第一章 元勇者は一人では眠れない 8

 その場には、シオンとアルシェラの二人がいた。

「指示通り、ガーレル・ゲアは街道に捨てておきました。聖剣を含めた盗品は回収しておきましたが、どうしましょうか?」

「倉庫にでも置いておけ。手紙の一つでも送っておけば、そのうち王室の使いが取りに来るだろう」

「承知しました。ですがシオン様──あの盗賊、殺さなくてよかったのですか?」

「…………」

「結局、その右手では、ギリギリ触れなかったようですが」

「殺す価値もないと思ったまでだ。死ぬ寸前まで生命力を奪ったから、魔力も身体能力も、最低五年は回復しない。もう盗賊としては生きられないし、戦えば子供にも負けるだろう。対価としては、その程度で十分だと判断した」

「ですが……あんな死にかけの状態で捨て置かれれば、夜盗や魔物に襲われたとき、対処できないかと思いますが」

「わざわざ生かしてやる価値もないだろう」

 強く言い切るも、シオンの瞳は不安に揺れていた。

「……僕は、冷たいのだろうか?」

 以前の自分ならば──勇者と呼ばれていた頃の自分ならば。

 まだこの世界がれいなものだと信じ切っていた自分ならば。

 いかに自分を殺しかけた男と言えど、ひんの状態で放置したりはしなかっただろう。この人も根っからの悪人ではなかったはずだ。盗賊に身を落とすきっかけとなった悲しい過去があったに違いない───そんな上から目線の同情心を抱き、相手を更生させようと尽力したかもしれない。

 でも今の自分は、到底そんな気分にはなれなかった。

 重罪人とは言え人間一人を殺しかけたというのに、心には大した感傷も後悔も生まれない。ざんこくなぐらいに落ち着いている。

 王室から笑えるほどの手のひら返しをらい、人間の醜さを目の当たりにしたせいなのか。

 あるいは──魔王より受けた呪いが、シオンの心をも魔にとそうとしているのか。

「いいえ。冷たくなんかありません」

 アルシェラは言った。

 こちらの心境を察したのか、柔らかく温かな声で。

「シオン様は優しすぎるくらいだと思います」

「そうだろうか?」

「ええ。なにせシオン様は──敵であった私達を助けてしまうぐらいですから」

「…………」

「我々『四天女王レデイストピア』は、勇者であるあなたに敗北したことで、魔王に処刑されるはずだった。そんな我々を、命がけで守ってくれたのがシオン様です」

「……そんなこともあったな。『四天女王』の筆頭であったアルシェラには、何度も殺されかけたように思う」

「わ、私は覚えていないですねっ。敬愛するシオン様を傷つけるようなことを、私がするはずないですからっ」

 わかりやすく動揺した彼女に、シオンはくすりと笑う。

 最初は──敵だった。

 アルシェラも、フェイナも、イブリスも、ナギも。

 強大な敵としてシオンの前に立ちふさがり、幾度となく殺し合った。

 魔王城へと踏み込んだ最終決戦にて、シオンは『四天女王レデイストピア』相手に勝利を収めたが──直後魔王は、あろうことか彼女達を殺そうとした。

 許せなかった。

 仲間をたやすく殺そうとする、魔なる者の王が。

 だからシオンは身をていして彼女達を守り、そのまま魔王へと剣を向けた。

「魔王が死に、魔王軍は崩壊。魔界にも人間界にも居場所を失った我々に、シオン様はメイドという新たな役割をくださいました。本当に……優しすぎます」

 段々と、女の言葉が熱を帯びていく。

「このアルシェラ、救われた命は全てシオン様にささげる覚悟です。どうぞ末永くおそばにいさせてください」

「……そうか。まあ、それはいいのだけど……」

 言いつつ、シオンは周囲を見渡す。

 湯気に満ちたこの場は──屋敷の浴場だった。

「ほ、本当に、一緒に風呂に入る意味はあるのか?」

 シオンは今、浴場にて、アルシェラに背中を流してもらっていた。

 両者とも、もちろん服は着ていない。シオンは腰にタオルを巻いただけで、アルシェラも胸から下を隠すように大きめのタオルを巻いた状態。しかし、脱衣所で少し見てしまった彼女の暴力的な肉体は、布一枚巻いたところで隠せるような代物ではなかった。

 さすがは、淫魔サキユバスの女王となるべく生まれた『大〓婦バビロン』というべきか。

 この世全ての男を視覚だけで昇天させてしまいそうな極上の女体は、幼い少年に直視できるものではなかった。

「別に僕は、一人で風呂ぐらい入れる」

「なにをおっしゃいますか!?」

 背後のアルシェラは声を張り上げた。

「主人の体を清潔に保つのも、メイドの務めです。私が調べたところによりますと、王や貴族など、高貴な身分の人間の入浴には、使用人が付き添うのが普通らしいですよ?」

「ほ、本当なのか?」

「はい。本に書いてありました。これからは我々四人が、交代でシオン様の入浴をお手伝いいたします」

「またお前は……そうやって本の知識をみにして」

「……だって、仕方がないではありませんか」

 ふと、女の声が沈む。

「所詮私は……まがもののメイドです。専門的な教育など全く受けていない……この屋敷に来るまで、洗濯も料理も経験せず、手を血で汚していたような女です。偽物のメイドでしかない私には、本の知識をるぐらいしか、シオン様に尽くすためのすべがわからないのです」

「アルシェラ……」

 シオンは己の失言を恥じた。彼女はただ、人間のメイドのように振る舞おうとしていただけなのだ。魔王軍の幹部として、無数の配下を従えていた高位魔族である彼女が、懸命に人間のごとをしようとしている。

 ただ、シオンのために。

「……言うな、アルシェラ。自分を偽物だなんて、言うな。それを言ったら……僕だって偽物の主人だ。生まれは悪く、地位も名誉もない。おまけに」

 シオンは自分の右手に視線を落とす。

 手の甲に刻まれた、いまいましい呪印。

 この二年で少しだけ、ほんの少しだけ、大きくなったように見える。

「こんな呪いにおびえて、夜も一人で眠れないような、情けない主人だよ」

 呪いを受け、王都を締め出され、この屋敷に流れ着いた頃──

 なによりも夜が怖かった。

 意識の消失が怖かった。

 寝ている間に呪いが強まってしまうのではないか。呪いに自我を乗っ取られて身も心も完全なる化け物に成り果ててしまうのではないか──そんな恐怖が胸を埋め尽くし、まともに眠れた夜など一度もなかった。

 でも。

「でも──最近はよく眠れる」

 シオンは言った。

「アルシェラや、他のみんなが一緒にいてくれるからだと思う」

「シオン様……」

 すると、背後から手が伸びてきた。アルシェラの細い手が、右手の上に──呪印の上に重ねられ、指と指を絡ませるように握りしめる。シオンは反射的に手を引こうとするが、絡まる指がそれを許さない。

「ダ、ダメだ。今は、手袋してないから……」

「大丈夫ですよ」

 焦りおびえるシオンに、アルシェラは優しく包み込むように言う。

「シオン様の血を受け、あなたのけんぞくとなった我々は、呪いの影響を受けませんから。こうして直接触れても、大丈夫です」

「……でも、いつ呪いが強くなるかもわからない。眷属の契約を超える可能性も──」

「大丈夫です」

 同じ言葉が繰り返される。

「今朝も言ったでしょう? シオン様に触れることも、触れられることも、嫌なことなんて一つもありません。むしろ……いとおしさが増すばかりです」

 とろけるように甘い言葉に、シオンは沈黙した。

 甲に重ねられていた手を、手を返してしっかりと握り返す。

 女の細い手を、少年の小さな手で。

「あったかいな、アルシェラの手は」

「シオン様の手も温かいですよ」

「……これからも、こうして生きていけるといいな」

 ぽつりと、言葉をこぼすようにシオンは言った。

「確かに僕らは、偽物なのかもしれない。偽物の主人と、偽物のメイド……でも、だからって本物にかなわないと決まってるわけじゃない。もしかしたら、本物よりも素晴らしい偽物になれるかもしれない。だから、これからもずっと、みんなで一緒に──」

 そこまで言ったところで、シオンはハッと我に返る。

「は、恥ずかしいことを言ってしまったな。忘れてくれ……」

「…………」

「アルシェラ? おい、アルシェ──っ!?」

 むぎゅ、と。

 背後にいたアルシェラが、いきなりシオンを抱きしめてきた。背中に巨大な二つの柔らかな感触があって、シオンは顔を真っ赤にする。

 その生々しく直接的な感触から察するに……タオルは外れていると予想できた。

「えっ、なっ!?」

「もう……ずるいですよ、シオン様。そんなこと言われたら、私、我慢ができなくなってしまうじゃありませんか……!」

 熱を帯びた声が耳をくすぐる。

 つやっぽく甘い声が、全身をでていくような錯覚があった。

「は、はなせっ、離れろぉ……!」

「あんっ。暴れないでください。そうだ、このまま、私の体を使って奉仕して差し上げましょうか。全身を泡まみれにして、肌と肌を重ね合わせるように」

「なんだその洗い方は!?」

「本に書いてあったのです」

「絶対いかがわしい本だろ、それ!」

 全身を密着させたまま、二人が大騒ぎとなる──そのときだった。

「あーっ! やっぱりエッチなことしてる!」

 浴場の入り口から、フェイナが姿を現した。

 かつこうはタオルを巻いただけ。体のラインはほとんど見えている。

 突然の乱入者に、アルシェラは慌ててシオンから離れる。

「な、なんなの、フェイナ!?」

「私も一緒に入って、シー様のお世話しようかと思って」

「今日は私が当番だと決まったでしょう!」

「だってずるいもーん。添い寝当番のときも、アルシェラが勝手に『最初はメイド長であるこの私が』とか言って、勝手に順番決めてたし」

「そ、それは……」

「というわけで、今日はみーんなで一緒に入って、シー様にたっぷりしっぽりご奉仕しようってことに決まっちゃったのです!」

 謎の宣言の後、フェイナの背後から、残りの二人が顔を出す。

 もちろん、タオル姿である。

「ほら、出てこいよ、ナギ。いつまで恥ずかしがってんだ」

「や、やめろ……くっ。なぜ貴様らはそんなに平然としていられるんだ。おかた様の前で肌をさらすなど……は、恥ずかしくて死んでしまいそうだ……!」

「ったく、ほんとにナギは純情だな。ちっとは痴女二人を見習えよ」

「誰が痴女よ」

「痴女じゃないもん、私はシー様にだけいやらしいだけだもーん」

「自覚あんじゃねえかよ」

「だ、だいたい私は、貴様らのように、男受けする体ではないのだ。こんな貧相な体を、お屋形様の前に晒すわけには」

「ナギ、そんなに自分を卑下するものではないわ。あなたはとてもれいよ。細くしなやかで、とても魅力的な体だと思う」

「……アルシェラ。貴様になにを言われても、嫌みにしか聞こえない」

「あー、確かにねー」

「おっぱいお化けには、貧乳の気持ちはわからねえよな」

「だ、誰がおっぱいお化けよ!?」

 そんな風に、浴場にそろった四人のメイドがかしましいやり取りを繰り広げるが──

「……って、あれ? シー様は?」

 フェイナの声をきっかけに、彼女達は周囲を見渡す。

 しかし、いない。

 浴場のどこにも、シオンの姿がない。

 それもそのはず。

 なぜならシオンは──一瞬の隙を見て、浴場から逃げ出していたから。

「……付き合ってられるか、バカメイドども」

 着替えを手に抱えたまま、脱衣所を飛び出して廊下を駆けるシオン。

「あーっ、いたいた! シー様見っけ!」

 脱衣所から、四人のメイド達が飛び出す。

「まだ体を洗い終わっていませんよ、シオン様!」

「ふっふーん。お姉さんから逃げられるかなー?」

「ほら、いくぞナギ」

「ま、待って……あっ。タ、タオル落ちた! タオル落ちたからぁ……!」

 半裸で逃げ回る主人を、半裸のメイド達が追いかける。

 とても正しい主従関係とは思えない光景が、そこにはあった。

 偽物の、けれど、もしかすると本物よりも幸福な。

 そんな、彼ら彼女らの主従関係──

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