第23話 武術大会《初日/弓術》

 武術大会初日。アウストラリスの夏空はいつもどおりに雲ひとつ無い晴天だった。乾ききった風が、エマの赤い髪の毛を舞い上がらせる。

 今日のエマは他の参加者の男と同じく紺色の軍服をまとっていた。長い髪は項で一つに束ねている。武術を行う場合、エマは高い位置で髪を結うことが多いのだけれど、今日の競技は弓なのだ。引くときにじゃまにならないようにしているのだった。

 隣に並ぶルキアはジョイアの軍服をまとっている。詰め襟に金の刺繍の入った濃緑の長衣は、彼の容貌を際立たせていた。魂を抜かれたような参加者もいて、予選だけは楽に勝ち抜けそうだとエマはため息を吐いた。


(極力、視界に入れないようにしておかないと)


 悩殺されてはかなわない。視線を逸らそうとしたエマだったが、一瞬遅かった。

 ルキアがじっと見つめたかと思うと、エマの方へ近づいてきたのだ。


「無駄な練習はどれだけ積んだの?」


 軽口を叩くルキアを、エマは腹に力を入れて睨み上げた。


「無駄じゃないわ。私には伸びしろがあるからどれだけでも伸びるの」


 強がるが、


「今日の優勝者は、俺だ」


 事実を述べるかのように淡々とルキアは言った。自信にあふれた彼にはどこにも隙がなく、エマはどう言い返していいものかと逡巡する。確かに敵わないかもしれない。だけど戦う前に負けは認めたくない。


「私は、全力を出すだけよ」

「早めに降参しておいたほうが、傷も小さくていいと思うけど?」


 片目を細めた妖艶な笑みを向けられ、エマはなにを言い返していいかわからなくなる。そのとき、


「試合前に男といちゃついてるとか、ずいぶん余裕だな?」


 後ろから声がかかり、エマは振り返る。視界に現れた人物を見てエマはほっとする。王族の一員として一応は整ってはいるけれど、ルキアに比べて段違いに無害な顔だったからだ。一気に平常心を取り戻したエマは、彼に感謝したくなった。だがそれも一瞬。彼の顔を見て不快になるのは、過去のもろもろを考えると当然であった。


「ヘルメス? なにしに来たの?」

「試合前の激励だろ。お互い頑張ろうってヤツ」


 手を差し出すヘルメスだが、エマは手を後ろに隠して拒む。手に何か仕込んでいるかもしれない。それ以前に、生理的嫌悪感から無理だった。


「あなたも出るの? 時間の無駄じゃない?」


 追い返そうと毒を吐く。ヘルメスはむっと顔をしかめると、握手を諦め、代わりにエマを睨みつけた。


「どこまでも失礼なやつだな。出るに決まってるだろうが。俺が誰だと思ってるんだ」

「ああ、この大会が終わったら、暫定王太子からただの王子になるヘルメスだったかしら?」


 エマが笑顔で事実を述べると、ヘルメスは顔を真っ赤に熟れさせた。だが、直後、ふんと妙に自信ありげな顔で彼は笑った。


「せいぜい今のうちにでかい顔してればいいさ。あとで泣きついても、おまえなんか絶対妃にしてなんかやらねえ」

「してもらおうなんて爪の先ほども考えてないから」

「そう言ってられるのもあと少しだがな」


 捨て台詞を吐いて去っていくヘルメスの背中に向かって、どこまで馬鹿なのかしらとエマはため息をつく。せめて眼中に入れてもらえるくらいの実力をつけてこいと言いたかった。


「っていうか、本当になにしに来たの」


(ああ、いけない。ヘルメスのせいで集中力が落ちたら、こっちが大馬鹿よ)


 もしこれがエマを妨害する作戦だとしたら、ヘルメスにしては上出来かもしれない。苦笑いをして、エマはもうなににも惑わされることがないようにと、射場の端に寄って目をつぶる。大きく息を吸い、吐く。そして、心の中で、自分の放った矢が的に吸い込まれていく様子をじっと思い浮かべた。

 なにも考えず、少しでも多く的中させること。この競技に邪魔なもの。それは邪念や、欲望。特に野心だった。


 目を閉じ、心を凪がせようと集中し始めるエマの鼻に、風が麝香の香りを運ぶ。香りに触発され、瞼の裏に面影が浮かぶ。思わず目を開けたエマの目の前には、思い描いたとおりの鋼のような色をした髪、柔らかい光を湛えた大地の瞳があった。アリスだ、と思った途端泣きそうになり、エマは戸惑う。

 彼は半月ほど前からカルダーノに引きこもっていた。武術大会に関しては情報も大いに武器になるから、手の内を見せたがらない参加者は多い。エマだって体術や剣術に関してはどんな技に磨きをかけたかは知られたくないから、彼の行動の理解は出来た。

 だが、彼が王宮に居ない間、エマは自分が寂しさに蝕まれていくのがよくわかった。今までは会おうと思えば会えたから。彼の不在がこれほど心細いとは思いもしなかった。

 半月ぶりに見るアリスは、エマと同じく紺色の軍服をまとって静かに佇んでいた。詰め襟の銀糸は彼の髪の色と同じ。彼が軍服を身に着けることはめったにないため、妙に凛々しく見えて、エマの心臓は勝手に暴れた。


「エマ」


 聞き慣れすぎて特徴など気にしたことがなかった。だけど今耳に染み込んだ声は、低く穏やかで、聞くだけでほっとする。

 まっすぐに見つめられ、エマは頭に血が上る。


「な――、なな、なに」


 これは彼の作戦だろうか。他の男達とおなじく、エマを動揺させて、足を引っ張ろうとしているのだろうか。息を止めて構えるエマに、アリスは紙袋を差し出した。


「君って、案外本番に弱いから。これ、緑のが集中力が上がる。あとは、桃色は疲れを取る。紫は特に目の疲れにいいよ。他にも色々作ってきたんだ」

「……飴……」


 袋の中には、小さな紙袋がたくさん入っている。一つ一つの袋には色分けされた飴がぎっしり詰まっていた。

 甘い香りと様々なハーブの香りが鼻孔に流れ込み、エマは急に泣きたくなる。喧嘩してからずっと食べたくても食べられなかった飴だ。もう手にはいらないと思っていた。だからこそ、こんな大事なときにくれるなんて、ずるいと思う。食べたらきっと、気持ちが傾いてしまう。

 エマがすぐには口にしないのを見て、アリスは眼差しを曇らせる。


「毒は入ってないよ。けど、気になるようだったら捨てても構わない」

「捨てないわ」


 弾かれるように答えるが、アリスはいいんだ、と首を横に振る。


「無理しなくていい。大事な時期だ。気にするのは当然だから」


 ちがうの。と言い訳をしたかった。だけど、複雑な胸の内をどんな風に説明すればいいのかわからない。

 どうしても目を見れずに、目を伏せたままエマは礼を言う。礼を言うのが精一杯だった。


「………あの、ありがとう」

「応援してる。全力で勝ちにいって欲しいって心から思ってるよ」

「ライバルなのに?」

「ライバルだからだよ」


(でも、あなた、私を手に入れるって言わなかった? あれは嘘? 冗談?)


 混乱する。意図を問いたかったけれど、周囲の目を気にしてエマは途中で口をつぐむ。


「健闘を祈る」


 アリスはそっと手を差し出す。エマは少し迷った末に、アリスの手に自分の手を重ねる。アリスはすかさずエマの手を握った。とたん手のひらから彼の想いが驚くほどの鮮やかさで伝わってきた気がして――エマの全身に震えが走った。

 アリスは「もちろん、僕も全力をつくすよ」と清爽な笑みを残して踵を返す。

 ふと気配を感じて後ろを振り向くと、いつの間にかルキアが立っていた。見られた、と思うと顔が赤らむ。人に見せられる顔をしていない自覚があった。


「応援してるって言ってたけど、……今日一番の妨害だったんじゃないのか? 高度な駆け引きしてるけど、自覚があるのかないのか……厄介なやつ」


 ルキアはそう言うと飴を迷いもせずに口に入れる。


「な、なにするのよ、人のものを!」

「毒味に決まってるだろ――あ、けっこう美味い」


 頭にきたエマはルキアに背を向けると、紙袋を改めて開く。色とりどりの飴の中には、檸檬の飴もきちんとあって、何だか「忘れないで」と主張されているような気がしてエマは耳まで赤く染めていた。

 気のせい、気のせいと思い込もうとしても、檸檬の味と、熱い感触が唇に蘇り、とうとう顔を覆うようにして控室へ退散する。

 一人で部屋にこもるなり、エマは膝を抱えてうずくまった。


(ルキアの言うとおりだわ。応援してるのか邪魔してるのか、全然分からない)


 大きく深呼吸をすると、緑色の飴をつまむ。口に含むとすっきりとしたハーブの香りが広がり、心が落ち着いた。

 

 太鼓の音が鳴り響き、エマは控室を出て、他の出場者と共に射位に立つ。アリスの飴は、驚くほどに効果を発揮し、エマの中で渦巻いていた雑念はいつの間にか消えていた。

 的を見つめる。

 矢を番える。

 大きく息を吐くと、足を踏みしめて、高く弓を打ち起こす。

 丹田たんでんに力を落として弓を丁寧に左右に引き分ける。

 弦がきりきりと高い音を立てるだけで、他に何の音も聞こえない。

 誰もが一言も発せず息を呑んで見守っている。

 エマは無心で的に向かって弓手を押し込んだ。



 *



 その日、エマは今までで最高の的中数を打ち出した。

 だが、弓部門の優勝者はあっさりとルキアに決まってしまった。彼は二十本中、一本も外さなかったのだ。このまま何本射ても外さないのではないかというような正確さ。付け焼き刃ではやはり敵わず、完敗だった。

 それでもエマは十七本の的中で三位に食い込んだ。二位はアウストラリスの武官が意地を見せた。また、驚いたのがアリスで、十五本の的中で、五位だったのだ。点数こそ取得できなかったものの、彼の本気を感じ取る。追い詰められた気になったエマは、憂鬱な気持ちで初日を終えたのだった。

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