ボーディン記-抹殺された記録-

ソルエナ

すべての始まり

第1話

 深い闇と霧雨のせいで2メートル先すらに見えない山の中、片手に中身が濡れぬ様にか布が大きめに掛けられた45cm程の籠を持ち、急ぎ足で山道を歩く若い女の姿があった。女は自分の吐く息の白さも、大きく前後に揺れる籠の重さも、顔に纏わりつく様に降りしきる雨粒も、暗闇の中に居る事も気にならない程に必死に山道を登っていた。

 やがて、オレンジ色の明かりが薄っすらと見えると更に女の足は早まり、明かりの下へと走る様に向かって行った。その明かりは大きな建物の頑丈そうな扉の上に掛けられている蝋燭の火だった。女は蝋燭を見上げてから何かを警戒する様に左右を素早く確認し、そして誰も居ないことを確認すると扉からあまり離れていない位置に籠を置き、再び左右を確認し、安堵の表情を少し浮かべると籠の中身を確認する事もなく、元来た道を急ぎ足で戻って行った。


 それから数時間後、籠が運ばれて来た時の天候が嘘の様に空は雲一つない青空の中、陽気な足取りで歩いて来た女が扉の側に置いてある籠に気が付くと、不審な顔をしながら籠に近付き何かを決心した顔でギュッと目を瞑り、籠に被せられていた布を取ると、恐る恐る目を開けて籠の中身を確認すると驚いた顔で籠を掴んだまま立ち上がり、扉を開けた。


おさぁ!とんでもないです!」

「はいはい、私は長じゃなくて施設長だって何度も言ってるでしょう?それと『とんでもない』と言う言葉は相手の言葉を軽く否定する時などに使う言葉なのよ?」

「えっとじゃあ大変です長ぁ!」

「ほら、また長って言ってるじゃない…何度言ったら分かるのよ…それでどうしたの?」

 その施設の施設長と言う40代位の女は呆れた顔で笑っていると、籠を中に運んできた女は困った顔をした。

「それがこの籠の中に赤ん坊が居るんですよ?多分産まれたてだと思うんですけど…どうしましょう…」

 

「あら…それは確かに大変ね…。でもヨハンナ、この子をどうするかなんて決まり切った事だと思わない?」

 ヨハンナと呼ばれた女は首を傾げると施設長は優しく微笑んだ

「ここは孤児院なのよ?ここの扉の側に居たのなら尚更よ。何か事情があってここに連れて来たに決まってるわ。ここで育てる以外にないわ。」

 籠を中に運んで来た女は嬉しそうに頷き、籠の中からスヤスヤと眠る赤ん坊をそっと抱き上げた。


「この子って名前あるんですかね?」

 赤ん坊を風呂に入れている女がふと思いついた様に施設長を見上げた。

「こう言う場合って籠の中に名前の書かれた紙が入っていそうなものだけど…なかったと言う事はまだ名前自体ないんじゃないかしら?名前はヨハンナ、あなたが付けてあげなさい。」

 ヨハンナと呼ばれた女は嬉しそうな表情を浮かべ少し考えると、

「じゃあ…マルグレットなんてどうですかね?女の子らしい可愛い名前だと思いませんか?この子にピッタリですよ!」

「あら、良い名前ね。…そろそろお昼の時間帯だから、ご飯の時にマルグレットをみんなに紹介しましょう。」

 そう話をしている間に3歳くらいの男の子が走って来た。

「しせつちょー、メシだって。」

 ぶっきら棒にそう告げると踵を返して再び走って行った。


「相変わらずシーグルは笑顔を見せてくれないわね…」

施設長は苦笑しながら奥の方からタオルを持って来た。

「私は先に行って他の職員に事情を説明してくるわ。ヨハンナは物置の奥にお洋服があるからそれを着せておいてね。」


「あひゃぁ…私あの物置苦手…マルグレット、付いて来てくれる?って言ってもマルグレットが付いて来るかなんて私が連れて行くか連れて行かないかの問題なのよね。よし、マルグレット、私と一緒に物置まで旅しましょうか?」

 怖さを紛らわせる様に呑気に鼻歌を歌っているヨハンナの腕に抱きかかえられているマルグレットはヨハンナの服をしっかり掴み、幸せそうな顔で眠っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る