第39話 二人を分かつ壁
次の日になった。
今日こそはと何度思ったか。結局行く勇気もなかったくせに。
けど...。今日は違う。もう迷いはない。
一歩ずつ、行きなれないD組校舎棟へと足を進める。道中、一歩を重ねるごとにその足は重たくなっていったが、それでも俺は進むことをやめない。
普段は用のない入り口をくぐり、知りもしないE組の誰かからの視線を一転に浴びながら、階段を上って、D組のフロアへ辿り着く。普通教室と特別教室とあるが、明かりがついていたのは特別教室のほうだったので、俺は迷わずそちらへ向かう。
ドアは閉まっていた。しかし、中に人の気配を感じる。
おそるおそる気づかれないように中を覗く。
そこに彼女は、瀬野美春はいた。
ただ一人キャンパスへ向かい筆を立て、首を傾げ、納得いかないからまた一からやり直す。その繰り返しを俺はただ見ていた。
そのひたむきな姿勢に心臓の鼓動が早くなる。俺は今からこんなすごいやつと話さなければいけないわけだ。少々どころでなく気がひける。
それに...状況が状況だ。
「出て行って」
なんていわれればそれまで、もうそこに俺がいる必要がなくなる。
けど、進む勇気は貰ったから、そこにどんな結果が待っていようと俺はもう進める。
俺は一度深く深呼吸をして部屋の引き戸を開けた。迷いを生んでしまいそうなら、中途半端なノックなどいらない。
「誰? ...って」
美春は筆を持っていた手を止め、不機嫌そうにこちらを振り向き、そのまま声を失う。俺はその場でただ背を伸ばして立っていた。
「...」
何か伝えなきゃ行けないのに、言葉が出てこない。伝えようとしてたのに、いざ目の前に現われるとその形を失ってしまって。
伝えたいことを、伝える。
いつか同じような光景があったかもしれない。それはいつだっただろうか。
...いや、そんなことを言わなくてもちゃんと覚えている。それは河佐に告白したときのことだ。
あのときの俺は、何を言ってたんだろうか。なんでああもはっきりと言葉を伝えることが出来たんだろうか?
自分の気持ちに嘘偽りがなかったからかもしれない。...けれど、今から伝えようとしていることだって嘘偽りのない言葉だ。
じゃあ何で出てこない?目の前に大切な人がいるのに。
くそっ、考えてもキリがねえ。
俺はそのじれったさから考えることをやめた。ただそのまま、気持ちの丈を伝える。それで前に美春を傷つけていたことを覚えていながらも。
「...その、なんだ」
「なんで、こんなところに来たの...?」
俺の言葉と美春の言葉がかぶる。押し負けたのは俺のほうだった。
「なんで、...か」
「あんなに冷たくあしらってさ、何で今更私の元に来るの...? いいんだよ? もう放っておいてくれても。私ももう、葵みたいにだめになるかもしれないってのに」
「それ...はっ」
一言一言美春が自分を傷つけるたびに、俺の心が傷つくのを感じた。きっと俺では抱えきれないほどの痛みを美春は抱えていた。誰にも打ち明けることも出来ずに、一人で抱えて、膨らませて。
どれほど辛かっただろうか。苦しかっただろうか。
ただ、俺はそれを同情の目で見ることは許されない。俺もその加害者の一人なのだから。
だから、俺に今出来るとすれば。
「...ごめん、美春...! 俺は...俺は...!」
手を地面について、ひざを地面につけて、頭を地面につける。どこまでも深く、醜い男の土下座だった。
「...何で。もう遅いよ...。あんな事言ってさ...。謝ったって...許せるわけ...」
次第に声が上ずっていく。俺は頭を下げたままだが、泣いているのが分かった。
「それでも、謝らないわけには行かねえんだよ...! 俺はお前にひどいことを言った。お前が苦しんでるのも知らずに、頑張ってるのも知らずに...。こんな謝罪じゃ罪は償えないって知ってる。けど...お前に何も伝えないまま終わるなんて許せないんだよ...!」
「...ならさ、一言だけ...言わせてよ」
消え入りそうな美春の声が俺の耳の中に入ってくる。もちろん、それを拒否せずにはいたらなかった。
「何でも言ってくれ。...全て受け止めるから」
「...うん。だからさ、まず顔を上げて...。」
俺は言われるがままに顔を上げる。そこには目を真っ赤に腫らし、今もなお涙を流している美春がいた。
「...バカ、...バカ! バカ!! なんであの時、それを言ってくれなかったの!? 私はただ、分かってもらいたかっただけなのに...! 同じことで心を病んだ悠くんなら、分かってくれると信じてたのに...」
必死に言葉を搾り出して、美春は叫ぶ。誰が聴いていようと気にしないくらいに、あの時以上に、美春は自分の胸のうちを吐き出した。
俺はただそれを瞑目して聞く。今なら、あの日の美春の気持ちも、言葉もよく分かる。その一言一句が胸に刺さる。突き刺す。穿つ。けれどそんな痛みでさえ、美春の痛みには届かないと知っているから、俺はただ黙って美春の話を聞いていた。
「...分かってたんだよ。こんなに嘆いても、葵が帰ってくるわけじゃないって。葵はもういないんだから...。それを受け入れなきゃ、前には進めない。...でも私は! そのために誰かに分かって欲しかったの...」
「ああ...。今なら、分かる」
こんなにかっこつけて言える台詞でもない。時期も遅すぎる。
それでも、伝えなきゃいけないから、伝えるんだ。
「...ねえ、悠くん。もう一回だけ、聞かせて...。悠くんは、葵のこと、忘れたりしないよね? ...前に進むとしても、明るい未来があっても、ちゃんと覚えたままでいるよね...?」
おそらくそれはあの日美春が伝えたかった本当の言葉。
俺はあの時、ちゃんとその意味を捉えることが出来なかった。
忘れる忘れない。それは、呪縛のようなものかと思っていた。
先に進むなら、それは断ち切るべきかもしれない。そう思ったから、俺は美春に冷たい言葉をぶつけた。
でも、多分これは呪縛なんかではない。
ずっと残る傷跡、痛みなんだと今なら思える。傷を重ねて人は強くなるなんて言葉が存在するその意味を、今になって再認識する。
「...それが美春にとって呪縛になるなら、それは忘れたほうが良いかもしれない」
「...そう」
「けど、それは美春自身が決めることだ。あの日のことが、次へ進むためへの糧なら、ずっと抱えていくべき痛みなら、忘れちゃだめだと思う。少なくとも...、俺は忘れない」
「...そっか。やっぱりそうだったんだね」
美春は悲しげに一度笑った。けど、その瞳の奥には決心が見える。そこから先は俺が口を出すべきところではないだろう。
ああ、でも...。
俺は伝えるべきことを伝えれたんだよな...?
ずっとためらってた。どうせ本心をちゃんと伝えてもダメなんじゃないかって。河佐のときがそうだった様に。
それがまさに呪縛となっていた。けれど、その認識が変わって、今なら言える。
これでよかった。
だからと言って真っ当に生きれるかなんて分からない。そこは変わらないかもしれない。でも、今はきっと、これでいい。
「ね、いつまで座ってるの?」
「あ?ああ、そうだな」
いつの間にかひざ立ちになっていたが、どうやら長いこと正座のような体勢だったため、足が尋常じゃなく痺れていた。そのため上手く起き上がれず、近くの机にガシャーンッと音を立てて突っ込んでいった。
「ウボァッ!」
「ちょっと!? 大丈夫!?」
「だ、大丈夫...」
ぶつけたところを抑えながら、ようやくまともに立ち上がった。
美春はいつの間にか涙を引っ込め、クスクスと笑っていた。本来なら恥ずかしいが、今ならこれも悪くはないか。
「...ごめんね、私のほうこそ。ずっと迷惑かけたままだったのに、もう一度向き合う勇気がなかったの...。なんて、そんな弱気な姿勢で生きていたら、きっと葵に叱られるんだろうなぁ」
美春はしみじみといつかを懐かしみながら天井を仰いだ。けれど、それはもう自虐なんかではないことを俺は知っている。
「さあな。ただ、昔から明るかったお前を知っている俺なら怒るかもしれないな」
「なによ、私だって今の悠くんには怒るところいっぱいなんだよ?」
「じゃ、痛みわけだな」
「うん」
そういってお互い笑い合う。
きっと今後も一筋縄ではいかない過去だろうけど、お互い前に進む術を知ってるなら、大丈夫だろう。
幼馴染だから、分かることもある。
幼馴染だから、分かち合えることがある。
それが分かってるなら、今は怖くない。
「それで、悠くんの本題は?」
「は?」
美春は平常の調子を取り戻したかと思えば、俺が予想してすらいなかった言葉を口にした。当然予想してたわけじゃないので驚く。
「は? じゃないでしょ。ただ仲直りしに来るくらいだったら、家にでも突撃してくればよかったじゃん。でも、わざにこっちを選んだってことは、何かもう一つ別の話があるんでしょ?」
「ええ...?」
その通りであって、その通りでなかった。
家凸にいたっては考えてはみたけど、もう高校生だし男女間だしということを考えると簡単には出来ないと思ってた。ええ...?いいんすか?(ニチャァ)
俺は流石に苦笑を浮かべるしかなかった。
「いや、元々美春が放課後にここにいると分かってたから、こっちを選んだんだけど...」
「そ、そう」
「でも、用事がないといったら嘘になります!」
「何それ。まあ、いいけど」
流石に美春も呆れ笑いを浮かべるしかなかったようだ。俺だってそうするもん。
「そのぅ...実は...」
---
「ふーん? 特監生ってそんなこともしてるんだ?」
「半ば強制ですけどな。しかも今回は生徒会が絡んでるし」
「高くん?」
「やめろカカシ、その術は俺に効く」
一通り説明を終えたが、どうやら美春は興味を示してくれたみたいだ。...特監生に。
「それで、宣伝が薄いって言われて、ポスターを製作するために絵をかける人が欲しくて、それで私のところに来たって訳だ」
「他当たれって言われても無理ですよ...。俺の人脈に期待されても困るんですけど」
「大丈夫、期待してない」
「うへぇ...」
即答だった。流石に傷つく。ぴえん。
でも、そういって茶化す美春だったが、表情の雲行きは怪しかった。
「...ねえ、悠くん。それ私でいいのかな?」
「というと?」
「ちはやちゃんが何か話してたらしってるかもしれないけど...。私、一部で期待はずれだとかなんか言われててさ。実際、クラスの中でも下のほう。そんな私でも任されていいのかなって」
そうだ。
美春は少なからずスランプの状態にある。それは紛れもなくあの日から。
簡単に言えば俺と同じ状況だろう。俺はスランプって訳じゃないけど。
でも、一緒なら、変わるきっかけが一緒でも良いんじゃないか?
そう思って俺は真っ直ぐ美春のほうを向いた。
「いや、美春に頼みたい。これは代わりがいないからとかじゃない。俺が美春に期待してるから。やってくれるって信じてるから、お願いするんだ」
「...そ、そう」
どうやら気おされたのか、美春は俯く。けど、そんなのは一瞬で、自信が湧いたのか美春は明るい表情を浮かべた。
「...分かった。その仕事、瀬野美春が引き受けます。期限はいつ?」
「感謝します。...えっと、期限は来週月曜日ですかね」
「来週月曜ぅ?」
「ダメですかね?」
「上等。休日返上でやってやろうじゃない」
「おぉ...なんて頼もしい」
スイッチが入った状態の美春は止められないことを俺は知っている。
小学校の頃とか、ずっと見てたしな。だから。
「それじゃ、頼むよ」
「あい。任せて!」
俺はもう一度、両の手で美春の手を握った。
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