全ては尊き愛のために

おちょぼ

第1話

 冒険者養成学園のDクラス落ちこぼれ、バビルサは死にかけていた。暗く湿った洞窟ダンジョンの壁に寄りかかり、重い息を吐く。正面からは舌なめずりをした小鬼が、醜悪な顔をさらに喜悦で歪め、じりじりとにじり寄って来ている。絶望的な現実から目を背けるように視線を落とすと太ももに突き刺さった矢が見えた。足を潰された以上、走って逃げることもできない。絶望的な状況に、バビルサは視界が暗くなるのを感じた。


(……油断した)


 慣れこそが一番の敵である、とは誰の言葉だったか。万年Dクラスとはいえ、バビルサはもう三年はこのダンジョンに潜っている。その慣れがバビルサに一人でダンジョンに潜るという愚行を行わせた。


(恥ずかしがらずに皆に頼めば良かったな)


 バビルサは右手に持ったロケットペンダントを開いた。中には実家の家族と一緒に撮った記念写真が入っている。これを迷宮内に落としたことに気づき一人迷宮に入り、そして運良くペンダントを見つけ周囲への警戒を怠ったところを攻撃された。とはいえ、家族の写真をお守り代わりに身につけている者など珍しくはない。ではなぜバビルサは恥ずかしがったのか。


(こんなもん、見せられるかよ……。万が一にも)


 家族の写真の入った所を上にはね上げると、そこにはとある女性の写真があった。マーシャ・ルアーナ。バビルサの片思い相手である。学園のAクラスエリートであり、今代の学園最強と噂される人物だ。氷の魔術を自在に操り、十四歳ながら大人顔負けの戦闘力を持っている。既に大手の冒険者クランからスカウトされているという噂だ。


 それは一目惚れだった。

 学園の入学式、緊張で膝を震わしていた時、壇上で堂々と宣誓をする姿に目を奪われた。そのまま惚け続け、気づいたら入学式は終わっていた。その日からずっと彼女に近づけるように努力し続けてきた。だが努力すればするほど、その差が隔絶していることがわかってしまった。

 剣の腕も、魔術の才能も、一向に上達しない。実家はただの農家で特別裕福なわけでもないし、容姿は下の上よりの上の下。彼には人より優れているという点が見つからなかった。

 だが彼は諦められなかった。その諦めの悪さだけは人より優れていたかもしれない。その諦めの悪さが今自身の命を奪おうとしているようでは笑い話にもならないが。


 ふと、目眩がして体に力が入らなくなった。体が血溜まりの中に落ちて血をはね上げる。どうやら太ももに突き刺さった矢が太い血管を傷つけていたようだ。致命的な程に血を失ってしまっていることにバビルサは遅まきながら気づいた。


(なるほど、小鬼どもはこれを待ってたのか)


 野生の獣は手負いの獣の恐ろしさを知っている。下手に反撃されてダメージを負うより、致命傷を与えたなら、獲物の体力が無くなるのを大人しく待っている方が合理的だ。


(ここまでか……)


 最早座ることすら苦痛で、バビルサは血溜まりの中に倒れ込んだ。生暖かい血が彼の半身をじっとりと濡らす。霞んだ目に、小鬼が嬉しそうに飛び跳ねながら近づいてくるのが映ったが、もはやどうでもよかった。

 死の間際に思うのは、やはり想い人のことだ。きっと彼女はバビルサの事など知りもしない。ここで彼女を想う一人の男が、独り死んでいくことも。それはとても寂しいことのように感じた。せめて知って欲しい。彼女に想いを伝えたい。

 そしてあわよくば


(彼女とほんの少しの間でも、付き合いたかった)


 ○


『その願い、聞き届けました』

「!?」


 気づけばバビルサは真っ白い空間に立っていた。何もかもが白いせいで上下の感覚が掴めない。自身が本当に立っているのか、それとも浮いているのかも分からなかった。


「なんだここは……。これが天国という奴か?」

『いいえ。ここは貴方の精神世界。貴方の命は風前の灯火ではありますが、まだ生きています』

「誰だ!?」


 脳裏に直接響くような声。バビルサは周囲に目をやるが、声の主は見当たらない。


『私は愛と運命の女神ディーテ。貴方の分不相応な想いと知りながらも諦めない姿勢に惚れました』

「はあ?」


 姿の見えない者からの突然の告白に思わずバビルサの口から素っ頓狂な声が飛び出た。余りの事に理解が追いつかない。


『今の私は想いの果てに願いを叶える純愛が見たい気分なのです。そこで貴方には愛と運命の使徒として私のための物語を紡いでもらいます』

「すまん。愛と運命の女神ディーテ、様だっけ? 俺は頭が悪いからな。もう少し分かりやすく説明してくれねぇか?」

『貴方の片想い、私が叶えさせて差しあげると言っているのです』

「本当か!?」


 バビルサは余り信心深い方ではない。たが、ことこの様な状況にでもなれば、まさしく神にも縋りたくもなる。


『ええ、ですがどうしましょうか。分不相応な望みを叶えるには代償がいる。しかし貴方には武力も無ければ知力も、権力も、財力もない』

「うっ。それはそうだが。だが、それでも俺は」

『ならば燃やしなさい、その命を。空っぽの命でも、燃やし尽くせば天にも届きましょう。全ては、尊き愛のために』


 ○


「ぎきぃいいぃい!」


 耳障りな声に、バビルサは目を開いた。太ももに走る激痛が、これが現実だと教えてくれる。どうやら一瞬気を失っていたようだと気づく。妙な夢を見ていたような気がした。だが右手の甲に浮かぶ紋様と数字が、先程の夢がただの夢でない事を証明する。

 ノロノロと体を起こす。獲物が力尽きたとばかり思っていた小鬼達が驚き警戒しだした。だがバビルサにとってはその慎重さがありがたい。

 バビルサは座ったまま、頼りない手つきで剣を抜く。


「全ては……尊き愛のために」


 その言葉に応えるように剣が燃え上がる。眩いばかりの光を放つその炎は、ただの炎ではない。バビルサの命そのものを燃料にした、命の炎である。


「ぎぃぎゃぎゃぎゃぎゃ!」


 小鬼が今更ながら危険を察知したようで、バビルサにトドメを指すために矢を放った。だがその矢が到達するよりも前にバビルサは剣を振っている。

 無造作に振り下ろされた炎の剣は炎の嵐を巻き起こした。炎は向かいくる矢を焼き付くし、ゴブリン達を逃げる暇すら与えずに消し炭にした。そのまま通路を焼き払い進む炎の嵐は突き当たりの壁にぶち当たり、ダンジョン中に響き渡るような爆発音を轟かした。


「……想像以上、だな」


 ともかくこれで目前の危機は脱せた。だが命の危機なのは変わらない。今すぐ治療をしなければ、どちらにしろバビルサは死ぬだろう。

 仕方なくバビルサがもう一度『力』を使おうとした時だった。


「おいおい、今コッチで凄い音したよな?」

「ねえやめようよ。危ないって」

「あれ? あそこ、誰かいる?」


 どうやら別の冒険者グループらしい。怪我の功名というべきか、先程の爆発音が彼らを呼んだようだ。

 何とか助かった。その事を理解した途端、バビルサの意識は今度こそ闇の中に落ちた。


 〇


 広々とした修練場の隅で、バビルサは体の調子を確かめるように剣を振るう。魔法技術の発展というのは素晴らしいもので、生死をさ迷うような怪我を負っても、数日あればこうして運動出来る程には快復していた。


「ふう、こんなもんか」


 バビルサは額に浮かぶ汗を拭うと壁際に腰を下ろした。体の調子は万全で、今からダンジョン探索に行ってもいいと思えるほどだ。だがそれはまだ早い。体は万全でも準備は万全ではないのだ。

 バビルサは右手に嵌めた小手を外すと、そこに浮かび上がっているハート型の紋様と、その中に書かれた10172という数字を眺めた。これはバビルサが愛と運命の使徒とやらに選ばれた証だ。

 この世界には使徒と呼ばれる存在がいる。彼らは神々に見初められ、それぞれの使命の下に神の権能を振るうのだという。バビルサは今までそのような存在を物語や噂の中でしか知らなかったので、遠い世界の話だと思っていた。いざなってみると、なかなか実感の湧かないものだ。

 神から賜ったその『力』。不思議な事に使い方は理解していた。バビルサは紋様に意識を集中すると、『力』を発動させるための祝詞を紡いだ。


「全ては尊き愛のために」


 すると掌の上に小さな炎が生まれた。煌々とした光を放つそれは、不思議と熱さは感じない。バビルサはその炎を訓練用のカカシに向かって投げつける。炎は腹の奥に響くような重低音を奏でながら爆発し、カカシをバラバラに破壊した。カカシとはいえ、魔法の的にもされる、そこそこ頑丈な代物だ。それをあんなにも手軽に、しかも完全に破壊してしまったことに、バビルサは興奮とも恐怖とも言えぬ、不可思議な情動を抱いた。

 ともかく新たに得たこの力はとんでもない物だ。この『力』をうまく使いこなせれば一気にAクラスエリートに入ることもできるかもしれない。だが力には代償がつきまとう。当然、バビルサの『力』にも。

 バビルサは再び右手の甲の数字を見た。そこの数字は10098となっている。先程は10172だったから、74の減少だ。ココに書かれている数字はバビルサの寿命である。そして『力』を使う度にその数字は減っていく。この『力』はバビルサの命を燃料に燃え上がる。要は命の前借りだ。

『ならば燃やしなさい、その命を。空っぽの命でも、燃やし尽くせば天にも届きましょう。全ては、尊き愛のために』

 バビルサの脳裏に女神の言葉が蘇る。


「まったく、意地の悪い神もいたもんだ」


 バビルサは舌打ちを一つ打つと、近くに落ちていた石ころをカカシに向けて投げつけた。想いを叶えるため、という甘い言葉で人に力を与え、肝心のその力は自身の命を犠牲に発動するのだ。バビルサには女神というより悪魔のやり口のように思えて仕方なかった。


『流石の私も、その言い様には黙っていられませんね』

「なっ!?」


 再び聞こえてくる、脳裏に直接響く声。それは間違いなくあの愛と運命の女神の声であり、バビルサは思考を読まれたような感覚に心臓が飛び出そうになった。


「いたのかよ。盗み聞きとは性格悪いんじゃないか」

『神はこの世界のどこにもいませんが、どこにでもいるのです』

「よくわかんねえな。まあ命の恩人の悪口はいけねえか、悪かったよ、女神サマ。」

『親愛と敬愛を込めてディーテ様、で良いですよ。まあ今回はそのような事を言いに来たのでは無く、その『力』に関する注意点を伝えに来たのです』

「注意点? 」


 力の代償がバビルサ自身の命であることはもう理解している。そのことは女神も知っているだろう。つまり、それ以外にも気をつけなければならない事があるのだ。バビルサの心に微かな不安が湧き出た。


『その『力』は貴方の『諦めない心』を見込んで授けました。もしも貴方がその想いを諦めるような事があれば……その『力』は天罰と化し貴方自身を焼き尽くすでしょう』

「……なるほど」


 つまり自身の命惜しさにマーシャ・ルアーナへの想いを諦めることは許さない、という事だ。

 初めから選択肢の無い状況で力を与え、同時に退路を断っておいてある、と。

 やはりこの女神実は悪魔なんじゃないか? とバビルサは思わずにはいられない。

 だが……。


『? 思ったより落ち着いていますね』

「当たり前だ。やたら勿体ぶって言ってくるからどんな事かと思ったが、なんてこたぁない。元より俺はマーシャさんを諦めるつもりはないんでね。そんだけさ」

『ふふ、それでこそ『力』を与えた甲斐があるというものです。それでは今日はこの辺でお暇するとしましょう。愛に努めなさい、わが使徒よ。頑張りによっては、私自ら宣託を授けるかも知れませんよ』


 その声を最後に、ディーテの気配は消えた。バビルサは立ち上がると、再び剣を構える。今すべきなのはこの『力』を使いこなし、実戦に使えるようにする事。『力』に使われているようではダメだ。『力』を御し、自分の物に。その感覚を掴むため、バビルサは再び鍛錬に没頭し始めた。


 〇


 暗く湿っぽいダンジョン内に、剣戟の音が響き渡る。伽藍とした空間で舞うのは二つの影。

 一方は見上げるほどに大きな石の巨人。たかが石と侮るなかれ。魔力によって形作られたその身はナマクラなどでは傷一つつかない。

 相対するのは炎を纏う少年――バビルサだ。だがその体躯は巨人の三分の一ほど。巨人と比べるといささか頼りない。

 それにも関わらず戦闘は終始バビルサの優勢だった。素早い身のこなしで動き回り、鈍重な石の巨人を翻弄している。


「ぐおぉぉおおおぉおおおっっっ!!!!」


 自身が小人に一方的にやられている事に耐えられなかったのか。やがて巨人は怒りを露わにするように吼えると、拳を地面に叩きつけた。すると某かの魔術によるものか、地面が爆ぜる。巨人を翻弄していた少年もこれには堪らず後ろに下がる。


「ふんががっ! がんががぁぁあああぁぁあっ!!」


 巨人はその隙を逃さぬとばかりに吼えると、地面に浮かび上がった魔法陣から幾本もの石の槍を打ち出した。体勢の整っていないバビルサにそれを避ける術はない。そこで勝負は決する。通常ならば。


「全ては尊き愛のために」


 バビルサがぼそりと唱えると、少年に迫っていた石の槍が爆発した。粉塵が舞い上がり、空間を埋めつくす。視界を遮られた巨人は、粉塵を払うように腕を振るい、少年のことを探そうと足を踏み出す。


「が?」


 しかしまるで階段を踏み外したかのような感覚と共に、巨人の体が地に倒れた。重苦しい重低音が地底に響く。何が起きたのか理解できない様子の巨人だったが、何はともあれ起き上がろうと腕を動かそうとした。

 だが、動かない。否、無いのだ。

 既に巨人の四肢はその身から切り落とされていた。


「がががっ! ががああぁぁああぁっ!」

「やれやれ。まだ生きてるのか。石の巨人ってのはどうしたら死ぬんかね。とりあえず、頭でも吹き飛ばそうか」


 その咆哮は悲鳴か、哀願か。もっとも、少年に石の感情は分からないので気にする事も無かったが。

 バビルサは達磨となった巨人の口に剣を差し込む。


「全ては尊き愛のために」


 〇


 バビルサはその日、ひどく上機嫌だった。普段は行かないようなお洒落なカフェテリアのオープンテラスで、鼻歌を歌いながら紅茶を飲んでいる。そして時折右手に持った紙を見ては、喜びを堪えきれないといった様子で笑みを零していた。

 その紙にはこう書かれている。【バビルサのBクラス昇級を認める】


『順調なようですね、わが使徒よ。しかし往来で一人微笑むのは、愛らしすぎて人目を引いてしまいますよ』

「人前でニヤケて奇異の視線を集めてる、の間違いだろ。これに独り言まで追加したら頭のおかしい奴認定されちまう。ほっといてくれ。今はこの喜びに浸ってたいんだ」


 バビルサは小声でそう言うと、また一口紅茶を飲んだ。爽やかな香りが鼻腔をくすぐり、晴れやかな気分を後押ししてくれる。

 バビルサは順調に冒険者養成学園でのクラスを上げていた。学園での授業や実習などはクラス単位で行われる。そして生徒同士の交流はクラス内がほとんどで、それ以外は皆無と言っても良い。つまり、バビルサがマーシャ・ルアーナと知り合うには、彼女と同じAクラスに入るしか無いのだ。


「あと少しで彼女と肩を並べられるようになる。そこがスタートラインだ。俺の真の戦いはそこから始まる」

『ふふ、熱心なようで何よりです。おや、噂をすれば影ですね』


 ざわり、と周囲が突然浮き足立った。何事かとバビルサも周囲を見渡し、そして固まった。

 悠然と歩みを進めるのは銀の髪をなびかせる少女だ。まるで氷のような冷たささえ感じる美貌は人目を引くが、彼女が人目を引いているのはそれだけが原因ではない。彼女こそが学園歴代最強と噂されるマーシャ・ルアーナである。

 周囲からは羨望や好意の視線とともに、様々な噂話も飛び交っている。


「見て見て、マーシャ様よ。はぁ、今日もお美しいですわ」

「知ってる? 今度マーシャ様達のチーム、前人未到のSクラスの昇級に挑戦するそうよ」

「まあホント!? 流石はマーシャお姉様ですわぁ。強く、気高く、美しく。まさに私の理想ですわ。……お近づきになりたい」

(まじか……)


 その噂を聞いたバビルサは衝撃を受けた。Sクラスという物があるのはバビルサも知っていた。だが学園の長い歴史の中で、その高すぎるハードルを超えられた者はおろか、挑戦する者すら存在しなかったのだ。そのせいで半ば伝説と化し、形式上のクラスとなっている。だが彼女のチームが挑戦すると聞けば、不思議と本当の事だと信じられてしまった。

 自分が一歩近づけば、彼女達は三歩も四歩も先に進む。進んでも進んでもゴールが遠のいていく感覚に、バビルサは目眩がしそうだった。


(いや、それでこそ、か)


 彼女程の人物が、自分が追いつくのを待ってくれる訳が無い。彼女の隣に立つとはそういうことなのだ。バビルサは頬を叩くと、最近の成果に弛んでいた自身を戒めた。


『ふふふ。素晴らしいですよ。その諦めない心。やはり貴方を選んでよかった』

「そうかい。だったらもっと使い易い能力にしてくれたら良かったんだけど……あ」


 バビルサの言葉が途中で止まり、視線が釘付けになる。バビルサのその視線の先では、金の髪を持つ優雅な優男がマーシャに親しげに話しかけていた。マーシャもまた、その氷のような無表情は崩さないながらも、親しげに言葉を交わしている。

 男の名はオージ・キングダム。学園においてマーシャに次ぐ実力を持つと言われる男であり、マーシャのチームのサブリーダーである。その爽やかで優美な笑みは、あらゆる淑女のハートを射止める。噂では何処かの王族で、身分を隠して学園に来ているらしい。武力、権力、財力、そして顔。バビルサが持ってないあらゆるモノを兼ね備えた男だ。

 知らず知らず、バビルサの目に敵愾心が宿る。


『嫉妬。それもまた愛の現れ。愛らしいですね』

「うるさい」


 バビルサは頭を振って心奥から湧いた嫉妬をかき消した。嫉妬などというものは非建設的だ。そんな事をしている暇があったら、それを得られるように努力すべきだ、というのがバビルサの考えである。


『ふふ、そう卑下するものでもありませんよ。そうだ。頑張っている使徒のために私が一肌脱いであげましょうか?』

「なんだと?」

『今から少し運命を弄って、あの二人が物陰に入ったところを暴漢に扮した暗殺者が襲いかかります。抵抗虚しく蹂躙され、あわや殺されそうになる二人。しかしそこに乱入するは炎を纏いし少年。圧倒的な力で暗殺者を撃退した少年は名乗りを上げます。するとその時点で運命が決定しフラグが立ち、氷の少女と炎の少年は結ばれ』

「やめてくれ」


 バビルサはディーテの熱の入った宣託を、断ち切るように突っぱねた。そして聞きたくないと言わんばかりに首を振る。


『おや、どうしてですか? この方法なら確実に、しかも今すぐ彼女と結ばれるというのに』

「俺は彼女を傷つけたくないってだけだ。彼女を手に入れるために、彼女を悲しませるようじゃ、恋人失格だろ。そんなマッチポンプみたいな真似しなくても、少しずつ近づいていくさ。それに……」


 バビルサはかつてのディーテの言葉を思い出す。


「『分不相応な望みを叶えるには代償がいる』だったか。どうせそれをやるには、また代償が必要なんだろ?」

『ふふ、よく分かりましたね。具体的には貴方の寿命を5000日ほど貰う予定でした』


 バビルサは右手の甲の数字に目をやった。そこには7069と記されている。あの提案にのっていたら残りの寿命の三分の二以上を持っていかれていたという事実にバビルサの背筋に寒い物が走った。


「やっぱりあんた、意地が悪いな。女神廃業して悪魔やった方が良いと思うぜ」

『ふふ、物語の綴り手というのはイジワルなモノなのです。聞き手の気を惹きたい、もっと興味を持ってほしい、もっと私(さくひん)を見て。ふふふふ。綴り手というのは片想いに似ている。そう考えると愛おしくは感じませんか?』

「はっ、剣しか知らない俺には理解できないな」


 気づけばマーシャとオージの二人は何処かに去っていた。バビルサもこうしては居られないと席を立つ。自身が休んでいる間にも彼らは先に進んでいる。バビルサは剣をとると、修練場へと足を向けた。


 〇


 修練の祠。それがそのダンジョンの名前だ。このダンジョンは学園のクラスを決定するのに使われている。入学したてはDクラス、10階層をクリアすることでCクラスに昇級でき、以降10階層ごとにクラスが上がっていく。先日バビルサは20階層のボス、『石造りの巨兵』を倒したことでBクラスに上がった。今回は30階層のボスを倒しAクラスに上がるためにダンジョンに潜っている。


「ふう、さすがに、一人でやるのは、キツイな」


 バビルサは寄っていた魔物達を殲滅すると、額に浮かぶ汗を拭って腰をおろした。いかに強力な『力』を持っていても、人間である以上疲労からは逃れられない。そもそもダンジョンは本来一人で挑むようなものではないのだ。ダンジョン探索というのは日帰りでは終わらないことも多い。そのような場合は食料や水を持ち運ぶ必要がある。たがそれらは戦闘においては邪魔になるだけだ。だからそういう物を持ち運ぶ専門の人が必要とされる場合が多い。他にも多対一の戦闘は圧倒的に不利であるとか、野宿時の見張り交代など、ダンジョン探索において多人数が向いている理由はたくさんあるが、バビルサはそれらを全て『力』による力押しで解決していた。バビルサの『力』は単純に炎を出して爆発させるだけでなく、身体能力の強化や回復にも使うことができる。それらにも寿命を使うことになるので注意が必要だが。


「まあAクラスに上がったら、新しいチームを探すとするか」


 バビルサが『力』を得てから新しいチームメイトを探さなかったのは理由がある。偏に『力』が強すぎるのだ。あまりに隔絶した力は逆に和を乱す。おそらくDクラスどころかCクラスやBクラスの生徒でもマトモな連携などとれないだろう。足でまといになる可能性のある者を連れていくよりは、自分の事にだけ意識を集中した方が良い。


「まあいい。それは先の事だ。今は目の前の事を考えるとしようか」


 バビルサは充分に休んで体の調子を確認すると立ち上がり、目の前の巨大な扉に手をかざす。すると扉はいかなる力によってか、勝手に開いていく。その先に悠然と佇むのは巨大なサソリだ。だが明確にサソリと違うのは、尾の先がドラゴンの頭になっている事だ。この歪な生物こそが30階層のボス、『ドラゴンキメラ・サジタリウス』だ。

 サソリはバビルサの姿を確認すると、ハサミと尾を振り上げ、音とも声ともとれぬ耳障りな警戒音を撒き散らした。


「さあ、全ては尊き愛のために」


 〇


 戦闘は拮抗していた。サソリの外骨格は硬く、易々とバビルサの刃や爆発の衝撃を通さない。真っ向からハサミに立ち向かえば尾のドラゴンが毒液を吐いてくる。速さで翻弄しようにも、ドラゴンの頭が常に戦闘を俯瞰しているせいで直ぐに捕捉してきた。距離をとれば魔術による遠隔攻撃。相手は一体なのに、まるで複数の敵を同時に相手しているようなやりづらさがあった。


(くそ、決め手にかける……)


 想像以上に守りの硬い相手に攻めあぐねる。何か、あと一歩が足りなかった。


(ギアを上げるか? いや、でも土壇場でいけるか?)


 バビルサは戦闘中、消費する寿命の速さを10倍にして身体能力を上げている。それ以上は試したが、体の速度に意識が着いてこれず、危険だったのでやっていない。だが突破口の見当たらないこの戦いで均衡を崩すにはそれしか無いように思えた。


「しょうがねぇ、やってやるさ。いくぞ、全ては尊、き?」


 突然膝に力が入らなくなり、バビルサの体勢が崩れる。動きの止まったバビルサをサソリが見逃すはずがなく、鉄球のようなハサミに薙ぎ払われ地面に転がされた。


「かはっ、なんだこれ。体に……力が」


 体を起こそうとした腕が震える。体が鉛のように重くなり、激しい目眩がバビルサを襲った。明らかに打撃を受けたことだけが原因ではない。


「まさか……毒の効果か!」


 ドラゴンの頭が吐き出した毒液が気化し、部屋に充満した毒が知らぬ間にバビルサの体を蝕んでいた。毒液を吐き、硬い外骨格で時間を稼ぎ、長期戦になった所を気化した毒で殺す。それがドラゴンキメラ・サジタリウスの狩りなのだ。


「キシャァァアァァァアァァァァアアア!」


 好機と見たサソリが突進してくる。バビルサは必死にそれを避けるが、その動きに精細はない。もはやバビルサは冒険者ではなく、ただの獲物だった。


(きっつ……。なんて厄介な奴だ)


 これ以上毒が回れば本当に動けなくなる。そうなる前に撤退しなければならない。バビルサがそう考えた時であった。


「あ、しまっ」


 サソリが振り下ろしたハサミを避けた時だ。毒により周囲の確認が疎かになったせいか、足元の小石につまずいてしまった。再び振り上げられたハサミを避ける術はない。バビルサの脳裏に死の一文字が浮かぶ。

 その時だ。

 閃光が走った。部屋が一瞬眩く光り、黄金の槍がサソリに当たる。


「ギシィィィイイイイイイッ!!」


 サソリの苦しげな悲鳴が響き、動きが止まる。バビルサには何が起きたのか分からなかった。だがサソリが致命的な隙を晒していることだけは分かった。


「うぉぉおおおっ!」


 バビルサは残された力を振り絞って立ち上がると、苦しげに開かれたサソリの大顎に燃え上がる剣を差し込んだ。


「全ては!尊き愛のために!」


 あらゆる音が遠のくほどの爆発。粉塵が晴れるとそこには半身が吹き飛んだサソリの死体があった。ドラゴンの頭部も力なく横たわっており、確実に絶命したことがわかる。


「はぁ、はぁ、さすがに、中身までは、固くなかったようだな」


 やっとの思いで難敵を倒せたことにバビルサは胸を撫で下ろした。疲労から座りこもうとしたところで、辺りにまだ毒が充満しているかもしれない事に気づく。一息つく暇も無いことに辟易しながらも帰ろうと踵を返し……はたと立ち止まる。


「さっきの光、何だったんだ?」


 バビルサは必死だったので余り覚えていないが、何か光の槍のようなものがサソリを貫いていたような気がした。もちろんバビルサにはそんな力は無いし、そんな事ができる知り合いもいない。親切な通りすがりの冒険者が助けてくれたのだろうか。


「気になるな……確か奥の方から来てたよな」


 バビルサはダンジョンの奥、つまりは31階層の方へと足を向け、そして気づいた。


「ぐ、ぅぅぅ」


 サソリの尾の下に誰かが下敷きになっている。呻き声が聞こえることからどうやら生きているようだ。


「おいおい、いつの間にあんな所に入り込んだんだ?」


 少なくともバビルサが戦っている時は見当たらなかった。一体どんな手品かとバビルサは思ったが、助けないワケにもいかない。バビルサはサソリの尾を持ち上げて男を引きずり出した。

 男は頭をケガしているようで頭部が血に塗れていた。だがそれは大きい傷ではなく、特に致命傷となるような外傷も見当たらない。どうやら魔力切れにより気を失っているようである。

 バビルサが男を大部屋から運び出し少しの間看病していると、やがて男も目を覚ました。


「う、ここは……?」

「おお、やっと目覚ましたか。立てるかい? 俺もお疲れなんでな、歩けるようなら自分で歩いてくれ」


 バビルサがそう声をかけた時だった。男はバビルサの肩を強く掴むと、強ばった表情で懇願した。


「頼む。助けてくれ。このままでは彼女が危ないのだ」

「はあ? おいおいなんだよいきなり。ってアンタ、まさかオージ・キングダムか?」


 顔に血がついているから気づけなかったが、その男は間違いなくマーシャ・ルアーナのチームのサブリーダーであるオージ・キングダムだった。彼もまた類まれな力を持っている。それなのになぜこんな場所で血を流して倒れていたのか。そのことにバビルサは激しく嫌な予感がした。


「おい、まさかよ、彼女ってのはマーシャ・ルアーナのことか?」

「ああ、我々のチームは40階層のボスに敗北した。彼女は私たちを逃がすために囮に」

「ふざけんな! なんで彼女が残ってテメェが逃げてんだよ!」

「ただの適材適所だ。彼女の氷の魔術は足止めに適していた。そして私の雷の魔術は逃げる事に適していた。だから私が救援を呼ぶ役目に選ばれたのだ」

「そういう事聞きてぇんじゃねぇよ! クソが!」


 オージの言いたい事は理解はできた。だが納得はいかなかった。このような場面で合理的に考えられる冷静さも、マーシャを残しておきながら彼女の生存を疑わない信頼も。何もかもがバビルサの気に障った。


「チッ、もういい。地図持ってるだろ。貸せ、俺が行く」

「待ってくれ。私はしばらく魔力の回復を待たなければ動けない。申し訳ないが君には私の変わりに地上に助けを」

「うるせぇ」


 バビルサの体から炎が吹き上がる。もはやオージの言葉を待っていられなかった。心の奥底から湧き上がる衝動を止められない。


「全ては尊き愛のために」


 音を置き去りに、炎を振り撒き、バビルサは走り出す。思うことはただ一つ。愛する人の安否のみだ。


『ふふ、運命は決定しましたねフラグが立ちましたね。』

「なんだよ女神サマ。今忙しいんだ。後にしてくれ」


 バビルサは道を塞ぐ魔物を一刀の下に切り伏せながら答えた。本音を言えば口を動かす体力すら勿体なかったが、意地の悪い女神がこのような局面で声をかけてきたことに意味があるような気がして無視できなかった。


『まあそう邪険にしないでください。頑張る使徒に貴方の女神が託宣をくだして差し上げます。心して聞きなさい。よいですか、マーシャ・ルアーナは死の運命にあります』

「そうかい」

『ふふ、コレを聞いてなお諦めないのは賞賛に値します。安心してください。これは可能性の一つに過ぎません。もっともほぼ間違いなくこの運命へと収束するでしょうが』

「何が言いてぇ」

『マーシャ・ルアーナを死の運命から救い出せるのは貴方のみです。そしてその時こそマーシャ・ルアーナとわが使徒は結ばれます。この因果は既に確定しました。心してかかりなさい』

「……言われなくてもだ。なあ女神サマ。あんた運命の女神だったよな。もしかしてこの運命も最初から全部見えてたのか?」

『さてどうでしょう。ですが、一つ言えることは、私があの時貴方を救わなければマーシャ・ルアーナは確実に死ぬ運命にあったということです』

「そうか……。そういうことならまあ、一応感謝しとくぜ、親愛なるクソ女神」

『ふふ、人の心は複雑ですね。故にこそ面白いのですが。それでは愛に努めなさい。全ては尊き愛のために』


 その言葉を残してディーテの気配は消えていった。バビルサは脇目もふらず突き進む。この先にいるはずの想い人の下へ。


 〇


「はあ、はあ、オージ達は、ちゃんと逃げれたかしら」


 マーシャ・ルアーナは氷の壁を背にして息を吐いた。その身は至る所に出血の跡があり、凍らせることで無理矢理血を止めている。まさに満身創痍といった様相だ。オージには救援を呼ばせるという名目で先に逃げさせたが、実際の所マーシャは救援には期待していなかった。いくらオージが雷の速度で移動出来るとはいえ、救援に来る者たちはそうはいかないだろう。つまり、救援というのは生存者を増やすための方弁にすぎない。素直なオージは騙されてくれたが、真実を知った時オージは怒るだろうか。


「いえ、それより今は今のことね」


 今重要なのは、マーシャが地力で脱出しなければならない事だ。40階層のボスは想定以上に強かった。だが何よりの想定外は、ボスが大部屋を超えて追ってきた事だ。通常、階層のボスというのは縄張りとしている大部屋からは出てこない。その先入観が視野を狭めた。それが今回の失態の原因だ。


「それを活かす機会があるかはわからないけど」


 マーシャは言ってから、それが自身が死ぬかもしれないという後ろ向きな気持ちから来ていると気づき自分を戒めた。確かに体も魔力も限界かもしれない。だが心まで折れては助かるものも助からなくなる。


「大丈夫。上の階の階段までは後少し。そこまで行けばきっと」


 マーシャは自らの心にへばりつく黒いヘドロのような不安を振り払うように頭を振るう。


 ガリガリガリ、ガリガリガリガリ


「来た……」


 氷を削るような音が響く。奴らがマーシャを喰らうために邪魔な氷を掘り進んでいるのだ。マーシャは自身の中に意識を集中した。魔力はある程度は回復した。またこれで、少しは戦えるはずだ。


「いざ……っ!」


 マーシャは氷の壁を自ら解除した。その先にいたのは通路を埋め尽くすようにひしめく無数の蟻だ。だがもちろんただの蟻ではない。一匹一匹が大型犬ほどのサイズを持つ、巨大な蟻である。その大顎は鎌のように大きく、その脚は槍のように鋭い。蟻達はマーシャが出てきたのを見てとると、同時に触覚の先に魔法陣を浮かべ、攻撃魔法の準備を始めた。


「〖アイスフィールド〗!」


 だが易々とそんな事をさせるほど、学園一位はヤワではない。あらかじめ準備していた魔法が発動すると、通路が蟻たちごと凍りつき氷の回廊が出来上がった。


「今っ!」


 大規模魔術によりこじ開けた絶好の隙。その隙を逃さずマーシャは氷の回廊を駆け出した。脇道からマーシャに襲いかかろうとする蟻達を氷の壁で足止めし、多少の傷は無視して先へ。目指すのは上階へ繋がる階段のみ。上に行けば、行けさえすれば。その希望だけが彼女を動かす原動力だ。


「見えた……!」


 曲がり角を曲がった先に階段が見えた。もはや魔力は枯渇寸前、体も今すぐにでも気絶してしまいそうなほど消耗しているが、それら全てを強靭な精神力で押さえつける。幸い通路までの間に蟻の姿は無い。後ろから迫る蟻に気をつけて階段まで走るだけだ。


「はあ、はあ、はあ、やった! これで……」


 最後の力を振り絞り辿り着いた階段。さらに蟻の魔術の射程範囲から逃れるために階段を駆け上がる。


「はあ、はあ、これで、助かる。これで……これで…」


 階段を上がりながら、自身に言い聞かせるように繰り返す。だがなぜか、それでも彼女の心にへばりつく不安は晴れなかった。それはきっと彼女が優秀であるからだろう。心の何処かでは分かっていたのだ。


「こんなの……どうしろっていうのよ……」


 階段を上がった先に広がっていたのは蟻の海。ひしめきあう蟻たちの無機質な複眼がマーシャの事を捉えている。通常、ダンジョン内の魔物は階層を超えて移動しない。だが既に知っていたはずだ。この蟻たちに常識は通じないことは。ただ考えないようにしていたのだ。そうでなければ心が折れてしまうから。


「あは、あははは」


 なんだがおかしくなって、笑いだしてしまう。笑っているというのに涙は止まらない。自分がなぜ笑っているのか、泣いているのか、もはや彼女には分からなかった。


「もう……いっか」


 マーシャは糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちる。とうに体は限界、魔力も枯渇した。そしてそれらを支えてきた心もたった今折れた。

 ここに運命は定まった。彼女の生き残る可能性は0に等しく。マーシャ・ルアーナの人生は幕を下ろす。

 ……はずだった。


「邪魔だぁあああああああああああっ!」


 天地を揺るがすような爆発だった。爆心地にいた蟻は塵と化し、外れた蟻達も爆風や熱風で吹き飛ばされる。背後に吹き飛んでいく蟻たちを尻目にマーシャは呆然と見やった。クレーターの中心に立つ、炎を纏った少年を。

 少年はマーシャを見つけると顔を綻ばせた。そしてマーシャの手を取り言うのだ。


「マーシャ・ルアーナさん。貴方を助けに来ました」


 〇


 バビルサはひとまず安堵した。まだマーシャ・ルアーナが生きていたことに。だが憔悴しきった様子のマーシャを見て怒りが沸いた。想い人を泣かせた奴らに誅伐を下さねばと。

 周囲を見れば、あれだけ吹き飛ばしたにも関わらず再び蟻たちがひしめいていた。二人を囲うように円を作り、無機質な複眼で隙を伺っている。


「道を開けろ、蟻ども。言っておくが、今の俺は機嫌が悪いぞ」


 バビルサは炎を宿した剣で薙ぎ払う。炎の斬撃が飛び、触れた端から爆発していった。熱波は蟻を焼き、爆風は外骨格を歪にひしゃげさせ、衝撃は内臓を直接破壊した。だが減らない。減れば減った分だけ何処からか沸いて道を塞ぐ。どんなに仲間が死んでも機械的に動き続ける蟻の姿に、バビルサは気味の悪いモノを感じた。


「何なんだコイツら。微塵も減らねぇ」

「君、この蟻はいくら殺しても減らない。40階のボスが 際限なく生み出し続けているんだ。ここは強引に道をこじ開けて進むしかない」

「そうは言われましても」


 バビルサはチラリとマーシャの様子を確認した。体は酷く傷ついており、痛々しい傷も多い。バビルサとしても回復してやりたいが、周囲の蟻を追い払うのに手一杯で、そこまで手を回せない。魔力もまだ回復しきれていない様子。正直な所、この数の暴力の前で手負いのマーシャを庇いながら突破できるとは思えなかった。

 そんな思考が伝わってしまったのだろう。マーシャは一度顔を伏せると、にこりと、どこか痛々しい笑みを浮かべた。


「私なら大丈夫だ。正直、助けなんて来ないと思っていた。だが君は助けに来てくれた。私はそれだけで満足だ。だから君だけでも逃げなさい。何もここで、二人で死ぬ必要は無い」


 明らかに無理をしている、そんな事は一目瞭然だった。肩は震え、瞳は不安に揺れている。そこには普段の氷と評されるほどの冷静さも毅然さも無い。そんな気を使わせてしまった事にバビルサは、自身に対してふつふつと怒りが沸いてきた。


(不甲斐ない、情けない。好きな人にこんな表情をさせて、怖がらせて。俺が目指したのはそうじゃないだろ。俺はこの命を賭けてでも! マーシャさんと肩を並べられる人間になるって! そう誓っただろ!)

「まあ見てて下さいよ、マーシャさん。俺はこう見えても強いんですよ」


 バビルサは右手の甲の数字を確認する。残りの数字は4217。もはや後の事は考えない。これまでの事は今、この時のためにあったのだから。


「全ては──尊き愛のために」


 炎の嵐がバビルサとマーシャの二人を中心に巻き起こった。大地を紅蓮の炎が舐め尽くす。一瞬にして見渡す限りの焼け野原と化した広間には、蟻の姿は一つもない。一瞬にして消し炭になったのだ。


「はあ、はあ、行きましょうか、マーシャさん」

「あ、ああ」


 バビルサはマーシャを先導して歩き出す。呆気に取られた様子のマーシャもバビルサに連れられて歩き出した。

 ビシッ

 何かが軋む様な嫌な音がした。音は下から。何事かと眼を向けた二人が目にしたのは蜘蛛の巣状に亀裂の入った床だった。

 崩壊が始まる。


「マーシャさん!」

「ひゃっ!」


 肝の冷えるような浮遊感。咄嗟に反応できたバビルサがマーシャを抱き寄せると、マーシャは意外にも可愛らしい声を上げた。


「ぐ、大丈夫ですか?」

「え、ええ! 大丈夫! 何ともないわ!」


 力を発動させたおかげでバビルサは何とか対応できた。マーシャにも怪我は無いようで、バビルサはホッと胸を撫で下ろした。


「しかし、何がおきたんだ?」


 周囲の確認をしたいが、砂埃のせいで何も見えない。バビルサがいったん砂埃が晴れるまで様子を見ようとしたときだった。


「ギシィィイイイイッッ!!!」


 天地を揺るがすような、おぞましい金切り声。怪物の呻き。だがバビルサはその中に、明確な怒りを感じた。


「なるほどな。お子さん殺されてご立腹ってか」


 砂埃が晴れた先には山かと錯覚する程に巨大な女王蟻が鎮座していた。ガチ、ガチ、と大顎をかち鳴らし、二人のことを睥睨し怒りを顕にしている。異常なほど発達した腹部からに空いた無数の穴からは絶えず無数の蟻を生み出し続けている。


「だがよ。テメェ一つ勘違いしてるぜ。怒りでどうにかなっちまいそうなのはな、コッチの方なんだよなぁあっ!!!」


 巻き起こる炎の嵐。相対するのは蟻の濁流。命を命で削り合う戦いの始まりだった。


 〇


 おびただしい程の死骸の山、その頂きに立つのは炎を纏った少年だった。もはやこの空間で息をするのは少年と少女のみ。あれほど巨大で強大な女王蟻も、やがては炎の嵐の中に沈んだ。

 少年は一歩一歩確かな足取りで死骸の山を降りると、気が抜けてへたりこんでいる少女の下へと向かった。


「怪我は無いですか? マーシャさん」

「ええ、大丈夫よ。ありがとう」


 バビルサが右手を差し出すと、マーシャはその手を掴んで立ち上がった。


「そうだ、今更ながらなんだけど、君の名前を教えてくれない? 命の恩人の名前を知らないようじゃ末代までの恥だから」

「ええ、いいですよ。俺の名前は────」


 その時、ふとバビルサの目が右手の甲に止まった。それからバビルサはいささかの逡巡の後、静かに首を振った。


「いえ、俺は名乗る程の者ではないです」

「え? いやいや何を言っているの? 君は私の命の恩人で」


 バビルサが尚も追いすがろうとするマーシャの腕を振りほどくと、傷ついた顔をした。その姿にバビルサの胸もまた傷んだが、それは表情に出さないように堪えた。


「俺はまだ行くべき場所がある。マーシャさんとはここでお別れです」

「そんな、私は何か悪い事をしたの? 私に何か至らない点があったというなら」

「いえ、マーシャさんは何も悪くありません。あえて言うなら、運命が悪かったのでしょうね」


 バビルサはそう言うと、もはや語る事は無いと言わんばかりに歩みだした。その体に赤い、血のような炎を纏いながら。


 ふらふらとバビルサは当ても無くダンジョン内をさまよう。赤い炎を纏いながら歩むその姿は、さながら死に場所を求めて彷徨う幽鬼のようであった。いや事実その通りなのだろう。もはやバビルサの命は数刻ばかりしか残されていないのだから。


『どうして諦めたのですか? 私は言った筈です。『もしも貴方がその想いを諦めるような事があれば……その『力』は天罰と化し貴方自身を焼き尽くす』と』

「アンタは愛の女神だろ? 言わなくても分かれよ」

『……私だって本人の口から直接聞きたくなる時ぐらいあります』

「ふん、相変わらず性格の悪い女神サマだ。じゃあ言ってやるよ」


 バビルサは座り込むと右手の甲をかざした。既に指先は炭化し、今にも崩れ去りそうだ。その手の甲には324という数字が刻まれている。


「もしアンタの宣託どうり、最後まで俺が諦めずにいたらきっと俺とマーシャさんは結ばれていたんだろうさ。でも、それは324日──1年弱だけだ。女神サマ、アンタも愛の女神ならわかるだろう? 愛する人が死ぬ悲しみは。俺は今回のことでソレを痛感した。そしたらソレをマーシャさんにも味わって欲しくない、そう思った。それだけだ」

『しかし貴方はあの時願ったではないですか。彼女とほんの少しの間でも付き合いたかった、と』

「人間なんてそん時の気分で考える事なんざコロコロ変わるさ。それに恋人を悲しませるなんて彼氏失格だろう? それとも俺は愛の使徒失格だったかな?」

『いえ……それもまた愛、ですね』

「そうか、なら、よかった……」


 バビルサの全身を炎が包む。もはや意識が朦朧とし、視界はボヤけている。バビルサは最後に首に下げていたロケットペンダントを外すとマーシャの写真を眺めた。


「さようなら、マーシャさん」


 バビルサのペンダントを握る手が力なく地面に落ちる。ペンダントは離れた所に転がって行った。

 バビルサの体が炎に包まれて見えなくなる。やがて炎が消えた後には塵一つ残っていなかった。


 〇


 マーシャはバビルサが去った後、しばらく呆然としていた。だがこのままココにいても仕方ないと思い、とぼとぼと帰り出した。不幸中の幸いというべきか、ダンジョン内は大量の蟻の魔物の行進で荒らされたせいで、静まりかえっていた。

 その道中、地面にキラリと光る何かを見つけ、それを拾い上げた。


「これは……ペンダント? 中に写真が」


 その中に入っていた写真はとある家族の集合写真のようであった。その中には先程名前を教えてくれないまま立ち去った恩人もいた。


「これはもしかして、あの方の落し物かしら」


 マーシャはしばし考えた後、ペンダントの蓋を閉じ首から下げた。


「これはいつかまた会えた時にお返ししましょう。このご恩を忘れないために。名も知らぬ貴方、私は貴方の事を……」


 マーシャはそこで言葉を切ると再び歩き出した。毅然とした足取りで、しっかりと前を見据えて。


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全ては尊き愛のために おちょぼ @otyobo

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