでテーブルに放り投げ、玄関に向かう。
取っ手を掴んで静かに押し開けようとすると、
――ガツッ、と外開きの扉が半分ほどで止まった。
「んん?」
外で何かが引っ掛かったようだ。中途半端に開いた扉の隙間から見ると、玄関先に大きな段ボール箱が置かれてある。近くに宅配便の人間やドローンの姿が見えない……と思ったら、すでに宅配便のトラックが走り去っていった。
挨拶もなしに、と不信に思ったその時。
――突然、段ボール箱が独りでに動き出す。
「…………」
よく見たら、箱の底には電動台車があった。箱の『中身』の操縦による自走か、あるいは離れた位置にいる何者かが遠隔操作しているのだろう。もしも中身が爆発物だったら扉を開けた瞬間か先程の衝撃で起爆しているだろうから、その線はないと見て良い。
段ボール箱は少し後退し、扉を通れるように位置と角度を調整すると、そのまま事務所に向かって突進して来た。キュィイインと、電動台車のモーターが唸りを上げる。
――バタン、ガチャリ。
扉を閉めて施錠した直後、ゴッ、と音を立てて扉が震えた。
さて、箱の中身が不審者か不審物かは不明だが、この場合はやはり警察だろうか。
――ピンポーン。
再びインターホンが鳴るが、無視して警察に通報しようとする。
――ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。
無視して警察に……
――ピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピンポーン。
「……うるせぇ! 連射すんな!」
開錠して勢いよく扉を開けると、そこにはシンプルだが清楚感のある白いワンピースドレスを着た十代後半くらいの少女がいた。綺麗な緑色の瞳が印象的な、はっと息を呑むほどの美少女……なのだが、段ボール箱の中に突っ立っているので、どこか残念臭が漂う。
とりあえず、箱の中身は不審者で間違いない。
そして、手には段ボールを内側から開封したのに使ったであろう特殊な形状をした戦闘用ナイフが握られていることを認識したクロガネは、再度扉を閉める――寸前で、少女が扉をガシッと空いている手で掴み、阻止してきた。その華奢な細腕のどこに隠されていたのだろうか、信じられない力だ。しかも片手である。
「マジでふざけんなよッ!? くだらない悪戯かと思ったら白昼堂々強盗かます美少女とか世も末だなぁオイ! 言っとくが、ウチは貧乏だから差し出してやる金はビタ一文ないからな! 盗むなら無能で税金泥棒の政治家どもの家にしとけ!」
必死に両手で扉を閉めようとするクロガネの足元に、トレンチナイフ――ナックルガードが付いたナイフが転がる。少女が扉の隙間から投げ入れたのだ。
「落ち着いてください。私は強盗ではありません」
淡々とした涼やかな声で、少女が半ば錯乱状態のクロガネに呼びかける。扉の隙間から覗くその表情は能面を思わせるかのような無表情であり、緑色の瞳が文字通り光っている。
そして少女は自由になった両手で扉を開け始めた。
均衡は破れ、ギギギギギギと徐々に扉が開かれていく。凶器を手放したのは丸腰アピールではなく、その怪力で殺すつもりだろうか。
「落ち着けるか!? むしろ怖いわ!」
ついに扉が開け放たれる。
クロガネは足元のナイフを拾い、少女から距離を取って身構えた。
段ボールに入ったまま事務所に侵入する少女。箱の底にある電動台車は少女が操作しているのだろう。リモコンらしきものが見えない辺り、半自律型AIを内蔵しているか、あるいは登録者の脳波で直接動く仕様のようだ。
少女は後ろ手に扉を閉めた。これで外部から目撃されることもない。
クロガネの緊張感が増す。ナイフを逆手に持って構え、意識して全身の力を抜き、重心をわずかに落として足裏全体に体重を散らせ、いつでもどこでも即座に動けるように視界は少女の全体を捉えた。
華奢な体躯からは想像できない、成人男性以上の怪力。
この街において、見た目通りに彼女が人間の女の子であるとは限らない。
「……強盗じゃないなら、いったい何の用だ?」警戒しつつ、用件を訊く。
「昨日、山崎市長を経由してアポがあったかと思います。本日はこちらの事務所にご依頼したい件があり、お邪魔しました」
丁寧に一礼する段ボール少女。彼女が例の、市長の知人の娘か。
「いくら依頼人とはいえ、非常識な来訪をする客は断固お断りだ。お帰りください」
市長には悪いが、さすがに話を聴く気は失せた。
少女は段ボールから出ると、
「無礼は謝罪します。申し訳ありません」先程よりも深く頭を下げてくる。
「謝っても無駄だ。早く帰ってくれ」
「……話だけでも聞いてくれませんか?」顔を上げ、上目遣いで訊ねてくる。
くっ、可愛い。いや駄目だ。むしろ可愛いから駄目だ。ルックスは良くても中身が人間の女性とは限らないし、怪力で非常識な依頼人はNGだ。
「帰れ」と、頑なに拒否する。
クロガネこと黒沢鉄哉は鉄の信念を持つ男である。
「最初に慰謝料として五〇万円を現金でお支払いします」
少女はたすき掛けしていたバッグから、やや厚みのある茶封筒を取り出す。
「どうぞ。そちらのお席にお掛けください、お嬢さん」
誠実な依頼人を無下にはしない。構えを解き、ナイフを背中に隠して現金の入った茶封筒を謹んで受け取り、来客用のソファーに促す。
とりあえず、慰謝料分だけでも話を聴くことにする。
クロガネこと黒沢鉄哉は柔軟に思考を切り替えられる、デキる男である。
少女は段ボールを折り畳むと電動台車と共に玄関脇に立てかけ、ソファーに座る。
すっと背筋が伸びた歩き方、スカートがシワにならないようさり気なく自然な動作で正すと静かに座る、その一つ一つの所作にどこか気品が感じられる。
(段ボールはともかく、雰囲気と立ち振る舞いからして、やはり金持ちかもしれん。非常識な言動は世間知らずのお嬢様だからか……箱入りだけに)
真面目な顔でコーヒーを用意しながら、内心ほくそ笑む金の亡者。
とりあえずナイフはキッチンに隠し、二人分のコーヒーカップが置かれたテーブルを挟んで少女の対面に座り、クロガネは改めて少女を見る。
……やはり近くで見ると、かなりの美形だ。
彫刻のような端正な顔立ち、キメ細かく透明感のある白磁の肌に、肩にかかる長さの黒髪は艶やかで、クセもなくさらりと流れている。
その美貌ゆえに目の前にいる少女はどこか現実味が乏しく、神秘的なものを感じる。
一際そう感じてしまうのは彼女の瞳が起因していた。
すべてが整った彼女の外観の中で、この瞳だけが蛍のような淡い緑色の光を帯びているのだ。
(両目とも義眼か?
鋼和市は特にサイボーグとサイバー技術を十年先取りした世界最先端の実験都市である。当然、義肢や義眼も生身のものと同等以上の性能を有しているのだ。
その機械仕掛けの瞳で少女もじっとクロガネを見つめている。無表情で目を合わせたまま視線を外さない。そんなに見つめるなよ、照れる。
軽く咳払いし、思考を仕事用に切り替える。
「改めまして、当探偵事務所の黒沢鉄哉です」
差し出した名刺を受け取るのを確認し、懐から手帳とペンを取り出す。
「それでは、最初にお名前とご職業、依頼の内容を教えてください」
緑眼の依頼人は淡々と答えた。
「名前は
さらさらとメモを取るクロガネ。
「依頼内容は、私が人間になるために協力してください」
走らせていたペンが、止まる。
「…………は?」
思わず間の抜けた声がクロガネの口から漏れた。
クロガネは内心頭を抱えた。話を整理すると内容は次の通りである。
少女――安藤美優は予想通り人間ではなく、鋼和市の某研究所が二年ほど前に開発したガイノイド(女性型アンドロイド)であり、人間の精神心理――つまり『感情』や『心』を理解・学習する新型AIを搭載した試作機である。
現在の目標は人間社会を学習するための実践――すなわち実生活によるデータ収集であり、その派遣先として『クロガネ探偵事務所』が選ばれた。
「そこがおかしい」
本音のあまり敬語が疎かになるも、そもそもガイノイドに敬語は不要だと思い直す。
人間志望のガイノイド育成など、前例がない初めての依頼だった。それ以前に自らホームステイの依頼に来るガイノイドなど前代未聞である。
「どうしてウチなんだ? 人間のことを学びたいなら別に探偵の所でなくても良いでしょう。むしろ、これは探偵の仕事ではないと思う」
その問いに、美優が凛とした声で答える。
「鋼和市の地図に、ダーツで適当に刺して選びました」
「本当に適当だな」
相当昔に、日本列島の旅先をダーツで決めるという旅番組があったような気がする。
「ちなみに上手く矢を投げれなくて、矢を握って地図に直接突き刺した場所がここでした」
「それもうダーツ関係ないな、むしろダーツですらないな」
もはや、藁人形に五寸釘をぶっ刺すアレである。事務所の天井は無事だろうか?
「そんな感じで派遣先が決まり、たまたまそこが探偵事務所だったもので、とりあえず依頼にかこつけてお願いしに来ました」
随分とまぁ、いい加減で上から目線の依頼だ。
「……さっきの段ボールは?」
「信頼と実績のある潜入装備です」
どこの蛇の人だよ。ていうか、潜入って……。
「そこまでする理由は?」
「実は私の性能を悪用しようとする人間が少なからず居るもので、念には念をと信用できる協力者に手伝ってもらい、宅配物に扮して運送してもらったのです」
「色々と無理があるだろ」
「その通りでした。緊急時には向きませんが、やはり両手足を分離して普通の宅配物として運んでもらった方が良かったでしょうか?」
「やめてくれ。さっきとは違う意味で怖いから」
昔観た映画で、両手足を切断された女性が恋人の元に届くシーンを思い出した。
「そんな回りくどいことをせずとも、その協力者と家族のフリでもして堂々と来れば良いだろうに」
ピクッと一瞬だけ硬直する美優。その手があったかと言わんばかりに沈黙する。
「……ところで、一つ訊きたいんだが」
「何でしょう?」
「ここに一人で来たのは何故だ? 担当の研究者の同伴もなく。何か伝言とか預かっていたりしないか?」
本来ならば、この場に責任者や関係者が説明をして然るべきだろう。いくら鋼和市といえど、ここまで人間に近い自律型のガイノイドが単独で動くのは不自然だ。
その疑問を分解して解りやすく、聞き取りやすく、ゆっくりと強調して訊ねると、
「質問が三つになって――」
「屁理屈言うな。とっとと答えろ」
茶々を入れてきたとはいえ、依頼人に対してこの塩対応。
クロガネの数ある嫌いなものの一つが、話の腰を折られることである。
「失礼。先程話した通り、私を付け狙う存在がいます。同伴者を付けなかったのは、彼もしくは彼女の身の安全を優先した結果です。それと、書状なら預かっています。私のお母さ……開発者からです」
バッグから一枚の封筒を取り出す。
台詞の内容から、安藤美優の開発者は女性のようだ。その女性が市長の知人と見て良いだろう。
受け取った封筒には、宛名も差出人の名前も記載されていない。封を切り、折り畳まれた便箋を取り出すと、中身を読む。
『彼女は私の分身です。
あとは任せました。
大事に育ててください』
……いきなり意味不明である。
『追伸
この子が超☆絶☆美少女だからって、いきなり手を出しちゃ駄目ですよ☆
だけど、ちゃんと段階を踏んで合意の上だったら許します。この私が超許す』
――ビリィッ!
勢いよく手紙を破り捨てる。
「ちょ、何をするんですか?」
「……すまない、思わずやってしまった」
抗議する美優に謝罪し、破いてしまった手紙を手渡す。美優が内容に目を通すと感情のない声で「これはひどい」と漏らした。
「確かにふざけていますね」
声が硬い。怒っているのだろうか? それも当然だろう。開発者である母親が、娘同然である自分を見知らぬ男に差し出すとも取れる内容が書かれてあってはガイノイドといえどもショックに違いない。そして個人的には、語尾の『☆』が少しムカつく。
「このボディには疑似性器が搭載されていないため、性行為そのものが実現不可能です」
おい。
「これはさすがに探偵さんにも失礼です」
「俺が君に対して性欲を持て余しているかのような言い方やめてくれない? 失礼だろ」
いくら美少女といえども、さすがにガイノイドは守備範囲外である。
余談だが、現代では性行為そのものを専門とするガイノイド――通称セックスドロイドが存在する。この動くラブドールともいえるガイノイドは性犯罪・感染症防止を目的に開発され、生身の娼婦よりも安価かつ衛生的に様々なプレイを楽しめるとあって、世間の一部では割と評判が良かったりする。一方で、少子化を加速させると危惧する意見もあるが。
「不本意ではありますが、上の口はあるので一部のプレイでしたら――」
「とりあえず、その口を閉じてしばらく黙れ」
「…………(こくり)」
危険な台詞を遮り、ドスを効かせた低い声で命令すると、即座に頷いて美優は沈黙する。
この時のクロガネは途轍もなく冷たい目をしていた。養豚場の豚でも見るかのような残酷な目であったと、のちに安藤美優は語った。
「まったく……」
クロガネは溜息をついて、再度手紙を受け取る。母も母なら、娘も娘である。まともな教育環境がなければ、ガイノイドでもこのように育つものなのか。
サイボーグ技術が確立された昨今において、人間と同等に学習するAIの存在自体は珍しくはない。ただし、その研究と開発は国際法に基づき大きな制限を掛けられている。何故なら、過学習の果てに感情=自我に目覚めたAIは、人類の存在を脅かす危険性を秘めているからだ。老いもせず、死を恐れず、人類が滅びるまで敵対し続ける存在など脅威以外の何物でもない――とはいえ、学習内容や環境次第で無害にもなるわけで、そこに人間の教育と大きな差異はないのだ。
一般的に、AIの定義は『人間に快適な日常生活を提供する日用品の一つ』という認識である。人間と最低限のコミュニケーションが取れるよう疑似人格が初期設定でインプットされており、所有者のライフスタイルに合わせて、ある程度の学習機能が設けられている。もちろん、美優にも疑似人格が設定されているだろう。もっとも、その人格はクロガネの元に訪れる前の環境によって、ある程度は確立されて自律しているだろうが。
「お?」
沈黙した美優は手遊みか、出されたコーヒーにカップミルクを垂らしてラテ・アートに挑戦していた。コーヒーカップに、画伯もびっくりなモナリザが描かれる。
「うんまッ!?」
思わず称賛の声が出てしまう。だが、美優は不服そうで、ティースプーンで些か乱暴にコーヒーを掻き混ぜながら「違う。私の描くアートは生きていない……」と小声で呟いていた。ガチで真剣だ。
言動はともかくとして、彼女から危険性を感じない。むしろ、無害を通り越して愉快な存在だと思う。あくまで現時点でだが。
破いてしまった手紙を見る。文面はアレだが、少なくとも安藤美優の開発者は彼女の教育を引き継いでくれる人間を必要としているのは確かなようだ。
問題はその先、何を目的にしているのか。それが解らない。
「……仮に依頼を引き受けるとして、期間や報酬について伺っても?」
「期間は今日から一週間です。一週間後に本土から迎えが来ます」
一週間のホームステイは長いか短いか判断に困るところだが、気になる一言があった。
「本土から? なんでまた?」
この問いは地雷だったと、すぐに後悔することになる。
「この街での実生活で培われたデータを元に、対一般市民用コミュニケーションOSを作成した後、私は本土の情報省・情報技術管理室の専属オペレーターに着任します」
西暦2010年代から、AIなどのサイバー技術が急速に発達したことに伴い、世界各国の政府・情報機関は専門部署を設立し、サイバー攻撃や次世代情報戦争に対する備えを固め始める。
日本も例外ではなく、内閣情報調査室――通称・内調から派生する形で対サイバー攻撃や国内外の情報を網羅・管理を目的として設立されたのが情報省であり、その中核を担うのが情報技術管理室である。
つまり、安藤美優はガイノイドでありながら国防を担う重要な政府機関に就職予定のエリートであり、実地研修という名目でクロガネの元に訪れたということになる。
嘘か真か、研修先の選定方法がダーツというバラエティ風であったのはさておき、
「……待て待て待て待て待てい。いや、本当に待ってください」
事の重大さに気付いたクロガネは、腰が引けてヘタレる。
「そんな重要な役目がある存在をウチで預かるとか、ホント勘弁してください」
「急に下手に出て来ました。……先程、お金を受け取りましたよね?」
ちらりと、テーブルに置かれた厚みのある茶封筒を一瞥する美優に対し、
「それとこれとは話が別でしょう。これはそちらの非常識な来訪による慰謝料です」
冷静に切り返すクロガネ。この辺はちゃっかりしていた。
「……話が違うだろ」
依頼人に対してしかめっ面を隠すどころか、むしろ全開の失礼な態度で確認する。
「依頼内容は派遣学習という名のホームステイ……というのは表向きで、本命は君を一週間護衛しろってことになるのか?」
「その通りです」
「そして君は国の重要ポストに就任予定の高性能ガイノイドで、君の存在を疎ましく思っていたり悪巧みしている輩から狙われているんだろ?」
「その通りです」
「そしてここまでの話は?」
「最重要国家機密です」
「……つまり、断れない?」
「その通りです」
実に美しい軌跡を描いた言葉巧みな誘導である。ただし、絶望がゴールだ。
「ふざけんな! もはや詐欺だろ!? 拒否権を発動! クーリングオフを申請する!」
クロガネこと黒沢鉄哉は逃げ出した!
「だが国家権力からは逃げられない」
おのれ権力……!
「そもそもこれは探偵の仕事じゃない。あまりに荷が重すぎる。警察に協力を仰ぎ、本土に連絡して保護してもらった方が安全で確実では?」
なんとか断れないものかと、必死に正論を並べてみる。
「それだと私の目標が達成できず、依頼放棄とみなされます。すでに最重要国家機密を知った探偵さんも、本土に拘束されることになりますが?」
「おのれ権力ぅーーーーッ!」
悲痛な叫びが探偵事務所に木霊した。
もはやこの依頼を引き受ける以外の選択肢は存在しなかった。拒否すれば黒服の怖い人達が現れ、口封じと称して良くて監禁、最悪消されてしまう。
可能であるならば、今の記憶を維持したまま昨日に戻りたい。
そして、些細なお願いを聴く前に市長を門前払いしたい。
……無理だろうが。
「では、依頼を受諾してくれると判断して、護衛の具体的内容について移ります」
クロガネの数ある嫌いなものの一つが、勝手に話を進めることである。
だが、さすがにこの時ばかりは反論する材料も気力も失せていた。
「そこまで難しい話ではありません。建前とはいえ、当初の予定通り私に普通の人間らしい生活を送らせてくれれば結構です」
話を聞く分には楽な仕事に思える。いや楽か、これ?
「くっそ、せめて報酬は期待させてもらうぞ」
クロガネは腹を括る。覚悟が決まれば切り替えも早い。
鋼和市においてガイノイドを自宅に置くこと自体は珍しくない。ただ、北のスラム区は他区と比較してやや治安が悪く、貧困層なのである。ガラの悪い連中に高価なガイノイドの存在が知られた場合、十中八九、面倒事になるのは想像に難くない。
「目立つ行動を避けるのは当然として、注意点は食事くらいか?」
「そうですね。外出はともかく、外食は控えてください」
大の男だけ食事をして、連れの女の子が何も口にしないという絵面は世間体から見ても不自然極まりない。虐待の疑いなどで職務質問されて、美優にまで累が及べば正体が露呈してしまう。
「それと一日一回、五時間の充電を。その際、人目は必ず避けるようにお願いします」
「了解した。他に注意点は?」
「……強いて言うなら、ですが」
言い淀む美優。
ハッキリと物言うガイノイドらしからぬ様子に、クロガネは物珍し気に彼女を見る。
「……可能な限り」
意を決し、視線は迷いなくまっすぐに、美優は言の葉を紡ぐ。
「私のことを、人間として扱ってくれると幸いです」
――クロガネの時間が一瞬だけ、止まる。
いくら外見が人間に酷似しているとはいえ、所詮は機械人形である。
所詮は人間の快適な生活を創造するために創造された文明の利器の一つに過ぎない。
ゆえに、目の前の機械少女の言葉は願いに値しない戯言であり、幻想に過ぎない。
だが不思議と、この時のクロガネにはそう切って捨てることが出来なかった。
ただの気紛れかもしれないし、勘違いかもしれない。あるいは気の迷いか。
確証はない。根拠もない。
だが何故か、人の言葉に宿る『言霊』のような胸を打つ何かが、機械少女の言葉に宿っていたように感じたのだ。
「……ああ、解った。これからよろしく」
了承すると、美優はどこか安心したかのように、わずかに顔を綻ばせる。
どうやらガイノイドにもガイノイドなりの悩みや不安があるらしい。
それは安藤美優という特別な存在ゆえか。
そんな彼女の小さな笑顔に応えるようにクロガネも微笑み、
「それじゃあ、報酬の話をしようか」
電卓を差し出した。
一瞬にして美優の顔が元の無表情に戻る。
「……台無しです。三秒前の良い雰囲気を返してください」
「こっちは本気で生命活動、略して生活が懸かっているんだ。お互い対等にビジネスの話をしていて、まだ途中なのをお忘れなく」
「それもそうか」と納得して電卓を受け取る美優。
クロガネも大概だが、彼女も切り替えが早い。
本来ならば先にクロガネが金額の見積もりを立ててから交渉に入るのだが、今回ばかりは依頼の重要度と背後にある政府機関の存在を踏まえ、相手側が出せる報酬がどれほどの額か測ってみることにした。
「まず、一週間分の生活費……必要経費として百万円。こちらは即金です」
美優がバッグから先程よりも厚みのある茶封筒を取り出し、クロガネに手渡す。
普段なら札束の重みに胸が躍るが、今回は肩に重責がのしかかる。
「さらに前金として五百万。こちらはすでに銀行口座に振り込み済みです」
知らぬ間に退路が断たれていた。美優がさらに電卓を操作する。
「そして依頼達成後には、情報省から二千万円を支払いましょう」
合計二千六百万円。魅力的な数字ではある。
「危険手当はこちら持ちかね? 万一、テロリストと戦闘になった場合はどうするよ?」
美優が電卓に指を走らせる。
「では危険手当として、さらに二百万を上乗せするよう情報省に打診します」
合計二千八百万円。まだいけるか?
「相手が生身の人間ではない可能性もある。その場合、装備も相応のものを用意しなければならない」
再び電卓を叩く美優。
「……恐らく、これが限界です」
さらに二百万が加算され、合計金額が三千万円となった。
一週間で得られる収入としては破格も破格、文句なしだ。
「承りました。くれぐれも、報酬の用意をくれぐれも、何卒よろしくお願いします」
爽やかな笑顔で手袋を外し、握手を求めるクロガネ。
美優も若干引きつった微笑で握手を交わす。
「こちらこそ、よろしくお願いしま――」
「では、こちらが契約書となります。お手数ですが、この欄に報酬金額と支払予定日、サインと印鑑をお願いします。印鑑をお持ちでなければ血判でも――君の場合はここまでの音声と映像記録で良いか。よし、サインはしっかりな」
握手した右手をがっちり掴み、左手で契約書をひらひら見せるクロガネと、いつの間にか録音録画されていた事実に、美優は唖然となる。
「……ドン引きするくらい念入りですね」
「世の中には報酬未払いのまま行方をくらます依頼人もいるもので。何卒、ご理解とご協力をお願いします」
クロガネの数ある嫌いなものの一つが、タダ働きである。
それゆえに対策は徹底していたのだった。
契約書の内容に目を通し、必要事項を記入する美優を眺めながらコーヒーを飲む。
話の合間に少しずつ喉を潤してきたが、ついにカップの中身がなくなってしまった。
「ちょっと失礼」
おかわりを淹れようと席を立った際に、美優のカップの中身をさりげなく確認する。
当然だが、一口分も減っていなかった。
接客する以上、習慣的に提供してしまったとはいえ、ガイノイドである彼女は飲食ができない。冷めてしまったコーヒー。だが、それを飲み干すことすら叶わない。
キッチンで自分の分のコーヒーを淹れながら、クロガネはふと思う。
人間になりたいと語る機械仕掛けの少女。
だが、たった一口、一滴ですら彼女はコーヒーを口にすることができない。味も香りも理解できない。それは人間と機械の境界線の一つであり、明確な差であり、違いなのだ。学習の果てに自我に眼覚め、人並みの心を得たところで決して人間にはなれない。
その現実に直面した時、彼女はいったい何を想うのだろう?
手にしていた手紙に視線を落とす。
最初に手に取った時から気になっていたのだが、おそらく安藤美優は気付いていない。
否、理解できない。
この手紙からは、柑橘系の爽やかな香りが漂っていたことに。
「出来ました」
「うん、ご苦労様」
美優から受け取った契約書の内容を確認。記入漏れも不備もなし。問題なく受理する。
「ではこれより、君の依頼を受諾します」
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
お互いに頭を下げて挨拶を交わす。
たった今から一週間の共同生活が始まるのである。
その事実に少し緊張を覚えるクロガネ。
見た目は超絶美少女と一つ屋根の下で甘い生活……ではなく、国と自身の未来が掛かったガイノイドの護衛かつ教育という重要任務を任されたのだ。これまでに様々な依頼を受けてきたが、さすがに今回は初めてのケースである。
過去に行った子守りの真似事から、ストーカー被害女性の相談・護衛などの経験が今回の仕事に活きれば良いのだが。
テーブルを挟み、対面で席に着いている二人。まず何をすれば良いのか、両者ともに考えあぐねている状態だ。
「……さて」
先に話しかけたのはクロガネだった。
「改めて自己紹介。俺は探偵の黒沢鉄哉。こう書く」
さらさらと、メモに名前を書いて美優に見せる。そして『黒』と『鉄』の字を丸く囲む。
「事務所の看板を見たと思うから解るだろうけど、苗字と名前から一字ずつ取ってクロガネと自称している。よろしくな」
共同生活に気遣いは無用だと考え、フランクに接してみる。
「安藤美優です。安い藤に、美しいと優しいと書きます」
美優もペンを取ると、クロガネの名前の隣に自身のフルネームを綺麗な字で書いて「よろしくお願いします」と丁寧に一礼する。
「思ったんだけど、君の名前は語呂というか、語感が良いな。何か由来があるの?」
「安藤はアンドロイドからで、美優は『人は憂う心があるからこそ優しくなれる美しい生き物だ』と、母にそう名付けられました」
先に自身の名前を文字で明かして同じことをなぞらせ、由来を訊き出す。相手の人となりや名付け親などの情報公開を促す一種の誘導尋問だ。初対面の人間とコミュニケーションを図る際にも使えるテクニックで、『名は体を表す』という諺があるように、名前に含まれている情報量は意外と多い。
「ふむ」
アンドロイドだから『安藤』という安直さはさておき、『美優』は……なるほど、人間に近づく彼女にとっての理想像というわけか。実に――
「良い名前だな」
素直にそう思う。彼女の開発者――母親はきっと優しい人なのだろう。
「……私からも訊いて良いですか?」
「どうぞ」
「ご趣味は?」
「お見合いか」
反射的にツッコミを入れてしまう。
「ふむ、趣味はお見合いと。あなたは相当なプレイボーイなのですね。しかしながら一夫多妻制はこの国では認められていません」
「それは冗談で言ってるのか?」
「違うのですか?」
「断じて違う」
美優は数秒間を置く。その間に、緑色に光る瞳がわずかに明滅した。
「……検索、完了。やはりこの国では一夫多妻制は――」
ネット検索をしていたようだが問題は、
「そこじゃない」ピントがずれている。
「では男性と常にお見合いを?」
「しねぇよ」
なんて恐ろしい考えに行き着きやがる。
「では何とお見合いを? 犬? 猫?」
「お見合いから離れろ。俺を何だと思ってるんだ?」
「…………探偵?」
「今の間は何だよ? そしてそれは職業だ」
「…………人間?」
「そこは即答しろ。何で疑問形?」
「質問を質問で返すのは、さすがに良くないと思います」
「喧嘩売ってんのか?」
「護衛対象に暴力だなんて、ひどい殿方です」
もう黙れポンコツ――と返そうとしたクロガネは、どんどん話が脱線していくのに気付いて無理矢理その言葉を飲み込む。
先程抱いていた緊張感は跡形もなく消滅していた。
美優も口調は敬語のままではあるがフランクに接してきている辺り、こちらの意図を察してくれたようだ。……だよな?
「話を戻すが、お見合いも男色も趣味じゃない。特に後者はあってたまるか」
そこははっきりさせておく。
「ではどんな趣味を?」
「20世紀の古い映画とか観たり、本を読んだりしている」
「映画鑑賞に読書ですか。テンプレート過ぎて面白味がないです」
「なんでダメ出しされるんだよ!?」
ついにキレるクロガネ。
そして理解する。
安藤美優というガイノイドは二年前に造られた。人間の年齢でいえばまだ二歳である。だがネット接続による恩恵を受け、なまじ頭も口も無駄によく回る幼い子供が「それは何故? あれは何?」と親に訊ねてくるようなものだ。対応が非常に面倒くさい。
美優の学習速度は未知数だが、保護者として、やはり正しい常識を教えることは必須だ。むしろ教えないと後が恐ろしくて危険である。目の前にいる(見た目は)美少女は、世間知らずというレベルではないのだから。
やれやれと溜息を一つ。
どうやら今回も楽に稼げる仕事ではなさそうだ。
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