おもいちがい。

@tsuka-kentouch

第1話

いつになったら、この思いは消え去るのだろうか?

どうすれば、このやるせなさや、後悔や、あの頃と変わらぬ思慕とがない交ぜになった君への憐憫は、ちょっとやそっとじゃ掘り起こすことが出来ない位の、胸の奥の奥の方に埋没させられるのだろうか?

僕はその術を求め続けた。


やむを得ず別れという選択をして以来、君と並んで歩いたあの街角や、君と、それこそ数え切れない程の時間を過ごした、嘗て住んでいたあのアパートの近くを通り過ぎる度に、激しい感情が身体中を駆け巡る。

君にせがまれるまま、カラオケでよく歌ったあの曲が、テレビやラジオやコンビニの有線放送から流れ出て耳朶を打つ度に、当時を上回る恋情が僕の胸を掻きむしる。

それは、そうした場面に出くわす度に、別れてからも滞ることなく流れた膨大な時間によって、現実には少し姿形が変わっていた君が、僕の心の中では些かも風姿を変えぬまま、笑ったり、泣いたり、怒ったり、じゃれついてきたりするからだ。

そして、そんな振る舞いの軌跡が胸中に刻まれれば刻まれるほど、戻れない過去を羨み、失ったままの現在を嘆いてしまう。

抉るような悔恨と悲しみ。

それらは日々無慈悲に、容赦なく僕の心を痛めつける。

苛烈さを増していく疼痛から逃れる為に、別の女性との恋愛に走ったこともあった。だけどその処方薬は、始めこそ痛みを和らげてはくれるけれど、効力は驚く程に長続きせず、直ぐ様疼きがぶり返してしまう。それはそれはより一層の激しさを伴って。

忘れ去る為の恋愛の中でも、その時々の彼女が傍らにいながら、夏の盛りにはエアコンのないアパートの一室で、汗だくになりながら睦み合ったあの日の君の濡れた髪を思い出し、寒さが極まった冬の盛時には、寄り添うように歩いた街路の上で、僕のコートのポケットの中で握った、あの夜の君の手の暖かさを思い出しまう。それはもうより鮮明な描写のもとで。

別の誰かを知れば知るほど、君の魅力が増え続けていく。

だから僕は悟った。

この苦行のような毎日から抜け出す術が一つしかないことを。

それは、至極簡単なことだ。

君と再び、お互いの他愛もない素振りに一喜一憂したり、交わした些細な会話に、いちいち感情を昂らせる、そんな関係になればいい。

溢れる愛情を剥き出しにして注ぎ合えば、時には激しくぶつかることもあるだろう。それでも、行き違ったままで過ごす会わない日々の中で、起きた出来事や手にした見聞を、真っ先に伝えたいと思うのはやっぱりお互いで、絡まったことでより強くなった紐帯によって、一片のコデマリの花弁より小さな足の小指の爪や、松の葉よりも太くて固い、うなじに一本だけ生えた髪の毛すらも愛しくて仕方無いと思える程の睦まじい仲に、ふと気が付けば納まっている、そんな君と僕に戻ればいい。

聞こえてくる流行歌を、二人だけのエピソードに因んだ歌詞に変えて一緒に歌ってみたりする、僕らが本来いるべきそんな立ち位置で、もう一度初めからやり直してみればいいんだ。

こんな僕の決心を聞けば、もしかしたら、君は自分勝手だと、怒るかもしれない。

君の気持ちに思いを馳せず、君の焦がれるような愛情を顧みず、自分自身のこれからだけを目先に掲げて君から離れていった僕に、何を今更と、罵りたくなるかもしれない。

だけど、例えそんな感情を顕にした態度を見せられても、決してこの決意を翻りしたりはしないから安心して欲しい。

そんな振る舞いが仮初めだということを、嘗ての付き合いの中で培った、君に対する観察力で、しっかりと見抜いているから臆さないで欲しい。

あの頃は理解できなかった、つい君が本心とは真逆の言動をとってしまう天の邪鬼な性格だということを、今はしっかりと認識しているから躊躇わないで欲しい。

そう、僕は気付いているから。君の本当の気持ちに。

そう、僕は受け止めているから。

街を歩いている時、部屋で寛いでいる時、折に触れて目にする、大衆に向けられたメッセージの中に隠された君の思いの丈を。

あらゆる媒体から流れ出ている、君が綴った僕への滾る思慕の全てを。

だから応えて欲しい。

最近になって、漸く見つけ出した今の君に送る、この感情の発露に。

僕は待っている。

もう決して離れたりしないから。

ここに記すこの場所で、ずっと、ずっと君を待っている。



「こちらになります」

目の前に座る男は、クリップ留めされた十枚程度の紙の束をテーブルの上に置いた。

女はその束に視線を送りながらポツリと率直な感想を呟く。

「意外と少ないんですね」

正面の男は、余りに素っ気ない、そんな女の態度に慌てたのか、繕うように「いや、本当はもっとあったんですけど、こちらで前もってある程度選別させて貰いまして」と身振り手振りを加えながらの弁明を始めた。

「今や恋愛マスターと呼ばれている先生が選評してくれるんですから、それはもう凄い数の応募数でして。さすがに全部に目を通して頂くのは、お忙しい先生には申し訳ないと、良い作品だけをプリントアウトしてお持ちした次第で」

「そうなんですか」

「ええ、そうなんです。それはもう反響が凄くて。特にこの間初めて弊誌で先生のお写真を掲載してからは。顔バレ効果とも言うんですかね。お美しい先生に読んで貰いたいと、男性の応募者が殺到しまして。」

女はため息混じりに「はぁ」と答えると、目の前の紙の束に手を伸ばした。

「一応、上から我々が良いと思った順番になっておりますので」

何気なく言った男のその言葉に、いや端からのその態度に女は激しい嫌悪感を抱いた。

選者としての私の能力を信用していないのか。見くびられている。そんな思いが頭をもたげたのだ。

ついさっきまで、下僕感を醸しだそうと、セクハラに近い追従の限りを尽くしていた、その舌の根も乾かぬ内に、さりげなく自分の優位性をアピールしてくる。

フェミニストを気取りながら、根底に鎮座しているだろう揺るぎなき男根主義。

そういえば、昔付き合った男にもこういうタイプがいたなぁ。女はふとそんなことを思い出した。

こうして欲しいんだろ?

こうして欲しかったんだろ?

執拗なまでの優しさの押し売り。

そうして欲しいなど微塵も思っていないから、大したリアクションもせずにいれば、「俺の気持ちを分かっていない」などと宣い勝手に不貞腐れ、それはそれで面倒だからと殊更に喜びを表せば悦に浸ってこれでもかと独善的な優しさを押し付けてくる。

「一回り大きな男に成るために」とよく分からない決意を高らかに宣言し、目の前から消え去って運良く別れることが出来たが、とにかく厄介なこと、この上ない男だった。忘れ去りたい記憶。ただ、その時のエピソードを、従順で盲目的で献身的な女性に置き換えて綴った男性への一途な愛がテーマの恋愛小説が認められたからこそ、今の自分があるのだけれど。

「どうかされましたか?」

目の前の男が機嫌を伺うように尋ねてきた。

嫌な思い出を想起したからか、どうやら険しい顔をしていたらしい。

女は渋面を笑顔に変えると、「何でもありません」と答え、一枚目の紙面に視線を走らせた。そしてー。

瞬間、女は怖気立った。後ろ毛を一つにまとめ上げたことで露になっている項に一本だけ、目立つように生えた松葉よりも固そうな太い髪の毛の周りの、毛穴という毛穴が粟立った。

調子に乗って顔写真など公開するんじゃなかった。

女は自分の軽はずみな行動に、今更ながら苛立ちを覚えた。

そのせいか、しきりに貧乏ゆすりを繰り返す。

一片のコデマリのように小さな爪が生えた小指を持つ、ミュールを履いたその足は、延々と一定のリズムを刻み続ける。

目の前の男は言う。

「どうでしょう。我々としては、その作品が最上位かと思ったんですが。まぁ最後に書かれている、弊社近くの住所の部分はよく分からないんですけど」


















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