第3話
彼は月面に行くことは叶わないのだと認識したときの落胆を覚えている。九九を覚えるより後で1/2成人式という企画よりは前だった。参加者に子供の頃の将来の夢は何かを聞く講師の青い無地のネクタイは皮脂汚れが目についた。
月に行くこと、と答えて、ここにいる日本人が笑わないはずがない。秀太は不自然な黒髪を見渡した。隣に座った女は髪の根元だけ飴色玉葱のようだ。
月に行きたいという熱意が一変し、心臓がタワシで擦られる強烈な切迫感、教室にいるのに無重力に投げ出されたような孤独を思い出した。しかし、自分が月に行けないという事実を教員から叩き込まれたときに眼の裏の血管が千切れる感覚に比べればとるに足らない。
かくして大人になるとは一つ一つ諦めてしまうことなのよっ、と言い切ればきっとそれは大衆純文学(矛盾した概念とは思わない)の一節に見つかりそうだ。あの、高校生たちの生煮えで食えたものではない物語。
今からでも月に行きたいんだ。裸で地球を飛び出して(ロケットでも屁でもいい)、宇宙に投げ出されて、月面に叩きつけられたい。身体が爆発してもかまわない。自分の肉片が宇宙をさ迷い続けるのなら、デブリになっていつか人工衛星を汚すかもしれないが、構わない。働くくらいなら。けれどロケットは手に入らない。屁は、尻がもたない。月には、行けそうにない。
就職をしようとする人の中に探りあてるべき秘密なんてものを宿しているわけではないし自己を顕微鏡で覗いて、さらに解剖して、何も発見できない。脳内で研究室を創っては閉鎖してきた。ようするに己とは何かを社会に説明する材料がない。
秀太はセミナー会場の入口には誰よりも遅く到着して出口を足早に駆け抜けるような青年である。就職的人間になる方法と、そこから労働的人間になる方法は、会場の貸ビルのエレベーターを待つ頃には忘れていた。彼の研究室は資料を保存できないほど狭い。
ある日、SNSで毒餌による動物殺しのことを知った。別に動物に恨みがあるわけではなかったが、自分よりも卑小なものになら八つ当たりができるかもしれないと考えた。
そういった事情を一言で彼は説明した。
「むしゃくしゃしたんです」
サキはその月並みな弁解を憫笑に付した。
「しょうもない。仕事なんて選ばなければ腐るほどあるはずなのに」
「選ばなくてもあると思える人は、選べるほどの人なんです」
いっそう惨めに感じた。
「サキさんは、どうしてこんな時間の公園にいたんですか」
「あそこ、私の部屋からよく見えるんだ」
「もう、好きにしてください」
「何を?」
「通報でもすればいいじゃないですか」
声を荒げはじめた青年を宥めることなくサキは見つめた。
「少し、バイトをしてみない?」
唐突な内容を口にしはじめたサキを見つめた。彼女は秀太を射抜くような視線であった。店のBGMが途切れメロウな曲に切り替わった。
「僕なんか信用できないでしょ」
「猫の手も借りたいってところかな」
嫌味ったらしく「猫の」を強調してサキはクスクス笑った。
「明日からずっとイベントの仕事ででずっぱりなんだけど、その間ばあちゃんの面倒を見てくれる人がいなくて困ってたんだ」
「ヘルパーとかを呼べばいいじゃないですか」
「ヘルパーさんには荷が重いと思うねんなぁ」
サキは、秀太が飲もうと手をのばしかけたアイスコーヒーを奪ってグラスに直接口をつけて飲みはじめた。原色の唇の色がグラスにうつることはなかった。
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