第40話 違う私
いつもと違う場所にいると、普段考えもしないことを考えてしまう。
私は自分のベッドに寝ころびながら、今までに起こった出来事を思い出していた。
去年まで、私は先輩が女性と話しているところを見たことなかった。
会社に来れば仕事を淡々とこなすだけで、だから社内でも目立つ人じゃなかったし、話すのは同じ部署の人だけだった。
でも、四月になるとすぐに先輩に変化があった。去年までは身だしなみに無頓着で仕事第一だった先輩がシャツにアイロンをかけ、ひげを毎日剃って出勤するようになった。それに普段は外食か社食だったのに、弁当を作ってもらったといいながら弁当を見せてきた時の衝撃は忘れない。
先輩をずっと見てきた私は、先輩の大きな変化に無意識のうちに焦っていた。いつもと違う。先輩が遠くに行ってしまうかもしれないと。
それで慣れない誘惑なんてして、先輩には迷惑をかけた。
次の日の朝、私の嫌な予感が的中。先輩に彼女ができていた。隣の部屋に引っ越してきた大学生だという。
この日から私の気持ちは大きく揺らいでいった。
最初のうちはなんだかんだすぐ別れてしまうだろうと。二人はかなり歳が離れていたし、相手が大学生ならすぐ他の男の子に浮気してしまうだろうという淡い期待を抱いていた。
しかし、ひなたちゃんに出会って、先輩と三人で一緒にご飯を食べたときに悟った。彼らの間に少しの溝もなく、故に私が付け入る隙なんて存在しなかった。先輩にとって私はただの後輩としか思われていないだろう。
今考えると、あそこまで見せつけられても、自分の立場を理解しながらも、毎日先輩といつも通りの会話を交わして笑いあっている自分を、心底不思議に思った。
学生の頃の私なら、好きな人に振られたりでもしたら、数カ月その人とは話せなくなっていたのに、なんで今の私はあたかも何もなかったかのように、自分の心の傷を無視できるようになっていたのだろう。
こうして部屋でしばらく一人で考えていると、東京では感じなくなっていた孤独感、寂寥感がどっと押し寄せる。隣にいてほしかった存在が遠くに行ってしまったと改めて認識した。
あの小さな部屋で日々を過ごす自分を思い出して、あっちの私を不気味に思い始めた。
あそこで生活している私は誰なのか。
私は終わりのない思考を無理やり中断し、ベッドから起き上がりクローゼットを開ける。私は青果店“サカキバラ”のエプロンを取り出し、慣れた手つきでそれを服の上から着る。店に立つために実家に帰るときはいつもラフな格好をしている。
エプロンを着て身だしなみを整え終わったら、玄関まで行って私用の黒長靴を取り出して履いた。年に数回しか着ないが、社会人になって成長も止まったからいつまでもジャストサイズだった。
「おまたせー。あ、お父さん。ただいま」
「おう、お帰り」
私が店に戻ると、そこに母の姿はなく、代わりに父が店に立っていた。
「お母さんは?」
「ちょっと出てくるって」
父は無口で感情が読みにくい上に、若いころから八百屋を手伝っていたため体格がいい。
そのため友人が少なく、明るいつねおじさんは数少ない友達の中でも深い付き合いだった。おじさんと年齢が近いため、こちらも帰る度に年齢を感じさせる。
毎日乱れることのない角刈りにも、白髪が増えている。
「……仕事はどうだ」
「まあ、普通だよ。」
「そうか」
父はあまり私に干渉してこない。父は祖父母からこの八百屋を継いだが、私は父に『好きにしろ』と言われた。だから上京したのだ。
仕事はつらくない。別にパワハラとかもないし、残業もあって辛い日はあるが、それも先輩が手伝ってくれる。
そう、先輩と……
「こんにちはー」
よく聞きなれていた、男の中では高くによく通る声が店先から聞こえた。
「修斗……」
振り返ると、しばらく会ってなかった修斗が、子供のころから全く変わらない無垢な笑みを浮かべこちらに歩いてくる。体格はおじさんに反してひょろりとしていて、かなり背が高くなっていた。今では私より頭一個半分高い。
「久しぶりだな!お父さんがあいが帰ってきたーってにこにこしながら帰ってきて驚いてきちゃった」
「うん……そうなんだ、仕事は休みなの?」
「あー……ちょっとね」
修斗はそういうと、ばつが悪そうに顔をしかめた。
「今からどこか話に行かない?」
「え、いや今から……」
「あらいいじゃない。修斗くんと話してきなさいよ、久しぶりなんでしょ?」
二人で話しているつもりが、いつの間にか母が店に戻ってきていた
「今はお客さんも少ないし、ゆっくりしてらっしゃい」
「ほら、お母さんもそう言ってるし」
「え、いやちょっ…」
「じゃあ外で待ってる!」
そういうと、修斗はそそくさと店を出て行ってしまった。
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