第5話

 

 下校時刻となり、下駄箱に向かうとすでに鈴田さんは靴に履き替えて待ってくれていた。


「鈴田さん、待たせてごめんなさい」


 お詫びすると、彼女はフワリとした柔らかい表情を見せた。良かった、教室に会いにいった時は素っ気ない態度だからちょっと心配してたんだ。


「別に待ってないよ。本当にお姉ちゃんに会うつもりなの?」


「うん、お願いします!急なお願いしちゃってごめんね」


 いや全然、と鈴田さんは笑顔で首を横に振った。


「ちょうど今日はお姉ちゃん仕事休みだったし。でも月崎さんのことは覚えてないと思うけど」


「それは仕方ないよ。あの時はお姉さん、ほとんど寝てたもんね」


※ ※ ※


 鈴田さんと話せるようになったきっかけは、5月の連休初日のことだった。


 その日は朝から晴天で、部屋の窓を開けると心地良い風が頬を凪いだ。


新鮮な外の空気を目一杯すいこむと全身の細胞が活性化した。柔道衣を着なくなって半年経つけど、週に1回は身体がうずいて仕方がなくなる。


 大きく伸びをすると、タンスの引き出しからジャージを出した。それを着て玄関でランニングシューズを履くと、外に出てゆっくりランニングを開始した。


 気持ちの良い日は汗も気持ちよく出る。そろそろ戻ろうかと思った時、向こうから妙な人影が見えた。若い金髪の女性が、人をおんぶして歩いてるのだ。


 おんぶされている人間は意識がないようで、垂れ下がった手がブラブラと左右に揺れている。


 おぶってる女性も辛そうで、地面を見ながらフラフラと歩き、額からしたたる汗がアスファルトに染みをつくっている。


 彼女が私の気配に気づいたのか、不意に顔を上げたため目が合った。


「あれっ?」


 思わず声が出てしまった。汗だくの顔に見覚えがあったからだ。クラスは違うけど同じ学校の子だ。


 彼女は入学式のときも1人だけ金髪で、目立ちまくっていた。


「あの、片瀬山高校の1年生ですよね?」


 金髪女子は返事をしないで不審げにこちらを見ている。やはり私のことなど知らないか。


「私も片瀬山高校の1年生でして、B組なんです」

 

 金髪女子は少しの間だけ私をみていたけど


「あっそう。悪いけどいま忙しいから」


 素っ気なく答えて横を通り過ぎた。しかしすでに体力の限界らしく、2、3歩進んでは止まって休憩して、ぜいぜいと肩で息をしている。


 私は彼女の横にいき、恐る恐る声をかけた。

 

「あのぉ」


 金髪女子が睨みつけるように私に目を向けた。今度は何の用だ、と表情が語っている。


「おんぶ、代わろうか?」


 はぁ!?と金髪女子は顔を歪めた。「いや、いいから。ゼイゼイ」


「けど、もうきついよね?体力的に」


 私の問いかけに彼女は口をつぐんだ。やはり体力は限界のようだ。


 彼女に背中を向けて片膝をついた。


「いいよ、乗せて」


「いや、お姉ちゃん重いし」背負ってるのはお姉ちゃんだったのか。


「私、去年まで70キロの男子をおんぶして90段の階段5往復を毎日してたから。お姉さん70キロないよね?」


「あるわけねえだろ!50キロ前半じゃらさ!」


 完全に寝オチしてると思われていた姉さんが叫んだ。意識あったのか。


「でも、悪いよ・・・」金髪女子の口調が先ほどより柔らかくなった。


「大丈夫だから!」


 私が強く言うと、少ししてから背中に重みと温もりがのしかかった。うん、お酒臭い。

 

 背負ってみると予想以上に軽い。50キロ前半は嘘じゃなさそうだ。これなら長い距離も歩けそうだ。それにしてもお酒臭い。


「ごめん・・・ありがと」


 背後から申し訳なさそうな声が聞こえた。始業式の時の感じの悪い雰囲気からは想像できないほどの弱々しい口調だった。


「あの・・・私はすずていうんだけど・・・」


 彼女から名乗ってくれた。思わず頬が弛んだ。


「私は月崎世緒衣、よろしくね!」



 鈴田さんの住まいはおんぶを交代してから15分ほど歩いた先の木造アパートの2階だった。


 階段は1段上るたびにきしみ、年季がそうとう入っていることが分かる。


 部屋の前まで来たところでお姉さんを背中から降ろして、壁にもたれかかるように置いた。


 身体が一気に軽くなったのを感じながら鈴田さんに顔を向けた。彼女はすっかり汗が引いている。代わりに私の顔面はとんでもないことになっているけど。


「それじゃ、私はこれで」別れの挨拶をしてアパートの階段を降りようとすると「待って」と呼び止められた。


「疲れたよね?飲み物を出すから少し休んでって」


 ※ ※ ※


「コンビニ行ってくるから待ってて。お姉ちゃんはその辺に転がしておいていいから」


 鈴田さんの言葉に甘えて居間の真ん中辺りにお姉さんを転がしてその横に座った。


お姉さんは起きる様子はなく、転がされた時に「ぬへっ」と短く発しただけだった。

 

 通された部屋は居間と台所、玄関への通路脇にトイレとお風呂があるだけの小さなつくりだった。この間取りは普通、大学生が一人暮らしに選ぶ広さではないのか。両親とは一緒に暮らしてはいないのか。


 整理整頓がいきとどいている部屋の角に勉強机があり、色んな教科の参考書が山積みにされている。


 数分後、ガチャリと玄関の方から音がした。


「お待たせしました」

 

 鈴田さんがコンビニ袋を下げて帰って来た。中から500ミリリットルのペットボトルを出して私に差し出した。スポーツドリンクだった。


「ありがとう」喉はすっかりカラカラになっていたので受け取ってすぐにキャップを開けて、勢いよく喉に流し込んだ。くぅ、冷えてて身体に染みわたるぅ。


「鈴田さんて、お姉さんと2人で暮らしてるの?」

 

 鈴田さんはうん、と頷いて私の前に体育座りをした。


「うちは小さい時にお母さんが亡くなって、お父さんも借金つくってどこかに逃げちゃって、お姉ちゃんが働いて借金の返済と私の学資を払ってくれてるの」


 目の前で横たわっているお姉さんに目を向けた。彼女だって大学生くらいの年齢にしか見えない。この年齢で2人分を養う仕事って・・・。


「お姉ちゃん、夜の仕事をしてるの」


 鈴田さんはあっけらかんとした口調で教えてくれた。やっぱりそうか。夜の仕事とは具体的になんなのか、少しだけ気になった。


「あたしも高校卒業したらすぐそっちの業界で働くつもり。お父さんの借金、けっこうやばい額だし」


 すると寝ていたはずのお姉さんがむくりと身体を起こした。


「おいこらはる、お前ふざけたこと言ってるなよ。クソ親父の借金なんて私1人で秒で返せるんだ。お前はちゃんと大学まで行って、真っ当な人生を歩むんだよ。分かったかクソビッチ!」


 お姉はさんはそこまで言うと糸の切れた操り人形のようにバタリと床に崩れ落ち、すぐにスウスウと寝息が聞こえてきた。


いお姉さんだね」


 私は素直な感想を口にすると、鈴田さんは複雑な表情を浮かべた。


「お姉ちゃん、ずっと1人で頑張ってくれてて。だから私も早く働いて負担を減らしたいんだよね」


「そうなんだ」


 会話が止まった。ここが帰るタイミングだろう。「それじゃ、私はそろそろ・・・」


 そう言って私は立ち上がると、横で転がっているお姉さんが反応した。


「あれ、もう帰っちゃうのぉ?ゆっくりしていきなよぉ」


「いえ、ランニングの途中なので」


「そっかぁ。またいつでも遊びに来てね」


 そう言うとお姉さんは小さないびきをかき始めた。本当にいま起きていたのか?


「月崎さん、助かったよ。ありがとう」


「ううん、こちらこそスポドリごちそうさまでした」


 鈴田さんと簡素な挨拶をして外に出た私は、気をつけて階段を降りるとランニングを再開した。


 この日以降、学校の廊下などで鈴田さんとすれ違った時はお互いに会釈をするようになった。


※ ※ ※


 鈴田さんの住まいに到着した。


 あの時と同じ古い木造アパートだ。きしむ階段を上がって部屋の前に来た時、鈴田さんが私を手で制した。


「ごめん、ここでちょっと待っててくれる?お姉ちゃん寝てると思うから」


 そう言って部屋の中に入った。5分ほどしてから扉が開いて、中から「どうぞ」と鈴田さんの声がした。


 部屋に入るとタバコの匂いがした。お姉さんは部屋の隅の壁に背を預けて、両足を投げ出すようにして座っていた。


「いらっしゃい。どうぞどうぞ」


 お姉さんがちゃんと起きてるとこを初めて見たけど、童顔ですっごく可愛い。肌も剥きたてのゆで卵のようにツヤツヤしている。


 鈴田さんは台所にいき、コップの用意を始めた。


「おじゃまします」


 私は会釈をしてから彼女の前に行き、正座をして頭を下げた。


「今日は突然おうかがいしてすみません、教えて欲しいことがあって参りました」


 私の所作にお姉さんは慌てた様子で正座をしてぎこちなく頭を下げた。


「いえいえこちらこそ、よく来て下さいました。えっと、あなたは茶道部?」


「いえ、帰宅部です」


「なんでお辞儀がそんなに綺麗なの?」


「中学まで柔道を習っていました」


 柔道かぁ、と言いながらお姉さんは足を崩した。膝が痛くなったようだ。


「それで、私に教えてもらいたこととはなんぞね?言っておくけど私中卒だからね」


 そう言いながらお姉さんはタバコをくわえて火をつけた。


「はい、初めてのセックスで相手を骨抜きにするやり方を教えてほしいのです」


 ぶほっとお姉さんが煙を吐き出し、台所の方からガシャンとコップを落とす音がした。

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