第32話 欠けたものを埋めて・二

 そうだよ、何を色ボケしてるの私。ここはコンクール。そして全国大会なんだよ? 去年の優勝者? そんなもの、今日この日に、他の人たちに何の意味もない。だから、地区予選に申し込んだ四月の終わりから今日までずっと、たまに友達と遊びに出かけたり、とんでもないことに巻き込まれたりしながら、練習を重ねてきたんじゃないの?


 何が何でも優勝したいなんて欲は、私にはない。そりゃ音大に進学するためには実績作りが必要だし、優勝を目指して練習してきたけど、野望っていうほどじゃない。多分、私より優勝してやるって意欲を燃やす人は、この舞台袖に何人もいると思う。

 でも、だからって情けない結果は残したくない。今までも、さっきもそう誓ったでしょう? だったらいい加減、舞台のことを考えろ。


 そしてついに、私の名前がアナウンスされる。倉本くらもと君と一緒に、眩しい舞台へと向かう。


 光だけじゃなく熱も落としてくる照明のおかげで、舞台から観客席はよく見える。色んな学校の生徒やら一般人やら、審査員やら。一階席はほとんど埋まって、二階席もそれなりの入りようだ。

 その一階席に、見慣れた人たちがいた。一階席の半分より前、舞台の照明が届くところに座る友里たちから離れた席に並んで座る、やたら大きな男と華奢な少女。


 私は、唇をぎゅっと噛み締めた。両の拳を強く握り、大きな石を投げつけられたみたいに大きく心を揺らす自分に強く言い聞かせる。これから本番なんだぞ、って。

 私がピアノへ顔を向けて頷いてみせると、倉本君は心得たとばかりに微笑んだ。こんなときでも、倉本君は倉本君だ。緊張なんてどこにもなくて、練習のときみたい。


 伴奏が始まった。

 さあ、これからだ。前奏を数拍待って、私は大きく息を吸った。


 ……………………。

 なんてことだろう。その一言に尽きた。

 歌えば歌うほどに、声がよく伸びていく。高い音も低い音も、出すのがそんなに難しくない。注意しなきゃって楽譜に書き込んだところも、そうと意識しなくてもちゃんとできてる。こんなに声がよく出たこと、今まであったかな。


 倉本君は、本当にいい伴奏をしてくれてる。恰好は完璧私より目立ってるけど、演奏はあくまでも伴奏で、主張しない。曲に合わせた音色で、私が欲しいタイミングで音をくれる。一昨日と昨日の、昼休憩と放課後しか練習してないのにこの息の合いよう。まるで明希あきの完璧なコピーみたい。


 嬉しい、楽しい。その気持ちが私のテンションをどんどん上げていく。ミスする気がまるでしない。昂る感情が、声を遠くへ遠くへと飛ばさせてくれる。

 録画を早送りしたみたいな感覚で、あっという間に二曲が終わった。あとは一曲だけ。それで、私に与えられた八分が終わる。

 胸がどきどきしてるのに、心は静かだ。観客も静かで、聞こえるのは私の呼吸だけ。


 呼吸を整え、私は改めて大きく息を吸う。そして歌いはじめるのと同時に、倉本君はピアノを奏でだした。


 最後に歌うのは、ドイツ歌曲。――――桃矢が真彩に告白されたあの放課後、私

桃矢とうやに聞いてもらった曲だ。文化祭でミスをしてしまった曲。

 

 ――――私のまどろみはますます浅くなっている

 ――――恋の悩みがヴェールのようにかかり

 ――――身を震わせながら覆っている


 ――――ああ、私は死ぬに違いない

 ――――この身が青ざめ冷たくなったら

 ――――貴方は別の人に口づけするのでしょう

 ――――この身が青ざめ冷たくなったら


 さあ、ここからだ。もうすぐあそこになる。口を大きく開けて、腹に力を込めて。ここでしくじったら、すべておじゃんだ。

 さあ、歌え私……!


 ――――私に会いに来てくれるというのなら

 ――――会いに来てほしい

 ――――さあ、早く会いに来て


 できた! この曲の中でどこよりも強く高い音! やっぱり気持ちいい!

 そしてそのままあっさりと、余韻を残すことなく曲は終わる。あーもう歌えないよ私。力使い果たした。


 倉本君が立ち上がったのを気配で感じ、拍手の中、私は倉本君と一緒に礼をして舞台袖へ下がった。

 舞台袖へ下がるなり、倉本君は私の肩を叩いた。


「すごかったよ水野みずのさん。文化祭のとき以上の出来だったと思う」

「ありがと。実は、自分でも今日は最高だったって思うんだよね」

「だろうね。拍手も、前の人よりよかったんじゃない?」


 笑いを含んだ小声で倉本君は言う。あはは、それはさすがに言いすぎっていうかそこまで自賛は無理だけど、負けてないとは思うよ。うん、私よくやった。このくらいは自分に言ってあげてもいいよね。今ならどや顔激写されそう。


 舞台袖から廊下へ出ても、まだどこか頭の中も足元もふわふわしてた。雲の上に立ってるみたいっていうか……今も舞台の上で歌い終わったばっかりみたいな感じ。今まで、歌い終わったあとにこんなことなかったのに。


「水野さん、大丈夫? なんかぼーっとしてるけど」

「うん、気力使い果たしたかも。まだ夢見てるみたい」


 私の目の前で手を振る倉本君に、私はそうへらっと笑う。そこまで気が抜けてるように見えるんだ私。まあ実際抜けてるけどね。あーもう、気分最高すぎ。これってランナーズハイ?


 でも、そんなよくわかんないテンションも、歌い終えた女子の参加者と伴奏者たちが時間を潰す控室へ戻ってボトルのお茶を飲んだあと、廊下の端に置かれたベンチに一人座ってるうちに鎮まっていく。頭の中でさっきから止まない自分の歌声が、よりはっきりと繰り返されるから。拍手に混じる歌声が、消えない。


 ブラームスの『まどろみはいよいよ浅く』。なんでこの歌を二曲目に選んだのかと言えば、大西おおにし晴香はるかのCDを聞いたとき、高音を伸ばしたときの美しさが印象深かったからだ。後半の強い高音をこんなに綺麗に出せたらすかっとするだろうなってうっかり思っちゃって、歌ってみたくなって。練習を始めてからは、すみません甘く見てましたって後悔したりしてた。プロは簡単そうに音を出しちゃうから、私でも簡単かもって勘違いしちゃうんだよね。なんという勘違い。


 でも今は、この曲を選んでよかったって心底思う。

 だって、一人で勝手に夢を見て失望して、それでも諦めきれない未練たらしさは、私とそっくりだもの。歌う直前に桃矢と真彩まやを見たとき、胸が痛かった。痛くて痛くて、心の中で二人に八つ当たりした。なんでそんなところに座るの、もっと後ろのほうに座ってよって。そんな自分が嫌で、私は歌に逃げるしかなかった。


 この歌は、待つだけの人の歌だ。もしかしたら寝たきりで、死期を待つだけの人なのかもしれない。そんなことを想像しながら一ヶ月前までは練習してたけど、さっき歌ったときはそんなふうに考えなかった。……ううん、一ヶ月前からずっとそうだった。


 こんなに歌詞の意味を全身で理解できるようになれたんだから、勝手に失恋した甲斐があったのかも。嫌な話だけどね。桃矢と真彩も、観客席にいたし。

 ……あーもう、ランナーズハイってホントにいいものだ。どうしてとか、嫌な気持ちに全然ならないのだもの。いつもなら、仕方ないとか当然でしょとかって自分に言い聞かせてる感じなのに。こんな幸せな気持ちで友達の幸せを願えるのなら、一生ランナーズハイでもいいかもしんない。


 ――――私に会いに来てくれるというのなら

 ――――会いに来てほしい

 ――――さあ、早く会いに来て


 耳の奥で歌声が聞こえる。未練を断ち切れずにどうかと願う馬鹿な女の声――――人生最高の音が繰り返される。


 ……好きだ。私、桃矢が好き。真彩と付き合ってても関係ない。好きなの。

 だから、ねえ桃矢。早く真彩のこと、好きになってよ。それとも、もう好きになった?

 だったらいいのに。

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