第10話 鳥
濃い緑の森の中はひどく蒸し暑かった。草原育ちの二人にとって、「蒸し暑さ」は未知の体験だ。それに坂道も加わって、森に入ってから半刻ほどしか経っていないのに、二人の顔には疲労の色が濃い。空の水筒がカラカラ音をたてる。ガンザンが汗でぐっしょり濡れた上着を脱いだ。上着をぎゅっと絞ると、パタパタ音を立てて汗が地面に滴った。
「あと少し行ったらちょっとした空き地があります。そこで休憩しましょうか。」
ワンロンが言うと、力無い同意の声があがった。
それから進み続けること四半刻。突然視界が開け、小さな空き地が現れた。端の方に小川が流れている。ガンザンが真っ先に馬を止めて小川にかけよった。両手で勢いよく冷水を掬い上げ、口をつける。
「っはあ~。生き返るぅ!」
ガンザンは心底嬉しそうに叫ぶと、水をガブガブ飲み始めた。そこにトゥバンも加わって、二人はあっちこっちに水を跳ね散らかしながら貪るように水を味わった。ワンロンは少し呆れたような顔をして、三人分の水筒に水を汲み始めた。
二人が思う存分水を飲んだ後、三人が干し肉をかじりながらくつろいでいると、
ギァアーッ!
突然悲鳴が響いた。一気に緊張が走る。三人は動きを止めて耳を澄ました。
ギャワワン!ギャウッ
遅れて聞き覚えがある吠え声が響いた。三人は顔を見合わせ、目配せしあう。一瞬にして担当が決まった。トゥバンとガンザンは吠え声の方に脱兎のごとく走り出した。空き地を囲む森の中に飛び込み、頬を掠める小枝などものともせずに突き進む。
また一つ悲鳴と吠え声が響いた。
近い。ガンザンは踵を柔らかい地面にめり込ませ、無理やり速度を殺すと、右のヤブに勢いよく飛び込んだ。視界が開け、唸っている子狼と、木の棒を持って対峙する半泣きの少年が目に入る。ガンザンは勢いそのまま両者の間に飛び込んだ。子狼が素早くその場から飛び退いた。一瞬遅れて少年もぎこちなく飛び退く。着地の拍子に少年の足が滑った。少年は手をバタバタさせる。
「うああああ!」
ちょうどその時少年の真後ろにトゥバンが飛び出してきた。
ボスン
「あ、ありがとう……ございます。」
少年は首を捻って礼を言う。
「……どうも」
トゥバンは少年を真っ直ぐ立たせてやった。
「いてっ」
少年が軽く顔をしかめた。トゥバンが見ると、少年の足首に血が滲んでいる。
「咬まれたのか?」
トゥバンが聞くと、少年はこくりと頷いた。
「あいつ、いきなり襲ってきて……」
「ギャウッ!ギャン!」
「ひいっ!」
子狼が少年に飛びかかろうとするのを、起き上がったガンザンが必死になだめる。
「どうどう……ほらほらどうしたんだ……どーうどうどう。」
トゥバンはため息をついて、縮こまって震えている少年の背をポンと叩いた。
「とりあえず手当てしよう。話はそれからだ。」
少年は涙目でトゥバンを見上げて頷いた。
ワンロンの所に戻り、少年を手近な石に座らせる。見てみると、少年の傷はそう深くはなかった。トゥバンは手近にあった薬草を傷の上に貼り、包帯を巻きつけた。
「これで痛みが引くはずだ。」
トゥバンは顔をあげて少年に笑いかける。
「ありがとう……ございます。」
少年は鼻をすすった。ちらりと子狼を見る。
「ギャン!」
子狼を必死にガンザンが抱きとめる。少年はパッと目をそらした。
「災難でしたな。今、おいくつです?」
少年はワンロンの方を向くと、びくりと体を震わせた。
「十……三」
少年は小さな声で答えた。ワンロンは笑顔を浮かべる。
「そうですか。十三にしてはちゃんとしていますな。」
少年は照れたような顔をして頭に手をやった。
「ところで、どうしてこんなところに?」
「良い薬草が生えてるって聞いて。病気の母さんがいるんです。」
少年の声がこころなしか大きくなった。ワンロンは片眉をあげる。
「それは感心ですな。とても十三とは思えない。」
少年の顔に眩しい笑顔が浮かんだ。
「どの――」「イヒヒヒーン!」
突然馬達が大きくいなないた。四人が一斉にそちらに目を向ける。と、
ブワッサバサバサア!
突然大量の羽ばたきが聞こえたかと思うと、森の中から大量の鳥が四人に襲いかかった。トゥバンは咄嗟に身を伏せた。あっという間に空地はかまびすしいさえずりに埋め尽くされる。
トゥバンが体中に走るチクチクする痛みに耐えながらわずかに顔を上げると、ワンロンが少年の上に覆いかぶさっているのが見えた。子狼の吠え声が聞こえる。鳥と激しく戦っているのだろう。馬の方に目を動かすと、馬達が盛んにいなないていた。その近くにはあまり鳥がいない。トゥバンは叫んだ。
「馬だ!馬に走れ!」
素早く体を起こし、手を無茶苦茶に振り回しながら馬に突撃する。馬に飛び乗ると、森の隙間に向かって馬を駆った。大量の鳥がトゥバンを追ってつつきまくる。後ろから馬蹄の音が響いてきた。トゥバンはほっとすると同時に速度をあげた。トゥバンをつついていた鳥達が一羽、また一羽と脱落していく。トゥバンは最後に残った暗緑色の小鳥を手から振り落とし、後ろを向いた。ワンロンが少年に覆い被さるようにして馬を走らせているのと、ガンザンが大量の鳥を払い除けようと手をバタバタさせているのが見えた。ワンワンと吠え声が響く。
とりあえず皆無事なようだ。
トゥバンは前を向いた。
それから四半刻ほど後、一行は草地で手当てをしていた。少年とワンロンはほとんど傷付いていなかったが、トゥバンとガンザン――特にガンザンがひどく怪我していた。体のあちこちにペタペタと薬草を張り付けて、身体中草色になっている。誰かが笑っても良さそうな風体だが、誰も笑わない。草地には重い空気が漂っていた。
「いったいなんだってあんな大量の鳥が襲ってきたんだ?」
トゥバンが手に薬草を張り付けながら言う。
「さあ……私には分かりかねます。が……」
ワンロンはちらりと少年を見る。少年は魂が抜けたような顔をして虚空を見つめている。
「とにかく早めに出発した方が良いでしょうな。いつまた鳥がくるかも分かりませんし。」
「……そうだな」
トゥバンは軽く頷いた。ガサリと音がして子狼が姿を表した。その身は血で汚れている。
「大丈夫だったのか?」
子狼はガンザンの問いかけに応えることなく憮然としてその場にうずくまると、丁寧に体を舐め始めた。
その後再び出発した一行は無言で歩を進めた。ピリピリした雰囲気は終始破られない。途中で挟んだ二度の休憩の時も、言葉は殆どかわされ無かった。そして木洩れ日が茜色に染まりはじめた頃、ワンロンが馬を止めた。
「あの先が、終点です。」
そう言ってワンロンが指差した先には、高さ一間(三メートル)ほどの洞窟が口を開けていた。その前に壮年の男が二人、地べたに敷物をひいて酒盛りをしている。天辺禿げと丸禿げだ。ワンロンは馬を降り、少年を抱え下ろすと、トゥバンとガンザンにも馬を降りるよう合図した。全員が馬から降りたところで、ワンロンは自分についてくるよう合図して、酒盛りをしている二人の男に近づいていった。
「こんばんは。良い酒日和だ。混ぜてくれ。」
二人の禿げは探るような目でワンロンをちらりと見る。と、天辺禿げが笑顔になって
「そりゃ良いね!何人様ご来店ってか!」
「四人と四匹、頼めるかい?」
ワンロンも笑顔になって返す。禿げ達はワンロンの背後の「四人と四匹」に目を走らせた
「あいよ少しお待ちなついてきな。」
丸禿げがそう言うと、禿げ共はすっくり立ち上がり洞窟の方に歩いていった。ワンロン達は後について行く。洞窟の入り口まで来たところで、禿げ二人はくるりと振り向いて
「「んじゃまあ――」」
ギァアアア!!!!
突如降ってきた絶叫に、その場にいた全員が空を見た。黄昏に染まった空を、大小様々な鳥達が埋め尽くしている。
「あ~こりゃまずいな。」
天辺禿げが嘆息する。その瞬間、無数の鳥が降ってきた。
「逃げろ!」
丸禿げが叫ぶ。全員が我先にと洞窟のなかに駆け込んだ。間一髪、
ドォオオオ!!
っと土砂降りの雨のような音が地を揺らした。大量の鳥がトゥバン達を目掛けて洞窟になだれ込んでくる。ワンロンは右手で少年をひょいと抱えあげると、左手で朝風の手綱を掴み、洞窟の奥目指して駆け出した。後の四人と三匹も必死に駆ける。洞窟の出口が近づいてくる。その前にそれぞれ金と銀の板金鎧を来た若者二人が立っていた。
彼らは凄まじい形相で誰よりも速く走ってくる二つの禿げ頭を見ると、慌てて脇に飛び退いた。それとほぼ同時に禿げ頭達が洞窟から飛び出していく。数瞬遅れてワンロンが飛び出し、続いてトゥバンが勢いよく新天地へと飛び込んだ。
白い輝きがトゥバンの目を射た。洞窟の外には、真っ白い槍のような峰が天を突いてそびえ立っていた。その麓に小さな町が広がり、あちこちに楼閣が立っている。その光景に魅了させられたのもつかの間、トゥバンは重力に引かれて勢いよく坂道に転がった。
「んなああああ!?」
トゥバンはゴロンゴロンとものすごい勢いで坂道を転がり降りていく。手足をどう動かしても回転は止まらない。草地の緑と空の赤が凄まじい速度で入れ替わり続ける。
俺はもう死ぬかもしれない。
トゥバンがそう思った時、ドスン、と何かにぶつかって回転が止まった。目の前の景色がぐわんぐわんと歪んでいる。トゥバンは吐き気をこらえて後ろに首を捻った。歪んだワンロンがトゥバンを見下ろしている。ワンロンはにこりと笑った。
「ようこそ、ノグノラへ。」
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