海を走る列車

志村

第1話




 遠くから波の音がかすかに聞こえる。寄せては返して、寄せては返して。一定のリズムで波音は奏でられる。心地よい音色に耳を澄ませながら、僕はその音に身を委ねていた。


 蘇るのは遠い記憶。僕がまだ小学二年生だった頃、父さんと母さんと妹と海へ行った記憶。四歳の妹にとっては初めての海。妹は押し寄せてくる波を怖がって、母さんの足にしがみついていた。浮き輪で浮かぶ僕と父さんを砂浜で眺めながら。

二時間程遊んでから、昼ご飯を海の家で食べた。僕は焼きそば、父さんは焼き鳥、母さんはチャーハン。妹は、何を食べていたかな。何かを頼んだのだろうけれど、あまり食べていなかった気がする。


お昼ご飯を食べた後、少しパラソルの下で休憩してから、僕と父さんは再び海へ向かった。妹は、まだ海が怖かったみたいで、砂浜でお城を作っていた。それでも、僕たちが楽しそうにしているのが羨ましくなってきたのだろうな。妹はしばらくしてから、恐る恐る海に近づいてきた。一歩一歩、確かめるように。僕は怖くないよ、と笑顔で声をかけた。妹はそんな僕を見て、踏み出した。


波が妹の足を濡らす。妹は石像のように、固まったまま自分の足元を見つめていた。波が引くと同時に僕の方を見た。


「冷たいっ!」


妹は満面の笑みだった。






 音に気を取られていたからだろうか。僕は自分が目を閉じていることも、仰向けに横たわっていることにも気が付いていなかった。感覚が少しずつ蘇る。首から下にかけては、柔らかい布の感触がある。どうやら僕は毛布を掛けて、眠っているみたいだ。


 そう理解したと同時に、僕の目はゆっくりと開かれた。視界はしばらくぼやけていたが、やがてはっきりと周囲を認識できるようになった。


 まず目に入ったのは僕の目の前にある白い壁。いや、僕は仰向けなのだから、これは白い天井だ。そんなことも時間をかけないと気が付けないほど僕の頭は働いていなかった。頭に靄がかかったような、そんな感覚だ。


 そうしてゆっくり顔を右に傾けてみた。僕の右側は、今度こそ白い壁だった。頭の先から足の先まで白い壁。足の先の先まで白い壁だった。壁を認識すると同時に、僕はベッドに横たわっているということにも気づいた。そんなことにも気づかなかったのか…。いよいよ心配になってきた。


 今度は顔を左側に向けてみる。左側にはたくさんのモノがあった。僕はそれを一つ一つ認識していった。白い卓袱台。白いカーペット。白い床。それらの奥には白い扉。扉には白いドアノブ。扉の右側には黒格子の窓。窓の外に青い空と、白い雲。そして、ここはワンルームの部屋。


 周囲の状況は把握できた。頭も少しすっきりしてきた。


 とりあえず、見たところ、この部屋の中には、危険のモノはなさそうだな。そう思いながら、上半身を起こし、自分の体を確認する。白いTシャツ、黒いズボン、裸足。右手右足左手左足。首、腰、うんうん、全部動く。体にも異常はなさそうだ。


 そうして、慎重にベッドから、降りる。カーペットのざらついた感触が足から伝わる。


 今度はベッドからは見えなかった箇所を調査する。まずはベッドの下。何もなし。カーペットの裏。何もなし。敷布団の下。何もなし。今度は窓から外を眺めてみる。どうやらここは高台にあるらしいことを景色から把握した。眼下には青い屋根、白い壁の家が無数存在し、その先には青い海が広がっていた。青い海の上にはポツンと緑色の島があった。その島の真ん中には、火山が一つ。頂上からは、煙が出ていた。そして、その島とこちら側の陸の間の海の上に、列車が走っていた。緑と黄色の可愛らしい列車は、海の上を走っていた。よく見てみると海の表面にうっすらと線路が見えた。そして、駅は三つ。陸側の駅は駅ビルのような建物が隣接しており、その周りをバスやタクシーが行ったり来たりしていた。島側の駅は背の高い塔が立っている。白い外壁に、赤い屋根のその塔は駅なのか?と一瞬疑ったが、線路が塔に続いているのが見えるのでおそらくあれは駅なのだろう。それにしても、遠く離れたこの場所から塔だと認識できるということは、かなりの大きさだ。近くで見てみたい。そう思った。そして、もう一つが、海のど真ん中に見える小さな駅。目を凝らさなければ見えないのではというほど小さな駅。木で作られた山小屋のようなその駅を、僕はどこか懐かしい気持ちで眺めていた。


海に列車が走っていることに驚きながら、この場所から見える絶景に僕は少しの間見とれていた。

やがて、我に返り、部屋の調査を続けた。


今度は扉の先を調査した。恐る恐る開けた扉の向こうには、小さなキッチンと、洗面所、トイレ、お風呂。そしてその先に、玄関があった。キッチンにはまな板も包丁も、そして食器すらもなかった。洗面所やお風呂にも、あってもいいはずの歯ブラシやコップ、シャンプーやリンス―など、生活必需品が何も置かれていなかった。


「生活感がまるでないな。」


そんなことをつぶやきながら最後に玄関を確認する。玄関にはありがたいことに白いサンダルが一足置いてあった。そして玄関扉の鍵はこちら側から開けられることも確認できた。すべて調査し終えた僕は、一度部屋に戻った。




見たところ、何も危ないものはない。それどころか、何もない。一応監禁もされていないみたいだし、考えうる最悪の状況ではないことは確かだな。




 しかし…困ったぞ。


 記憶が何もない。僕が誰なのかも、わからない。










最後までお読みくださり、ありがとうございます。

Twitterにて、「海を走る列車」の世界を音楽でも表現していきたいと考えておりますので、そちらの方も是非ご覧ください。

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