第15話 きらめく気の迷い・一

 嘆きを強調する低音が連なる前奏が終わり、私は息を吸った。


 歌うのは、待つ女の恋。夢に見るほど恋しいのだと、どうか会いに来てほしいと焦がれる女のひたむきな気持ちが、歌詞には詰まってる。

 さっき歌った、明るく甘い愛の歌とは似てるようでも違う一途さを、明希あきの伴奏が悲壮な音色で盛り上げてくれてる。私はそれに乗っていけばいいだけだ。大丈夫、私も明希も、練習どおりにやれてる。


 今のところは上手くいってる。よし、あと少し。あと少しで――――――――

 ――――って、ミスった……!

 一拍足らずだけど早く歌ってしまい、私は顔が引きつりそうになった。何やってんの、私の馬鹿!


 でも駄目、そんなことはできない。明希も合わせてくれてるんだもの。ミスなんてなかったふりをして、私は歌い続ける。

 気を抜くな、気を抜くな。今度こそミスなく――――――――


 私の歌が終わり、伴奏もやがて終わる。最後の一音の余韻が消えるのを待たず、拍手が鳴り響く。その中で優雅に見えるよう、私は明希と共に一礼した。

 やっと終わった。舞台袖へ下がり、私は安堵の息をつく間もなく明希に両手を合わせて頭を下げた。


「ごめん、ミスった……」

「あのくらい平気だよ。美伽みかちゃん、すぐ持ち直したでしょう? あれ以外は完璧だったし、本番でちゃんとできたら問題ないよ」


 と、明希は謝る私の肩を軽く叩く。うう、でもあれ、先生にばればれだよねえ。あとで色々言われそう。仕方ないけど。


 今日は大園おおぞの学園の行事の一つ、九月末の文化祭の二日目。音楽科は一日目に引き続いて、講堂で各専攻の各学年から先生が選んだ一人もしくは二人が発表することになってる。私が声楽専攻の二年代表として歌う羽目になったのは、そのせいだ。中旬にコンクールの地区大会予選、十月には本選があるからやりたくなかったんだけど、二年の学年主任の指名だからね……あの今どき珍しい熱血ぶりは、いつ見ても不思議だよ。


 私が出るつもりのコンクールは、高校生を対象にした国内のコンクールじゃ一番大きくてレベルが高いやつだ。去年、声楽部門で優勝したコンクール。や、別に連覇したいなんて思ってないんだけどね。でも規模もレベルも私に合ってるって先生に言われたし、私もそう思うし。なら出ないと。

 なのに、文化祭でミスとかっ……! 予選のときにはしくじらなかったのに……ああもう、これは特訓だ……。


「ともかく、ご苦労様。美伽ちゃんは、このあとどうする? やっぱり練習する?」

「うん。でも倉本くらもと君と真彩まやの演奏を聞いて、ちょっと出店でお昼を買ってからにするつもり。明希は?」


 私が聞くと、今度明希がごめん、と私に両手を合わせた。


「真彩たちの演奏は聞くんだけど、そのあとは帰らせてもらっていい? 叔母さんが最近入院してるから、お見舞いに行きたいの」

「もちろんいいよ。叔母さんって、明希がピアノするきっかけになった人でしょう? お見舞いに行かなきゃ」


 私は速攻で頷いた。だって、そんな人のお見舞いなんて絶対に行かなきゃ駄目だよ。先生たちはサボリだって怒るだろうけど、構うもんか。どうせ一般の人たちも今日は学校へ入ってくるから、こっそり学校から抜け出すなんて簡単だろうし。

 そのときだった。


「美伽」

「っ」


 へっ? 桃矢とうや? なんでこっちに来たのっ?

 背後から桃矢の声が聞こえ、私はそれこそ跳び上がらんばかりにびっくりした。焦りから、心臓が早鐘を打つ。


斎内さいうち君、聞いてたんだ。練習してると思ったのに」

「練習はこのあとで軽くするさ。美伽が歌うから、聞いてやろうと思ったんだよ」


 何も知らない明希は、桃矢と普通に話をしてる。クラスは違えど、私や真彩経由で知り合いだからね。

 けれど私は、会話に参加するなんてできなかった。

 やばい、やばすぎる。この格好で桃矢のほうを向いたりできない。そんな恥ずかしいことはできない。絶対に!


「明希、じゃあ私、着替えてくるね」

「は? おい美伽!」


 早口で言って、私は敵前逃亡を決め込んだ。いくら好きな人だって言っても今は敵だ。逃亡あるのみ!


 女子の控室の扉を開けると、十人ほどの女子が椅子に座って化粧したり、寛いだりしてた。数人はドレス姿で化粧もばっちりだから、部屋全体が華やかなことこの上ない。

 でも、それはあくまでも見た目だけ。男子や先生の目から解き放たれた女子が集う控室は、私のことなんて気にしてない人たちのおしゃべりの声と、一部の人たちが送ってくる遠慮のないちくちくした視線や空気が満ちていて、私にとっては居心地が悪いことこの上ない。何、この雰囲気。

 だから私は、部屋の片隅でちょうど着替え終えたばかりの真彩のところへ逃げ込んだ。


「美伽ちゃん、終わったんだ」

「うん。ああもう真彩、可愛い。滅茶苦茶似合うよ」


 肩をむき出しにし、胴やスカートの縁に複雑なレースの刺繍を施したデザインの、ロイヤルブルーのドレスだ。胸元には黒い布が重ねられていて、真彩の肌の白さを際立てる。

 髪は結い上げて、白いうなじを見せて。首にはきらきら光る透明な石をたくさん繋いだ華やかなネックレス。耳にもゆらゆら揺れるイヤリング。完璧なお化粧は言うまでもない。

 浴衣に続く眼福だよこれ……! 人間サイズのお人形が呼吸してる……生人形……!


 真彩のドレス姿は何度か見たことあるけど、やっぱりいつ見てもお姫様としか思えない。某有名テーマパークの青いお城の窓から顔を出してきても、私きっと驚かないよ。

 その生きたお人形さん、もとい真彩はにっこりと笑った。


「美伽ちゃんも素敵だよ。そのネックレスも、よく似合ってるね」

「! あ、ありがと……」


 せっかく貴女の可愛さで忘れてたのに! もっとドレスのことで話をしようよー。

 どうか明希と真彩が、ネックレスのことを桃矢に話しませんように……。

 私は心の底からそう祈りながら、真彩の隣に確保したロッカーから鞄を取り出し、首にかけてたネックレスに手をかけた。


 そう、私が桃矢から逃げたのは、このネックレスをつけてたからだ。花火大会の夜に、桃矢がくれた誕生日祝い。いつもは本番でアクセサリーをつけたりしないのにこれはつけてたなんて桃矢に気づかれたりしたら、恥ずかしすぎてモグラと一緒に地下生活開始だ。逃げるしかないでしょ。


 ああもう私、なんでこんな乙女なことをしちゃったんだろう。そりゃ教会でのコンサートをしたときは桃矢に見られる心配はないしってつけちゃったし、今日だって桃矢は来ないだろうって思ってたわけだけどさ。こういうときでもないと、身につけられるものじゃないし。

 でも、万が一ってことがあるでしょ? ここでドレスを着るときに、なんで持ってきたんだろうって自分にツッコミを入れたでしょ? なのにどうしてつけるのかな、私。その結果がさっきの敵前逃亡なのだから、自業自得すぎる。


 ロッカーの扉裏の鏡に映る私の顔は、うろたえた乙女そのもの。頬は赤く、視線を向ける先に困ってる。

 こんな自分なんて、見ていられるわけがない。私はさっさとネックレスを外して布張りの箱にしまい、ドレスを脱いで制服に着替えることにした。さあさあ、乙女な私も着替えてしまえ。

 ………………。


 はい、制服姿の私になった! 158cmきっかりの身長、腰の半ばに届く栗茶の髪。ほどほどに手入れをしてある、平凡よりはちょっと上と思いたい顔立ちの女の子だ。

 ……うーん、素に戻れてほっとしたような、残念なような…………まあ、お人形さんな真彩が隣にいるんだから、仕方ないか。比べても仕方ないのだけど。


 ………………?

 ……えーと…………。

 …………なんか、見られてるような…………。


 さっきまでよりきつく誰かに見られてるような気がする。人がいなくなったぶん、部屋の静けさと視線の鋭さがより私に突き刺さる。漫画だったら、ぐさぐさって効果音が描かれていそう。


 私は椅子から立ち上がりざまに背後を振り返った。

 時間になった人たちから部屋を出ていて、残ってるのは私と真彩以外だと四人だけ。一人を中心に話をしてるみたい。

 その、中心になってる女子――――スパンコールか何かがちりばめられた、黒地に深紅を重ねた派手なドレスの腰に手を当ててる人と不意に目が合った。


 吊り気味の目がいかにも性格きつそうな印象の、派手な顔立ちの人だ。ドレスの色といい顔立ちといい、どこからどう見ても、女王様か魔女みたいとしか表現のしようがない。

 ただし、女王様と言っても大西晴香みたいな、気品とか気高さとか呼べそうなものはこれっぽちもない。ただ偉そうにしてるだけ。痛々しさばかりが先に立つ。

 絡まれる前に逃げよう……。中学のときみたいなことになる予感しかしない。


 というわけで、私は再度逃亡を決め込んだ。真彩に声をかけて女子から目を逸らし、私は鞄を肩にかける。

 けど、逃げるには遅すぎたらしい。


水野みずのさん、ちょっといい?」

「……」


 断っても追いかけてくる気満々でしょ、その声。高飛車な響きに、私は心の中で舌打ちしたくなった。


「美伽ちゃん、行こう。こんな人の話、聞くことないよ」


 真彩が制服の袖を引き、そっと私に言う。うん、私もそうしたい。でもこの手のタイプは大抵、断ったらあとが面倒になるんだよ。中学のときがそうだったし。さっさと終わらせてしまいたい。

 大丈夫だよって真彩を安心させたくて私は無理に笑ってみせると、振り向きついでに高飛車な声の人を半ば睨みつけた。

 高飛車女子は、むっとしたように目元に皺を刻んだ。


「貴女、どっちかと付き合ってるの?」


 …………は?


「斎内君と倉本君、どっちと付き合ってるのかって聞いてるのよ」


 苛立った声で彼女は繰り返す。そばにいる子がおろおろしてるのはお構いなしだ。

 ああ、そういうことか。私はうんざりした。

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