第41話 忘れないで・一
空の色を映したみたいな灰色の海を臨んで、私の前で大きな鐘が鳴ってる。震わされた空気が、私の肌を通りすぎて身体の中にまで届いてるみたいだ。
「……ねえ、なんでここへ来てるの私たち」
「んー? 僕が来たいから」
いやだから、なんで
私はそうツッコミを入れようと一瞬思ったけど、どうせはぐらかされるような気がしたから言わないことにした。なんだか怖い答えが返ってきそうな気がしなくもなかったし。
鐘がポツンとある以外はお洒落なベンチがいくつか置かれてるだけの海辺の周りに、人の行き来はほとんどなかった。そりゃそうだよね、こんなに寒いし。冬の海に近づくのは、仕事がある人以外は私たちみたいな物好きだけだと思う。
「もう海見たし、鐘も止んだし、寒いし。行こうよ倉本君」
「そうだね……じゃあ最後はあれに乗ろうよ。一日の締めくくりにちょうどいいだろう?」
「あーうん、まあ……ってちょっと倉本君?」
私、頷いてないよね? また強制連行?
海を臨む大きな観覧車を指差すや、ごく自然な動作で私の手袋をつけた手をとった倉本君は、にこにこして私をそっちへと連れていく。私に拒否権はないらしい。……紳士ってこんな強引だったっけ。
どうしてこんなことになってるのだろう。朝から何度も思わずにいられない言葉を、私はまた胸の中で呟いてしまった。
『デートしよう』
昨日、家の近所の教会でそう私にコンサートの報酬を要求してきた倉本君は、去年の冬に遊びに行ったテーマパークから数駅離れたところにある、海沿いの水族館へ私を集合させた。たまにピアノを弾いてるジャズバーの常連さんから、ここのチケットをもらったんだって。ここのチケットってかなり人気のはずなのに、どういう知り合いなんだろう……。
だってここ、ショッピングモールや観覧車、イベント会場になる施設が周りにある、テーマパークと並ぶお出かけスポットなんだもの。家族や友達同士で遊びに行くのはもちろん、デートに誘う場所としてもありきたりなくらいぴったり。だから友里や明希も行ってみたいって言ってたし、実際、二月の終わり近くのまだまだ寒い時期だっていうのにこんなに大勢のお客さんがいる。そんなところの無料チケットをタダで譲ってくれるなんて、太っ腹な常連さんがいたものだよ。
それで朝からデートを楽しんで、そろそろ帰ろうとショッピングモールを出たところで、倉本君は海を臨む展望台へ私を連れてきて。そしてこのとおり、観覧車へ私を連れ込もうとしてるというわけだ。
皆考えることは似たようなもので、鐘を見下ろす観覧車の前では、何組ものカップルが順番を待ってた。や、カップルじゃないけどね私たち。ともかく、行列は男女二人組ばっかり。家族連れは一組しかいない。
空色の個室へ乗り込むと、女性スタッフさんはにこやかに扉を閉める。私たちを乗せた個室は静かに、ゆっくりと上昇していった。
「この観覧車、何分くらいだっけ」
「大体十五分程度って看板に書いてあったけど、トラブルがあったらもっとかかるだろうね」
「不吉なこと言わないでよ……」
そんなの起きたらたまらないよ。この一年は最低最悪なことばっかりで、初詣には今年こそ平穏な毎日をって神様にお願いしたんだから。神様、先月は聞いてくれなかったんだから、今日こそ私のお願い聞いてください。
夕日を隠す曇り空の下、湾にかかる橋が早い目にライトアップされてた。色んな建物も、ちらほら明かりが灯り始めてる。天気予報のとおり、今日は一日中曇りだ。
あと一時間もしないうちに、この観覧車は今以上にカップルの聖地みたいになるんだろうな。ここ、夜も営業してるみたいだし。行きたいけど彼氏いないー! って友里が嘆いてたなあ。
……そういや
…………あ。
ぼんやりと窓の向こうを見てた私は、空からいくつも降り落ちてくる、粉粒みたいに小さな白い粒を見つけて目を瞬かせた。
「雪……」
間違いなく、雪だ。雨粒と間違えそうだけど、窓に当たってもそんな跡が残らないから雪だってわかる。この冬初めての、もしかしたら最初で最後かもしれない雪。
なんか、嬉しい。私は緩々と落ちていくものを見つめた。どういうわけか、これはまともに心にくる。嬉しくて楽しい。
倉本君も窓の外を見て、どこか楽しそうな顔だった。
「
「うん、なんか嬉しい。この冬もぎりぎり降らないって思ってたからかな。今回は積もらないかなあ」
「この程度だと、夜でも積もるのには時間がかかるんじゃないかな。まあ、庭を駆け回って雪を楽しむのなら、このくらいでいいのかもしれないけど」
「倉本君、私は人間だよ」
あられは降ってないし、うちに庭はないよ倉本君。というか、私は犬じゃないから。
倉本君はくすくす笑った。
「でもまあ、粉みたいでも雪だし、観覧車で雪を見るのはデートらしくていいね」
「……倉本君はこういうシチュエーションで見たことないの? 倉本君なら中学の頃も女の子に人気だったんだろうし、一回くらいはありそうだけど」
「ご期待に添えず申し訳ないけど、ないよ。女の子は怖いからね。皆で遊びに行くならともかく、色々言い訳してデートは断ってたよ」
「あー……」
しみじみとした声に、私はものすごく納得してしまった。私も中学から
……………………。
「……ありがとうね、倉本君」
窓から倉本君に顔を向けると、生まれた感謝の気持ちが自然と口をついてこぼれた。
倉本君も私のほうを向いた。
「どうしたんだい、いきなり」
「だって倉本君は、私がまともな状態じゃないってわかってるから、ここへ誘ってくれたんでしょう?」
「……まあね」
足を組みなおし、否定もしないで倉本君は苦笑した。
「自覚はあると思うけど、熱で倒れてから君はずっと、傍から見ても精神的に危険としか思えない状態だったからね。教会でのコンサートを、ああもまともにできたのが不思議なくらいだよ。日が経てば少しはましになるかと思ったけど全然だったし……気分転換になると思ったんだ」
「…………倉本君は気が利きすぎるよ」
うん、本当に完璧なデートだった。噴水の前で待ち合わせして、水族館でふれあいコーナーもばっちり楽しんで、お土産屋さんで鯨のぬいぐるみを買って、水族館の隣のショッピングモールにあるお洒落なレストランでお昼。お会計も割り勘じゃなくて、あっという間に倉本君が私の分まで払ってくれた。……あとが怖いよホント。
それから、隣のイベント会場でやってたリアル脱出ゲームではしゃいで、停泊する帆船を見て、展望台で海を眺めながら鐘の音を聞いて。最後にはこのとおり、観覧車。倉本君のことだから、帰りは家まで送ってくれるんだろう。最初から最後まで、文句のつけようがない。
デートのあいだ、私は一度も目の前のことから意識が逸れたりしなかった。水槽の中で食卓に並ぶ魚が泳いでいたから美味しそうと思ったし、アザラシが可愛かったからぬいぐるみが欲しくなった。リアル脱出ゲームで倉本君は頼もしかったし、ショッピングモールの専門店の万華鏡が綺麗で見惚れた。桃矢や他のことを考えることなんて、ほんの少しもなかった。
「今日は本当にいい気分転換になったよ。色んなものを見たり脱出ゲームをしたり、疲れるくらいに歩き回れたし。倉本君が私をからかわなかったら、もっとよかったけど」
「それこそ僕への報酬だと思ってほしいな。前にも言ったと思うけど、君の反応を見るのはとても楽しいんだ」
「……倉本君が根暗のいじめっ子にならなくてよかったよ」
「家の躾が良かったからね。ともかく、君に楽しんでもらえたなら、ここへ来た甲斐があるよ」
倉本君は私のささやかな反撃を軽く流して、にっこりと笑った。……うん、わかってたよ負けるのは。
でも、そんなことを言う倉本君もなんだか楽しそうだ。それも、いつも学校で私をからかってるときとはちょっと違う感じがする。そういうふうに笑ってると、普通の男の子みたい。や、倉本君は普通の男の子だけどさ。
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