機巧探偵クロガネの事件簿 〜機械の人形と電子の人魚〜

五月雨皐月

プロローグ

 春先とはいえ、まだ冬の残滓が残る深夜の港町。地面に白雪がうっすらと浮かび、その上を鮮やかな赤い血がまだらに染める。

 夜の静寂を破るのは波や風の音ではなく、怒号と乾いた銃声。

 風に漂うのは潮の香りではなく、硝煙と血の匂い。

 静かで穏やかな夜の港町は、過激で物騒な危険地帯と化していた。

「捜せ! そう遠くへは逃げていない筈だ!」

「相手は一人でも油断するな! こっちはもう四人も殺られてんだ!」

 拳銃で武装した複数の男達の怒声に、無地のパジャマに身を包んだ十四歳の少女は恐怖に身をすくめ、無意識に傍らに佇む男のコートの裾を掴む。弱々しく、恐怖に歪んだ少女の顔には暴力を受けたのであろう、冷たい風にあてられたその頬は赤く腫れ上がり、痛々しい。

 そっと少女の頭を撫でる男のもう一方の手には拳銃が握られており、彼もまた危険な存在であることを物語っている。だがほんの数時間前に正体不明の武装集団に拉致され、生まれて初めて危険な裏世界に放り込まれた少女にとって、男の存在は頼もしいナイトに相違なかった。

 追われるまま二人は貨物コンテナの陰に隠れる。まさに命がけのかくれんぼ。鬼は複数、見つかれば殺されるという過酷な状況下で、無事に逃げ切れるとは到底思えなかった。

 二人の方へ向けられたサーチライトの光がコンテナの影を濃く浮き出させる。反射的に駆け出して逃げようとする衝動をぐっとこらえ、少女は涙目で男の顔を見る。険しい表情だが冷静に、まるで作業のように周囲に気を配っている。この程度は死地でも窮地でもないとばかりに手慣れているかのような印象。不安を感じさせない力強い光を宿した眼が、少女の心の支えだった。

「……こちらアルファゼロ。プリンセスを保護。これより障害を排除しつつ離脱する――――了解。交信終了」

 アルファゼロと表音フォネティックコードで名乗った男は、片耳に着けた小型インカムで短い通信のやり取りを終えた後、おもむろにコートを脱ぎ、少女に被せる。きょとんとする少女に、

「これ被ってて。防弾になってる。弾が当たるとすんごい痛いけど、たぶん死にはしない」

 先程のプロフェッショナルな雰囲気から一転。穏やかな顔と優しい声音で、安心させるようでどこか不安になるようなことを言い出す。

 自分を置いて離れて行ってしまうことを察した少女は、寂しさと恐怖に顔がくしゃくしゃになり、男の服を掴んだ。

 男はその手をそっと包み、優しい声で説得する。

「泣かないで、ここで待ってて。すぐに戻ってくるから」

 やがて少女は頷き、掴んだ手を離す。男は満足そうに頷き、きびすを返す。少女に背を向けた男の表情は、ぞっとする程に冷たく、鋭いものだった。



(まったく……柄じゃないことはするものではないな)

 男――アルファゼロはそう自虐する。本来なら彼の役目は偵察と交渉による時間稼ぎであり、救出は他のチームの配置が完了次第、連携して行われる筈だったのだ。だが少女の姿を確認した直後、彼女の顔が殴られるのを見て、つい独断で動いてしまった結果がこのざまである。段取りが狂い、チームの配置変更に大幅なタイムロスが発生し、しばらくの間単独でしのぎ切る他ない。完全に自業自得だが、やってしまったものは仕方がない。チームプレイを乱した負債はきっちり返さねば。

 足音もなく、素早く目の前の標的に忍び寄る。無防備な背後から両手を伸ばし、頭部を包むように腕を交差させて首をへし折った。その際に標的が手にしていた拳銃が暴発する。引き金に掛けていた指が反射的に動いたのだ。銃声が響き、それを頼りに敵の増援が近づいてくる。

「こっちだ!」

 どかどかと立てる足音から増援が三人ほど。距離にして二十メートル弱と推定し、腰裏から閃光手榴弾スタングレネードを取り出してピンを抜き、タイミングを計ってこちらに向かってくる方向へ放り投げた。すぐさま物陰に潜み、両耳を手で塞ぎ、口を半開きにする。

 安全レバーが弾け飛び、放物線を描いて宙を舞う円筒。その目と鼻の先、通路の陰から飛び出してきた男たちの眼前で強烈な閃光と轟音が炸裂した。

 直後、手近にあった梯子を伝ってコンテナの上に上り、伏せた状態で拳銃の残弾数を確認する。

 十秒と経たない内に、再び増援が駆け付けてくる。彼らが、閃光手榴弾をまともに喰らって失神している三人に近づいたところで高所からの狙撃。狙うは心臓。的が小さい頭より狙いやすく、たとえ外れたとしても、肺をはじめとした重要な器官に当たる。反撃はおろか、こちらの位置を特定する前に射殺する。

 先に失神した三人にも銃弾を撃ち込み、その場で動く者がいなくなったことを確認すると即移動。弾倉を交換し、コンテナから別のコンテナへと派手に音を立てながら移動しては途中で飛び降り、あえて姿を見せては逃走し、威嚇射撃。敵が一瞬怯んだ隙に身を隠し、コンテナの上に空弾倉を投げて再び上にいるように思わせる。その隙に射殺。敵の銃を奪って移動、索敵、撹乱、時々射殺。陽動を繰り返すことで敵に複数の標的――アルファゼロと少女がこの場にいると錯覚させる。

 少女のいる場所から少しでも連中を遠くへ引き離す。そして頃合いを見て合流し、脱出する。これがアルファゼロが描いたシナリオであり、それは見事に達成する――

「出てこい、この野郎! さもないと、このガキの頭を吹き飛ばすぞ!」

 ――筈だった。


 アルファゼロが閃光手榴弾スタングレネードを使用した直後。銃声とはまた違う爆音に驚いた少女は、不安に耐え切れず言いつけを破って動いてしまったのだ。結果、あえなく敵に発見され人質にされてしまった。

 やがて、苦虫を潰したかのような表情でアルファゼロがゆっくりと姿を表す。拳銃は手にしているが両手を上げ、引き金には指を掛けていない。

 少女が申し訳なさそうな表情を浮かべて泣いていた。だが独断専行で救出に踏み切った手前、彼女を責める資格はない。

 切り替えて、アルファゼロは冷静に現状分析を始める。

(……正面には女の子を人質にした男。その左右に一人ずつ)

 ゆっくりと自然な動作で背後を確認し、すぐに正面に向き直る。

(……挟む形で背後に二人)

 いずれも拳銃装備。六メートル程の距離を置いてアルファゼロを挟んだ位置にいる。

 形勢逆転した敵が勝ち誇った表情を浮かべたのも束の間、その顔色が憤怒に染まる。

「好き放題暴れやがって……! おい、銃を捨てろ!」

(……不安要素は人質の頭部に銃口が突き付けられていること。連中にとって、彼女は大事な『商品』だから今ここで殺すことはないだろう。だが、万一にも暴発されたら困る)

「聞こえてんのか!? 銃捨てろッ!」

 命令を無視し、物怖じしない態度に気が障ったか、声にドスを利かせて銃口を少女の頭からアルファゼロに向けた。好機。

「……解った」

 言われた通り、グリップから指を一本ずつ焦らすようにはがし、銃を捨てる。手の平から零れ落ちた拳銃は重力に従い、落下する。

 拳銃が地面と接触する一秒にも満たないわずかな時間。一同の視線が、意識が、落下する拳銃に注がれるその刹那の空白――


 手を上げていたアルファゼロの袖口から、細長いリモコンが手品のように飛び出す。


 ――拳銃が、落下している。


 リモコンを掴み、すかさずスイッチを押す。アルファゼロの視線の先、少女と敵の後方に停泊していたクルーザー。先程の陽動の最中、船内に放り込んでいたC4――プラスチック爆弾の受信機が作動、雷管に点火。


 ――拳銃が、重い音を立てて地面に落ちた――――同時に、クルーザーが大爆発。


 突然の爆発に一同が例外なく怯み、反射的に爆発した方向へ視線を切らせた瞬間、アルファゼロは両の袖口に隠し持っていたスローイングナイフを閃かせ、振り向きざまに背後の二人へ投擲。深々と喉笛に突き刺さるのを待たず、落ちた拳銃を拾い、正面に二発発砲。少女を人質にした敵の両脇にいた二人を仕留める。

「え? え?」

 一瞬にして、人質をとっていた男を除く全員が血を噴いて斃れた。突然の急展開に目の前の現実を処理し切れなかった最後の一人は、人質を盾に反撃することも、人質を捨てて逃走することもせず、銃口を中途半端に泳がせていた。

「あ……」

 最後の一人が最期に見た光景は、両手でしっかりと拳銃を構えた男と、まっすぐに向けられた銃口から噴き出る炎だった。



「冗談じゃねぇ……! 何だよ、何なんだよ、あいつは……!?」

 たまたま難を逃れ、遠巻きに一部始終を見ていた誘拐犯の一人が戦慄する。

 とある暴力団の下請けだった彼らに回ってきた仕事は、人身売買の手伝いだった。

 名家の令嬢を誘拐し、多額の身代金を要求する一方で、海外に高値で売り飛ばす。

 本命はあくまで人身売買の方だ。少女を国外に送り出すことが最優先。身代金の要求はその隠れ蓑で、時間稼ぎであると聞かされていた。

 だが、上手くいけば一つの仕事で収入は倍以上。小娘一人を攫うだけという簡単な仕事内容に魅力を感じて引き受けたのが、つい三時間前。

 計画は思いのほかスムーズに進んだ。標的が定期検診で訪れていた病院の火災報知器を作動させ、混乱のどさくさに紛れて目的の少女を誘拐。依頼人の方で手が回っていたのか、少女の護衛に就いていたSPはすでに殺されていた。指定場所であるこの港町で退路を確保したのち脅迫電話。手短にかつ一方的な金銭要求と受け渡しの場所と時間の指定、適当に銃を発砲して少女の悲鳴を聴かせ、警察に知らせた場合は人質の命はないというお決まりの念押しまで抜かりはなかった筈だ。

 だが、少女の使いとして現れたあの男は、身代金ではなく鉛をばら撒きやがった。不意を突かれたが所詮はたった一人、すぐに血祭りに上げて身代金の要求金額を吊り上げてやろうと思ったが、そんな余裕もすぐに消えた。仲間の大半が殺され、金蔓かねづるの少女が手元から離れて行ってしまう。あらゆる意味で大損だ。

「くそ、こうなったら……!」

 脱出用のボートの近くに置いてあるコンテナの元に急ぐ。中身は分からない。武器も変装道具も車も船も全部用意してくれた依頼人から預かった緊急用の秘密兵器だと聞かされている。取引完了後に警察の足止めとして使われるのが本来の用途なのだが、商品である少女が居なければ取引どころの話ではない。

 コンテナの扉に備え付けられたテンキーを操作し、依頼人から教えてもらったパスコードを打ち込んで電子ロックを解除。重い音を立ててコンテナが開かれる。

 その中身を見た男の顔が一瞬で強張り、次の瞬間にはその首が切り落とされた。



 ――真新しい死体を踏み越え、鉄の檻から放たれた秘密兵器がその姿を現す。

 筋骨隆々とした二メートル超の巨体。

 腕が異様に長く、大の大人の頭ですらすっぽりと包んでしまうような巨大な手は血で赤く染まり、その指先から伸びる爪は、さながら大振りの鉈のようだ。

 耳の近くまでに裂けた大きな口。鮫のような乱杭歯がズラリと並び、粘質のある涎に濡れていた。

 顔の上半分を覆い隠すほどの無機質な金属プレートが埋め込まれ、中央に大きな赤いレンズパーツが一つ。

 ヒトに近い形をしていながらヒトではない単眼の怪物――さしずめ、ギリシア神話に登場する〈サイクロプス〉だろうか。

 ゆっくりと周囲を見回す怪物。キュゥウ、キュインと、機械仕掛けの単眼が音を立ててピントを合わせるかのように内部のレンズが動いている。やがて互いに殺し合っている人間たちの存在を認識すると、その眼が赤く不気味に光り、猛スピードで駆け出した。彼我の距離は二百メートルほど。それを十秒足らずで走破。赤い閃光を曳きながら、その眼は獲物たちを捉えて離さない。

 一人目。跳躍した勢いに任せて踏み潰す。

 二人目。丸太のような腕を振るい、薙ぎ払う。

 三人目。鋭利な鉤爪で心臓を貫く。

 四人目。刺殺した三人目を投げつけて転倒させ、その頭を蹴り砕く。

 獲物を狩る瞬間、電流のように全身を駆け巡る快感に高揚し、怪物は駆ける。時折、獲物から反撃を受けるが、拳銃弾程度では表皮を裂くことはあっても致命傷には至らない。むしろ心地良い刺激だった。

 さらなる愉悦を求め、怪物の単眼は次の獲物を捕捉する。



「……なに、あれ?」

 異形な怪物の出現と一方的な殺戮。その現実離れした光景に、真っ青な顔で呆然と呟く少女。その手を引いてアルファゼロはその場からの離脱を試みる。だが背丈も歩幅も体力も違う彼女に合わせて走っては、すぐに追いつかれてしまう。

「アルファゼロよりズールワンへ。資料にあった例の〈サイクロプス〉型が出現。脱出は困難。大至急応援を求む」

『……こちらズールワン。了解、すぐにアルファとエコーチームを送る。到着まで三分』

 無線から仲間の通信が返ってくる。三分が長い。いや、いくらなんでも味方の合流が遅すぎる。だがその疑問に思考を割く時間も惜しい。

「アルファゼロ了解。プリンセスを単身で北に走らせる。ブラボーチームに保護させてくれ」

『了解した。幸運を、アルファゼロ』

 通信が途絶える。隣を走る少女に目を向ける。

「もうすぐ応援が来る。このまままっすぐ走って。絶対に振り返らないように」

 それだけ伝えると、アルファゼロは立ち止まる。数歩進んでから少女も立ち止まって振り返る。だが、すでに彼は背を向けて怪物の行く手を阻もうとする。

 少女はわずかに躊躇い、借りたコートの胸元を固く握りしめ、意を決して再び走り出した。



 少女の足音と気配が遠ざかっていくのを背中で感じながら、アルファゼロは迫りくる怪物と対峙する。

「……ぅあ」

 無意識に呻き声が漏れてしまう。

 命のやり取りをする環境に、いつかは自分もと覚悟はしていた。だが、現実離れした人工の怪物が人間を殺戮する様を目にした際、恐怖に身が竦み、絶望しかけたのは少女だけではなかった。

 あまりにも原始的な暴力。

 あまりにも凄惨過ぎる死。

 抗おうにも絶望的な彼我の戦力差をなまじ理解できるだけに、黒くべた付くような不快感が足元から這い上がり、全身に絡みつくような錯覚を覚える。

 怖い。恐い。逃げ出したい。

 臆病な本心とは裏腹に、震える脚を叱咤し、足裏がしっかり地面を捉えていることを意識する。

 両手の指が一本一本動くことを確認。深呼吸を一つ。

 ――恐怖から脱する方法はただ一つ。

 思考を切り替える。

 己を武器と化し、恐怖を殺意に。己を死人と化し、余計な感情をゼロに。

 もう一度、少女に見せた姿を思い出せ。

 さぁ、『最強の自分』を思い描け。

 ――目の前の障害を排除する。それだけだ。

 腰のホルダーから取り出した手榴弾のピンを抜き、迫り来る怪物に向かって投げつける。ここまで戦術的な大立ち回りを演じてきた彼にしてはひどく単調な攻撃だった。怪物の人間離れした俊敏性なら爆発から逃れることは容易であることは想像に難くない。

 怪物は余裕をもって手榴弾を避けようとした矢先、アルファゼロが放った弾丸が手榴弾の底に当たり、目と鼻の先に急加速で迫る。

 そして、爆発。

 不意を突かれて回避に失敗し、吹き飛ばされた怪物は受け身を取り損ねて地面を滑る。左腕――肘から先が消失。爆発の瞬間、怪物は咄嗟に左腕で顔を――厳密には眼を庇ったためだ。

 失った左手側に回り込むようにしてアルファゼロは怪物の横を擦り抜ける。その際、互いの目が合う。怪物の単眼を狙って銃撃。だがわずかに逸れ、銃弾は顔の上半分を覆うプレートに弾かれてしまう。舌打ちし、アルファゼロはそのまま走り去った。

「GAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!」

 怒り狂った怪物の咆哮が木霊こだまする。素早い身のこなしで起き上がると、地響きを立てながらアルファゼロを追いかけ始めた。

 眼を潰せなかったのは惜しいが、上手く誘導できた。逃がした少女とは反対側の方向、無数のコンテナが乱立する入り組んだ場所へ誘い込む。

 あとは味方が来るまでの時間稼ぎ。

 空になった弾倉を捨て、最後の弾倉を叩き込む。残弾数七発。爆発物ゼロ。もはや単独で怪物を倒すことは叶わない。

 残り二分弱。

 片腕を獲ったとはいえ、はたして逃げ切れるか?

 背後の地響きが消える。咄嗟にスライディングの要領で強引に姿勢を低くした直後、怪物の巨体がすぐ頭上を通過する。背中に冷たい汗が噴き出す。背後からの奇襲を辛くも躱すと、竦みそうになる身体を叱咤してすぐさま立ち上がり、脇道に逃げ込む。

 心臓の音がうるさい。息も上がってきた。体が重く感じる。一連の作戦行動に全身が疲労を訴えている。だがどこかに隠れてやり過ごすことは出来ない。事前に仕入れた情報が確かなら、〈サイクロプス〉と呼ばれるあの怪物の眼は熱源探知機能サーモグラフィーも備えているという。隠れてもすぐに発見されてしまうのでは意味がない。

 死にたくなければ足を止めるな。生きるために走れ。

 死にたくなければ思考を止めるな。生き延びる方法を考えろ。

 装備は拳銃一挺。残弾七。四五口径の強装弾。深刻な負傷はしていない。手も足もまだ動く。援軍到着まで、あと……

「……嘘だろ?」

 アルファゼロの足は、思考は、突然止まる。止まらざるを得なくなる。

 目の前に立ちはだかるのは無数に積み重なったコンテナの壁。その高さ、八メートル。文字通り、越えられない壁である。左右にも同じ高さのコンテナが積み重なっており、完全な行き止まりだ。いつの間にか袋小路に逃げ込んでしまった。

 引き返そうにも怪物が追いついてしまう。その不気味に光る赤い単眼がこちらを捉えた。

「……嗚呼」

 絶望に溜息が出る。全身から力が抜ける。

 退路は、完全に断たれた。

 怪物が突進。突き出した鋭利な爪が、アルファゼロの体を貫かんと迫る。

 思考は一瞬。

 ――あの子、無事かな?



「こちらブラボーワン、プリンセスを保護。繰り返すプリンセスを保護。現在、ジュリエットがメディカルチェックを行っている」

「アルファゼロが現在〈サイクロプス〉と交戦中。チームアルファとエコーは至急救援に向かえ」

「そろそろ警察が来るぞ。各隊、撤収に備えて痕跡は一切残すな」

「ブラボーチームはすぐに撤退しろ。アルファゼロはこちらで拾う」

「了解。ブラボーチーム、撤退する」

 黒い戦闘服に身を包んだ男たちが忙しなく連絡を交わす中、アルファゼロの仲間に保護された少女は、集中治療室ICUもかくやとばかりな先端医療機器が積み込まれた特殊トレーラーに運び込まれ、応急処置を受けている。

 保護された直後、緊張の糸が切れ、度重なる恐怖体験から過呼吸とショック症状を起こして倒れてしまったのだ。

「目立つ外傷は足裏の擦り傷ぐらい。軽傷だからこっちは問題ないけれど……」

 ジュリエットと表音コードで呼ばれた女性は、すぐさま適切な処置を行おうとし、その腕を少女が掴む。

「……あの………ひ、と……は……?」

「心配しないで、無事よ。いま味方が駆け付けたから、もう大丈夫」

 呼吸もままならない青ざめた顔で、アルファの安否を気遣う少女の目をまっすぐ見てジュリエットは応える。

 その言葉に安心したのか、少女は眠るように目を閉じ、バイタルサインが危険域を示すアラームが鳴り響く。慌ててジュリエットは同乗していた仲間に指示を飛ばす。

「その辺の機器をできるだけ遠ざけて! AEDの用意! 早く!」

 車内が慌ただしくなる中、心臓マッサージを行うジュリエットは、もう一つのバイタルサインが緊急アラームを鳴らしたことに耳を疑う。

「……嘘でしょ?」



 袋小路に追い詰められ、正面から単眼の巨体が迫りくる。

 時間にして一秒も満たない一瞬の出来事。一瞬後には無残な死体が一つ出来上がる。

 間近に迫る死を目の当たりにしたことで、生物由来の原始的な生存本能が働き、脳内で大量のアドレナリンが分泌され、体感時間が引き延ばされる。

 この一瞬のみ、恐怖は消失する。

 一の希望を得るため、九の絶望に踏み込む。

 必要なのは勇気か、本能か。

 視界一杯に迫る怪物を前に、アルファゼロは無意識に右膝を折る。重力に引かれて身体がかしぐことに逆らわず、さらに重心を落とす。全身脱力状態からの自然落下。

 ――両者が交錯する。

 だが、二つの影は重なるも、衝突も激突もしない。

 怪物にとっても、彼にとっても、予想外の出来事だった。

 地を這うような低姿勢で、アルファゼロは怪物の爪を紙一重で躱しつつ、失った左腕側に転がるように擦り抜け、絶望の袋小路デッドエンドから抜け出した。

 同時に、突進の勢いを落とせぬままコンテナの壁に突っ込む怪物。凄まじい衝突音を立てて鉄の箱を無残にひしゃげ、積み重なったコンテナが積み木のように崩れ落ち、怪物を下敷きにする。

「――ハッ!?」

 その光景に、アルファゼロは我に返る。死の恐怖と生の安堵が織り交ぜになって全身を駆け巡り、どっと冷や汗を流す。心臓の音がうるさい。窮地を脱し、緊張の糸が切れて思わずその場にへたり込んでしまったことを誰が責められようか。

 味方の到着まで、あと一分もない。流石の怪物も、生きていたとしても数トン単位の重量があるコンテナの山に埋もれてしまえば簡単には抜け出せないだろう。

「……嗚呼」


 結論として――


「助かった……」


 ――それは、致命的な油断であった。 



 …………ずるり。



 何かを引きずるような音がして顔を上げれば、単眼の怪物が山積みのコンテナから這い出てきた。全身のあちこちから血を流し、下半身はない。コンテナに挟まれた下半身を強引に引き千切り、大量の出血と臓物を垂れ流し、片腕だけで這い寄ってくる。誰がどう見ても致命傷は明らかだった。

 だがそれでもなお動く。

 獲物を狩るため。殺すため。それだけのために。

 その狂気を孕んだおぞましい光景に、アルファゼロは原始的な恐怖を覚えた。

 やがて怪物は右腕に力を溜めた、次の瞬間。

 腕をバネにして、半身となったその躰を跳躍させた。

 耳まで割けた口を大きく開け、鮫のようにズラリと並んだ乱杭歯が獲物の首を噛み千切らんとする。

「あ……」

 まっすぐ飛来する怪物に、ようやく正気に戻ったアルファゼロ。

 だがもう遅い。

 その場から離れることも叶わず、必死に身をよじるだけが精一杯の抵抗だった。

 ――怪物の顎が。牙が。アルファゼロの左肩を捉え、凄まじい力で喰い千切った。

「ギ、ァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア―――ッ!」

 肩口から左腕を根こそぎ奪われ、おびただしい量の血が傷口から噴き出し、あまりの激痛に銃を取り落として悲鳴を上げ、涙を流しながら無様にのたうち回る。

 怪物は千切った腕を吐き出し、ずるり……ずるり……と、再びアルファゼロに這い寄ろうとする。

「アアッ、グゥ――ヒッ! くるな! あァアああ!」

 激痛と多量の出血によるショックで錯乱し、あまりの恐怖に足腰に力が入らず、立つことすらままならない。それでも本能に従って逃げようと、這いつくばってでも必死に距離を取ろうとする。だが怪物の方が早い。そう時間をかけることなく追い詰められ、確実に殺される。迫りくる死の恐怖に絶望するアルファゼロの指先に、硬い感触が伝わる。

 ――拳銃だ。

 反射的に手に取る。目の前の怪物を斃すには明らかに力不足。ならばと自身のこめかみに銃口を押し当てる。苦痛と恐怖から逃れるための、自決。

 すでに自分は役目を果たした。誘拐された女の子を救い出し、怪物に致命傷を負わせた。ここまでやれば独断専行も帳消しになるだろう。まもなく到着する味方が怪物にとどめを刺してくれる。もう充分だ、早く楽になろう。

 ふと、夜空を見上げる。柄にもなく、最期の光景は月や星の一つくらい見ておきたいと思ったのだ。目の前に迫る恐怖を見て終わるよりは断然いい。

 ……だが、あいにくの曇り空だった。

 星や月に代わって視界に映るのは、ぼんやりと外灯の淡い光によって浮かび上がる鉄骨の束だった。頑丈なワイヤーで縛られたそれは、クレーンに吊るされてすぐ頭上に浮かんでいる。

 視線を戻す。ずるり……、ずるり……と這い寄ってくる怪物。もう目と鼻の先だった。今すぐ自決したい衝動を全霊で抑え、なけなしの勇気を振り絞り、アルファゼロは一か八か最後の悪あがきを実行する。

 こめかみに当てていた銃口を頭上に向け、残弾すべてを発射する。視線は怪物から外さない。

 突然の行動に、怪物は訝しげに動きを止める。そして頭上を見上げた瞬間、落下してきた鉄骨の束が怪物を下敷きにした。

 ぐしゃ、と潰れる生々しく不快な音が耳朶を打ち、こびりついて離さない。

 土埃が舞い上がるほどの衝撃と轟音、そして顔に熱い液体が飛び掛かり、思わず身をすくめ、目を閉じる。

 むせるような鉄の匂いと味。恐る恐る目を開ける。

 目の前には鉄骨によって頭部が完全に潰されて即死した怪物と、その中身が辺り一面にぶち撒かれて血の海が広がっていた。

 赤い水面には肉と骨の欠片、脳漿のうしょうや臓器の一部が無数に浮いている。

 自身も赤く染まっているのは、己の血か。怪物の返り血か。

「……つかれた……」とアルファゼロは感情のない声で呟いた。

 もうどうでもよかった。

 手足を投げ出し、仰向けになる。

 身体が血の海に沈む。汚れの付着も気にならない。

 もう痛みも感じない。

 ただ寒い。

 ただ眠い。

 怪物の魔の手から逃れた安堵から、彼の意識は津波のように押し寄せる疲労と眠気に呑まれ、消えた。

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