紫の花が開くとき

美夜

一話完結 紫の花が開くとき

 ついにこの時が来た。

 そんな漠然とした確信を胸に秘めながら、緩やかな傾斜を登る。夜が明けつつあるのか、闇がじんわりと明るんで来ているような気がする。もしかしたら、気のせいかもしれない。夜明け前の静けさの中、肌が引き締まるような冬の外気が頬や首筋を掠める。自動車で山の上部にある公園へ向かって登り、中腹の駐車場に停めた。そこからずっと徒歩で公園を目指して歩いている。

 隣には僕の彼女が居る。いや、僕の彼女だった人と言ったほうがいいのか。もはやどっちかは分からない。

 二人とも黙ったままだ。

 二人は何かの話題で盛り上がるでもなくただひたすらゆっくりと歩く。今となってはこうやって無事に二人で、なんでもなく歩けること自体に安心感を覚えた。視界の左の、薄い黒色の中から徐々に見晴らしの良い景色が見えて来る。

 もう少しだ。

 もう少しで夜明けは来るだろう。

 これから大きく姿を変えて二人の前に現れるであろう、街の景色のほのかな萌芽を、二人で分け合うように眺める。上り坂を上がるにつれ、時間の移ろいを感じさせるやせ細った枝木がモザイクのように見せていた景色を徐々に奥行きのある自由なものにして行く。

 彼女とこの景色を眺めるのは二回目のはずなのに、何故、今僕が見るこの景色はこんなにも魅力のない絵画のように見えるのだろう。前に見たときは暗くてももっと膨大な可能性を秘めているように見えたはずなのに。

 でも僕は、その理由をもうすでに知っているのかもしれない。今は言葉にするのは難しいが、これから彼女に話すことにその答えがある、という声が僕の奥底から聞こえるような気がする。

 暗がりの中の、自然の恐るべき雄大さと力強さ、そして、人々のほのかな繊細さと脆さが同時に一望できる景色を眺めている。

 少し歩くと、僕たちのような二人組が景色をゆっくりと眺めるために用意されたであろうベンチを見つけたのでそれに座った。

 僕はこの時のために用意してきた言葉を慎重に頭の引き出しから取り出し、話を始めるために心の準備をした。もう迷いはない。

 彼女の方へ顔を向け、口を開いた。

「これから君に大事な話がある」

 そう言って、僕は一旦、間を置いた。

「僕がこれまで歩んできた人生の話をしたいと思う。僕はどんな子供時代を歩み、どんなことを体験して、今があるのか……そして、どのようにして君と出会えたのか。君と出会えた時の僕は何を感じていたのか、君と付き合い始めたばかりの僕は何を思っていたのかについて、話そうと思う」

 僕は思っていた以上に冷静に淡々と喋れたことに少し驚いた。

 視界の端で彼女がこちらを向くのを確認しながら、続けた。

「それから……これは一番大事なことなんだけど、君と僕の心が離れてしまっていた時のことを話すよ」

 彼女は目に幾ばくかの困惑を浮かべながら、少し間を置いた後、

「どうして……そんな話を、急にするの? 」

「それは……これまでの僕の人生を語ることで、僕という人間を改めて理解してもらって、もう二度と……」

 僕は息を呑んだ。

「“あんなこと”が起きないようにするためだよ」

 彼女は下を向いた。ちょうど髪で隠れて表情が読み取れない。

 漠然とした密かな胸のざわつきを抑えながら話を続けた。

「そして、これまで僕たちはどういう道を辿ってきたのかということと、僕が一時的に君の元を去った時のことを話すことで……、二人の仲をこれまで以上に確かなものにしたいと思ったんだよ」

 彼女は顔を上げて僕の目を見た。


 僕はもう逃げない。

 今度こそ、ちゃんと向き合うんだ。

 彼女と。

 そして、自分と……。


 山の連なりの向こう側では、空が小さな産声を上げるように徐々に明るみつつあった。


 自分の子供時代を振り返ってみると、僕は極端な子供だったと思う。もし仮に、僕という人間の全体を把握した人がいたとするならば、その人は僕のことを内気な子供だと思うだろうが、その一方で、本当は活発で社交的な子供なのではないかとも思うのである。相反する二つの性格が僕の中に同居しているようだった。

 だから、家で一人ひっそりと積み木やブロックで遊んだり、絵を描いたりするのが好きな大人しい自分がいる一方、幼稚園で友達と一緒に先生や他の園児にいたずらをして馬鹿なことをしたいと思うような活発な自分もいた。それぞれが五十対五十といったふうにおよそ同じ割合で自分の中に存在していたのだった。しかし、どちらもが正真正銘、自分なのだ。

 母親にはよく「良い子の時と悪い子の時の差が激しすぎる!」と怒られていた。恐らくこのような「二面性」は幼い頃から始まり、その萌芽は後の僕という人間を形作る雛形になったのかもしれない。この頃芽吹いた小さな“双葉”は後々に僕の人生そのものをも左右することになる。

 活発な部分と、内気な部分が同じ分だけ僕の中に同居していたと言ったが、基本的には内気で大人しい僕が「普通の状態の僕」だった。だから、他人から何の干渉もなく、自然体のままであれば、僕は恥ずかしさと緊張で、すぐに外の世界と自分の世界の間に壁を作っていた。そのせいで小学校や中学校などの「クラス」という人間過密地帯においては、どうしても他の子と打ち解けることが困難だった。友達が出来ていく速度も人一倍遅く、基本的には学校生活や帰宅した後の時間は一人でひっそりと過ごすことが多かった。結果的には友達が少なかったわけだが、それは欲していなかったからではなかった。むしろ何不自由なく毎日たくさんの友達と休み時間や放課後に外で遊んでいるクラスメートを見ると羨ましいと思っていた。クラスの人気者や、一クラスに一人はいがちな面白くてネアカな子たちを見たときに抱いていた「別世界の人間感」はこの時からもうすでに始まっていた。

 また、この時の自分の人見知りな一面を日常的に発揮していたせいで味わっていた孤独感を、ふと後年、何かの拍子で思い出したときは、必ず苦い気持ちになっていた。

 しかし、数少ない友達と遊ぶ時は、いわゆる“キャラ”が変わったように外で野球をしたりサッカーをしたりして思いっきり遊んだ。その友達は家でこそこそと遊ぶよりも外で走り回りたいタイプの子たちだったから、僕もそれに合わせて日が落ちるまで目いっぱい遊んでいた。基本的に内気な僕とはまるっきり違う性格の友達と遊ぶ時は、自分が内気な奴だということを全く忘れて、その子たち同様「活発な少年」になり切っていた。自分の中でそういった違うタイプの友達数人と汗水たらして太陽の下で走り回りたいという興味や欲求の核はすでに出来上がりつつあったのだろう。そう考えると、この「参加」自体はなんら不自然なことではなかったといえる。

 今思えば、その子たちのおかげで完全に内に引きこもるような孤独な人間として形作られずに済んだのかもしれない。また、こういったもう一つの顔があったおかげか、年を経るにつれて徐々に色々なタイプの生徒と“顔見知り”になっていった。

 僕の子ども時代はその後もこんな調子で進んでいった。とりわけ小学生の頃は未だ「他人との比較から来る自分の性格上の“気づき”」というものがなかったから、自分の性格に異様さや違和感を抱くことはほとんどなかったと言っていい。だから、何の雑念も挟むことなく、僕の二面性を投影するような、僕の内分を象徴するような、ある趣味を持つことが出来ていた。

 その趣味自体はなんら異常なものではなく、非常に月並みなものであった。そういう意味では他の子供と同じであった。僕はこの頃から本を読むことを好み、学校の休み時間はよく図書室に行っていたし、家に帰っても図書室で借りた本を読んでいることが多かった。そういった普段の読書習慣において、ある「好みの傾向」があった。これに少しクセがあったのだ。それは、不思議と惹き付けられるような“自分に合った本”を選別する、直感的な指針に則ったものだった。そのダウジングマシンのような心の指針は自然と「仮面をつけた男の物語」や「二つの人格を併せ持つ男の物語」を探知していた。例えば、あるミュージカルの金字塔的な物語で、仮面を付けた「怪人」が巻き起こすダークなラブストーリーであったり、黒いマスクと黒いハットを被り二十の顔を併せ持つ男が主人公の物語であったりした。また、裏に隠されたもう一つの人格を薬で自ら引き出す博士の物語であったりした。

 やはりこのように僕の過去の趣味嗜好を振り返ってみても、昔から僕の内部には二つの人間が共存していたということの、ある種のささやかな証明が潜んでいたんだと思う。むしろ、自分が持つ「二面性」という状態を自ら潜在的に好んでいたともいえるだろう。

 こうやって幼い時期から自分の中身を振り返ってみると、もはや一人の人間がある時期や出来事を境に、性格が二つに引き裂かれたというものではなく、最初から、生来的にそのようにして生まれてきたのだと考えたほうが妥当だろうと思えてくる。そういう意味では、子供時代から“平行して”育まれてきた、表と裏の、二つの性格の雛形と、その雛形の形成によって後々の人生に与えるであろう影響は生まれながらにして運命付けられていたのかもしれない。

 中学生になるとこの性格が、決定的な場面でより顕著に現れてきた。それも、思春期の絶頂期である中学生男子としては痛みや悔しさの伴う、重大な“失敗”ともいえるものだった。今、思い返してみても当時の悲痛が、時間の厚みをも介せず蘇ってくる。それどころか、良くない思い出を思い返すときにありがちな「あの時ああしていれば人生は変わっただろうに」といった類の、届きもしない遥か遠くにある願望に必死に短い手を伸ばそうとする愚かさを呪う様な、激しい思いが湧き上がって来る。

 先程言ったとおり、僕の子ども時代はとても恥ずかしがりやで人一倍緊張を感じやすい性格であったので、中学時代においても女子とまともに話すことが出来なかった。「話さなかった」、「話したくなかった」のではなく(ここの強調は重要だ。その理由は後で分かる)、僕が生まれながらにして引き連れているこの「緊張」という小悪魔のようないやらしいペットが、女子と話そうとすると邪魔をしてくるのである。それはもちろん、この時期の男子に一般的に見られる、ごく自然な生理現象としての異性に対する目覚めともいえるが、僕の場合はそれを超える、ある種の“余剰分”を備えていたのだ。他の普通の男子生徒が女子に対して感じていた壁に、僕の場合はさらにそこから厚塗りを重ねて、より壁を厚くしていたのだ。そうすることで“女子に近づくこと”という、それだけ切り抜いてみるとあまりに日常的過ぎて、あまりにありふれていて、馬鹿らしく感じるほどのことが、僕にとって非常に困難な試練となり、また、僕の中学生活において最も厄介な必修科目となっていたのだ。

 女子とまともに話すことすら出来ないので、漫画やアニメでよく見られるような女の子とのロマンチックなラブストーリーはいくら夢見ても夢のままだった(この時期の僕はそういった甘い世界があまりに遠いものに認識されたせいか、ほとんど見向きもしなかった。むしろ、嫌悪感すら抱くほどだった。この感覚が、恋愛というものを僕からより一層遠ざけ、難易度を高めた遠因となったのかもしれないと今となっては思う)。もちろん、同じクラスメートが何の壁もなく、何の葛藤を経ることもなく女子と楽しげに話し合ったりふざけあったりしているのを見ると、全く羨ましさを感じないわけにはいかなかった。

 ここで「葛藤」という言葉が出たが、まさしくこの単語こそ相反する“二つの感情”がぶつかり合う時に使う言葉だ。つまり、僕は普段の学園生活において、何食わぬ顔をして「僕」と名乗りながら小悪魔を心の中に飼っている内気で大人しい自分と、真っ向から対立しているもう一人の自分が、女子との交流することにおいて「葛藤」を繰り広げていたのだ。この中学時代において幼年期や小学生の時と違うのは、自分の中にある「表の自分」と「裏の自分」の存在をある程度明白に意識しており、その上で双方の意見同士のぶつかり合いをしていたという点である。

 自分の好みの女子と話せる好機が訪れた時は、裏に潜むもう一人の僕は牢屋を突き破って脱獄せんばかりの激しい欲求でもって、表の僕を攻め立てる。これもまた、この時期の男子ならば誰でもある当たり前の生理現象だと思うかもしれないが、僕の場合は極端なのである。右に行く自分と左に行く自分のベクトルの開き具合と、それぞれの力と伸びがものすごいのだ。

 内気で大人しい方が右であったとしたならば、では左の方はどんなふうであったのかと疑念を抱くかもしれない。それは一言で言えば、より“自由な自分”だといえるだろう。しかも、それまでの人生で長らく表の自分の「内気」や「緊張」、「人見知り」などで抑圧されてきた結果、その反動で、より危険な方向で“自由”な自分が成長していった。

 それは日常においてどういった現れ方をしていたのかというと、前に述べたように、表の自分を突き破らんばかりの激しい欲求なのだ。その欲求は、例えば学園生活において、様々な場面で底から湧き上がってくる。

「あの娘、お前のタイプじゃないのか? 横に腰掛けて話しかけようぜ」

「お! お前の気になってる娘がいるじゃないか。この男子たちに混じってあの娘にいいところを見せようぜ」

 これはまだいい方だ。ひどい時はこんなことも要求して来る。

「おい、今、一部の男子たちの間でスカートめくりが流行ってるらしいぞ。あの調子乗りの男子の集団に混じって、このクラスの女子たちのスカートをめくってやろうぜ! あ、あのギャル系の子がいいな! 」

 こういう風な、又はこれ以上の、僕が学校にしばらく居られなくなるような過激な声が奥底から聞こえてくるのだ。それはどちらかといえば衝動的で、本能的なものだった。こういう熱しやすい自分との葛藤(というよりかはバトルと言った方がいいかもしれない)を日常生活の中で行い、時には表の自分が勝ち、時には裏の自分が勝つのである・・・。

 裏の自分が勝った時の話は・・・まぁ、また今度にするとして、大事なのは、表の自分が勝った時に「人生において特に大事な場面で大失敗を犯しまった」というケースだ。

 この頃の僕には気になっているクラスメートの女子がいた。短髪で大人しく、少し大人びた雰囲気を持っている子だった。それが僕にはとても“ツボ”だった。明確に「この子と付き合いたいな」と思っていたわけではないが、この子が近くにいたり見かけたりする度、心が小躍りしていた。そして、基本的にあがり症で人見知りであるせいか、胸のときめきというよりも心臓を握られたような衝撃的な緊張感を抱いていた。そういった時は決まりきった一連の儀式のように体中に激しく血液が巡り、体温が急激に上昇し、そして体の数箇所から汗がじんわり滲んで来るのだ。その子のことが「好き」であるという情念や言葉が僕の内部から生まれて来る前に、この非日常的で刺激的な心と体の反応が表れる。この反応を通して、「好き」ということを暗示的な予言としてそれとなしに得ていた。

 その女子とは一度、席が隣同士になったことがあり、その好機のおかげか、それなりに楽しく話し合える間柄を築くことが出来た。最初の段階ではそれこそ緊張で無口でいることが義務であるかのような態度で接していた。しかし、授業で話し合いの時間が設けられた時などで一度でも「彼女と話をする」という最初の関門をくぐれば、後は日常的な会話や趣味の話などを、自然な形で行うことが出来た。不思議なことに、そういった「普通の会話」を積み重ねれば積み重ねるほど、以前その子に対して抱いていた淡い恋慕の気持ちや、激しい心のざわめきは、より平凡に思えるような穏やかなものになっていった。つまり内気な僕でもこの子に限っては、次第に話しやすくなっていったのだ。女子に対しては非常に小心者な所がある僕であったが、気になっている女子に対しては不思議と積極的に攻めていくことが出来た。この時のある種の集中的鍛錬は後々の人生で生かされていくことになる。

 ある日、昼休みにその子と廊下でいつものように何気ない話をしていると、彼女は何を思ったか突然、僕の学ランの袖を引っ張って人気のないところへと連れて行った。僕はいきなりのことでただただ驚きつつも、彼女に従うようにして後ろを付いていった。そして、自分が連れ込まれた人気のない薄暗い物置のような空間を見て、正面に神妙な面持ちで相対している彼女を見ると、ようやく今、自分が置かれている状況を飲み込むことが出来た。

「告白!?」

 この二文字が、僕の頭の中で激しいほとばしりとともに浮かび上がった。その瞬間、僕の心臓は自分の体の一部とは思われないほどに激しい運動を始め、これほど自分の体内器官を意識したことがあろうかと思われるほどはっきり心臓の脈拍を感じ取った。常に僕の体中を、溶岩や熱した金属のような凝縮された高熱の固まりが高速で駆け巡っていた。そして、筋肉の一つ一つは金縛りのように硬くなった。それは腕や脚はもちろん、脳も同様に、正常に情報をやり取りするための信号の伝播に支障をきたすのではないかというレベルで硬化した。それはパソコンが“フリーズした”状況とよく似ている。ただでさえも緊張というものを感じやすい体質であるのに、この未体験の刺激を前に耐えられそうもなかった。

 彼女はうつむきつつも、おもむろに口から出し難いものを苦労して出すようにして、ただぽつりと、

「……好きです……」

 と言った。

 しばらく真空の間があった。僕は何も言えなかった。自分がちゃんと息をしていたのかも分からない。恐らくこの時、脳がまともに機能していなかったのだろうと思う。今、彼女の口から発せられたものを飲み込めずに、長ったらしく食事をする子供のようにその「好きです」の四文字をゆっくりと咀嚼していた。すると、

「青木君は? 」

 と彼女が返答を求めてきた。もう一人の僕はこの時、待ってましたと言わんばかりに「おい! 気に入ってた子に告白されたじゃんかよ! もちろんオーケーするよな!? 」と嬉々として顔を出して来た。しかし、彼女の前に硬直状態で対している僕はもはや“彼”を相手にすらしていなかった。突然の告白とそれに対する返答の要求に脳がまともに反応し切れずに、生来の緊張体質とこれまでの内気な習慣とがここで裏目に出たのである。

「……うん……」

 と、僕は訳の分からない二文字を苦労して相手に送り返した。

「……え……? 」

 その子が困惑を分かりやすく表した後、またしばらく間が開き、

「……どっち……? 」

 と、彼女が再び問いかけてきた。

 僕は追い詰められていた。彼女のことが“好きだった”はずなのに。言うなれば、僕はもう心と体がオーバーヒートしている状態であり、ある意味耐えられ得る限界を突破していたのだ。たとえ僕という人間の全体の中で50パーセントだけの割合で内気というものが占めていたとしても、それでも結局は半分でも存在しているせいで「臆病」という、こういう決定的な場面では一等不必要な生活習慣病的な症状を発症するのだ。この病はどれほど僕を蝕んだのかというと、欲望に従順な“彼”の声が一切、表の僕に届いていなかったというところからも分かる。つまり、緊張感という悪魔的な妨害と、僕の一面としての内気という性格が結果的にもたらした現象のせいで、心のどこかで待ち望んでいたはずの好機を無慈悲にも破壊したのである。

 僕は返答として、直感や理性の審査を通すことなく、

「ちょっと……分からない……」

 とだけ、ゆっくりとそして小さな声であいまいに返した。この時の僕は自分がこれまで彼女に対して持っていた、他の女子へ抱かないような特別な感情などはすっかり忘れてしまっていた。子供が無邪気に時間をかけて完成させた積み木のお城を崩壊するような、皮肉なほどに“破壊力”のある言葉を今、僕は彼女の前に並べたのだ。

 すると彼女は、

「……もういい」

 とだけ言ってきびすを返して去っていった。

 その時僕は、戦慄すべきことに心底ほっとしていた。確実に「好きだ」という言葉でその子を格付け出来るほどの明確な好意ではなかったにしろ、このように胸の内にあるものと反対の行動を取ってしまう珍奇な矛盾が僕の人生にはあちこちに点在していたのだ。

 この一件は、僕の人生に数ある矛盾の中でもとりわけ象徴的な代表例だ。そしてこの事件は後々の人生に傷跡を残し、自尊心に深く傷をつけることになる。


 遠くを見ながら話していた僕は彼女に向き直り、言った。

 「これが僕の子供時代だよ。こうやって具体的に話していった方が分かりやすいだろ? 『やっぱり』と思った部分もあったかもしれないし、『まさか』と驚かせた部分もあったかもしれないけれど、子供の頃の僕を話すことは、これから話を進めていく上で避けては通れない根っ子の部分なんだ。でも、僕の中学時代の恋愛の話は、君との出会いがどれだけ大切なもので幸運なことだったか、かえって安心感を与えたんじゃないかな」

 彼女は何も答えなかった。

 僕は構わず前を向いて話を続けた。

「今話したような子供時代を歩んで、なんとか無事に大人になるわけだけど、もう大人になってからの僕のことは大体知ってると思う。だから何があったっていうのをいちいち話す必要はないかも知れない。でも、当時どういった事を感じ、どういったことを悩んでいたかというところまで詳しく話すことは、後でとても大事になってくるから、あえて話すよ……」

 時は流れて、僕もなんとか二十歳を過ぎ、「普通の」大人になった。時代と社会の流れに身を任せるまま、いわゆる「普通」という型に自らはまりに行った。大学生の時までは「絶対に“普通”になんかなりたくない! 」と思っていたのに皮肉な結果だった。家族や親戚の期待、自分の中のある矛盾した、妥協した理想の一つがそうさせたのだろう。大学を卒業するまで持っていた自分の将来への不透明さ、気だるさで描かれた将来像は、ごく自然な形でそのまま最初の職業選択に表れた。

「時代は今、ものすごい速さで移り変わりつつある。その速度に追いついていかなくちゃいけない。特に我々のいる印刷業界は縮小傾向にあるからこそ営業マンは……」 

 まだ頭が眠気のせいでぼやける中、僕は社長の朝礼の言葉を聞いていた。ああ、確かに現代社会はめまぐるしく変わっていて、常に革新していく姿勢がないと難しくなっていくだろう。特に「働き方」とかね。そんなことをなんとなく考えながら未だ慣れない緊張感の漂う朝礼の時間を過ごしていた。僕にとってこのオフィス中に漂う緊張感という分子(この分子の発生元は不明だが)のせいでいつも窒息しそうだった。

この印刷会社に新卒の営業として入社してまだ1年目だ。ピカピカの一年生だから、とにかくこの会社の空気に慣れていかなくちゃいけない。会社そのものや業務はもちろんだが、僕個人としてはなんといっても「人」に慣れるのが一番難しい。

 昼休みの休憩時間や、営業車で先輩の営業訪問に同行させてもらう時、僕の二つ上や五つ上の割と歳の近い先輩たちは、僕が入社したてということで緊張感を解きほぐそうと、話し掛けて来てくれる。仕事にほとんど関係のないような取り留めの無い会話がゆったりとできるこの車内の時間が好きだった。

「青木君は休みの日は何してるの?」

 歳が二つ上の、見た目は少し怖いが気遣いが細やかで優しい先輩が営業車を運転しながら話し掛けて来た。

「そうですねー。まあ土日は大体、彼女とデートしたりしてますねー」

「へぇー、彼女いるんだ? 」

「はい」

「付き合ってどれくらいになるの? 」

「えーっと、一年と半年くらいになりますね」

 助手席に座る僕に対して投げ掛けられる質問が、ちょっとプライベートに突っ込んで来過ぎていると感じつつも、車内が静まり返って気まずくなるのは嫌なのでできるだけ先輩の質問に答えた。

 平日は日常の業務に慣れるため激動の時間が過ぎていくが、土日は彼女と過ごすことがこの日常で唯一と言ってもいいほど、癒しそのものとなっている。  

 先週は地元の遊園地へ遊びに行った。彼女が念願の遊園地だということで気合の入ったおしゃれをして来ていた。

「あ! おまたせー! 」

 つばが少し大きめの麦わら帽子を被り、薄っすらと青い花柄が純白の白いキャンバスに散りばめられた、いかにも辺りが華やぐようなワンピースを着ていた。見ようによっては西洋のお嬢様の寝巻きみたいだ。しかしまあ、こういうセンスが彼女の良いところでもあるんだけど。じっくり頭から脚まで眺めていた僕の視線を察知して、

「あ!気づいた!? 」

「そりゃ気づくよ。このワンピース、麗奈のお気に入りのやつだろ? 」

「さっすが純一! 」

 このワンピースは今日みたいに彼女にとって特にテンションの上がる日に着て来る。

 分かりやすくはしゃぎながら僕の右腕にか細い腕を回して、入り口のゲートまで二人で歩いた。

 彼女はデートの時にはいつも香水を付けていて、こういう二人の距離が近くなった時にほのかに香る。それは世界中から人間にとって良い香りのする花ばかりを集めてそれを凝縮させたような、とても華やかな匂いだ。僕はこの匂いが好きで、匂いを嗅ぐたびに密かにテンションが上がっている。そしていかにも今、休日を満喫しているなというある種の充足感がある。

「ここに来るの久しぶりだね! 初デートで純一と来た時以来だよね? 」

「そうだなー」

 としみじみ当時のことを思い出しながら僕は答えた。

「あの時は緊張しすぎて終始膝が笑ってたよ」

 彼女が声を上げて笑った。

「そうだったの? 知らなかった。結構落ち着いて見えたけど。あー、でもそう言われてみれば確かに手を繋いだ時、手汗すごかったもんね! 」

 彼女は快晴の日差しのように明るく笑いながら、当時の緊張ぶりを話した。初デートの時の緊張感が思い出されたことと、今、彼女の口から生々しく語られたことに改めて僕は幾ばくかの密かな恥ずかしさを覚えた。 

 僕たちはフリーパスを買い、とにかく時間が許す限り色々な乗り物に乗った。でも、僕は絶叫系が苦手だったので出来るだけ避けたかったが、彼女はそれがお気に召さなかったみたいだった。

「えー!乗ろうよ! 」

 彼女は僕の上着の右袖を両手で掴みつつ、お望みのジェットコースターの入り口へと、誘導するように引っ張った。

「いや、ホント勘弁してくれ。マジで苦手なんだって」

 そう僕が言うと、彼女は猫のような鋭い目尻を持った目で僕をしっかりと見て、両頬を少し膨らまして不満の表情をした。そして、僕の目をじっくりと見た後、ぎりぎり僕だけに聞こえるか聞こえないかの声量で

「じゃあ今日は、“アレ”は無しねっ」

 と言った。

 もし周りの人が聞いていたらと思い、僕は少しばかり恥ずかしさを感じながら、ため息とも笑いともつかない声をもらして言った。

「分かったよ、乗るよ」

 僕は半ば強制的にジェットコースターに乗せられ、叫び声もまともに出ないほど恐怖感に遊ばれた。一方、彼女は楽しそうに絶叫してジェットコースターを満喫した。いいお客さんだ。

 そんな調子で時には彼女に合わせながらも遊園地を隅から隅まで遊んだ。日が暮れ始めた頃にはもうクタクタになっていた。

「最後にあれに乗ろうよ! 」

 と、彼女が観覧車を指差しながら言った。確かに時間的にもいい頃合だなと思いながら、僕もそれに同意した。

 みるみる高度が上がっていく。上がれば上がるにつれ、ここ一帯の地域を支配したような、浮ついた一種の幻想を抱く。それは高さのせいなのか、昼と夜の境界にあらわれる黄金のせいなのかは分からなかった。

 僕たちは気づけばその幻想の中でキスを交わしていた。高揚感と調和していた。それは実に当然のようにして起こったことだった。時間が流れ、日が落ち、夜という到達点を迎える直前の、昼と夜がお互いを飲み込み合う時にそれは起こった。まるで昼の世界と夜の世界という、対極のものが混ざり合わさって生み出された黄金が世界を包むような、ごく“自然の一部”としての行為だった。

 その後に夜は訪れた。

 彼女は、ベッドの上で僕と二人きりになると饒舌になる。それは言葉数が多くなるという意味ではない。彼女が“身体で”発する言葉が多くなるのだ。それは間違いなく僕に対して向けられた愛の言葉だった。彼女の腰は夢想の中で動かされているかのようであり、激しさの中にしなやかさとある種の慎ましさがあった。オレンジのおぼろげな光の中で僕を見下ろし、両手で僕の腰をベッドに固定し、腰は前後に動かされる。悩ましく、いかにも官能的に。僕はその光景を下から見ると、至高の芸術品が息を吹き込まれ、動きをもってその芸術的な美しさを自ら体現しているような感動を覚えることがある。

 今度は僕が彼女に奉仕する。ただ情熱に突き動かされ、繰り返し、ひたすらに繰り返し彼女へ向かって愛の運動を続ける。それは二人で共にゴールへ向かって短距離走をするようでもあるし長い距離を地道に着実に走る長距離走のようでもある。また閉鎖的な空間でじっくりと長い時間をかけて何かを熟成させていくロマンスというか、何か物語風な作業のようでもあった。

 僕はただ無心に彼女の柔らかく温かい肉を抱いた。彼女の大きすぎなく小さすぎない身体。癒しをたたえた柔和な肌触りと、自然の美というものが細部まで余すことなく情趣を凝らしたかのような、奇跡的なまでになめらかな身体。僕はそんな彼女の身体を、瞬きをする度に、カメラのシャッターを切るようにして一つひとつの瞬間を味わった。

 彼女を彼女たらしめている肉体の全てと、僕の彼女の乳房を揉みしだく手、背中に回している腕、そして覆いかぶさる胸と腹が精妙に計算されたのかと思われるほど正確にぴったりと合う。

 そんな運命論的な確信を密かに感じつつ、この二人の愛がより高みに至るようにという祈りを彼女の肉の奥深くに注いだ。


「なんだかんだでジェットコースター乗れたじゃん」

 と彼女がベッドで横になりながら楽しげに遊園地の時の話を始めた。

「麗奈が無理やり乗せたからだろ。それに、あんなこと言われたら乗らないわけにはいかないだろ」

 彼女はちょっと笑って、

「そんなにセックスしたかったんだ? 」

 といたずらっぽく言った。

 僕はちょっと恥ずかしさを誤魔化すように冗談半分で、

「あたりまえだろ」

 とぶっきらぼうに言った。

「うわー、エッチーっ!」とシーツで口元を覆いながら、またいたずらっぽく、楽しげに、そして僕とのこの特別な空間に甘えるように言った。


 僕はたまに考えることがある。僕が本当に成すべきことは何かと。やはり何か意味とか、使命とかがあって生を受けたのだろうと思う。だから、その答えを知りたい。いやその前にその答えを知るための方法が知りたい。このテーマを突き詰めていくと、どうしても宗教的な、オカルト的な世界をかすめることがある。純粋に思考の流れに従っていたとしても「聖書とか、何かしらの宗教的な書物を読んだり、何かしらの宗教団体に属したほうがいいのか?」という考えが湧いて来てしまうのだ。

 しかしこれはすぐに、直感的に却下される。

 そういうことではないような気がする。誰かに道を教えてもらったり、“導いてもらう”というよりは、自分で見つけなくてはいけない気がする。できる限り、自力で。これまで歩んできた人生において苦さも甘さもひっくるめた過去の中で見つけるという自己の探求の中で。その諸々の「過去」をひっくるめて整理したり、一つひとつを時には繋ぎ合わせたりして理解する。その上で今自分の周りや世の中で起きている事柄において“気づき”を拾い上げる。ただ漠然と、そうやって見つけなくちゃいけないような気がする。

 今言ったような方法で「僕の生きる意味とは?」ということや「僕のこの人生における使命とは?」ということを考えていくと、現在、自分がやっていることに対して徐々に疑問が出て来る。僕は本当にやるべきことをやっているだろうか? 僕は生まれたときから賦与されたこの体と心、そして才能を十分に活かすことができているのだろうか?  

 これらの疑問は、現在、自分が従事している仕事に対する疑問へと移った。

 これまでの人生を振り返って考えて良いことも悪いことも起きた全ての出来事によって生かされている現在の自分を見つめた時、自分の性格や“人間としての傾向”は、今の仕事を続けていくに本当に相応しいものなのだろうか? そして、無数にある職業の中で「印刷会社の営業」を選択するという妥協は、自分の人生そのものに対する甘さではなかったのか? これまで抱くことのなかったこういった疑問によって、今、「自分は何ができるか? 」という自分の使命への問いかけと現実との不一致が明らかにされつつあった。

 そして僕の意識はさらなる高みへと目指し

た。本当に自分が生まれてきた意味、つまり本来の“生の使命”を遂行することで初めて真の人生の豊かさを実現できるのではないか。そしてその遂行を通してこそ、人類共通の生きる意義である「学びを得て精神的により成長する」という大きなテーマをもっとも従順に、もっとも効率よく行えるのではないか。その先にこそ、全ての生命を貫徹する普遍的な真理である、魂のレベルを向上させるという精神的、根源的、絶対的幸福が待っているのではないか……。

 しかし、もう一人の僕はこの思考に「待った」をかけるのである。

 その考えは単に目の前の現実が気に入らないから、いわゆる現実逃避をしているだけではないのか? そんな大仰なことばかり考えていないで、地に足を付けて目の前の仕事をしたらいいんじゃないか? あくまで現実主義の立場で主張を唱え、もう一人の僕をたしなめて来る。彼は保守主義と呼ぶには優し過ぎ、より泥臭く粗野な生き方を好むような人間なのである。変わることを恐れ、ただ粘着的に、淡々と、平凡な日々を送る方が良いと感じるような、自由と変化を求め続ける僕を時に妨害するものなのだ。


 とある夜の深まった土曜日、僕と彼女はぼうっと怪しく光る城の中に居た。その堅牢な城は周囲の世界から隔絶した密室を孕んでいた。その門をくぐった者たちは世俗からかけ離れた夢想の、歓喜の世界で、偽の生活を演じることになる。この日も、とある男女は闇夜に浮かぶ光の城の中で情欲のゲームをしていた。

 いやらしいまでに腰が曲げられ窮屈な「く」の字になっている身体が彼の前に捧げられている。両手は頭の左右に置かれ、両足は彼のために腰を支えている。そのしなやかな手のひらは快楽の荒波が耐え難いものであると雄弁に語るようにベッドのシーツを必死に握り締めている。彼は“自分のために”突き上げられた尻をしっかりと両手で握り締め、その握られているものが自らの所有物であるかのような自信に満ちた力強さをたたえている。彼女の柔らかい尻の肉は、彼のその力によって悩ましい形を描いている。

 彼の腰を、彼女の腰へと、打ち付ければ打ち付ける程、肉と肉が奏でる一定のリズムを刻めば刻むほど、二人が共有し得る快楽の度合いは強くなっていく。そしてその心地よい音は、狭い密室に愛の音楽を反響させる。

 若さ故に活力が漲り、精力が有り余っている二人の肉体と心は、ただ心地よさを求めていた。ただ奥底からの要求の赴くままに。特に彼は、その後に「はかなさ」が訪れることが分かっていても。

 二人は息を少しばかり弾ませ、余韻に浸りつつベッドに横になっていた。すると彼女は、

「シャワー浴びて来るね」

 と言って、おもむろに立ち上がり、風呂場の扉を開けた。

 僕は幾ばくかの違和感を覚えた。いつもなら終わった後は二人で入るのに。今日に限って一人で入りたい気分なのかな。それに、今日は彼女から香ってくる匂いが、違う。いつもなら花びらが辺りに舞い散っているかのような華々しい香水の香りがするはずなのに、今日に限ってはどこか大人っぽい、官能的な匂いがする。

 突然、傍らに置いてあった彼女の私服の間からバイブ音が鳴った。脱いだ上着の間からかくれんぼするように彼女のスマホの画面の一部が光っていた。それは確かにスマホではあったが、僕が知っている彼女のスマホではなかった。「いつの間に機種変したのかな? 」とぼんやり思いながらリニューアルされたそのスマホを眺めるために手に取った。最新のもののようで少し興味が引かれ、何気なしに右の親指を一回スライドさせた。すると、トークアプリの通知が来ていたようで、一通メッセージが来ているのが目に入った。「プライベートをこっそり覗き見するのは悪い」と思い、スマホを下に置き直そうと思ったその瞬間、通知と同時にそのメッセージの本文までが表示されているのを見た。意図的ではなかったとはいえ、誰かからのメッセージの中身が見えてしまった。

 その瞬間、わが目を疑った。

 目から脊髄に鋭い電流が走ったような耐えがたい痛みを感じた。そしてその痛みは全身へと巡った。

 呼吸が荒くなる。

 目を見張り、ただひたすら画面を見た。

 内容が瞬時には受け入れられず、二度見をした。そこには確かにそう書いてある。読み間違いではない。

 思わずその通知をタップする。

 メッセージ全文が表示される。


 おっすー!この間の夜はすっげぇ楽しかった!

 あの時が今までの中で一番よかったかもww 

 あの腰の動きはヤバイww

 さびしい時は一緒にまた飲み行ったりクラブ行ったりしようよ!

 

 そしてその後にはハートマークがついたふざけたスタンプが送られていた。

 ――誰だこの男は? この男とどういう関係なんだ? 

 いやそんなことより、麗奈は僕の見知らぬ男と“そういう関係”になっていたのか……。それに、文脈からすると一回だけではなく何回か繰り返しているらしい。

 突然、真空が訪れた。うまく息が出来ない。

 風呂場の扉が開く音が聞こえる。

 彼女が部屋に戻ってくる。

 彼女はいつものようにバスタオルで身体を隠して出てきた。

 見覚えのあるスマホを手にして、ベッドに腰掛けながらこちらを見ている姿に彼女は戦慄した。凄惨な殺人現場を目撃したような恐怖と驚きの表情を顔に浮かべていた。

「これなに? 」

 と僕の口から、自分が出せるもっとも冷たく、もっとも絶望的と感じられるであろう声が、咄嗟に出た。何の思考や迷いを挟むこともなく、瞬発的にそう彼女に問いかけた。

 彼女は黙っている。

 ただ、うつむいている。

 彼女は、僕がそのスマホの画面を見せずとも事態を飲み込んだのだろう。ただ目の前の恐怖に縮こまっている。

すると、やっと彼女の口から言葉が発せられた。

「ただの友達」

 静かに、そして言葉に反抗の意思を含んだ、どこか鋭さのある声で答えた。

 僕はこれに断固として答えた。

 「ここに、明らかにセックスしたっていうことが書かれてるけど? 」

 彼女は答えず、バスタオルで自分の身体を何故か必死に隠すように胸元を抱きしめていた。

 静寂。

 暖房の冷たく無機質な機械音のみが聞こえていた。

 

 僕は暗闇の中をゆっくりと歩いた。いや、実際には歩いていなかったのかもしれない。もしかしたらまともに歩いてなどいず、壁に体をぶつけまわっていただけかもしれない。とにかく逃げたかった。その場から離れたかった。

 いきなりクラクションが鳴り、心臓が跳ね上がった。なぜ鳴らされたんだ。ああ、ぶつかりそうだったんだ。いつの間に車が目の前に来てたんだ?

 痛み。

 疑念。

 悲しみ。

 そして、訪れる憎しみ。

 

 君がそんな人だったなんて……。二人であれだけのことをくぐり抜けて来たというのに。

 君と過ごしたこの一年半はなんだったんだ? 

 嘘だったのか? 僕を騙していたのか? あれだけ笑顔だった君との時間は何だったんだ……?

 残酷にもあの忌まわしいメッセージの一部が、毒素が血液中を通り抜け、鋭い痛みをもたらすように僕の頭を駆け抜けた。

 

 あの時が今まで出一番良かったかもww あの腰の動きはヤバイww

 さびしい時は一緒にまた飲み行ったりクラブ行ったりしようよ!


 君はこいつと付き合っていたのか? 恋人として? もしそうならいつから? 僕と付き合い始めてからか? それともそれより前から? しかし文面を見る限り、どうやら時々会っては夜を共にしていたようだ。じゃあ、彼氏でもない、ただの友達でもない、セフレか?

 君はお遊びという名目でその男に身体を許したわけだ。君はどうしようもないビッチだ。僕の知らない所で君はクソビッチに成り下がっていたんだな。

 じゃあ、やっぱりあの僕の前で見せたあの花のような屈託のない笑顔は嘘だったのか? ビッチであることを偽るために、あえて「清純に見える笑顔」をしていたのか? やっぱり僕を騙していたんだな。

 君は僕と付き合っていた中で何か欠けたも

のを埋め合わせるように ―― そんなものがあったとは思えないが! ―― その男とたまに会っては、続きもしないどうせ欲望を一時的に満たすだけのセックスをしていたんだろう。さぞかし気持ち良かっただろうね。何度も奴を求めていたんだから。

 君が彼へと向けられる視線のその先に、僕は映らなかったのか。映ったとしてもあえて目を瞑ったのか。だって、あれだけのことが二人の間ではあったじゃないか。君はもう忘れてしまったのか。僕は今でも君と出会った時のことをありありと思い出せるのに……。


 君と初めて出会ったのは、大学四年生の頃だった。場所は僕のバイト先のゲームセンターだ。それは本当に思いがけない出来事だった。もしかしたら運命だったのかもしれない。僕が最初に君を見た時、一体どれだけ美しさに胸を打たれたか分かるかい? 

 でも、そんなこと、今となっては何の意味も無い……。

 君は颯爽と、お客として僕の目の前に現れた。僕はスタッフとして店内を見回るふりをして、何度も君の息を飲むような美しい横顔を見つめていた。すると、やっぱり君の美貌は仕事中でありながらも、僕たちスタッフの間で話題を集めていた。そうやってこっそりと君の動向を横目で追っていると、僕の好きなカードゲームの台でゲームをプレイし始めた。君が丁度僕と同じ趣味だと知った時は、それは嬉しかったよ。だってそのゲームをやる人は中々居ないコアなやつだったからね。僕は俄然、君に話し掛けたくなった。僕の普段眠っている奥底から声がしたような気がして、君と話をしなきゃいけないと思ったんだ。

 すると、同じスタッフとして働いている大学生の後輩が僕に、

「あの子に話し掛けないんですか? 」

 と言ってきた。この子は僕と真逆と言ってもいいような社交性のある性格で、いかにも違う日向の人生を歩んできたんだろうなと思える“ネアカ”なタイプだった。とにかく人と話すのが好きな“人たらし”だったから、そのノリでそう僕に言ってきたのだろう。なにより、僕はそのバイト先では趣味を暴露していたし、恋人募集中を公言していたから、彼なりに気を使ってそう言ってくれたのだろうと思う。

 その時の僕は、それはもう大変な状況だった。まさしく心の中で葛藤していた。君に話し掛けるためだけに。僕は普段は見知らぬ女性に気軽に話しかけることなんてできるタイプじゃなかったし、なにより女性と話すこと自体が人一倍の努力を要するような人間だった。とても緊張しやすいあがり症な性格だったから、何度も君と話すことをためらった。でも、後輩君が僕のために事前に君に話し掛けて下準備をしてくれたおかげで僕に火が付いたんだ。普段は抑圧されている部分に。すると、その普段は眠っている激しい“何か”が爆発し、表側の恥ずかしがり屋で内気な自分を上回った。それは僕にとって、もっとも重要な場面で、もっとも大きな勇気を要する場面だったと言ってもいい。

「あ、そのキャラ好きなんですね。僕も好きなんですよ! 」

 そうやって必死の思いでどうにか君との会話の糸口を拾おうとしていた。当時のことを思い出すと、その時の僕はまるで僕ではなかったようだった。体や意識の大部分は緊張で凍結したように固まっていたのに、話をしていたのは僕の皮を被った別人のようだったのではないかと今では思う。

 でも、身体的に負担が掛ったのか、それとも心がオーバーヒートしそうになったのか、その会話は僕の方から早々に打ち切ってしまった。

 その後「これだから彼女ができないんだろ! 」とか「もっと会話を続ければよかったのに! 」とか一人で先程の会話シーンを反芻しながら悶々と考えていた。

 しばらくして、君が一通りゲームを楽しんで店を出ようと出口に近づいた時、ちょうど僕は休憩に入ろうとしていた時だった。僕ははっとして、ほとんど無意識に、というより何の葛藤も挟まないで君へ渡すためのSNSのIDをメモ帳に書いた。そして、傍から見ると何事かと怪しまれる程の勢いで走って君の後を追いかけ、それを渡した。その時の心拍数はどれだけ高まっていただろう。それは走って来たからなのか、極度の緊張からなのかは分からなかったが、その紙切れを君に受け取ってもらった時は、何ものにも代えがたい清々しい気分だった。

 そうして僕たちはSNSで何度かやり取りをしていくうちにお互いのことを徐々に知り合った。彼女は「赤星麗奈」という名前なのだと知り、見た目に違わず素直に良い名前だと思った。

 ごく自然に僕たちの出会いの場所、待ち合わせの場所はバイト先のゲームセンターになっていた。「今日は出勤してますか? 今日ゲーセン行きますよ」という文面を見るたびに心でガッツポーズをしていたものだ。

 でも、僕は心のどこかでこの知り合い以上友達未満の微妙な関係を許さなかったのだろう。僕はまた勇気を振り絞った。彼女を食事に誘おう。スマホの画面を数十分間にらみつけて、送る言葉を選びに選んだ。それを送ることにも大きな勇気と長い時間が要った。そして、必要以上の汗が要った。

 君からの返信を恐怖と期待の入り混じった気持ちで、非日常的に過ごした。どちらかといえば恐怖の方が大きかったと思う。「どうせ“また”断られるだろ」という、トラウマの滲んだ気持ちで待ち続けていた。

 だからこそ、君からの「いいですよ。行きましょう! 」という言葉を見たとき、どれほど嬉しかったか。僕の奥底にある硬くて凝り固まった何かがじっくりと暖められてほぐれていくような気がした。その“しこり”は何か過去に積み重ねられた良くないものだとしか、その時は分からなかった。

 そんなふうにして次第に君と食事に行ったり、遊びに行ったりするようになった。ほとんどお金は僕が出した。それくらいにただ僕は有頂天の中にいた。だから、不思議とお金に関しては気にもならなかった。

 この時期の僕は常に新しい自分に生まれ変わっていくようだった。なんというか、これまでの自分とは違うような……とにかく、とても刺激的な日々だったんだ。もちろん、そんな中でもやはりこの日常の、この関係の行き着く先はたった一つだと思っていた。「告白しなくては」彼女と遊んでいる時はそのことを心のどこかで意識せずにはいられなかった。

 当時の僕は無邪気過ぎたからなのか、それとも恋愛に奥手過ぎたからなのか、彼女に告白する場所とタイミングを、前日に数分で決めてしまった。ネットで、なんとなく適していそうなカップルたちのデートスポットになっている公園を選んだ。今思い出しても、何の自信と勝算があっての行動なのかは分からない。しかし、それは自分の恋愛経験の浅さをごまかすための、もしくは昔から抱いてきた恋愛に対する漠然とした恐怖感に対する、一種の妥協だったのかもしれない。

 その公園は、ゆるやかな山の頂近くにある見晴らしの良い場所だった。夜になると街の夜景が一望できる、このあたりでは有名な夜景スポットだった。僕は緊張感のあまり、その標高の高い公園を目指して歩く途中、一歩、一歩、歩を進めるたびに心拍数が延々と上がっていくような気すらした。

 僕たちは黄金に染まりつつある大空と、その恩恵を受けて一層照り輝く街並みに埋め尽くされた大地を見渡した。その反射は時と共に明るさと熱さを増していくように感じた。その壮観な絶景に二人はほぼ同時に嘆声をもらした。

 彼女の横顔を見ると、目の前の景色に顔を輝かせて喜んでいるのがありありと見て取れた。彼女もこの景色に感動してくれているのだと思い、嬉しかった。そして、そんな風に純粋に、子供のような屈託のない笑顔ができる彼女を好きになったのは間違いではなかったという、ある種の確信を得たことに喜びを感じていた。これまでの、緊張感のあまり生きた心地のしない息苦しい数日間を経て、連れて来た甲斐があったと思った。

 こうしてこの時の記憶を詳しく思い返してみると、僕が彼女に告白した時のことは断片的にしか覚えていない。それほど緊張していたのだと思う。当時のことが写真のように連続的ではなく途切れ途切れでしか思い出されないが、この時の出来事は僕の人生において稀有な転換点となったはずだ(今となっては皮肉でしかないが!)。

 そうして僕たちは目の前の景色に各々感動しながら近くのベンチに座った。

彼女の方をちらと見ると、グレンチェックで肩出しのワンピースを着ているのに今さらながら気づいた。いかにも男受けが良さそうな服を身に纏っていたことが逆にさらに僕を舞い上がらせ、告白の意志をさらに強いものにさせた。

 僕は彼女と共にベンチに座りながら、早速、今言うべきかどうかで焦り出した。しかし、すぐさま、「いやまだ早い。もう少し何気ない会話をして場を温めてからだ」と真逆の意見が出たのでそちらに同意した。

 ここから見下ろせる景色の中で二人が知っている店や道路、建物などを指差しては名称を言い合うという何気ないやり取りをしながらも僕はずっとタイミングを見計らっていた。表面上では全く平静を装って「あ!俺あそこよく行くんだよねー。ここから見るとこんなに小さく見えるんだー」などと言いながらも、僕の心臓は、バカでかい大音量でリズミカルな音楽をかけた時のスピーカーのようにうるさかった。「一言、言うだけでいいんだ。あとはタイミングだ。タイミングだけだ」と体を軋ませる様な過剰な緊張感に耐えながら思った。当たり前のように僕の体の内部は発熱し、体調を崩して熱が出たときのように体の随所から汗をダラダラと流して、下着やTシャツに気持ちの悪い水分を染み込ませていた。

 だんだんと二人の会話が落ち着き始め、話題がなくなってきた。

 しばらく静かな間があった。

「ここだ!」と思った。

 彼女の顔を見た。

 目が合う。

「好きです」

「付き合ってください」

 その瞬間、空気中のあらゆる分子が消滅したのかと思われるような空間が現出した。

 今、目の前の空間には、僕が放った告白の言霊のみが静かに波打っていた。

 そして、不思議なことにこの1秒にも満たないごく短い間に、光の速さで頭を掠める様に過去のトラウマがフラッシュバックした。中学生の時に気になっていた女の子が僕に告白をして、僕があまりに答えをはぐらかすのでその女の子は呆れてその場を去ってしまった、あの時の記憶が。僕はそれもまた瞬時に、世の中の自業自得の原理に基づいて「あの時の僕の“業”のせいで、今、この告白が失敗したらどうしよう」と不安にさいなまれた。

 しかし、彼女はまるで僕の言葉を予想していたかのように、答えに迷う様子もない滑らかさで、微笑を浮かべ、そして、余裕を感じさせるように

「はい」

 と答えた。

 僕の心臓は嬉しさのあまり、ここぞとばかりにもっとも高鳴った。

 僕の魂と肉体は有頂天そのものだった。

 そして何より、当時の僕としては、彼女が迷いなくすぐに答えてくれたことがさらに僕を喜ばせた。

「あー!緊張したー! 」

 と、思わず僕は声を大きめに絞り出した。

 そうして二人は(特に僕が)緊張からの解放感に浸って笑い合った。夕日の淡い赤色の光が僕の顔を包んでいたので、彼女に緊張のあまり赤らめた顔を見られなかったのがささやかな救いだと思った。

 それからの僕の狂喜乱舞ぶりは自分でも驚くほどだった。「これこそ僕の探し求めていたものだ! 」という歓喜の声が、時折日常生活において誰にも聞こえない声で内側から聞こえて来るのだ。恋愛は人を変えるとか、周りの世界への見方を変えるとか、恋愛が人の人生にいかに奇跡のようなものをもたらすかという言葉を聞いたことがあるが、まさにその通りだと思った。何百回、何千回と昔から通っているはずの近所の道の何気ない景色にも平和や愛があることを見出し、常にどこか心の余裕があるおかげか、大学やバイトで悩むような出来事が起きても前向きに勇気を持って前に進んで行けるようになった。これまで未経験ゆえ本当の理解が及ばず、表面上の“なんとなく”しか感じ取る事が出来なかった音楽の歌詞の幾箇所にも、ひしひしと腹の底に伝わって来る“中身のある”力強さを感じていた。このように、普段の平凡な日常に輝かしい生命が吹き込まれたような、活き活きとした色使いで再び現実が上塗りされたような感じがした。また、無意味に思えるものにも確かに意味があると感じられるような、何かが“復活”して行く感覚を覚えた。それはもはや根本的にいえば、精神と物質の完全な融合、正しい調和といってもよい、何か偉大な奇跡を目の当たりにしたようだった。    

 これまでどれだけ嬉しいことがあっても半分しか満たされることのなかった僕の心は、今まさに人類が感じられるであろう最大の幸福を感受しているのだと感じていた。

 僕はさらにこの恋の成就を湧き上がる喜びに従って、神秘的な方向へと推し進めて解釈した。

 この恋はまぎれもなく神様からの大いなる導きだ! これまで僕が人生において恋愛や人間関係などにおいて色々と苦労を重ねてきたことを、神様がお汲み取りになられて授けてくださった有難いお恵みに違いない! 

 この出会いはもはや必然だろう。それはまるで旧約聖書におけるアダムとイブがめぐり会うことが必然だった様に、古事記のイザナギの尊がイザナミの尊にめぐり会うことが運命だった様に! 


 初めて彼女と手を繋いだのは初デートで遊園地へ行った時だった。これは僕にとってまぎれもなく初めての恋だった。中学生の時にも高校生の時にも人並みに何度も恋を夢見たが(何度虚しい恋愛ゲームやアニメを消費しただろうか)、何一つとして成就させることが出来ずに恋愛経験値ゼロの劣等感の塊となったこの大学生についに来るべき春が来たのだ。

 だからこそ、その“本当の”恋愛の世界は僕にとっては何もかもが新鮮に見えた。初めて彼女の手のひらの感触と温度を感じた時はなんと嬉しかったことか! それまで彼女に触れたいと何度も強く願うあまり悶々とした日々を送ったが、その願いがまさに叶ったのだった。

 初めてのキス。この初デートの後に行ったホテルの中で僕は始めて女の子とキスを交わした。女性の唇というのはあんなに柔らかくて気持ちの良いものだとは! これが初キスの最初の正直な感想だった。僕はいつも以上の緊張と興奮で溶けそうなほど体温が上がっていただろう。ついに待ち望んだ、あの甘酸っぱい、甘美な響きで僕を魅了し続けたキスができたのだから。

 その後は川の流れのようにごく自然な流れで事が運んだ。これこそが僕が体験したいともっとも強く望んだことだった。

 僕たちは純白に重なるように身を横たえていた。

 彼女の存在を「確かにそこにいる」と確かめるように、優しく唇に口付けを繰り返した。 

 そして、まるで壊れやすいものにそっと触れるように、恐る恐る彼女の乳房に手を伸ばした。大きすぎず小さすぎず、程よく膨らみ、実に女性的で、かつ悩ましい曲線を描いている彼女の乳房を揉みしだいた。先程まで彼女の口元を占めていた僕の口付けは、彼女の乳房の頂にも移された。その頂は、夥しい若さの活力を表すかのように、張りのある、凛とした姿を秩序ある曲線で一合目から描きながら登り切ったその終着点に、麗しい桜色に輝いていた。

 そうして、川上から川下へ川の水が下っていくように僕のキスと愛撫は彼女の体の下へとなめらかに滑って行った。

 彼女の官能的な曲線美を全身まで味わった後、ついに彼女と一体になれる時が来た。僕の未だ女性の肉体に包まれる感覚を知らない一物は、いよいよ来る歓喜のため、興奮のため、緊張のためにこれまでにないほどの活力に漲っていた。

 彼女の下腹部を貫いたとき、僕は完全に彼女の肉体によって抱かれていた。僕は恍惚の中、それに呼応するように彼女の肉体を抱き返した。

 こういった諸々の“初めて”は、常に僕の体中から大量の汗を吹き出させずにはいられないものだった。そんな中でも、いや、そんな中だからこそ、確かに感じていたことがある。

 初めてが君で良かった……。


 幾百年もの時の移ろいを見守る大樹は、その荘厳な姿で僕たちに変わってはいけないもの大切さを説き聞かせてくれている。立ち並んだ木々の間に出来た緑色の小部屋を覗くと、まるで過去を証明するようにして地に足をつけて佇んでいる大きな岩がある。その厳然たる様子からは、過去の英霊たちと今の私たちとを結びつける強い力を感じる。

 数百年の間、幾多の祈りを聞いてきた壮大な社は、この玉砂利が敷かれた中央に位置している。この社は今も種々の祈りを吸収し続けているようにも感じられるし、これまでの悠久の祈りを現代に反響しているようにも感じられる。

 今、首筋に心地よく感じられる空気は、その幾多の祈りによって清められて来たのか、何か強い精神的な力によって清められたのかは分からない。ただ、この澄み切った空気には、この世界からは感知し得ない、俗に言う「神様」であったり「あの世」であったりを素直に信じさせる純粋な力を感じる。また、こういった感覚そのものが、精神的な世界を忘れてしまわないように、優しく母のように物質的な世界とを結びつける一種の渦のような力の証になっている。

 僕と彼女は、その神秘を理解したかのように社の前で左の手と右の手を合わせた。その祈りは、ある目には見えない、始まりのただ一点へと向かっていた。

 突如、不思議な現象が起きた。僕たちが境内を出ようと裏門をくぐろうとしていた時だった。僕の視界の左上で何かが一瞬光ったのだ。それはまるでカメラのフラッシュを焚いたような光だった。僕は咄嗟の事でただ「あ! 今なんか光った! 」と驚くしかなかったが、自然と、幽霊や妖怪の類の恐怖感はなかった。

 彼女と神社から歩いて帰っている道中、歩を進めれば進めるほど、先程の不思議な現象と僕たち二人のこの“奇跡的な”関係を結び付けたいという願望が強まって行った。「あれはただの光ではない。僕と彼女は結ばれるべくして結ばれたのだ。彼女と付き合ったのは正解だったという、高級神霊からの合図を得たのだ! 」という何か神託めいたものをこの二人の間に感じ、ある種の高揚感を得ていた。

 僕は、そのように自分の周りにおきる何事をも、都合よく今の自分の幸運に結び付けることがたびたびあった。つまり、彼女と付き合ったばかりの頃の僕にとっては「こんなに可愛い彼女と付き合うことが出来たんだ! 」という幸福感は、神や信仰などの神聖な世界の域にまで至らせるほどのものだったのだ――。

 

 あまりの痛みに頭を抑えた。しかし、本当に痛いのは心なのか、頭なのか……ただはっきり分かるのは、僕の存在そのものが悲鳴をあげているということだ。ただただ、当時抱いていた生の活力のようなものを思い返せば思い返すほど、微細なとげの塊を飲み込み、それが血中を巡っているような鋭い痛みを感じる。

 深夜の漆黒の中を、のろのろと一歩ずつ歩く。ゆっくりと顔を上げると、ぼんやりと瞼を開きかけたような形に光る月が見える。今となっては闇の中に光を灯し導いてくれる存在は、僕の目の前から消えてしまった……。じゃあ、一体、これから何を目当てにこの真っ黒に閉ざされた世界の中を進んで行けばいい? 

 あの頃はあんなにさんさんと僕を照らし、ぽかぽかと温めてくれる太陽が輝いていたというのに。

 そう、その太陽こそは君だった。君が隣に居てくれた時は、僕は無限のエネルギーを感じていた。そのエネルギーはきっと将来、僕たちの全く新たな扉を開き、全く新たなものを生むのだろうと予感させるものだった。つまり、二人はいずれこのままの距離感で人生を分け合うための誓いを立て、その果てに子供をもうけるのだろうという漠然な予感を抱いていたのだ。


 気づくともう自宅に着いていた。

 電気も点けず、暗がりの中、体をベッドへと沈めた。

 この場面の切り替えが、僕の思考を別の側面へと導き、嵐のような疑念を噴出させた。

 “そいつ”は誰だ?

 君と何度もベッドを共にした“そいつ”はどこのどいつだ?

 なんで君はそんな奴に身を任せたんだ?

 僕に足りないものをそいつが持っていたから?

 確かに、あの文面を見る限り僕と比べたら全く違うタイプのようだ。恐らく、僕とは違い、異性と話すことなんかに何の壁や抵抗感もない、社交的で、ネアカで、“コミュ力の高い”奴なんだろう。君はそんなやつの口車に乗せられたのか……それとも……。

 ここで僕はついに身の毛もよだつ恐るべき発想へとたどり着いた。

 君は自ら望んで“そうなった”のか? あいつは確かに、一見、女性にだらしなさそうで貞操観念のかけらもなさそうだが、そうでない可能性もある……。

 問題は君だ。

 考えるのは君と僕のことだけでいい。

 君はどうしてた?

 君は、あいつと居た時、どうしてた……?

 例えば、どういう関係性かは分からないが、君があいつと一緒に飲んでいた時、君はあいつからの誘惑に少しでも抵抗したのか、それとも、君からあいつを誘惑したのか? 君は酔うと甘える癖があったから、酒の勢いで自分から身体を委ねたのかもしれない。

 しかも、一度だけでなく何度も……。

 やっぱり君はふしだらな女だったんだ! 

 僕の居ないところで陰口を言い合うように、影であいつと“偽の愛”を囁き合ってたんだね。避妊が失敗してデキちゃってたら全く、“草しか生えない”ね。

 やっぱり君は、男にすぐ股を開く、見た目とは真逆の(これには本当にゾッとする)、腹黒いビッチだったんだな! 

 君が憎い。

 君が嫌いだ。

 これまで僕が培ってきたごく一般的な「道徳」や「倫理観」、「教養」のようなものは、こういった憎しみの感情というネガティブなものは慎むべきものだと、ずっと僕に教えてきた。僕もそれをこれまで頭では理解し、受け入れてきたつもりだった。実際、その甲斐は少しはあったのか、今確かに心の奥底のどこかでささやかな良心の呵責を感じていることは否定出来ない……。しかし、今なお膨れ上がりつつある強大な憎しみの感情を前にすると、どうしようもなく抑えが利かなくなるのだ。この悲劇の前では、培ってきたそれらは全く無意味に思えてくるのである。


 おもむろにポケットに入っていたスマホを手に取り、彼女が楽しそうに笑っている写真の数々を眺めた。

 花畑と一緒に写っている写真。とある観光名所に行くために県外に行った時のものだ。遊園地で遊んだ時にも着て来たあのまぶしいワンピースを着ている。何度「絵になるなぁ」とこの写真を眺めたか知れない。

 免許を取り終えた記念に新車を買った時の写真。新しい一歩を踏み出した入学式の時のような喜びの表情に華奢なピースサインを右手で添えている。

 とある大きな建物の前に立っている彼女。君はお笑いが好きだったから何度もお笑いのライブを観に行ったよね。君が気に入っているお笑い芸人の単独ライブを観に行って、その帰りにホールの建物の前で撮った時の一枚か。二人の会話の中でも、ある芸人のツッコミや有名なフレーズを入れたりしてよく二人で笑い合っていたよね。その時は特に楽しかったなあ。時々僕は君がお腹が痛くなるまで笑わせていたよね。君が苦しくなるくらい笑っているのを見ると僕も心から嬉しくなったものだよ。

 引き続き一つ一つの思い出を振り返るように、何度も写真を指でスライドしていった。

 ベッドで横になって二人で仲良く変顔しながら写っている写真。これはたぶん僕の彼女の部屋で撮った時のやつだ。お酒も少し入っていて、だいぶまったりとした時間を過ごしてたっけ。

 そして、君がお気に入りの可愛い水着を買った記念に撮った時の写真。青を貴重とした生地に、カラフルな花柄が散りばめられたビキニを分かりやすく恥らいながら身に着けている。腰周りにヒラヒラが着いていて、下腹部あたりを覆う面積が小さいのが僕にとっても気に入っていた。この写真を撮った時、君は恥ずかしいから消してって僕にせがんだんだっけ。

 君がラブホで風呂から上がった後に、着替えるために下着を手に取った時の写真。あまりに綺麗だったから思わずシャッターを押したんだっけ。この時も

君はだいぶ恥ずかしがっていたね。

 でも、君は本当に美しかったよ……。

 僕は目の前の写真を、改めて穴が開くほど見つめた。

 部屋に落ちている影の色よりも濃い、墨汁を垂らしたような黒髪は、やわらかく下へ滑り落ち、突然、眉のところで途切れている。その断面はほぼ横一列に均一的に切り揃えられている。後ろから垂れた長い髪は彼女の乳首の所までの長さがあり、完璧に調整されて切られたかのようだ。肩からvの字に曲げられた腕へと走る絶妙な肌の曲線は優しさを浮かべている。また、持ち上げられた二の腕によって露出した脇腹から陰部、そして足先に至るまでの美しさは曲線美の傑作とでも言えるほどの芸術性を感じさせる。それは背中や尻の豪快な曲線であろうと、鎖骨や指先の微妙かつ繊細な曲線であろうと同じであった。また、程よく引き締められ、だらしなさを感じさせないと共に溢れんばかりの柔らかさを漂わせている尻は、女性の「陰の優しさ」を象徴しているかのようだ。それと対を成すように前方に大胆に突き出ている二つの膨らみは、女性の「陽の優しさ」を象徴しているようである。そのどちらともが、女性にのみ賦与されたる美しき特権としての「母性」の全き表れであるという確信を僕は得た。

 「女性の体は最高の芸術作品だ」という言葉を聞いたことがあるが、まさにその通りだと思った。この地球上の自然界に存在する物質は全て創造主の芸術作品であり、その中でも最も“美”を追求して完成させられたのが女性の身体なのであろう、と。今、この写真を眺めつつ、思い返される彼女の肉体美にそういった真理の証明を見ていた。

 僕はこれまで幾度となく君の身体を前にする度に、密かに日常の習慣としていたことがある。瞬きをする度に、カメラのシャッターを切るように目の前の絶景を味わおうとしていたんだ。この写真に君の面影を残したように。

 昔は頭の中で「こんな可愛い女の子とこんなこと出来たらな」と妄想をあれこれめぐらせていたが、今となっては、この頭の中を形作っている世界は決して妄想や空想ではない。その誰もがうらやむような彼女の、絹のような綺麗な黒髪は、はっきりとした目鼻立ちは、愛嬌を振りまくように微妙に上がった口角は、まさしく“現実だった”ものとして僕の頭を占めているのだ。脳によって創られた「架空の女の子」ではないし、ましてやアニメや漫画の「二次嫁」でもない。 

 君は確かに“そこ”に居たんだ……。


 どれくらい経っただろうか。

 どうやらスマホを見ている内に寝落ちしてしまっていたみたいだ。

 おぼろげな意識の中、スマホで時間を確認する。

 一、二時間は眠っていたらしい。

 何か悲痛な夢を見ていたような、そんな切ない余韻が僕の中を漂っている。

 それに、何か色気のある、妖艶な夢。

 たぶん、彼女だ。「青木麗奈」が出て来たんだと思う。記憶は確かではないが、ワンシーンだけは覚えている。彼女は裸だった。裸の彼女が、ホテルのバスルームかどこか、ぼんやりと暖色の光りに包まれて僕の目の前に立っていた。寝る前に彼女の裸をずっと眺めていたからだろう。

 再び、体の真ん中がきゅっと痛んだ。


 僕は彼女の肉の動きを思い出していた。優しく、しなやかに動く彼女の腰。僕の余っている部分と彼女の足りていない部分をパズルのピースを繋げる様にしてお互いの肉体を交わらせる。その接合部からは彼女の“熱さ”が伝わって来る。

 そうだ、これだ。

 僕はこの動きをどうしようもなく愛してしまっていたんだ。

 この、燃え上がるような秘めたる情熱によって動かされているかのような懸命かつ一心不乱の腰の動き。

 それでいて、品のある動きを守る事が信条であるかのようなどこか気品を感じさせる滑らかさと、若さを如実に描写している瑞々しい腰の動き。

 僕はかつて何度も満足のゆくまで味わっていた甘美な味をじっくりと思い返すように“想像”していた。

 そして、実際の思い出を編集するように自らの湧き上がる“空想”と“妄想”で“架空のセックス”を始めた。

 “ここで”ならまだ君と一緒に居られる……。

 まだ君は僕のものだ。


 彼女をそのままベッドの上に顔を押し付けるように押し倒した。

 そして彼女の柔らかい尻の肉を形が変わるほど強く鷲掴みにする。

 自らの怒り、悲しみ、悔しさ、そして、憎しみをぶつける様に後ろから彼女を攻め立てた。

 どうだ? 

 気持ちイイだろ? 

 君はここまで激しくしないと満足しないんだろ? 他に男を作るってことは、僕のじゃ満足しなかったっていうことだろ? 

 出来ればじっくりと、君と“あいつ”がセックスしているところをこの目で見てやりたい。そうすれば、どうやったら“あいつ”以上に上手く君を気持ち良くさせてやれるのかが分かるから。

 あられもない格好で僕に向けられている彼女の尻を、平手で何度も叩く。

 “妄想”の中の彼女は、僕のこの激情から四つん這いの状態で逃れようする。

 僕は逃げようとするその尻を引き寄せては、再び攻め立てる。

 こうすれば君は僕のところへ戻ってきてくれるのか? 

 こうすればまた僕の愛を愛おしく思ってくれるのか?

 激情を、僕の一物を通して彼女に繰り返し、繰り返し、ぶつける。

 彼女が分かってくれるまで――。

 あの、僕が愛して止まなかった、君にしか出来ない、甘美な腰の動き! 繰り返せば繰り返すほどに歓喜を生む恍惚のリズム!

 あれを“あいつ”にも同じようにやってあげたのか!

 それを考えた時、ただ、ただ君が憎い。

 でも、こんなに憎くてたまらないのも君を愛しているからこそなんだ。

 愛してる。

 だけど君が嫌いだ。

 君がこの思いを分かってくれるまで止めない。

 だって……。

 だって……。

 僕が人生でずっと求めていたのは、まさしく君みたいな女性だったんだから! 

 そんな君と一緒にいることが僕の人生の一番の望みだったんだ!

 彼女は諦めたように身体から力を抜いた。

 手だけは力が込められシーツを掴み、空虚を抱いていた。

 そしてついに、僕の激情が頂点に達した時、肉体も絶頂を迎えた。


 僕は息を弾ませながら天井を仰いだ。脱力感、虚脱感しか残らなかった。分かってる。こんなことをしても何も変わらないって。温かい飲み物が、時間が経つと冷えてしまうように僕の体からは熱が奪われていった。

 僕みたいに元々が日陰の人間が、君みたいに絵に描いた美女と短い間でも付き合えたこと自体が奇跡みたいなものだ。こんな考えを誰かに知られたら女々しいなんて非難されるかもしれない。でも、僕みたいに自分の殻に閉じこもることを強いられてきた人間は誰でもいずれはこうなるさ。表面上は明るく普通に接していたとしても心の中には深遠のように暗い洞穴を潜ませることだってあるんだよ。

 それは、人生の長い孤独な内省によって次第に深みを増して行くんだ……。

君は“梯子”のような存在だったはずだ。

 僕の気持ちを、精神を、魂を、高みへ正しく導いてくれる存在だと思っていた。それでいて、僕の過去を浄化してくれる、救い主のような存在だと思っていた。これまで僕が女の子と接してきた中で感じてきた苦汁の苦労、それによって数々生み出してきた恋愛での失敗。トラウマ、自己否定感、負のスパイラル、そういった諸々のものから君はまるで突然舞い降りた女神のように僕を救ってくれた。僕に新たな世界を授けてくれ、僕を新しく作り替えてくれた。君と付き合いたての頃の僕はそう感じていたんだ。

 君は未来の平和への、ほのかな明るみをもたらしてくれたはずだった。「自分の理想の生き方とは? 」、「自分の与えられた使命とは? 」などと頭の中で考えめぐらしたり時には真逆の意見を持つもう一人の自分と葛藤したりした。そして、外の世界に答えを捜し求めたがどれが本当に正しいのか迷い、分からなくなり、ゆらゆらと定まらなかった僕に将来への指針のようなものを授けてくれていた。未来の人生設計において自分一人では埋まらなかった空白を、君が優しく埋め合わせてくれたはずだった。

 そう、君という梯子を僕が一段ずつ登るにつれて過去は浄化され、それと同時に未来への道は、僕を導くように明るく照らされていたんだ。

 じゃあ、その梯子が突然消えたらどうなる?

 後は落ちるだけだ……。


 彼女はずっと顔を伏せていた。僕に表情を見られないようにするためなのか、彼女の横の長い黒髪がカーテンのように顔を隠していた。

 時折、彼女は泣いているのか、髪を整えているのか、何度か手を顔へ持って行っている。

 僕はそこで彼女に語るのを止めた。

 そして、これまで彼女に語りながら眺めていた、目の前のはるか遠くに生い茂っている広大な森から、近くの寂しげな木々へと視線を移した。僕はしばらくそれをぼーっと眺めていた。


 ここからが大事な部分だ。これから次第に風向きが変わっていくんだ。


 彼女に語りかけながらも、いくつか改めて気づいた事があった。僕のこの、性格上のあからさまな二面性のせいで人生において多くのものを失ってきたということだった。それは一種、戦慄すら覚えるものだった。

 僕のこれまでの人生は何事も中途半端だった。恋愛に関してはもう既に彼女に語って明らかにされたとおりだが、友人関係においても同様だった。それこそこの性格のせいなのか、色々な友達がまわりにはおり、人から好かれるような“日向”の友達から、大人しいタイプの“日陰”の友達までいた。しかし結局は、自分の中にある自己が定まっていないせいで付き合い方が中途半端になり、馴れ合いの関係になってしまった。そして彼らと深く付き合っていくことが出来ず、すぐ疎遠になってしまうことが多かった。これによって僕の人生は長い孤独感を抱き続けることになったのだ……。

 学校の勉強や部活動、それから趣味に関しても昔からそうだった。情熱を維持し続け、最後までやり切るということがこれまでいったいどれだけ出来ただろう。首尾一貫して成し遂げたものが一体いくつあるだろう。思い返せば思い返すほど、僕には成果を一つでも出せる程まで何かを極めたという記憶が見つからないことに、どうしようもない悔いの念が浮かぶ。

 こういった志半ばで何事も終えてきたという体験は、音も立てずに、存在感も感じさせずに徐々に僕の自尊心を傷付けるに至った。その事に気づいたのは大学生の頃であったが、もうその時には遅かった。何もかもが遅すぎたのだ。掴み取るべき輝かしい栄光はもうすでに僕の背後の手の届かない距離にあった。  

 僕の中途半端は勉強や部活動において明白に“数字として”結果が現れる場合もあれば、全く警戒や集中の欠いている平穏な日常において“目に見えない習慣”として現れる場合もある。例えば、ある女の子を気に入っているにもかかわらず、あえて近くの席に座りに行くということはせずに自分の好きな席に座ってしまうといったことをする。また、どうにかして女の子と話す機会を設けたいと来る日も来る日も願っているにも関わらず、常に自分の世界の殻に閉じこもり「話しかけるなオーラ」を出してしまったりしていた。これらの日常的行為は、意図せずして、無意識の内に、そして連続的行為の流れの中で行われるものなのだ。この病は、今まさに行われている自己の整理・清算の作業においてのみ、初めて進行具合に気づく。

 そして、この中途半端という病気の発症は巡り巡って心の状態に悪影響を与えた。

「どうせ自分はダメなやつなんだ」

 自らの価値を引き下げようとする類の、劣等感の塊のような、自信の持てない軟弱な自己を作り上げるに至ったのだ。

 「自分はこういうことが出来る人間なんだ」、「自分はこういうキャラだからこう行こう」という、自分という人間を認識するためのある程度の確かな感覚を得ることが出来なかったせいで、アイデンティティというものが自己の中に形成されないまま大人へと成長していった。中心に据えられるべきアイデンティティが存在しないという、一種の僕という人間の「空洞化」が起きていたのだ。

 また、正しく真正面から自分を認識するということが出来ていないせいで「自分はダメなんだ」という自己否定の悪循環を繰り返してしまった。

 しかし、君がこの状況を変えたんだ。変えたはずだったんだ。君に出会ってから自分に自信が持てるようになったし、子供の頃持つことが出来なかった「将来の夢」(誰でも一生の内に一つくらいは思いつくはずのものだが! )を初めてまともに考え出すことが出来た。自分に自信が持てないという“現在の否定”のせいで、これまでそういった「将来の夢」のようなものを持つことを阻害していた。「将来の夢」を漠然とでも考えることで、「生の十全たる遂行のための使命」について考える必然性が生まれた。僕にとって「夢」と「使命」は不可分の存在だった。その「夢」を叶えるためには、如何に「使命」を果たすべきか……。

 しかし君は、突然、僕の目の前から去った。

 僕の傍にいてくれた君が遠くへ行ってしまった。

 また僕は元の僕に逆戻りしてしまったわけだ。

 では、何故、こうしてまた彼女と会っているのか。それも僕が彼女に告白したこの場所で。

 その理由はこれから明らかにされる――。


 次の話をどう切り出すべきか考えあぐねていた時、目の前の景色が明らかに変化を帯びている気がした。空を見上げると、もうすでに太陽の片隅が顔を出し始めていた。圧縮された光の塊からじんわりと光が漏れ出す。しかしまだ遠くの森や近くの木々には光は届いていない。今にもその瞬間をまだかまだかと待ち望んでいるかのようだ。

 この景色を見て、僕は次の話をする決心が着いた。


 それから、僕の限りない虚無を土砂で埋めていくような無意味な日々が続いた。

 いつも通りの日常が始まる鐘の音が鳴っていたはずだが、僕には聞こえていなかった。

 僕の表情や挙動に全く均衡の欠いた心情が、露骨に表れてしまっていたのか、会社の先輩が見かねて、

「大丈夫? 何かあった? 」

 と心配して声を掛けてくれた。

 僕は大丈夫だった。

 これまでの僕の「仮面を被る」という習慣の結晶がここでも鈍く光った。それは長らくの孤独が生んだ冷たい処世術だった。「自分の感情がどんなであろうと、その時に最も適した仮面を被り、最も適した演技をする」ことに慣れていた。

 僕は高校時代から地道に積み重ねてきた悪習を取り戻していた。それは、彼女と付き合ってから封印されていたはずのものだった。仕事帰りなどで自動車に乗っている時、車内からいかにも幸せなカップルが歩いているのを見かける度に、僕は強い憎しみと嫉妬の混じった醜悪な祈りを捧げるのだ。まるで腹が軋む程に空腹に日々耐え抜いているのに、食べ物を食べられることに感謝しない恩知らずな人々がいることを知って憎悪を抱く貧乏人のように。

 一日、そして一日を重ねるにつれ、傷は癒えていくどころか生々しくより一層、傷口の凄惨さを浮き彫りにした。その傷口の生々しさというのは、子供の頃に擦り傷や火傷を負ってその皮膚の組織がめちゃめちゃに破壊されているせいで、大人になっても生々しく傷跡が残ってしまうような、そんな残り方だった。

 彼女との恋――僕にとってこれが初めての恋だと改めて気づかされたのは全く皮肉な形でであった。いつものようにSNSでタイムラインを眺めている時の流れに任せて、彼女のアカウントの投稿を見た。僕とあのホテルでの衝撃的な別れをして以来、どんなテンションでどんな言葉を選んで投稿しているのかを醜悪な趣味だと知りながら探っていた。そんな陰湿なことをしている自分にはっと気づき、「僕が誰かに恋をすると、こんなに未練がましくなるものなのか」と今となっては全くジョークにもならない、性質の悪い感動的発見をしたのであった。

 僕は彼女のフォローを解除した。

 ある日、とあるメッセージアプリに彼女からのメッセージが届いていた。そこには、

「彼とはもう二度と会わない。本当にごめんなさい」

 と書かれていた。

 全く僕の心は動かされなかった。これまで簡単に火が着いていた導火線はぷっつりと切断されてしまっていた。

「謝りたければ謝れよ。でも今となっては何の意味も無いけどな」

 はじめこそは怒りと悔しさで僕の心を赤いどろどろした熱が覆っていたが、今は赤くなるまで温められたガラス細工や刀が冷めて固まってしまった後のような心持だった。

「本当に許してもらいたければ神様にでも泣いて詫びたらどうだ? そうすれば神様だけは君を許してくれるだろうよ」

 

 会社ではミスの連続だった。それは「新人だからしょうがないよ」と許されるレベルのものではなく、取り返しのつかないミスをいくつも。それもそうだ。こんな心理状態なんだからミスは起きるだろう。

 僕は奇妙なほど落ち着いた平静さでこの事態を“眺めて”いた。

 ある日の夜。僕は包丁を取り出していた。

 部屋は明かり一つない暗闇に包まれており、月のぼやけた光のみが窓から差し込んで包丁に怪しく反射している。

 鋭い刃を腕の近くへと持っていく。

 これが本当に孤独な人間の末路だ。孤独な人間というのは基本的に自分の世界のことしか知らない。他の世界が“ある”ということは知っていてもその世界がどんなものなのか、その中身は知らない。味も知らない。匂いも知らない。色も知らない。だから“普通”の人よりも非常に狭い世界に住んでいるのだ。それに、孤独な人間というのは基本の僕のように内気で内向的なところがあり、いわゆるコミュ障なところがあるので周りに自分のことを話すということが難しいのだ。だからこの数日間は会社の同僚や先輩にこの悩み(そんな一言で片付けられるほどの軽いものでもないが)を打ち明けることなど出来なかった。そして、だからこそ僕のように「梯子」を外された者は一度落ちたら止め様もなくどこまでも落ちていくのである。

 こういう人間が、こういう人生を歩み、こうやって消えていくことこそが、孤独な人間がいかに悲劇的な結末を辿るかという一つの証明になるだろう。この世に数十億とある実験の内の一つだ。数分前にそのことを遺書に書いた。

 包丁の刃が軽く左手首にあたる。

 もうこの状況に耐えられないんだ。

 もう生きていたくないんだ。

 僕はこれまで恋にうつつを抜かしている奴らを馬鹿だと思っていた。ましてや失恋したからといって自分で自分を傷つけたり命を絶ったりする奴らは頭がおかしい、イかれた奴らだと思っていた。今じゃ僕がその仲間だ。

 もう自分にも嫌気が差したんだ。

 もう自分が一体何者なのか分からない……。

 

 しばらく経った。

 僕は包丁を机に置いていた。

 やっぱり僕は弱い。

 僕の人間としての弱さは自殺すら出来ない救う事も殺す事も出来ない弱さだったんだ!


 玄関のドアを開いた。

 張り詰めた夜気を吸った。

 僕は何か自分を死に導いてくれるものがないか探すために外へ出た。


 自分で自分を死へと追いやることができないのであれば、より自然な死、何か突発的な、“自分以外の何か”による死を望む。しかしここで、出来れば痛みや苦しさを感じない安らかな死がいいという、ある意味矛盾した軟弱な声が僕の中から聞こえてくるのだ。

 見知った道を何のあてもなく歩いていると、左方より無視しがたい強い引力のようなものを感じた。ふと左を振り向くと、黒色の絵の具の厚薄や強弱のみによって描かれたのかと思うほど、漆黒に包まれながら鎮座している神社を認めた。

「彼女とも来た事があったな」と思った。

 僕は何かを諦めるような気持ちでその引力に身を任せた。

 社の目の前まで行き、おもむろに手を合わせた。僕は何ものをも“祈って”いなかった。それはもはや宗教的な、信仰の表れとしての祈りではなかった。ただただ、乞い願いたいという、どこから来たのか分からない密かな力によって両手を合わせていた。

 その時の僕の行為をあえて形容するならば、一種の生の棄却、生を投げ出す行為であり、一種の自殺だった。僕は、両手を社の前で合わせたとき、生きたいという最後の生命力を何かに預けた。つまり、社に潜む目には見えない何かに、自分の生を任せたのだった。それは逆に言うと、死をもって生を拾う行為だった。

 僕は再び暗い夜道を歩いていた。


 こんなはずじゃなかった……。

 僕の人生はどこで間違えたんだ……?

 こんなにも追い込まれるほどに、僕は、間違ったことをしてきたというのか?

いたって普通に、ある程度は真面目に生きてきた。非行に走らず、犯罪なんか夢にも思わず、それなりにやってきたじゃないか。この性格のせいで人一倍心苦しさを感じても、どんなに孤独を感じていてもなんとか生きてきたじゃないか。

  

 僕は真っ暗な細い道を通り、電柱に取り付けられた小さな灯火がいくつか見える路地へ出た。自然とその灯火の一つへ向かって、歩を進める。

 では、もし、この人生で何か間違ったことがあるとするならば……それはなんだ……?

 灯火の優しい光の下で足を止める。僕は明確な理由もなしにそこに突如として立ち止まった。

 頭や頬に水滴が当たった。じんわりと水分が皮膚に染み込んでいく。

 雨が降ってきたようだ。

 ぽつり、ぽつりと、小さな、生ぬるい雨滴が優しく僕の身体を何箇所も濡らす。

 闇の中ではその暗さに同化してしまって存在が確認できないが、今、僕を上から照らす光は無数の雨を照らし出し、一つずつ丁寧にその個々の存在を浮き彫りにしている。路地、雨、そして、僕。そういった、息を潜めて暗黒の世界に紛れ込んでいる存在を暴くようにして照らしている。

 汚れた屋根やアスファルト、自動車やゴミ箱といった、僕の周りにあるあらゆるものに等しく数え切れないほどの雨粒が落ち、染み込み、そこから発せられる、独特の匂い。その世俗という匂いが僕の鼻をかすめる。

 雨は僕の鼻や首筋へ向かって落ち、僕を濡らし続ける。この雨は僕を上から下へと洗い流し、生まれたばかりの裸にさせた。

 浄化の雨だった。


 僕は彼女を確かに愛していた。

 しかし、もし、僕の彼女への愛が間違っていたとしたら……。

 僕は本当に彼女の“心”を愛していたのか。 

 僕の愛を二種類に分けて秤にかけたとき、僕が愛していたのは彼女の心というよりも、肉体ではなかったのか。そうだ。その美しい、洗練された、魅惑の美貌のあまり、彼女の心を愛するということを忘れてしまっていたのだ。僕は彼女と何度もベッドを共にしたが、抱いたのは肉体のみであって、心は抱いていなかった。肉体はお互いに融けあっていたが、心は融けあわずそのままだったんだ。だから、彼女のことを理解してあげることが出来ず、彼女の心の微妙な変化も感じ取れずに、あんなことに……。

 僕は探した。他に、こんな悲劇を呼び起こした原因を。

 僕のこの仮面。僕のこの二面性のある性格。

 これも原因だったのではないか。

 その時、突然、謎の雷が僕の体を貫いた。鋭く、痺れるような衝撃を体の奥に感じた。

 彼女は、僕だったんだ……。

 彼女は、結局、もう一人の僕だったんだ。僕の中に潜み、時あるごとに表に顔を出す、

 本能的で、欲望に忠実で、自由な、裏の僕の投影だったんだ。小さい頃からそんな自分が僕の中にいたからこそ、彼女が近づき、僕の目の前に現れたんだ。僕が彼女を、果ては浮気を、引き寄せたんだ。つまり僕の中の“一つになりきれない、常に別たれた状態”が、彼女との別離をもたらしたんだ――。

 だから、彼女に罪はない。

 あるとするならば、僕に罪がある。

 そうだ、あんなに彼女と融け合う様な日々を過ごしていたというのに彼女の心を何も理解していなかったし、彼女に対して“本当の”自分の姿を隠していたんだ。どんなに頑張っても僕の愛は半分しか伝わっていなかったんだ。彼女に僕のこの二面性を理解してもらうこと、その努力を怠っていたこと、これもまた原因だったのだ。

 

 望めるのであれば、もう一度、“一つ”になれるチャンスが欲しい。

 彼女に会いに行きたい。

 初めて出会ったあの時のように。

 

 雨が降っている。


 天から降り注ぐ雨はいよいよ勢いを増し、より一層、僕の全身を深いところまで洗い流した。そして、僕から流れ落ちた水滴とアスファルト一面に浸された雨、そして地上にもたらされた潤いの恵みはお互いに交じり合い、調和の色を呈していた。


 僕は確信に満ちた温かな精神を抱きながら湯船に浸かっていた。もう一度、彼女に会いに行くんだ。伝えたいことがある。

 でも、今更どこで会えばいいんだ。よほどこの機会に相応しい場所でなければいけないような気がする。一度は遠く離れ離れになって完全に冷え切ったと思われた二人が、再び顔を合わせるのに最も相応しい場所とは……。


 横から見た彼女は震えていた。そして時折、嗚咽を漏らしていた。彼女は明らかに泣いていた。

 僕はその彼女の肩にそっと手を置き、言った。

「ごめん……。僕が、悪かったんだ。君のせいなんかじゃなかったんだ。」

 しばらくの間を置いた後、彼女は

「ううん……」

 と答え、さらに途切れ途切れになりながらも続けた。

「私こそ……ごめんなさい……。ずっとこうやって純一の顔を見て謝りたいと思ってた……。でも……、もう二度と純一とは会えないんだって……諦めかけてた」

 彼女は思わず嗚咽を漏らしながら、少しの間、深く泣いた後、

「それに……、私のせいで、そんなことがあったなんて……」

 僕はこれまで感じたことない、秋風とも春風とも形容し難い、清々しさを胸の内に感じながら、言った。

「でも、不思議と今となっては全てが必要なことだったんじゃないかなと思えるよ。これまでのことをくぐり抜けてきたからこそ、僕は今度こそ間違いのないように君という人間の全てを、“中途半端”ではなく、僕の全身で愛そうと心に誓うことが出来た。それに、自分自身で僕という人間を、本当の意味で理解することが出来た。これまでどれだけ時間が経とうと、どんなことをしても埋まらなかった唯一最後のピースが埋まったような気分なんだ。なんとなくだけど……今、初めて、自分の人生にワクワクしてるんだ」

 そう言って、改めて僕は彼女の顔を見つめた時、胸に迫るものを感じて思わずはっと息を呑んだ。

 彼女は唇を隠すような口をして横一文字に結びながらも、その瞳は、差し染める全く新しい日の光が彼女の溜め込んだ涙に反射して、この世に二つとない、唯一の色合いの宝石のように輝き、慈愛とも言える美しい目で僕の目を見据えていた。

 この一瞬、黙って僕を見つめる彼女のこの瞳の奥に、僕は今、彼女が言葉にしたかったことを刹那に感じ取った。意外なことに、これは全く初めての体験だった。この“言語を超えた彼女の言葉”を聴いたその瞬間、彼女と共に新しい扉を開いたような、にわかに新鮮な心地よさ感じた。その扉からは爽やかな、澄み切った風が水のせせらぎのように柔らかく吹き込んでいる。僕と彼女は、これまでにないような近さで、融け合うように寄り添って、しっかりと手を握り合いながら、その扉の向こうの世界へ足を踏み入れた。その世界は、今、僕たちが到達した“近さ”によってのみ、全てのものが息をし、動き出す世界だった。その左とも右とも言えない、赤とも青とも言えない、また、善とも悪とも言えず、天とも地とも言えない微妙な“近さ”によってのみ統一され、秩序され、あらゆる存在が許されている世界だった。これまで永遠とも思える長い間、対立し続けていたそれぞれのものが、お互いに誠の愛によって抱き合って結合し、調和しているのだ。そして、その“自然”の和の中にのみ、真の交わりの中にのみ新たな未来が生み出され、育まれるのだ。 

 僕は心の底から安堵した。

 ここで新たな生を始める。

 悠々と彼女とこの世界を歩いていこう。

 そうすれば自ずと僕の探していたものは見つかるだろう。


 これまで空を支配していた厚い闇は次第に居場所を失くして行き、夜明けを知らせる赤い光が遥かなる久遠へと向かってぼんやりとおぼろげに染み渡って行く。それは小宇宙の中心たる太陽がこれから世界を席巻する未来を感じさせる予兆だった。

 その予兆の光が山を、川を、街を、そして僕たちを照らし始めると全く同じ時に、大空の奥に広がる青の深みをも次々と照らした。

 太陽の赤と地球の青が混ざり合っている……。

 そこに現れたのは、交わりの色だった。

 光と闇が相会した時の色。

 昼と夜が相会した時の色。

 明るい世界と暗い世界が相会した時の色。

 二つの対極のものが出会い、融け、もう二度と別たれることはないとも思われるほどに交じり合った時に現れる色だった。

 その中間の、微妙な色合いの空を見て、僕たちはごく自然に手を繋いだ。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

紫の花が開くとき 美夜 @tsubasa2020

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ