銀色世界

西井ゆん

第一章 紫の変哲もない日常。

第1話「『ありがとう』——それだけで十分だぜ?」

 息が白い。


 こんな形で冬を実感するとは思っていなかった。

 だから、なんとなくもう一度、目の前に起こった事実を確かめる意味で、また息を吐く。


 ……うん。やっぱり白い。


 その白さをつかむ。

 当然、空気は俺の手に留まることなく消えて無くなった。

 そんなことは当たり前なのだが、しかし如何してだろう。

 そんな当たり前を少しだけ嬉しく思えていた。

 当たり前を当たり前と感じられることが、とても嬉しく思えていた。


 自分の部屋のドアを閉める。鍵は手と一緒にポケットにしまった。

 扉に鍵がかかったかどうかを引いて確認。そのまま足を外に向ける。

 そして、一瞬のためらいもない。

 俺は隣の部屋のインターフォンを鳴らした。

 鳴らす。

 鳴らす鳴らす鳴らす鳴らす鳴らす鳴らす鳴らす鳴らす鳴らす鳴らす…………


「——うるせえ、うるせえ。なんだ、誰だ、何のつもりだ」


 パンツ一枚の男が恨み言まじりに玄関扉から出てきた場面。

 それはきっと、とても珍しい状況なのだとは思うけれど、しかし、俺はこれを結構な頻度で経験していたりする。

 だから驚くこともない。

 特に頭を動かすことなく、考えもなく、ただ俺は彼に笑顔を向けていた。

 挨拶を述べていた。


「おはよう赤碕。今日はいい朝だな」


「死ね。いったい今が何時だと思ってんだ死ね」


 挨拶をしたのに罵倒が帰ってきた件について。

 ちなみに俺は傷ついた。


 ふむふむなるほど。

 やはり世間樣が言うように、人は見た目が九割らしい。

 九割でほとんどらしい。

 四捨五入すれば十割らしい。

 見た目が全てらしい。

 ならば、そう。

 これからは積極的に人を見かけで判断して行くとしよう。

 パンツ一枚の変態には驚くし、距離を取るし、話しかけることももうやめよう。

 俺はもう恋なんてしない。挨拶なんかしない。


 そんな決意を新たに、俺は最近新調した腕時計に目をやる。


「そろそろ……六時だな」


「本当に時間を聞いたんじゃねえよ。普通に皮肉だバカ」


「正確にはまだ五時台だけどな」


「……そうかい、なるほど。通りでまだ暗いわけだ」


「冬だしな。当然だろ。……今さら何言ってんだお前」


「今のところ僕は普通のことしか言ってねえよ」


 大きなため息。

 特に俺とは関係ない生体反応を当然のように無視し、話を進める。


「というかさ。ちょっといい加減寒いんだけど。そろそろ中に入れてくれません?」


「……寒いって。いやお前、パンツのみの僕を見てそれ言ってんのか?」


「いや、お前って基本冬も裸ジャン」


「僕はゴリラか何かでしょうか」


「どちらかというと……猿?」


「当たり前にどっちでもねえよ。ちゃんと人並みの体毛に人並みの容姿だよ」

 

 ったく——と、心底迷惑そうに目を細めて非難の眼差しを強めた彼。


 なんだこいつ、俺がわざわざ朝から嫌がらせしにきてやったのに。


 ……あ、嫌がらせしにきたんだから嫌がられて当然か。

 そんな馬鹿みたいな納得を自己完結した。

 

「なあ、純也」


「……ん? なんだ猿」


「僕の地層にお前の草履を温めた記憶はない」


「信長に憧れて久しい俺です」


「聞いてねえ、知らねえ。死んでくれ」


「そうか」


 まあ、生まれて初めて言ったし。

 実は憧れでもないし。

 比叡山なんか焼く予定も恨みも理由もない。

 じゃあさっきの発言はなんだったのかと言えば、それはもう、特に意味はなかった。


 彼は頭に手をグリグリと当てイライラを押しとどめるような態度を取りつつ口を開く。


「てか」


「うん」


「お前、今、僕が何を言いたいのかわかってたりする?」


「……え?」


 突然目を伏せるように言った変態の質問に、俺は頭を少し動かした。

 もう結構長い付き合いになるこいつとの関係だ。

 以心伝心……とは言わないまでも、人並み以上に、こいつの考えている程度のことはわかるつもりである。

 俺は現状を頭にまとめる。まとめてみる。


 朝。

 時刻は六時。

 朝からインターフォン連打。

 モーニングコール。

 こいつ起きる。

 俺のおかげで起きる。

 俺のおかげで寝坊しない。

 俺のおかげで遅刻しない。


 一つの答えに行きあった俺。

 顔を上げ、鋭く据わった彼の目を見た。


「まあ、そうだな」


「……あ?」


「あれだよ。うん」


「どれだよ」

 

 彼の肩に手を当て、頷く。

 その表情を優しげに見つめながら、頷く。


「『ありがとう』——それだけで十分だぜ?」


「どんな思考回路してんだ貴様」


 二人称が狂った表現になったところを見ると、貴様は相当な怒りをお持ちのようだった。

 俺に向けられたその鋭い視線だけで、顔が火傷しそうなぐらい。

 そんな、溢れ出る敵意と殺意と憎悪を感じる。 

 まあこいつが怒り心頭かどうかなんて、俺の預かり知るところではないわけなのだが、それでも、やはりこのままだとコミュニケーションもまともに取れない。話が進まない。つまり、中に入れない。寒い。


 ……ということで。

 十六世紀のスペインにおけるアメリカ大陸での活動な如く。

 そんな野蛮人を落ち着かせる意味を込め、俺は置いた手で前の肩を叩く。


「まあちょっと落ち着けよ赤碕」


「さっきから僕はお前への怒りのせいか、これ以上なく冷静だけどな」 


「落ち着かないと、まともな議論一つもできないぜ?」


「むしろお前が慌てろよ。なんでこんなわかりやすい殺意出してんのに全く態度が変わらないんだよ」


「人ってのはな。話せばわかりあえる生き物なんだ」


「まあこんな状況でもなきゃ、そりゃ大体はそうだろうがな」

 非常識とかそういう時間じゃねえだろ……。


 なんて、彼は言葉を漏らす。

 大きなため息とともに漏らす。


「……じゃあ、もういいよ。わかったよ。その……なんだ? 『人ってのは話せば分かり合える』——だっけか? じゃあなんだ、お前は僕を納得させるだけの、程のいい言い訳でも用意してんだろうな?」


 頭を掻きつつ凄むようにいってくるも、視線下からの威圧なんて毛ほども怖くはない。

 せめてあと10センチは欲しいところか。


 そんなことを心中で考えていたからか、そんなこいつの疑問を一瞬聞き逃しそうになった。

 

 まあ、自身の身長を気にしているチビ相手にわざわざ馬鹿正直なまでにその問題を指摘してしまうほど、愚かではない俺だ。

 だから、とにかく。

 ここは話の流れに乗って。

 とにかく言い訳を述べようとしよう。そうしよう。


「あー……、うん。そうなんだ。そうなんだよ。いやいや、よく聞いてくれた。さすがは俺の友であり親友だ。全く全く、いやほんと、どうしても仕方ない、止むに止まれぬ如何しようも無いような事情があったわけなんだ」


「事情、ね……」


 言い訳を考えるための時間稼ぎに、強調の副詞を並べすぎたからか。

 

 俺の真剣な目に対する彼の視線は、明らかに疑いの色が濃い。

 構わず、口を開く。


「まあ聞けよ」


「まあ聞くが」


「実はな」


「……実は?」


「昨日な」


「ふむ。昨日か」


「いつもよりな」


「普段より」


「早く寝たんだ」


「……なるほど」


「…………」


「…………」


 当然話すことがなくなってしまった俺は黙って彼のリターンを待つけれど、しかしいつまで経っても返事はない。

 だからまあ。

 当然、俺らの間には沈黙が過ぎる。

 それはすぐに挟んだ赤崎の疑問詞で終わった。


「……え?」


「ん?」


「……で、なに?」


「それだけだが?」


「……もうなんでもいいからお前早く死ねよ」


 どうしてだろう。

 これ以上ない事情を説明したのに、よりますます彼の怒りは上がったようだ。

 らしくもなく声を張り上げないあたり、どうやら相当に眠く、怠く、イライラしているらしい。

 その証拠とばかりに、彼は大きな欠伸を一つ挟んだ。


「いやいや、待てって待てよ待つべきだぜ。絶対お前何か勘違いしてるぜ」


「……いやもういい、僕は寝る。これ以上邪魔するな」


 強引にドアを閉め俺を締め出そうとするも、しかし俺はかけがえのない友情のため、必死に足を挟んで抵抗を示す。


「…………」


「…………」


 見つめ合う。

 何かのバトル漫画的白熱展開が始まりそうな予感なのだが、現実、行われているのは朝っぱらから男子高校生二人による見るに耐えない我慢比べでしかない。痛い。


「ま、まあだからとりあえず落ち着けって。もう一回チャンスくれ。しっかり詳しい言い訳をさせてくれよ」


「……わかった。聞いてやる。だから早く言え。さっさと言え。すぐ言え。とにかく言え。とっとと済ませろ」


 そんなこんなで扉を開けたことで足への負担が少し軽くなった。結構な痛さだったので助かった。

 俺は改めて説明をしようと向き直る。


「いやいや、な? お前はだいぶ軽んじているみたいだけどよ。実際、早く寝るってのは結構な緊急事態なんだぜ?」


「……緊急事態?」


「ああ」


「……早く寝ることが?」


「ああ」


 自信満々に深く頷き、しっかりと目を合わせる。


「人ってのはさ」

 

「人間ってのは」


「早く寝ると……早く起きるだろ?」


「……まあ一般的には」


「早く起きると、早く支度するだろ?」


「……まあ普通はな」


「でも学校はいつもどおりの時間だろ?」


「……まあ当然だな」

 

「ということはだ」

 

 しっかり、笑ってにこやかに笑って、俺は言った。


「——俺、さっきまでな。本当、何していいか分からなすぎて、暇で暇で死にそうだったんだ」


「時間を返せ」

 

 唐突。

 締め出そうとする赤崎の動きを止めるように足を扉に挟み込んだ。痛い。まじで痛い。


「馬鹿正直に聞いた僕が悪かった。だから早く帰れ。そしてそのまま暇で死ね」


「……なぜだ。なぜ納得しない?」


「もしその説明で僕が納得すると本当に思っているなら、お前は少し僕をバカにしすぎだ」


「死人が出るかもしれなかったんだぞ? これほどの緊急事態があるかよ」


「暇で人が死んでたまるかってんだアホ。人間はそこまでか弱く設計されてねえ」

 

 それから。

 そんなやりとりを後五回ほど経てから。

 結局最後は、結構深めのため息をついた後、その門を広く開けた。

 どうやら……このまま俺の相手を続けるコストのデカさにようやく気づいたらしい。


「最初から素直に開けてたら、こんな面倒なやりとりしなくて済んだのにな」


「お前、次喋ったらまじで殺すからな」


「上がるぞー」


 俺は特に彼の返事を待つこともなく、もちろん殺されることもなく、そのまま彼——赤碕隼人の部屋に上り込んだ。

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